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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年09月16日

山内志朗『ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか』―全体主義からギリギリ抜け出そうとする思想


ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
山内 志朗

日本放送出版協会 2003-01

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 左派の思想については未だによく解っていないのだけれども(右派について十分理解しているというわけでもないのだけれども)、現時点での私の理解を記すなら以下の通りである。右派と左派の違いを一言で表すならば、右派は「縦の関係」を重視するのに対し、左派は「横の関係」を重視する。右派は社会が多様な階層からなることを前提としており、上の階層は下の階層に対して権力を行使する。右派の理論は、その権力を正統化するための理論である。

 一方の左派は、社会から階層を取り除こうとする。国王が暴政を行えば、市民革命によって基本的人権を獲得する。資本家の力が大きくなれば、労働者の連帯を呼びかけて資本家を打倒する。左派の理論とは、階層の欠陥を突き、自由で平等な社会を実現するための理論である。

 階層社会は、必ずしも合理的なものとは限らない。多様な人々の行為に基づく長年の伝統を背景としているため、非合理な点も数多く含んでいる。それでも、それを前提として階層社会をうまく機能させるのが右派である。その根底には、人間の合理性には限界がある、という前提がある。

 これに対して、左派は人間の理性の合理性を強く信じる。全知全能の神は自らの分身として人間を創ったのだから、人間もまた合理的な存在であると左派は考える。左派が理想とするのは、あらゆる人間が平等で、その上にただ神だけが君臨する社会である。そこには国家も行政も企業も共同体もない。家族さえもない。逆説的だが、左派は連帯を求めて革命を起こすのに、革命後の世界では全く連帯していない。社会党の福島瑞穂氏は、夫とは事実婚状態にあり、また子どもが20歳になったら「家族解散式」をやると語っていた。そのくらい、左派にとって個を縛りつける仕組みは邪魔なのである。左派が究極的に追求しているのは、個の自立である。

 個の自立を求める左派は、個性をひどく重視する。教育現場においては、子どもが授業中に立ち歩くのも個性、スマホで遊ぶのも個性にしてしまう。だから、学級崩壊が起きる。だが、左派の個性重視はもっと怖い問題を抱えている。実のところ、左派は個性を全否定したがっているように思えるのだ。それもそのはず、人間は唯一絶対神のコピーなのだから、個の人間に違いがあるはずがない。子どもの平等を目指す教師は、男女同じ教室で体操着に着替えさせ、運動会で皆手をつないでゴールさせ、あいうえお順ではなくランダムに座席を配置する。

 結局のところ、左派が目指すのは、「個性を放棄し、皆が全く同じ合理性を持った差異のない人間が、相互に独立し、ただ神のみをいただく社会」である。これならば自由と平等は確実に実現される。だが、全員が同じように万能で、全員が同質であるというのは、まさに「全体主義」ではないだろうか?この点については、以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」でも少し触れた。
 デカルトにとって、表象の地平の中でも、思考というスポットライトの当たる明るいところだけが<自分>の領野であったのに対し、ライプニッツにとって、中心の明るい光の領野だけでなく、その周りに薄暗く、ぼんやりと広がる領野、縁の方はほとんど闇にしか見えない領野をも含めて、すべてが<自分>であったと言えるだろう。
 本書の中で、デカルトとライプニッツの違いについて述べられている部分である。デカルトは、方法的懐疑によってあらゆる事象を疑ってかかり、最終的には「自分がこのように疑っている」ということだけは疑いようのない真実であるという結論に達した。それを表すのが、「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉である。ただ、デカルトにとっての真は、思考している時のみである。一方、ライプニッツは、意識だけでなく、無意識も真=自分をとらえられるとした。

 私が思うに、デカルトは思考している時だけが真と考えていた、というわけでもないように思える。斎藤慶典氏の『デカルト―「われ思う」のは誰か』でも書かれているのだが、現在思考していることは、ひょっとしたら夢かもしれない。私が今このようにブログの記事を書いていることは、夢の中の世界の出来事なのかもしれない。夢であるかどうかは、夢から覚めてみないと解らない。だが、夢である疑いがあるという時点で、もはや真とは言えなくなる。

 デカルトの言う思考とは、我々が普段意識している思考ではなく、それを超えた次元(メタ次元とでも呼べばよいだろうか?)で、人間が意識しようがしまいが延々と続く思考のことを指している(それが具体的にどういうものなのか、我々は上手く認識できないのだが)。そして、その思考は個人という物理的な壁を越え、時間・空間をも超越する。思考は、人間の有限性から出発しながら、無限性に手を伸ばそうとする。だからこそ、思考は無限性を特徴とする神に触れることができるのであり、そのことが全体主義的で危険な匂いがすると以前の記事で書いた。

 このようにデカルトの考えを整理すると、デカルトとライプニッツにはほとんど違いがないように感じる。ライプニッツは、一般的な意味での思考が行き届かない無意識のうちにおいても、世界を認識できるとした。デカルトもライプニッツも、思考の働きを極大化している点では共通である。

 ライプニッツの思想の特徴は、「モナド」である。ライプニッツによれば、モナドとは、「生命と力を有し、この世に1つしかなく、分解もできないもの」と定義される。ライプニッツは、植物であれバクテリアであれ、生命を持つもの全てにモナドを見出す。いやそれどころか、岩や池の水のような、生命のない存在にもモナドを認める。
 モナドは無限なる宇宙を表現していると述べられるが、有限なものであるモナドが無限なる宇宙を表現できるのは、モナドがその内に無限を含むからと考えられている。
 神と私さえ残っていれば、世界という現象はそのまま維持される。
 それぞれのモナドは、宇宙=神を表現している。これはまさに、先ほど述べた左派の発想そのものではないだろうか?神とモナドの関係は、ライプニッツに「神と私さえ残っていれば、世界という現象はそのまま維持される」と言わしめるほど強固である。

 では、モナド同士は関係がないのだろうか?前述した左派の思想は、人間同士の連帯を分断しようとしていると述べた。ライプニッツは、「モナドには窓がない」という表現を使っている。
 普通、窓がないのは望ましいことではないから、どこかに窓を求めようとするが、ライプニッツは窓の存在を否定し続ける。モナドは直接、他のモナドと関係を持つことはできない。
 これだけを読めば、ライプニッツは、個々のモナドが孤立したまま、神のみをいただく世界を想定しているようだ。ところが、ライプニッツは別の箇所で、モナド同士は実在的な関係を持つことはできなくても、観念的に関係を持つことは可能であると述べている。この点で、左派の世界観をギリギリ脱しようとしているのかもしれない。
 ライプニッツにとって、絆とは目に見えるようなもの、感覚できるようなものではなく、言語・記号を分析していって初めて姿を現すものなのだ。
 ライプニッツは、関係が成立するのに、直接的・物理的関係は必要ないと述べる。代わりに、言葉を重視する。言葉によってモナドの関係を規定することができれば、物理的・因果的関係の及ぶ範囲を超えて事物を結びつけられる、というのがライプニッツの主張である。

 左派の主張では、個々の実在に差は認められない。神のコピーという点で共通であり、平等である。では、内部に神=宇宙=無限性を含むモナドはどうだろうか?結論から言うと、ライプニッツは個性を認めようとする。個性とは、他者とは違うということである。では「違う」どはどういうことだろうか?ここでライプニッツは、「区別不可能=同一の原理」を提示する。
 どこにあるのか、いつ存在するのか、こういった時間・空間規定を、ライプニッツの言い方に従って「外的規定」と呼び、事物が備えている性質のことを「内的性質」と呼ぶことにする。「外的規定」というのは、時間・空間規定もそうだが、他のものの存在や作用を前提してのみ成立するもので、「関係」と考えておけばよい。すると、「区別不可能=同一の原理」の内容は、外的規定においてのみ異なる2つの事物はないということになる。
 つまり、位置や時間だけが違って、それ以外は同じということはあり得ない。位置が違えば、位置以外のところも違うことになる。その違いをモナドが認識し、私が他のモナドとは異なる存在であること、私は世界に1人しかいないことを知るにはどうすればよいだろうか?
 「微小表象」とは<自分>のなかにありながらも、意識されることなく、せいぜい得体の知れないものとして存在し、ぼんやりとした暗闇にしか見えないものだが、そういった暗い領野を背景・地平としながら、そこに浮かび上がってくる、際立った領野が、自覚、つまり<自分>ということだ。この自覚こそ、自分が世界にただひとりしかいないことを告げ知らせるものだ。
 言い換えれば、私が唯一の存在であることを知るためには、私の唯一性を自覚せよ、ということである。トートロジーで解になっていないようだが、これが本書の結論である。ただ、個人的には次の点を重視したい。前述の左派の思想に従えば、モナドは差異をなくしてのっぺらぼうのようになっていただろう。しかし、ライプニッツはそれを許さなかった。ライプニッツはモナドの同質化の流れをせき止めて、個性を何とか取り戻そうとした。このことに私は安堵感を覚える。

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