プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年03月02日

細見和之『アイデンティティ/他者性』―「守破離」ではなく「離破守」のアイデンティティ形成?


アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)アイデンティティ/他者性 (思考のフロンティア)
細見 和之

岩波書店 1999-10-22

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 ぼくらはひとつの身体的存在として、そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態を、日々生きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的存在として、自らの内部を未知の不確定な「外部」へとつねにすでに開いてしまっている。
 『アイデンティティ/他者性』という言葉は、アイデンティティが私個人の中で完結した世界では決して形成されず、常に他者という存在を必要とすることを意味する。このことは一般にもよく理解されていると思う。そして、特に日本の場合は他者の存在が決定的に重要である気がする。

 アメリカの社会学者フローレンス・クラックホーンとフレッド・ストロッドベックは、欧米の価値観が「する」を重視するのに対し、日本は「ある」、「なる」を重視すると指摘した。欧米人は、自分の実力で何かを成し遂げることをよしとする。他方の日本人は、極めて受動的である。日本人は他者からの評価を非常に気にするし(だから、恥の文化が生まれる)、地位や名声が組織や社会から与えられることによって満足する傾向がある。つまり、他律的である。日本人は、組織や社会のおかげで「ある」のであり、組織や社会から与えられる符号によって何者かに「なる」。

 マズローの欲求5段階説というものがある。人間の欲求には5つの段階があり、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生じる。そして、最上位に位置づけられているのが「自己実現」である。しかし、しばしば忘れられているが、マズローの説は実は仮説の域を出ていない。自己啓発が一種の文化となっているアメリカで、多くの人が抱いているのは、自己実現欲求の1つ下に位置する尊厳欲求であると言われる。つまり、自律的に思えるアメリカ人でさえ、実際には他者から認められたいのだ。まして、本源的に他律的な日本人は、もっと承認欲求が強いことだろう。

 他者性がアイデンティティを規定する方法は2つある。1つは前述のように、他者が「あなたは何者である」とアイデンティティを直接的に表現することである。もう1つは、他者と私の違いを強調して、間接的にアイデンティティを定義することである。私は自分のことを穏健な保守的日本人だと思っているのだが、保守を明らかにするために革新を論じ(※1)、日本人を明らかにするのにアメリカ人を論じている(※2)。いずれも後者の方法に該当する。実際、私が保守や日本人というものを直接記述するよりも、革新やアメリカ人の力を借りる方が表現しやすい。そういう意味で、私もアイデンティティを深く他者に依存している典型的な日本人なのだろう。

 (※1)以前の記事「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」を参照。
 (※2)以前の記事「日本とアメリカの戦略比較試論(前半)(後半)」を参照。

 私を規定する他者もまた、他者によって規定される。その他者もまた、別の他者によって規定される。こうして規定のルートをたどっていくと、最初に他者を規定する何者かを想定しなければならない。その者は誰からも規定されず、自ら自分の存在を規定することができる。西欧流に言えば、そのような存在は神である。神は自ら自分を生み出す原因となることができるという点で無限であるというのが、神の存在証明で使われるロジックである。

 これを日本にあてはめると、神のところには天皇が入るのかもしれない。あるいは、天御中主神を入れるべきかもしれない。ただ、日本の場合、無限性を肯定することには個人的にどうも抵抗がある。無限性を認めてファシズムに陥った苦い経験が払拭できない。この辺りは完全に私の感覚的な話であり、全くもって論拠が不十分である。日本のあらゆる存在が有限であり、かつ他者に規定されることをどのように説明するかは今後の課題である。

 本書は、ナチスの迫害により強制収容所生活を送ったプリーモ・レーヴィとパウル・ツェラン、日本による朝鮮半島の植民支配を経験した金時鐘という3人の作家の作品を通じて、アイデンティティと他者性の関係を論じた1冊である。3人に共通するのは、自分を迫害・抑圧した相手の言葉でアイデンティティを定義しようとしたことである。すなわち、ユダヤ人であるレーヴィとツェランは、イスラエルに帰ってヘブライ語で自己を語るのではなく、ヨーロッパにいながらドイツ語で作品を書いた。金時鐘は、生まれ故郷の朝鮮語ではなく、日本の中で、日本語で文章を紡いだ。
 あの恐るべき出来事をくぐりぬけて、言葉だけが自分(※ツェラン)に残されたものだった、と語る。「数々の喪失のただなかで、手を届かせうるもの、近くにあるもの、失われていないものとして、このひとつのものが、言葉だけが残ったのです」。
 先ほど、私は革新やアメリカ人の力を借りて自らの保守や日本人らしさを記述していると書いたが、私の取り組みははなはだ不十分であると言わざるを得ない。なぜならば、いくら革新やアメリカ人に依拠しているとはいえ、所詮は保守の言葉で革新を、日本人の言葉でアメリカ人を表現し、そこからやがて保守や日本人の定義へと戻ってくることを期待しているにすぎないからである。だから、私が本当の意味でアイデンティティを明確にするためには、革新の言葉を我が物として保守を語り、アメリカ人の言葉を我が物として日本人を語れるようになる必要がある。

 3人は、単にドイツ語や日本語に自己を同化させたのではない。同化した後にそれを突き破っていくエネルギーがあった。例えば金時鐘の作品には、通常の日本語の使い方からするとやや不自然に思われるような独特の表現が数多く見られるという。
 金時鐘が追求したのは、日本語で書くことによって、決して日本に、日本語に「同化」するのではなく、むしろ日本を、日本語を「異化」しつづけることだった。自分の意識のありかそのものを規定している「日本語」を、日本語そのものの内部から食い破ってゆくことである。ぼくはそのような金時鐘の表現に、「アイデンティティ/他者性」というテーマが恐るべき密度で凝縮されている姿を確認したいと思う。
 ところが、興味深いことに、突き破った後にやはり3人は定位置に戻ってくるようなのである。レーヴィは、自分のことを「カサガイ」にたとえ、イタリア・トリノの生家で貝殻を分泌しながら作品を書いていると言った。ドイツの哲学者テオドール・アドルノは、ツェランの詩を「石や星の言語」と言って称賛した。金時鐘は日本語を「化石」化し、そこに耳を当てれば、遠く伝承されてきた朝鮮語の音韻が聞こえるに違いないと願った。自己から他者に向かい、それを突き破った動力は、今度は自己に向かって反転し、私というこの土地の上にアイデンティティを堆積させる。
 これによって、レーヴィ、ツェラン、金時鐘という表現者たちは、ひとつの明確なコンステラティオーン(貝―石―化石)をぼくらに呈示することになるのである。
 これは考えようによっては大変面白いことである。我々はしばしば、アイデンティティの形成には「守破離」が必要であると言う。まずは伝統を守り、そこにオリジナリティを加えて型を破る。そして、最後は完全にオリジナルの流儀を習得して伝統から離れる。だが、本書によれば、正しい順番は「離破守」かもしれない。つまり、まずは自己を他者に同化させつつ他者から少し離れる。その次は、ちょうど金時鐘が日本語を食い破ったように、他者を打ち破る。そして、粉々に飛び散った他者の破片、一度は自己との同化が試みられ、今や自己とも他者とも区別がつかぬ破片を回収してアイデンティティをダイナミックに構築し、それを死守する、という流れである。

 守破離というと、離れたまま発散してアイデンティティが浮遊してしまうようにも感じる。これに対して、離破守は戻ってくる場があるという点で、アイデンティティという言葉のイメージにもしっくりくる。さらに言えば、離破守は離⇒破⇒守という3つのプロセスだけでは完結しない。守りに入った自己は、今度はおそらく別の他者との同化を試み、離れ、突き破る。そして、また破片を回収してアイデンティティを積み上げていく。つまり、離破守は循環しているのである。

 《2016年3月13日追記》
 松下政経塾で勤務し、現在は「志ネットワーク」の代表を務める上甲晃氏は、東日本大震災後の東北地方を何度か訪問する中で、立ち直りが早い人には志と絆という2つの要素があることを発見したという。震災は、意味のない、理不尽な被害を被ることである。しかし、その意味のない出来事に意味を与えようと3.11という1点に立ち止まっている人は、結局のところ意味の付与に失敗し、さらに3.11に拘泥するという悪循環に陥る。簡単ではないが、3.11の出来事はそれとして、今後他者との間でどんな生を生きるのか、前向きな物語を紡ぐことが大切なのだろう。
 まず第一は、志のある人です。ただ生活のためにパン屋をやっている人は、補助金をもらえる間は再開しようとは思わないのですが、地域の役に立つためにパン屋をやっているという志や使命感のある人は、一刻も早くパン屋を再開しないと地域の人が困ってしまうと考えるので、立ち直りが早いんです。

 もう一つ、孤独な人は立ち直りが遅いけれども、強い絆で結ばれた仲間がいて、いろんな人が励ましに来てくれるような人は、やっぱり立ち直りが早いですね。
(鍵山秀三郎、上甲晃「明日に託す思い」〔『致知』2016年4月号〕)
致知2016年3月号夷険一節 致知2016年4月号

致知出版社 2016-4


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