プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2015年11月11日

『遠慮―遠きを慮る(『致知』2015年11月号)』―「益はなくても意味はある」(晏子)の境地に少しだけ近づいた気がする


致知2015年10月号遠慮―遠きを慮る 致知2015年11月号

致知出版社 2015-11


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 本号の冒頭には、京都大学の中西輝政名誉教授と櫻井よしこ氏の対談記事が掲載されていた。中西教授は戦後70年談話の下敷きとなった有識者懇談会のメンバーである。懇談会では、最終報告書の原案(40ページ)を最終討議の当日になって見せられ、1~2時間で読むように指示されたなど、驚くべき運用がなされていたようである。
 残念ながらいまの時代は、自分の得になることなら一所懸命にやるけれども、自分の得にならないことはしないという人が多いですね。それではダメなんです。もちろん自分の得になることも大事ですけれども、それ以外に自分に何ら得にならないことにも励んでいただきたいのです。

 宮城谷昌光さんの『晏子』という小説に、中国春秋時代の政治家、晏子が、「益はなくても意味はある」と言う場面があります。無益なことは必ずしも無意味ではなく、意味があるというのです。
(鍵山秀三郎「後から来る者たちへのメッセージ」)
 イエローハットの創業者であり、全国で掃除活動を推進する「日本を美しくする会」の相談役を務める鍵山秀三郎氏の記事からの引用である。鍵山氏は毎日掃除を続けてもう何十年にもなるが、掃除で何か利益を得ようとは考えていない。ただ、掃除が大事という理由だけで続けていらっしゃる。私などは、「『焦点を定めて生きる(致知2014年5月号)』―掃除とあいさつは経営の基本」などという記事を書いておきながら、自宅兼事務所になっている自分の部屋の掃除すら毎日きちんとできないのだから、全くもって精神の鍛錬が足りない。それでも最近は、この「益はなくても意味はある」という晏子の言葉の意味が少しだけ実感できるようになった気がする。

 私は前職のベンチャー企業でちょっとした苦労を味わった(詳細は「【ベンチャー失敗の教訓】シリーズ」を参照)。ベンチャー企業ということもあり、先行する競合他社に負けてはならないと考えていた私は、成果を出すために最短距離を走り、完璧主義を貫こうとしていた。ところが、実際にはマネジメントの非効率や社員の能力不足に直面し、随分と悩まされた。そのせいか、心身に変調をきたすようになった。私は2011年6月末に前職を退職し、翌月に中小企業診断士として独立したが、心身の不調にさいなまれて2012年の夏は全く仕事ができなくなった。

 その後、徐々に仕事を取り戻す中で、心境の変化が起きたように思える。まず、以前のようにあまり効率や損得を優先しなくなった。診断士になるとよく解るが、診断士はとかく会合が好きである。何かにつけて会議、勉強会、懇親会、親睦会などが開かれる。平日夜や土曜日はしょっちゅう潰れる。昔の私であれば、この集まりは自分にメリットがないと判断すれば真っ先に切り捨てていたに違いない。しかし、2012年夏以降は会合などに可能な限り顔を出すようにしている。

 それでも最初の頃は、「会合に出席していれば先輩の診断士から仕事を紹介してもらえるかもしれない」という、淡い損得勘定があった。短期的に時間やお金を犠牲にしても、中長期的に回収できればよいと期待していた。だが、最近解ったのは、こういう会合にいくら顔を出しても仕事は全く来ない、ということだ(仕事をいただくには、やはり中小企業などに直接アプローチするのが正攻法である)。だから今は、将来的にリターンを獲得しようなどとは考えない。私が会合に参加するのは、おそらく「人間関係を良好に保つ」という道徳律に従っているからだと思う。

 このことに気づくことができたという点で、今では病気になってよかったと思う。病気になってよかったと思うことは他にもある。2つ目は、あまり人見知りしなくなったことだ。こういう告白をすると驚かれるのだが、私は極度の人見知りであった。前職の会社にいた時も、顧客企業との会議ではひどく緊張してしまい、出されたコーヒーを飲もうとしても手が震えて飲めないことがあった(そんな自分が、他の社員の能力不足を責めていたのだから、とんでもない矛盾である)。

 数年前に服用していた薬に、感情を平坦にしてしまう副作用があった。診断士として独立してからは、前述のように様々な会合で様々な診断士に会うようになったし、中小企業の経営者とお会いする機会も格段に増えた。だが、薬の副作用のおかげで、あまり緊張しなかった。そして、薬を飲みながら仕事を続けるうちに、どういう質問をすれば相手の懐に入り込めるか?どういう相づちをすれば相手が気持ちよく話を続けてくれるか?間が空いた時にはどんな話題を振ればよいか?といったことが少しずつ解ってきた。今は、人見知りをかなりの程度まで克服できていると思う(もちろん、今でも緊張することはある)。これはまさに、薬の副作用の副作用である。

 3つ目は、完璧主義が薄らいだことである。以前の私は、私が決めたスケジュールを他の社員が守らなかったり、アウトプットが私の要求水準に達していなかったりすると、強いストレスを覚えたものだ。そのせいで、ほぼ毎日のように、夕方になると片頭痛に襲われていた。診断士として独立した今は、他の診断士と仕事をすることが多いのだが、正直に言うと前職の会社の社員以上に仕事ができない人はいる。にもかかわらず、以前ほどイライラしなくなった。

 この転換は、「完璧な人間などめったにいない」と、いい意味で諦めることができるようになったからだと思う。なぜこの変化が生まれたのか上手く説明できないのだが、1つには前述のように損得勘定で物事を考えなくなったことが、相手に何かを期待するという習性を取り払ってくれたおかげなのかもしれない。もう1つは、仮に相手が期待水準に達していなかったとしても、服用していた薬の副作用で不平不満が抑制されていたのかもしれない。

 考えてみれば当たり前のことなのだが、正解が決まっている学校のテストでさえ、100点満点を取れる生徒は限られている。まして、正解が不透明な社会で完璧に振る舞える人などというのは、むしろ例外的な存在である。9割9分の人は多かれ少なかれ何か足りない部分を抱えている。しかも、人間はそう簡単に自分を変えられない。だから、完璧を要求するのではなく、相手の不足を素直に受け止め、相手がそれを少しずつ改善できるように上手に働きかければよい。病気になって益があったとは思わないが、以上のことが解ったという点で意味はあったと思う。

 (そして私もまた不完全な人間であるから、このブログで的外れなことを書いていても温かく見守ってほしいと、最後に勝手ながら多少女々しいことをつけ加えておく)。

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