プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年03月04日

『願いに生きる(『致知』2016年3月号)』―私のブレブレの人材マネジメント論を反省した、他


致知2016年3月号願いに生きる 致知2016年3月号

致知出版社 2016-3


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 (1)
 それからよく覚えているのが、ある時担任の先生が黒板いっぱいに大きな字で「公」と書いて、そのすぐそばに「私」という字を小さく書かれたんです。(中略)私事は小さくするのが国民の誉れであり、それが国家と国民のあるべき精神だと教えていただいたんですよ。
(楊素秋「心に秘めたる日本への思い」)
 日本統治を経験した台湾人・楊素秋氏による記事である。滅私奉公という当時の社会的風潮をよく表している。ただ、太平洋戦争においては、公VS私という対立の中で、公が私を食いつぶしてしまったと思う。その結果が一億総玉砕であった。戦後はその反省から、アメリカ的な個人主義を導入したものの、今度は私が公を食いつぶしつつあるように感じる。

 卑近な例で申し訳ないが、個人的にスマートフォンは史上最悪のイノベーションだと考えている。電車でもカフェでも平気で電話をする人が増えた。口に手をあてながら小声で電話をしている人を見ると、公共の場で電話をしてはならないことを解った上で電話をしている確信犯に見える。電車の中では、多くの人がスマホで漫画を読んだりゲームをしたりしている。本を読む人が明らかに減った。レストランでパシャパシャと写真を撮る音も非常に耳障りだ。コンビニやスーパーのレジで、マイク付きイヤホンで電話をする人もよく見かける。店員に対して非常に失礼である。

 本ブログでも何度か書いたが、日本人は二項対立的な発想が苦手で、どちらか一方に肩入れすると自滅する傾向がある(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」を参照)。それを回避するのが、二項混合という知恵である。歴史を振り返れば、共有財産を前提とし、現世の利益を対象とする神道と、私有財産を前提とし、来世の利益を対象とする仏教を融合させたのが「神仏習合」であった(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。

 現代に目を向けると、一般的に国家と市場/企業は対立すると言われるが、日本の場合は「日本株式会社」という言葉があったように、社会主義的に市場や企業を運営してきた。企業の内部においては、欧米では労働組合が経営陣と激しく対立するのが普通であるのに対し、日本は労使協調路線が基本であった。海外では社外取締役を多く入れて経営陣の働きをモニタリングする一方、日本では社員が内部昇格して取締役となるのが普通である。政治の世界では、一党独裁か多党制(二大政党制を含む)かで対立する。日本は長らくの間、事実上自民党の一党支配という形をとりながら、内部に派閥を抱えることで多様性を確保するという手法が取られた。

 話を公VS私に戻そう。これを二項対立的に把握する限り、日本はどちらに肩入れしてもやがて自滅するに違いない。解決策は、公と私を融合することである。公を大きな字で書いて、その横に私を小さく書くのではなく、公と私が同じ大きさで重なり合うように書くことである。ただ、それが具体的にどのような事態を指すのか、私自身もまだよく解っていない。一つのヒントは、左派がよく口にする「市民社会」にあるのかもしれない。左派は、国家/行政という公と、市場/企業という私の間に、緩衝材として市民社会を設置する。これが公と私の混合形なのかもしれない。

 《2016年3月13日追記》
 「日本を美しくする会」で掃除活動を全国に広めている鍵山秀三郎氏と、「志ネットワーク」代表の上甲晃氏も、日本人の「私」が大きくなりすぎて、「公」が侵食されていることを危惧している。
 上甲:日本人の心の原点は、公心ではないかと思います。それを失って、自分のことしか考えないところに問題があると思うのですが。
 鍵山:公心を失ったというより、公私という壁を自分の中につくっているのだと私は思います。それによって公はどんどん小さくなり、私ばかり肥大化してしまっているわけです。
(鍵山秀三郎、上甲晃「明日に託す思い」〔『致知』2016年4月号〕)
致知2016年3月号夷険一節 致知2016年4月号

致知出版社 2016-4


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 (2)
 私はむしろ、この百年足らずの短い人生で何を成し遂げるかという、いわば命の使い方、志を教えることこそが大切だと思います。その上で、世の中には自分の命を懸けてでも守るべきものがあるという価値観があることを教えていく。
(服部剛「感動の歴史が子供たちの道徳心を育む」)
 私は中小企業診断士の世界ではまだまだ若い方なのだけれども、世間的には中堅クラスであり、いつまでも若さを理由に甘えてばかりもいられなくなった。私は今年35歳になる。医療関係の本によると、人間の身体的・生理的機能は70歳を境に急激に衰える。また、3大疾病の発症率が最も高いのは65~70歳らしい。仮に健康寿命を70歳とすれば、私はちょうど折り返し地点を迎えることになる。私は昔から、90歳を超えても大学の教壇に立ち続けたピーター・ドラッカーを目標にしてきたのだが、非常に低い可能性にいつまでも賭けるのは、あまりよくないかもしれない。

 それよりも、残り30年ほどの健康寿命の中で何ができるかを考えることにした。こういう心境の変化は初めてだ。何せ、今までは若いから何でもできると思っていたのだから。ひとまず、今年に入っておぼろげながら人生の目標を1つ立てた。それは、毎年1つテーマを決めて(事業戦略、人材マネジメント、財務会計、事業承継など)、それを1年間かけて研究し、100枚程度のパワーポイントの資料にまとめるというものだ。1年1テーマで30年続けると、30テーマ3,000枚の資料が完成する。このぐらいやれば、この世界に私が生きたというひっかき傷ぐらいは残せるだろう。

 (3)
 土光もまた、いかに周囲から不良社員だというレッテルを貼られた社員に対しても、そんな社員こそ自分の部下にしたいということを述べている。作物と同じように早く芽が出る人間もいれば遅く出る人間もいる。どんな人間であろうとも、人を切らない登美の姿勢は土光にも受け継がれていた。
(出町譲「正しきものは強くあれ 土光敏夫の母・登美の一生」)
 普通は、言うことを聞かなければクビにして終わりなのかもしれません。けれどもうちは、そうやって一所懸命に育ててきた従業員が毎年何人もいるんです。私も声を嗄らし、汗と涙にまみれ、全身全霊で研修をやってきましたから、従業員一人ひとりがみんな可愛いですし、愛情を込めて心を磨いてあげたら、人は必ず光り始めるというのは確信を持って言えるんです。
(渡邊直人、福地茂雄「信念を抱いて願うことは必ず実現する」)
 私は一応、人事制度・人材育成が専門ということになっているが、私の中の人材マネジメント論は結構ブレブレである(汗)。私は「信賞必罰に頼らない。相手の成長を見守ることで相手を動かす」というのを自分の価値観としている反面(以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」を参照)、短気なところもあって、「「できるヤツでも組織の価値観に合わなければクビ」のGE流」、「プロフェッショナルの条件とは「辞めさせる仕組み」があること」(いずれも旧ブログ)という記事を書いたことがある。

 旧ブログの記事「戦時には戦時の人事制度ってものが必要だ」では、昇格と降格を柔軟に運用するインテルの人事制度を紹介したが、最近は「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」という記事で年功序列制度を支持している。旧ブログの記事「マネジャー(管理職)の評価方法に関する素案」、「「イノベーションに失敗した人」の評価方法に関する素案」などで、社員の成果、企業に対する貢献度を厳密に計算して報酬に反映する方法はないかと考えたのだけれども、複雑すぎて無理だと諦めてしまった。

 私は、年功序列は支持するが、終身雇用には懐疑的である。毎年若者を採用し、組織を大きくしていっても、実は中高年社員に十分な管理職のポストを用意することができない。だから、中央官庁がよくやるように、一定の年齢を過ぎたら退職勧奨をすべきだと考えている。とはいえ、単に退職させるのではあまりに冷たすぎるので、転職を支援したり、その人が起業するための独立資金を援助したりする。この辺りは、旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(1)(2)(3)」で書いた。

 先ほど紹介した「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」という記事には、「直観で人を評価しない。その人の価値観と能力をじっくり見極める」という価値観もある。中途採用時には応募者の能力を見極める。新卒は能力がまだ十分ではないので、基盤となる価値観を見極めるというのが従来の考え方であった。

 ところが、日本企業で養われる能力はその企業に固有であるため、転職後もそれが役立つとは限らず、結局は2~3年程度訓練する必要がある。よって、面接では、能力より一歩手前の価値観を評価するべきだと思い直した。ただ、この価値観も、あまりこだわりすぎるのはよくない。

 価値観については、一時期非常に重視していたことがあり、組織内の価値観を統一することはもちろんのこと、外部の協力企業とも価値観を等しくすべきだと書いたことがある(その例として、旧ブログの記事「【シリーズ】水曜どうでしょう論」を参照)。しかし、価値観は決して固定的ではないし、組織で共通する価値観よりも、共通しない価値観の方が圧倒的に多いことに最近気づいた。だから、面接においては、共通価値観を浮かび上がらせることも重要だが、組織の価値観と応募者の価値観が相容れない場合に、応募者がどんな行動をとるかに注目する必要がある。

 新卒に関しては、人生経験が豊富ではないから、価値観すらまだ形成されていない可能性が高い。よって、価値観よりさらに一歩手前の、基本的な性格を判断すべきではないかと考えるようになった(以前の記事「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」を参照)。例えば、素直であるとか、責任感があるといったことである。

 引用文と関係ない前置きが長くなってしまったが、この文章を引用したのは、最近は問題社員をすぐにクビにするなど、無駄を極限まで切り詰める傾向が強いと言いたかったためだ。収益を上げない製品はすぐに市場から引き上げる、数字にならない顧客とはすぐに取引を中止するのもそうだ。こういうことを我々は合理化と呼ぶ。だが、先日哲学の本を読んでいたら、我々が一般に合理性と呼んでいるのは、能率のことだと書いてあった。合理性とは、理性が対象をつかまえ続けることであり、そこには効率性の入る余地はない。場合によっては、非効率に見えることも抱え込む。しかし、そのような合理性こそが、将来的に大きな創造性を生むこともあるのである。

 (続く)

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