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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年01月15日

栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い


ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)
栗原 隆

日本放送出版協会 2004-09

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神・人間の完全性・不完全性

 またまた珍妙な(?)論理をひけらかすことをお許しいただきたい。上図は、神を完全(無限)ととらえるか不完全(有限)ととらえるか、人間を完全(無限)ととらえるか不完全(有限)ととらえるか、という2軸でマトリクスを作成したものである。右上の象限は、神も人間も完全であるとする認識方法である。完全なる神は、自らの姿に似せて人間を創造した。よって、人間の理性もまた完全性を備えている。人間は神と直線的な関係を結び、神の意思を地上で実現することを約束する。これが契約である。人間は、契約を履行している限りにおいて、自由で平等な存在となる。

 人間は、神と直接つながることを望むため、自分と神との間に何らかの組織や階層が介在することを嫌う。共産主義は、労働者階級が資本家階級を打倒して労働者による平等な社会を実現することを目指した。共産主義がさらに進むと、国家という近代理性の産物も個人の自由を阻害するものとして排除される。これがアナーキズム(無政府主義)である。

 最近は、学校や家族といった伝統的な組織も排撃の対象とされる。例えば、アメリカでは、創造説を教えない学校に子どもを通わせない親がいる。進化論という間違った知識を教えるのは、子どもの自由の侵害であるという。多くの国で男女による婚姻が法制度化されているのは、家族による国民の再生産機能を国家が期待していることの表れである。ところが、極端な自由主義者は、子どもを産まない自由や、同性婚の合法化を主張する。彼らにとって、伝統的な家族の枠組みは煩わしい人間関係でしかない。だから、自由のためにそれを排除しようというわけだ。

 往々にして、ある人の自由は他人にとっての不自由となる。普通の国であれば、その点を考慮して、どこまでを自由として認めるか、法的、倫理的、道徳的な議論を交わすものである。とはいえ、いくら議論しても、何らかの領域で誰かに不自由を強いることは避けられない。しかし、極端な自由主義者はこの点を受け入れられない。不自由が生じるのは、他者と人間関係を結んでいることが原因である。そのため、自由主義者は自由のために他者から孤立する。

 先ほど、神は自分に似せて人間を創造したと書いた。ということは、人間同士の間に差異があってはならないことを意味する。差異があれば平等ではない。差異があれば、その差異を是正する必要がある。しかし、差異の是正は必ず誰かの不自由を伴う。したがって、右上の象限の立場に立つと、論理的には個々の人間は個性を持たないことが帰結される。

 お互いに孤立した無個性な人間が、神との契約で平等な立場に立ち、お互いに影響を与えない範囲で自由を発揮する。これが右上の象限の理想形である。さらに言えば、彼らは時間軸とも無縁である。過去を想定すれば、過去に縛られる。また、未来を想定すると、未来に複数のシナリオが生じ、その違いによって自由・不自由、平等・不平等が生じる。だから、右上の象限の人たちには現在しかありえない。つまり、今ここで流れる時間が絶対で、過去と未来(厳密に言えば、彼らに過去・現在という概念はないのだが)を全て覆い尽くす。この点で、時間は無限である。

 右上の象限はすなわちファシズムである。ヒトラーは、ドイツ人(アーリア人)の人種的優位性を説き、ドイツを、そして全世界をアーリア人の支配下に置くことを目指した。純粋なアーリア人を増やすために、当時敵視していたユダヤ人がアーリア人と接触するのを禁じ、さらにユダヤ人を虐殺した。また、精神障害者や重病者など、アーリア人であっても優秀な子孫を残す能力に疑問符がつく人々も次々と殺害した。一方、残った優秀なアーリア人に対しては、政党の新設を禁止し、厳しい言論弾圧を行い、ヒトラーの政治思想にのみ従うことを許した。

 だが、肝心のヒトラーの政治思想というのはどうも判然としない。アーリア人による支配は目的ではなく手段にすぎず、アーリア人による支配を通じて何かを達成したいと考えるのが筋である。ところが、ヒトラーにはそれが感じられない。ただ単に、アーリア人以外(特にユダヤ人)を排除し、アーリア人による支配地域をひたすら拡大することだけを目的としていたように思える。この点でヒトラーには未来というものがなく、極端な現在主義に走っていたように見受けられる。

 ファシズムが第2次世界大戦で敗れた後、今度はアメリカが全体主義に走っているのではないかと思うことがある。アメリカは、自由、平等、基本的人権、市場原理、資本主義を普遍的な価値とし、世界中にそれを広める使命を負っていると信じている。普遍的価値のためなら、相手国の政権を転覆させ、経済システムを書き換えることもいとわない。これは、新しい形のファシズムであるかのように感じる(以前の記事でも、何度かそのようなことを書いた)。

 しかし、どうやら話はそれほど簡単ではなさそうだ。アメリカはやはりしたたかな国で、右上の象限にいると見せかけて、実際には右下の象限に修正している。つまり、神は相変わらず完全であるものの、人間は不完全(有限)であることを認める、というわけだ。右上の象限は、神と人間の間に別の組織・階層が介入することを嫌う。ところが、アメリカは国家に絶大な権限を与えることを許している。さらに言えば、アメリカは連邦国家であり、州単位でも政府が存在する。こうした統治機構の多重性は、右上の象限では考えられないことである。

 先ほど、アメリカの一部の左派は伝統的な家族を破壊しようとしていると書いた。だが、多くのアメリカ人は今でも家族を重視する。子どもが熱を出せば仕事を休むし、家族との記念日には仕事を早く切り上げる。家族というのは、もちろん生活の重要な基本単位であるが、密接度が高いゆえに、時に煩わしい関係となるものだ。それを差し引いても家族を重視するという点で、アメリカ人は右上の象限の人々とは異なる(右上から右下の象限に移動する際に、重層的な統治機構の介在や家族関係の重視がどのように正当化されるのか、引き続き掘り下げて考えてみたい)。

 時間に対する意識も、アメリカ人と右上の象限の人々とは異なる。アメリカ人は未来志向である。別の言い方をすれば、終わりを強く意識する。終わりがあるから、有限である。終わりに目的、ゴールを設定し、それが神の意思に適っていることを確認する。その上で、そのゴールに到達するために何をすべきか、バックキャスティング的に発想する。アメリカ企業が明確なビジョンを設定し、緻密な戦略を立案するのはそのためである。そして、ゴールに到達した後は、緩やかに衰退する。マイケル・ポーターがわざわざ衰退期の戦略を論じたのも、内部留保の投資先がなくなった企業が自社株買いで株主に報いるのも、同じ論理である。

 アメリカ人と右上の象限とを分かつもう1つの特徴が、二項対立的把握である。二項対立的把握は物事を相対化するため、右上の象限のように単一の思想、体系、制度を絶対化することがない。二項対立的把握においては、両者は激しく対立する。ところが、どちらも相手を完全に打ち負かそうとは考えていない。仮に打ち負かしたとしても、また新たな対立項が現れる。いや、現れてくれないと困るのである。アメリカは冷戦で共産主義に勝利した後、今度は中国と対立している。また、イスラム国をはじめとするテロリストの戦いは、国家対非国家の戦いだと言える。

 企業同士の競争も二項対立的把握である。市場リーダーに対しては、強力な対抗馬が存在する。その代表がコカ・コーラとペプシコであろう。かつてピーター・ドラッカーは、GEのジャック・ウェルチに対し、「市場シェアが1位か2位以外の事業からは撤退せよ」と助言したとされる。これは、市場において意味があるのは1位と2位の企業だけという意味にも解釈できる。しかし、1位の企業は必ずしも2位の企業が消えることを望んでいない。2位がいるからこそ、1位は市場を全体としてとらえ、2位との相対性によって戦略を立てることができる。これが二項対立的把握である。

 (ところで、最近は独占的なアメリカ企業が増えてきたと感じる。世界の時価総額ランキングを見ると、検索エンジンのGoogle、パソコンOSのマイクロソフト、SNSのfacebook、データベースのOracle、ネットワーク機器のシスコ・システムズなどが、世界で高いシェアを獲得し、2位以下を大きく引き離している。これは、アメリカが右上の象限を狙おうとしている傾向なのだろうか?)

 二項対立的な把握においては、ある人(企業)が特定の立場に立つ時、それと反する立場に立つ人(企業)をわざわざ作り出す。そして、相手と厳しく対立しつつも、相手を完全には排除せず、相手と共存する。これは、まさにヘーゲルの言う弁証法的な認識である(ようやく本書の話に触れることができた)。二項対立的把握は、こういう仕方によって他者の存在を必要とする。
 ヘーゲルにあって弁証法的な否定は、<あれか―これか>の二者択一や、<ああでもないし―こうでもない>という行き詰まり、さらには<あれはあれで―これはこれ>という相対性をも否定して、認識の進展をもたらすことのできるところに捉えられていた。(中略)

 ヘーゲルはそのモデルを「懐疑」に求めた。懐疑というのは、これもあれも疑わしい、という態度をとるものではない。独断論が、対立する主張の可能な場合にあって、一面的に一方に加担する立場をとって、「あれか―これか」を構成するのに対して、むしろ常に、対立する主張を並存させようとする態度である。
 一方の日本人は、左下の象限に位置する。神も人間も不完全(有限)であると考える。人間は神を宿しているが、その神は不完全な姿しか見せない。それでも人間は、人生をかけてその神を知ろうとする。しかし、いくら内面と向き合ったところで、神を完全に悟ることはできない。そこで、他者の存在が必要となる。他者は自分とは異なる神を宿している。他者の神も決して完全ではないが、それでも日本人が他者を必要とするのは、自己と他者との間に差異があるからである。差異は優れた学習の源泉である。日本人は、他者を媒介として自己を変容させる。

 本書は著者にとってかなりの難産だったようで、出版社から厳しいダメ出しを受け、大幅な加筆修正を余儀なくされたようだ。その過程がまさに弁証法のようであったと著者は振り返っている。
 編集者から筆者への批判は、絶望的な思いにさえ誘われる厳しいものであった。編集者は、シリーズの方針を掲げ、厳然と立ちはだかった。編集者と筆者との間に、大きな亀裂さえも感じられた。拒否された原稿を前に、思想史のダイナミズムの面白さを表現することと、読者に分かりやすい叙述に徹することとの葛藤の狭間に陥ったり、編集者を納得させることのできない原稿しか書けない自分の思い違いに落胆したりもした。編集者の言に懐疑を抱かなかったと言ったら嘘になる。

 しかし、本書が無事、日の目を見たということは、編集者による批判を筆者が受け入れ、<不信>や<葛藤>、<懐疑>さらには<絶望>を乗り超えて、編集者と執筆者とのコラボレーションがうまくいったということに他ならない。
 私の独りよがりな理解で恐縮なのだが、アメリカ人と日本人の弁証法は微妙に違うと思う。アメリカ人の弁証法は、対立項を自己の正面に配置するのみである。お互いに激しく攻撃し合うものの、相手からの攻撃によって自己を変容させることがない。むしろ、ますます自己の立場を先鋭化し、対立を激化させる。それでも、両者をもって全体であるとする認識は揺らがない。

 他方、日本人の弁証法は、差異を持つ相手が自己の中に流れ込んでくる。それによって自己は変容を遂げる。このことは、著者が編集者の意見を汲んで原稿を大幅に修正し、その作業を「コラボレーション」と評したことに現れている(同時に、著者の原稿が編集者に影響を与え、それを変容させたという逆の流れも想定できるだろう)。だから、日本の場合は二項「対立」ではなく、二項「混合」だと思うのである(以前の記事「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」、「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。

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