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2016年03月05日
『願いに生きる(『致知』2016年3月号)』―日本には成果主義より職能資格制度がフィットするかも、他
![]() | 願いに生きる 致知2016年3月号 致知出版社 2016-3 致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools |
(前回の続き)
(4)
仕事というものは本来楽しいものであるし、どんなに大変な仕事であろうともそこに意義や価値を見出し、「面白い」「楽しい」と思って取り組まなければ何も得られない。引用文にもあるように、「仕事は楽しめ。楽しまなければモチベーションは上がらない」とよく言われる。だが、私は普通の人と比べて感情機能が故障しているせいか、どうもこういう考えをすんなりと受け入れられない。確かに、ディズニーランドのようなエンターテインメントにおいては、キャストが心の底から楽しんでいなければ、顧客を楽しませることはできないだろう。しかし、私が携わる経営コンサルティングという仕事は、顧客がどうしようもなく困って支援を求めてくるものである。コンサルタントは、言わば顧客の苦しみを肩代わりするわけだから、楽しいはずがない。
(大橋洋治「失敗しない人間は信用できない」)
もちろん、顧客の課題が解決されて、顧客とともに最後に安堵感を味わうことはある。とはいえ、そこに至るまでのプロセスは基本的に重荷である。もしそれを楽しいと言うならば、他人の不幸を飯の種にしていることを積極的に認めることになり、はなはだ不謹慎だと思う。そもそも、仕事に楽しい⇔楽しくないという感情を持ち込むから話がややこしくなる。仕事を快⇔不快で判断するから、やりたい⇔やりたくないという両極を行き来することになる。だから、私は最近、できるだけ心の平静を保って、楽しい⇔楽しくないという感情を排除するようにしている。
社員の動機づけについてもう少しだけ話をしておく。前述の通り、仕事を快⇔不快で判断すると、モチベーションが上下しやすくなる。社員のモチベーションの乱高下を防ぐために、企業は社員に楽しい仕事を与え続けるべきだなどという、トンチンカンな主張を見かけることがある。果たして、企業は社員のモチベーションを上げる義務があるのだろうか?社員は企業から給与という形でお金をもらっている。お金をもらう側が、お金を払う側からモチベーションを上げてもらうのがいかにおかしいことであるかは、顧客と企業の関係を考えればよく解る。
同じことは教育研修についても言える。企業は社員に教育投資をすべきだと言われるが、顧客は企業が組織能力を高めるためのトレーニングに対して、追加のお金を出してくれるだろうか?こういう話をすると、私が「”社員”が”輝く(Shine)”経営のお手伝いをする」という意味で、屋号を「シャイン経営研究所」としていることに反して、社員に厳しすぎるという声が聞こえてきそうだ。ただ、私は企業側の動機づけや教育投資を全否定するわけではない。
企業と社員の関係は、顧客と企業の関係と異なる点がある。顧客は、ある企業が気に入らなければ、別の企業から製品を買える。だが、企業の場合、ある社員が気に食わなくても、代わりの人材をすぐには採用できない。トヨタの自動車が嫌なら、ホンダの自動車を買えばよい。しかし、トヨタを退職した技術者の代わりを見つけるのは容易ではない。少なくとも、顧客がトヨタのディーラーから近所のホンダのディーラーへ移動するよりははるかに難しい。企業は、今いる社員で成果を上げるしかない。だから、動機づけと教育訓練で社員をつなぎ止めることが必要である。
(5)
「私たちはお金に関係のない世界に生きていますから、本が売れているなどいままで知りませんでした」。そう答えた時、「ああ、だから本が売れるんですね」と返された言葉がいまでも印象に残っています。無心になって手放せば反対に入ってくる。私たちの社会にはそういう原理が働いているのかもしれません。「無心になって手放せば反対に入ってくる」という感覚は、最近何となく解る気がする。「この製品・サービスを売りたい」、「あの顧客企業からこのぐらいのお金をいただきたい」と私がいくら望んでも、その通りになることはほとんどない。それどころか、人生全般を振り返っても、私の思い通りにいったことなど数える程度しかないような気がする。逆に、何も望まない状態でいると、周りの人が私のことを気にかけてくれるのか、色々と仕事をくださったりする。
(鈴木秀子「この心臓は鉛でできているが、泣かないではいられないのだよ」)
(4)とも関連するが、自分がこうしたい、ああしたいと思って仕事をするのは快⇔不快という感情にとらわれている。自分がしたい仕事であれば快く感じ、モチベーションが上がる。反面、自分がしたくない仕事であれば不快に思い、モチベーションが下がる。こうしたモチベーションの乱高下は、コントロールが非常に難しい。いっそのこと欲を手放してしまえば、快⇔不快という感情に左右されることもなくなるので、モチベーションというもの自体を考えなくて済む。
「無心になって手放せば反対に入ってくる」というのが我々の社会に働く原理であるとすれば、アメリカ流の成果主義は日本にとって最悪である。成果主義によって、短期的な成果しか追わなくなった、職場内の協力関係がなくなり組織がタコツボ化したなど、様々な弊害が指摘されるが、そもそも根本的に日本社会の原理に反していた可能性がある。とはいえ、私も全ての目標設定を否定するつもりはなく、何らかの目標を持つ必要はあると考えている。ただし、その目標は、○○円受注する、市場シェア○○%を達成するなど、組織の外部の成果に求めるのは望ましくない。
代わりに、人として、あるいは企業という共同体を円滑に運営する上で当然と見なされる行為にフォーカスを当てる。例えば、自己啓発をするとか、後輩を育てるといった具合である。そういう行為をたくさん積み重ねていった結果として、売上高、顧客数、市場シェア、利益などの数字が後からついてくると考えた方がよさそうだ。その意味では、日本の職能資格制度は、実は非常によくできた制度である。成果主義が導入された時、職能資格制度は内向きで抽象的な目標ばかり立てていると批判された。しかし、実はそういう目標こそ、日本人が追求すべきものである。