プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2015年09月07日

『百術は一誠に如かず(『致知』2015年9月号)』―「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」、他


致知2015年8月号百術は一誠に如かず 致知2015年9月号

致知出版社 2015-09


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 「百術は一誠に如かず」は、平安時代前期の歴史書『日本三大実録』にある信濃守・橘良基(たちばなのよしもと)の言葉が元になっているという。吉田松陰の叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が橘良基を慕い、これを座右の銘にしていたそうだ。

 (1)
 1つの製品ができ上がるまでに7工程ぐらいあるんですけど、一番初めが100パーセント肝心。第1工程で手を抜いたり、後でやればいいやと思うと、最後に製品がパーになるんですよ。だから、そこを常に意識して、1つひとつ丁寧に丹精込めてやっていくと、最後にいいものができるんです。
(北嶋貴弘「「日々努力、日々勉強」諦めず、妥協せず、とことん追求する」)
 製造ラインで不良品のムダを削減するためには、製造工程の最初の段階で厳しく品質管理を行うことが重要だと言われる。最初に不良を抱えてしまうと、後工程でいくら品質を作り込んでも、不良品しかでき上がらない。そのため、初期の不良を徹底的に排除することが有効となる。

 同じことは、ホワイトカラーの仕事にも言える。日本人は「三現主義(現場・現物・現実)」という言葉に代表されるように、実際のモノを見ると鋭い判断を下すことができる。しかし、裏を返すと、モノが見えないうちは十分な判断ができないことを意味する。よって、世界最高水準の品質管理が実現されている製造現場に比べて、ホワイトカラーの現場は実にお粗末である。

 私はちょっとだけIT業界に身を置いていたが、この業界ではITベンダーが要求仕様書や設計書をまとめて顧客企業と合意したのに、いざ開発が進んでソフトウェアが形になってくると、顧客企業から「この機能はこうしてほしい」、「あの機能が抜けている」などと追加のニーズが噴出する。これが、システムが予定通りに稼働しない要因である。私が現在の生業としているコンサルティングでも似たようなことが起きる。改革の基本コンセプトについて顧客企業からOKをいただいたのに、それを具体化したら「そういうことじゃない」とちゃぶ台返しを食らうことがある。

 もちろん、多分に私の注意不足であることは重々承知している。最初に顧客企業と議論をした時、顧客企業からあまり激しい反対意見が出ず、すんなり話が通ってしまったとする。だが、必ずしも顧客企業が心の底から賛成しているとは限らない。顧客企業は、まだ話が抽象的すぎて、突っ込んだ意見ができないだけなのかもしれない。だから、コンサルタント側はもっと粘って、相手のちょっとした懸念や不安を引き出す必要がある。他方で、顧客企業も「この基本方針が具体化されると、どのような事態が起きるか?」と思考する訓練をしていただけるとありがたいと思う。

 (2)
 例えば、今回の本にもご紹介している吉野弘さんの『生命は』というポエムには心を打たれましたね。大学1年生の時にクラスメートが点字で打ってくれたんですが、その中の、「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」という一文に触れた時、心の中にパーッと明るい光が射すような衝撃を受けました。
(福島令子、福島智「自分を主語にして生きる」)
 福島智氏は、盲ろう者として初めて常勤の大学教員になった方である。福島氏が紹介した吉野弘氏のポエムには、私も心を打たれた。私という存在や、私と他者との関係について、これほどまでにその本質を端的に表した表現があるだろうか?以前の記事「『焦点を定めて生きる(致知2014年5月号)』―「孤に徹し、衆と和す」の前半と後半のどちらを重視するか?」や「『一を抱く(『致知』2015年4月号)』―「自分の可能性は限られている」という劣等感の効能について」などで、くどくどと書いていた自分が恥ずかしくなった。

 (3)
 あるスペイン人のコーチと議論している最中、彼はこう聞いてきたんです。「スペインのサッカーにはプレーモデルという型がある。日本にはないのか」と。日本では、サッカーは型にはめてはいけないという考えがありますから、コーチングも質問形式でやるわけですが、あれほど自由奔放に見えるスペインですら型があると知って驚きましたね。
(岡田武史、村上和雄「サッカーによって摑んだ遺伝子オンの世界」)
 私はサッカーより野球の方が断然好きなので、サッカーにはとんと疎いのだが、日本のサッカーを見ていると、一体どういう攻め方をしたいのかと疑問に思うことがある。野球の場合、イニング、ランナー、点差、相手ピッチャーの持ち球・性格・調子、そのピッチャーとバッテリーを組むキャッチャーの配球性向・性格、相手チームの守備シフト、前の打席・前の試合の配球、相手チームの戦術、球審のストライクゾーン、球場の風の向きなど、様々な変数を頭に入れて、状況に応じた攻め方を決定する。日本の野球の強さは、そういうパターンの豊富さにあると私は考える。

 一方、サッカーの場合は、どうもボールのポゼッションにこだわっているように見受けられる。とにかく、どんな状況でもパスでつなごうとする。ゴール前まで迅速に攻め上がったのに、そこで立ち止まってパスを回す相手を探すというシーンをよく見かける。パスを回している間に相手のディフェンスが集まってくるわけだから、その間を抜くことは難しくなる。判で押したようにパスを回すのではなく、相手がこう守っている場合はどう攻撃するのか?この場面でボールを奪ったらどう反撃に転ずるのか?など、状況に応じた攻撃の手を増やすことが必要ではないだろうか?

 日本人は、どうあがいてもフィジカルの面では欧米人に勝てない。その欧米人を上回ることができるとしたら、頭脳以外にはない。フィジカルに優れたスペイン人ですら、引用文にあるようにプレーモデルを持っているのだから、日本人はそれを凌駕する豊富な攻撃パターンを用意しておかなければ、世界で戦うことはできないように思える。

 (4)
 最近の言葉の乱れはひどい。昔は若者の言葉遣いを大人がたしなめたものですが、今は中年や初老の大人が言葉に対して実に不作法極まりない。以前にも当欄で指摘しましたが、「なので」を文頭に持ってきて話す誤用があります。(中略)「なので」は、「雨になりそうなので、傘を持って行こう」というように、上の文につなげて使うのが鉄則です。「雨になりそうだ。なので傘を持って行こう」という言い方は誤りなのです。
(占部賢志「教育改革は日本語で語れ!」)
 私も自分の言葉遣いが正しいとは決して思わないが、自分より年上の方の言葉遣いには腹立たしさを覚えることがよくある。言葉の言い回しが間違っていることよりも、言葉を大切に使っていないことに対して不満を感じる。カフェで家族問題を大声で話す人、電車で会社の愚痴をぶちまける人、飲食店で店員に乱暴な言い方で注文する人、タメ語を使えば相手と親しくなれると勘違いしている人、勢いだけのプレゼンでその場を乗り切ろうとする人、すぐに好戦的な口調になる人、相手の話をさえぎって自分の主張を始める人、メールを途中で改行しない人などである。

 言霊という言葉があるように、言葉にはその人の魂が宿っていると思う。言い換えれば、その人が発したり書いたりする言葉は、その人そのものである。言葉を大切にしないというのは、自分を大切にできなということである。そんな人に、他者のことを大切にできるだろうか?

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