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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年11月13日

森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他


反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
森本 あんり

新潮社 2015-02-20

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 《参考記事》
 果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)
 日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考
 日本とアメリカの戦略比較試論(前半)(後半)
 『稲盛和夫の経営論(DHBR2015年9月号)』―「人間として何が正しいのか?」という判断軸

 上記の参考記事でアメリカ企業の戦略の特徴について書いてみたが、本書を読んだら、アメリカ企業の行動は「反知性主義」でほとんど説明できるような気がした(もっと早くこの本を読んでいればよかった)。アメリカ企業の戦略について簡単に説明すると、次の通りである。アメリカは唯一絶対の神を崇める一神教の国であり、個人が神と契約を通じて直接つながることを目指す。契約の内容が神のお眼鏡にかなう、すなわち正解であれば、個人は救済される。

 まず起業家やイノベーターは、内省を通じて、自分がほしいと思う新しい製品・サービスを構想する。「自分がほしいものは他の人もほしいはずだ」というのが彼らの言い分である。コンセプトができ上がると、その製品・サービスを全世界中に普及(布教)させてもよいか神と通信し、契約を結ぶ。その後は、世界普及という目標の達成に向けて邁進する。世界中の人に受け入れられるためには、製品・サービスを極限までシンプルで解りやすいものにする必要がある。

 だが、起業家が神と締結したと信じている契約が本当に真であるかどうかは、起業家本人には解らない。起業家は皆、「自分こそが神と正しい契約を結んでいる」と信じている。そのため、アメリカ企業の競争は、競合他社を直接批判・攻撃するような血なまぐさいものとなる。しかし、最後には、神が真と認めた契約のみが勝ち残る。言い換えれば、世界普及に成功するのは一握りの企業である。起業家自身がほしいと思った製品・サービスを全世界に展開することを、「自己実現」と呼ぶ。市場の利潤は勝者が総取りし、市場の脇には多数の屍が積み重なる。

 とはいえ、勝者の成功も長くは続かない。世界市場の制覇という神との契約を履行した後は、緩やかにかつ戦略的に撤退しなければならない。新たに神と契約を結び直すことはできない。競争戦略論のマイケル・ポーターが成熟産業における撤退戦略を論じたのも、キャッシュをため込む成熟企業に対し株主が自社株買いまたは配当をせよと主張するのも同じ理由である。首尾よく衰退した後は、イノベーションで獲得した莫大な利益を使って、余生を満喫すればよい。

 アメリカ企業の中には、長寿企業が多い日本を真似して、第2、第3のイノベーションによる新たな成長カーブを描こうとする企業がある。しかし、第1のイノベーションで構築したコア・コンピタンスが強力すぎるがゆえに、それを打ち壊して新たな分野に進出することは難しい。コア・コンピタンスがコア・リジリティ(硬直性)に転じてしまうわけだ。チャン・キム、レネ・モボルニュの「ブルーオーシャン戦略」は、まさにアメリカ的な企業戦略なのだが、同じ企業が2度も3度もブルーオーシャンを開拓できないのは、このような理由によると考えられる。

 アメリカは、イギリスのピューリタンが入植してできた国である。アメリカに移住してきたピューリタンは教会を重視していた。そして、その教会の牧師には、高い教育水準が要求された。一般に、大卒以上でなければ牧師になれなかったようである。初期のアメリカ人は、毎週日曜日になると教会に足を運び、牧師の高度な神学理論を聞いて、神に祈りを捧げた。

 ところが、アメリカの人口が増えるにしたがって、そのようなやり方に異議を唱える人が出てくる。神に救済を求めるのに牧師の難解な知識は必要ではない。教会に通う必要もない。ただ単に、心の中で「神のご加護がありますように」と祈ればよい。そう主張する人たちは、平日に街中で大衆に向かい、神の教えを平易な言葉で繰り返し語りかけた。集会には何千、何万人という聴衆が集まり、プレゼンターが語るシンプルな説法に耳を傾け、熱狂し、時に涙を流した。

 中には、プレゼンターに反論する保守的な人もいた。だが、プレゼンターは次の決め台詞で反対派を撃沈した。「あなたはファリサイ派のようになりたいのか?」 ファリサイ派とはユダヤ教の一派であり、律法の教えを重視するグループである。イエスは、ファリサイ派が律法の解釈を議論することばかりに夢中で内向的になっている点を批判して、キリスト教を開いた。「あなたはファリサイ派のようになりたいのか?」という言葉は、保守主義の知性偏重を真正面から打ち砕く言葉である。だから、新しく台頭したプレゼンターたちの教えは「反知性主義」と呼ばれる。

 大衆の支持を得た人気プレゼンターは、経済的にも成功を収めたようである。彼らの収入源は、講演の際に聴衆から得られる寄付と、当時急速に広まりつつあった出版であった。単純な教えを大勢の人に布教する。その結果、莫大な財産を獲得する。これはまさに、冒頭で述べたアメリカ企業の戦略的行動に共通することではないかと思う。

 やや話が脱線するが、アメリカには単純な経営原則を繰り返し講演することで、荒稼ぎしている経営コンサルタントが大勢いる。キャロル・ケネディの『マネジメントの先覚者』という本には、ベストセラー『エクセレント・カンパニー』を生み出したトム・ピーターズの話が登場する。彼は、「顧客重視」、「生産性向上」、「行動の重視」など当たり前すぎる話を、その巨体を揺らし大汗をかきながら、早口でまくし立てて、年間何千万円と稼いでいるそうだ。反知性主義は、知性が必要とされる経営コンサルティングの分野にもしっかりと根を下ろしているのかもしれない。

マネジメントの先覚者マネジメントの先覚者
キャロル ケネディ Carol Kennedy

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 一般にわれわれは、まず国ができて、その中に教会ができたと考えるが、歴史的順序はその逆だったようである。つまり、まず教会ができ、それに沿って国ができたのである。この意味では、教会と国家の結びつきは中世「コルプス・クリスチアヌム」(キリスト教世界)よりさらに強くなった、と言えるかもしれない。
 以前の記事「山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について」の中で、「宗教(→道徳)→政治」という順序を何気なく書いてしまったが、一般的には引用文からも解るように、「政治→宗教」という順序である。かつては政治と宗教が混在しており、それが政治的迷走を招き、かつ個人の信仰の自由を侵害していた。その反省として政教分離の原則が打ち立てられ、政治は政治に専念すると同時に、政治が保証する空間の範囲内で個人が自由に宗教を選択できるようになった。

 ただ、アメリカの場合は、国家が成立する前から反知性主義が始まっており、プレゼンターによって様々な教義が乱立していた。個人がどのような形で神を信仰するかは自由である(ただし、前述のように神が持つのは唯一絶対の解であり、全ての人が救われるとは限らない)。こうした宗教的要請を社会的制度へと結びつける必要があった。一般的な政教分離の原則のように、国家の暴力から信仰の自由を守るためではなく、個人の信仰の多様性を保障するために国家を構築したのがアメリカである。この点で「宗教→政治」という順序が成り立っている。
 フィニーの実践志向は、奴隷解放や禁酒運動や障がい者扶助などといった社会改革にも道を開いていった。彼は、女性や黒人の社会進出を積極的に応援した。神に祈ることや、福音の宣教をすることは、男だけの仕事である必要はないし、白人だけの仕事でもない。フィニーは、男女混合の集会で女性が前に立って祈りを捧げることを奨励したが、これは当時の慣習からすると画期的なことだった。
 引用文に書かれていることの裏返しが当時のアメリカで起こっていたことである。以前の記事「山本七平『日本人とアメリカ人』―アメリカをめぐる5つの疑問」でも書いたが、平等主義を掲げるアメリカが、なぜ黒人、女性、マイノリティを差別するのかがよく解らない。もしかすると、アメリカ人が平等を説くのは、「神との間で契約を結ぼうとする努力の下において」なのかもしれない。逆に言えば、「神と契約を結ぶ意思がない者」は差別してもよい、ということになる。

 だから、契約の意思がある者は、自らの成功のため、神との契約を履行するために、契約の意思がない者を搾取する。奴隷制度とはそういう制度であったのだろう。現代でも、アメリカの大企業が新興国の下請企業を不当に買い叩き、こき使っていることがしばしば批判される。だがそれでも、意思薄弱のレッテルを黒人や女性など特定の属性に帰すべき理由は一体どこにあったのだろうか?この点は引き続き掘り下げてみたい。
 釣りをしている間、ひとは自然の中にただ一人で存在する。仕事の面倒も忘れ、明日を思い煩うこともない。聞こえるものといえば、川のせせらぎと鳥の声、木々をわたる風の音だけである。人生の余分な意味は消え失せて、山と川、魚と自分、それらがむきだしの存在となり、自然の中の対等なパートナーになる。

 それはちょうど、礼拝の中でひとり神に向き合うのと同じ状況である。礼拝では、自分の周りに人はいるが、めいめいが静寂のうちに見ているのは人ではなく神である。
 以前の記事「ジョセフ・ジャウォースキー『源泉』―集団は本当に未来を変えることができるのか?」で取り上げた『源泉』という本で、著者のジョセフ・ジャウォースキーが引用文と同じような経験をしたことが語られている。ジョセフ・ジャウォースキーは、「学習する組織」で知られるピーター・センゲが近年提唱している「U理論」の構築にも貢献している。

 U理論は、従来の分析的な問題解決方法とは大きく異なる。何か問題を抱えた集団は、ディスカッション(議論)ではなく、ダイアローグ(対話)を重ねる。参加者が意識を極限まで集中させると、やがて臨界点を超えて、世界全体を覆う「意識」(物理学者デイヴィッド・ボームは「内蔵秩序」と呼んだ)にアクセスすることができる。すると、集団は自然と変革の道のりを歩むようになる、というわけである。このように捉えると、U理論は結局のところキリスト教に他ならない。

 ただここで問題としたいのは、キリスト教、反知性主義、U理論いずれにおいても、他者の存在が後退しているように感じられる点である(以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」を参照)。教会には他者がいるのに、彼らの存在は信仰に影響を与えない。U理論においても、変革を促すのは世界を覆う意識であって、他者ではない。これは、キリスト教が神と個人という垂直的な関係を重視するためであろう。

 日本のような多神教の場合は、そうはいかない。日本では、それぞれの人に異なる神が宿る。しかも、キリスト教の全知全能な神とは異なり、日本の神は人間的であり、不完全な姿しかしていない。だから、日本人がいくら内省を重ねて自身に内在する神に接近しても、神を完全に把握することはできない。神の理解を深めるには、自分とは異なる神を宿す他者と交流する必要がある。しばしば言われるように、良質の学習は異質との出会いから生まれるからだ。

 日本人は、他者の神を見て、自分の神との違いを認識し、自己理解を深める。ただ、他者の神もまた不完全な姿であるから、学習が終わることはない。日本人の学習は死ぬまで続く。永続的に他者と交わり、自己研鑽を積むことを、日本では「道」と呼ぶ。こういう文化圏から見ると、アメリカのような他者との関係は奇妙である。特に、教会に他者がいるのに、他者との水平的関係が意味を持たないというのは、不思議で仕方がない。キリスト教において、他者との関係は一体どのように語られているのか、この点も今後の探究課題である。

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