プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年01月08日

植村和秀『ナショナリズム入門』―西欧のナショナリズムが前提としていることに対する素朴な疑問


ナショナリズム入門 (講談社現代新書)ナショナリズム入門 (講談社現代新書)
植村和秀

講談社 2014-05-15

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 大学時代に、海外の専門書を1年かけて和訳するという講義があったが、その時題材となった洋書が非常に難しかった記憶がある。その本はなぜか捨てられずに、ずっと私の本棚にしまってあった。ところで、最近国際政治学の本を読んで、アーネスト・ゲルナーという人がナショナリズム研究で有名であると知った。その後、思い出したように本棚にあったその洋書を引っ張り出してみたら、ゲルナーの"Nations and Nationalism"であることに気づいた。学生の頃はゲルナーのことなど全く理解しようともせずに講義を受けていた。本当に不勉強であったと後悔している。

Nations and Nationalism (New Perspectives on the Past)Nations and Nationalism (New Perspectives on the Past)
Ernest Gellner John Breuilly

Wiley-Blackwell 2008-06-09

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民族とナショナリズム民族とナショナリズム
アーネスト ゲルナー 加藤 節

岩波書店 2000-12-22

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 講義が終わってから加藤節氏の和訳本が出版されたのだが(この本が先に出ていたら講義は有名無実化していただろう)、Nationを「民族」と訳すのはいささか不適切であると思う。日本語の民族は人種の意味で用いられることが多い。人種とは、人類を生物学的に区分したもので、遺伝学的な身体上の諸特徴を共有する集団のことである。

 ゲルナーは上記の著書で、Nationの範囲を国家と一致させることが重要だと説いた。だが、仮にNation=人種とすると、ナチスのようなレイシズムの台頭を許すことになる。ゲルナーは決してそういうことを言いたかったのではない。ゲルナー(とその他のナショナリズム研究者)が言うNationとは、政治的自己意識を持つ同一の文化集団であり、人種よりも広い。これに直接対応する日本語はないので、私が受けた講義ではNationをそのまま「ネイション」と表現していた。

 前置きが長くなってしまったが、今さらながらナショナリズムのことをちゃんと勉強し直そうと読んだのが植村和秀氏の『ナショナリズム入門』である。だが、私の知識不足で、色んなところでつまづいてしまった。以下、私の疑問のまとめである。珍妙な(?)見解も含まれているだろうがお許しいただきたい(私の意見が珍妙なのはこの記事に限った話ではないか(苦笑))。
 ネイションという言葉は、何らかのまとまりを持つ人間集団を想定しています。ただ、その人々が世界各地に暮らしていて、およそ未だかつて、一緒に暮らした記憶がないのであれば、そのような集団をネイションと呼ぶことはできません。となると正確には、少なくとも一緒に暮らした記憶が必要であり、それはつまり、その人間集団にとって特別な土地が存在しなければならない、ということです。
 冒頭でいきなりつまづいた。ネイションの成立には土地が不可欠であるという。ところで、ある人々が同じ集団となるには、大きく分けて血縁主義と地縁主義という2つの考え方がある。血縁主義とは、読んで字のごとく、血がつながった人々を同じ集団とする(実際につながっていることを証明する必要はなく、つながっているはずだと信じることが重要である)。日本は血縁主義社会である。これに対して地縁主義とは、ある土地の中にいる人々を同じ集団とする。アメリカは地縁主義の代表的な国である(両者の違いは国籍の決め方にも表れている)。

 ネイションが土地を必要とするならば、地縁主義においてネイションが成立しやすいことは容易に理解できる。一方の血縁主義も、たいていは地縁主義と重なっていたため(例えば、日本の場合は同じ土地の中に血のつながった人々がいる)、ネイションの成立にそれほど障害はなかった。だが、必ずしも土地とは結びつかない血縁主義の社会ではどうだろうか?

 具体的に言えば、アラブの社会である。砂漠で遊牧している限り、地縁は生じない。例えばリヤドに行くと近代的なビルが並んでいるが、ビルに番地がないという。ベドウィンのテントに番号をつけても意味がないのと同じ理屈である。郵便はどうやって届くのか不思議に思えるが、人々は毎朝私書箱へ行って受け取るらしい(以前の記事「山本七平、加瀬英明『イスラムの読み方』―イスラム世界の5つの常識、他」を参照)。アラブ社会でネイションが成立しないかと言えば、そんなことはないだろう。土地を前提としないナショナリズム論を構築する必要があるように思える(これはすなわち、土地を持たない国家の建設が可能か?という議論につながっていく)。

 近代の「国民国家(nation state)」という枠組みは、地縁主義的なネイションを前提としている。そして、血縁主義的な社会には、地縁主義のやり方を押しつけてきた。本書では、ヨーロッパにおいて東欧は血縁主義であるのに対し、西欧は地縁主義であることが指摘されている。西欧は東欧に対して、西欧と同じ枠組みで国民国家を成立させようとした。ところが、地縁主義に基づくナショナリズムは血縁主義社会との相性が非常に悪く、様々な軋轢を引き起こしたという。
 地域的統合の弱い諸地域に多くの国境線を引くことは、それだけ無理に無理を重ねるということになります。実際、それによって人間集団の摩擦面は大きくなり、各地で紛争が頻発していきました。とはいえ、地域ではなく人間単位で支配する近代国家の建設は不可能ですし、同じ地域に複数の人間集団が散在し混在している東欧では、地域単位の分離独立や自治もまず不可能でした。
 2つ目のつまずきは、またしてもアラブ社会に関するものである。
 ウンマは地域単位のものではなく、世界規模の巨大な人間集団となりました。しかしそのウンマは、多様な人間集団を抱え込み、それ自体としてネイションへと自己形成するわけではありません。しかも、ウンマと国家の結び付きは、ネイションと国家の結び付きと競合しかねないものです。つまりイスラームへのこだわりは、ネイションへのこだわりを否定するか、従属させるものとなりえるのです。
 この部分を読むと、イスラームはネイションを形成する要因にはなりえない、むしろネイションの形成を阻害していると言っているようである。確かに、近代国家の重要な原則の1つが政教分離であり、イスラームに基づく国民国家を作れば、それはすなわち宗教国家となって近代国家の原則に反する。だが、宗教をネイションの構成要因から排除する理由が今一つ理解できない。

 イスラームに対する私の理解は決して十分ではないのだが、イスラームはキリスト教や仏教など内面の信仰を重視する宗教とはやや異なる性質を持っていると思う。イスラームはそのままアラブ人の文化と直結している。そして、同じ文化を共有することは、ネイションの重要な要件である。また、イスラームはアラブ人の生活をこと細かく規定する法律でもある。法律を共有する集団は、政治的・社会的な意識を同じくする集団にならないのだろうか?(以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『中学生でもわかるアラブ史教科書』―アラブ世界に西欧の「国民国家」は馴染まないのではないか?」を参照)

 もちろん、アラブ社会の国境線を全部取っ払って、「大イスラーム国家」なるものを作ればよいという簡単な話ではない。第二次世界大戦後に欧米諸国がアラブ社会に国境線を強引に引いたことで、よくも悪くもそれぞれの国家に対するネイションの意識が生まれている。また、アラブ社会に古くから見られる部族制の仕組みも、部族単位のネイションの意識を生み出している。アラブ社会では複数のネイションが重なっている。本書では、酒井啓子氏の『イスラーム地域の国家とナショナリズム』を引きながら、次のように述べられている。
 「その意味で、アラブ諸国における国家建設論理としてのナショナリズムは、建国以来常にアラブ『民族』を統合対象とするアラブ・ナショナリズムか、国家領域内に内包された『国民』を統合対象とする一国ナショナリズムかの間で、ジレンマを抱え続けてきた。さらにその国家領域によって限定される国民の成員意識と、上述した歴史的『祖国意識』の共有が合致しているかといえば、必ずしもそうではない」

 つまり、人間集団単位でのネイション形成と地域単位でのネイション形成とが、ここでせめぎ合っているのです。そしてそこに部族へのこだわりや国境と一致しない地域へのこだわりが重なる場合もあり、イスラームへのこだわりがさらにすべてに重なって、こだわりは重複し複雑化するのです。
 この状態を解決する1つのアイデアは、連邦制のようなものを導入することではないかと思う。連邦制”のようなもの”と書いたのは、現在のアメリカやイギリスなどが採用している西欧的な連邦制をそのまま導入すれば、再び西欧による押しつけとなって問題を引き起こすであろうから、アラブ社会的な連邦制を構築しなければならない、という意味である。

 アラブ社会の人々は、一義的には部族・国家レベルでのネイションの意識を持つ。だが、それと同時に、それらのネイションを包括するイスラーム世界に対してもネイションの意識を持つ。しかも、元々遊牧民である彼らは、前述の通り必ずしも土地と結びついていない。世界各地にいながらにして、二重のナショナリズムによって結集する。彼らを結ぶのは、血縁とイスラームである。

 この場合、国家は成立するのか?という重要な疑問が生じる。国家を維持するためには国の経済力を高めなければならない。経済力は資本(土地)と労働力で決まる。かつては土地の重要度が高かったため、より広い土地を確保することが国家にとって至上命題であった(だから、帝国主義が生まれた)。ところが、現代経済においては、土地の重要性は下がっている。土地などなくても、極端な話をすれば人さえたくさんいればIT産業などによって経済を大きくすることができる。国家にとって、土地は必ずしも必要条件ではないのかもしれない。

 国家は国民の生命を守る義務がある。国民を効率的に守るには、一定の地域に国民をまとめておく方が得策であった。ところが、武器の性能が上がり、特定地域を一瞬にして無に帰す武器が登場すると、国民の凝集性が高いことはかえってリスクとなる。むしろ、国民が散らばっていた方が、攻撃側からするとやりにくい。したがって、存立の可能性が高まる。アメリカはベトナム戦争で現地のゲリラを結局倒せなかったし、イラク戦争後も自爆テロに手を焼いた。現在、欧米諸国はイスラム国打倒を掲げているが、おそらくシリアを爆撃したぐらいでは一掃できない。ここでもまた、国家にとっての土地の重要性は低下している。

 土地を前提とし、単層のネイションに基づく国家の構築という近代西欧的な発想では、アラブの諸問題を解決することはできないに違いない。土地を前提とせず(人間集団を前提とし)、複数のネイションが重なり合う国家の構築という新しい挑戦が必要となるように思える。重要なのは、アラブ社会がそういう国家の構築を自ら望むことである。加えて、欧米諸国がアラブのためといいつつ、実際には自国の利益のためにアラブ世界に過度に介入するのを止めることである。

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