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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年03月21日

中根千枝『タテ社会の人間関係』―「年功序列型タテ組織」が見せる意外な柔軟性


タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)
中根 千枝

講談社 1967-02-16

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 以前の記事「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」で、実は日本の年功序列(終身雇用ではない)が最も公平な人事制度ではないか?と書いた。本書は、日本の年功序列に代表される「タテ社会」を分析した1冊である。著者はまず、社会を「資格の社会」と「場の社会」という2つに分ける。資格の社会とは、同じ資格を有する者が集まる社会である。ここで言う資格とは、氏、素性、学歴、地位、職業、資本家、労働者、地主、小作人、男、女、老人、若者といった属性のことである。他方、場の社会とは、資格の違いを問題にせず、同じ地域や組織などの空間にいることを重視する社会である。

 どんな社会でも、構成員同士の一体感を高めることが重要となる。資格の社会においては、「同じ資格を有している」という事実が一体感を醸成する。よって、水平的なつながりが強くなる。著者はこれを「ヨコ社会」と呼ぶ。一方、場の社会においては、資格のような共通項がない代わりに、情緒的なつながりが重視される。情緒的なつながりは、他のメンバーと一緒にいる時間が長いほど強くなる。したがって、場の社会では必然的に年功序列の「タテ社会」となる。つまり、その場により長くいる人が、それ以外の人よりも上の立場に立つことができる。

 タテ社会とヨコ社会の違いについて、著者は1つ面白い指摘をしている。ヨコ社会=資格の社会では、1人の人間が有する資格は1つとは限らない。複数の資格を有する人は、複数の組織に所属できる。ある組織ではマネジャーとして働き、別の組織では研究者として働く、といった具合だ。著者は、イギリス、イタリア、中国などでこのような傾向が見られると指摘する。

 これに対して、タテ社会=場の社会では、他のメンバーと長い時間を共有することがカギとなる。だから、自分の有限な時間をわざわざ分割して複数の組織に振り分けるメリットがない。日本では、1人の人間は原則として1つの企業にしか所属できない。日本では副業に対する風当たりが強いのも、そのためであろう。私は、組織社会から外れて個人で仕事をしているのだが、色々な組織とパートナー関係を結び、複数の名刺を持っている。しかし、名刺を何枚も相手に渡す時には妙な気まずさを感じる。これは、タテ社会の慣習に反しているからに違いない。

 ヨコ社会とタテ社会のこうした違いは、歴史的背景も影響していると著者は言う。中世の西欧では、主従関係が必ずしも臣下を無制限に束縛せず、同時に2人や3人の主君に仕えることが可能であった。だが、日本には「二君にまみえず」という言葉があるように、特定の主君に仕えるのが理想であり、複数の主君に同時に仕えるのは武士道の精神に反するとされた。

 (※)余談だが、「二君にまみえず」という論理を使ってキリスト教を批判したのが江戸時代の政治家である新井白石である。キリスト教は、個人が神に直接仕えることができると教える。ところが、当時の日本では子は親に仕え、親は地域の長老に仕え、地域の長老は武士に仕え・・・という垂直的な関係が理想であった。そこにキリスト教を持ち込めば、子は親と神の両方に仕える必要があり、社会構造が崩壊すると危惧したのである。

 ヨコ社会では、同じ資格を持っていさえすれば、たとえ相手の素性がよく解らなくてもネットワークに参加できる。西欧や中国、インドはこういう社会である。華僑や印僑が世界中で活躍しているのも納得がいく。「華僑」、「印僑」であることが、同じ資格の保有者であることの証となる。また、西欧人はすぐにインターネットを使ってビジネスマッチングを行う。相手が見えないことに対して、さほど心理的抵抗がないらしい。ここでも、同じ「事業家」、「商売人」という資格が効力を持つ。しかし、タテ社会の日本は、直接的でウェットな人間関係がものを言うから、インターネットでのマッチングは機能しにくい。私の仕事に関係した話をすると、国や自治体は現在、中小企業のビジネスを活性化させるためにマッチングサイトを乱立させている。だが、日本は人づての直接的な紹介で仕事が回る社会なので、めぼしい成功例はほとんど聞いたことがない。

 (※)余談その2。海外の展示会に出展すると、「御社のHPを見た。御社の製品を是非我が社で販売させてほしい」とブースにやってくる人がいるそうだ。この話から得られる教訓は2つある。まず、海外の企業は日本企業のHPをよく研究している。日本企業の素性が解らなくても、同じ「事業家」という資格を持っているなら信頼しようということなのだろう。もう1つは、海外の展示会では具体的な商談が行われるということだ。ブースを訪れる人は決裁権限を持っていて、その場で契約をまとめようとする。決裁権限を持たない担当者レベルの人間が情報収集のためにやって来る日本の展示会では、出展企業側もブースに決裁権限者を置かないことが多い。そのため、海外で日本と同じ対応をして、大きなチャンスを逃していると聞く。

 タテ社会の場合、ヨコの同類は敵となる。企業内では同期や隣の部署と激しく競合する。企業間では、「あの企業がAという製品を出したならば、我が社はA’という製品を出そう」といった具合に、似たような製品をフルラインで揃えて勝負する。欧米では各社が自社の強みに特化して差別化が成立するのに、日本ではどの企業の戦略も同質化するのはこのためだと著者は分析する。また、水平的な合併は対等な関係にならず、主従の関係を生じるとも言う。

 ただ、この点に関して、個人的には異なる見解を持っている。確かに、日本企業には激しい社内競争も部門間の対立もある。競合他社がまるで裏で口裏合わせでもしたかのように、皆似たような製品・サービスを出すことも多い。だが、同時に協調的な行動もたくさん観察されると思う。同期との関係は定年まで続くと言われるし、ゼネラリスト育成の目的で行われる定期的なジョブローテーションが部門間の情報共有や連携を促している。

 企業の外部に目を向けると、日本の業界団体という存在が、時に競合他社同士を協業へと導く。もちろん、欧米でも、市場の黎明期においては、各社が結束して技術標準を確立し、市場の拡大に力を注ぐ。だが、一旦市場が成立すれると、各社は一転して激しい競争関係に転じる。この点、日本の場合は、市場が成熟した段階でも、自社の組織能力を補完するために、競合他社との間で部品や技術、さらには経営ノウハウを融通し合うといった動きが見られる。著者は垂直的な関係を重視するあまり、水平的な関係をやや軽視しているように感じた。


 《2016年5月1日追記①》
 ジョブローテーションに関して1つ追記すると、明治時代初期には省をまたいだ人事異動が頻繁に行われていたそうだ。しかし、大正時代になると学歴重視になってしまったという。
 明治時代に官僚制度が整えられた当初は、そうではなかったんです。農商務省から突然、外務省へ移るとかそういうふうな異動すらあったのに、明治も末頃になると、東京帝大法学部を首席で出た奴がどうなるというコースがある程度確定してくる。本来、経験が人間をつくっていくのに、経験を無視して成績だけで判断していくという時代に対象からなっていくんです。そして、そういう連中が各省の次官や局長クラスになり、官僚国家になっていったんです。
(伊藤隆、猪瀬直樹「日本近代国家論 坂の上の雲の向こうに何を追ったのか」)
正論2016年5月号正論2016年5月号

日本工業新聞社 2016-04-01

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 《2016年5月1日追記②》
 日本では業界団体を通じて日常的に競合他社と接触することが容易であるが、海外ではそうはいかないケースが多い。経済産業省『中小企業のための海外リスクマネジメントマニュアル』によると、アジア諸国の中には、同業他社との非公式な会合に参加するなどして同業他社と接触することを制限している国がある。日本でも公正取引委員会が同業他社との接触を制限するルールの策定をを試みているが、相も変わらず業界内で同時に類似の新製品が販売されたり、値上げが行われたりするところを見ると、日本における規制は難しいと感じる。


 年功序列的なタテ社会は、年齢で全てが決まるため、非常に硬直的に見える。ところが、著者によれば、上下のモビリティは意外と大きいと言う。江戸時代から現在までの農村の家々の興亡を調べると、3代以上続いて上層を占め続けたというのは少なく、5代以上となると例外に近くなるそうだ。年功序列とは、年齢が上がれば能力が必ず上がると信じ、あらゆる人に上位ポストへの可能性を開く仕組みだと言える。どの人も年齢によって上の地位まで上り詰めるが、その地位はその人が生きている間に限って有効である。先代の地位は次の若い世代になるとリセットされる。代わりに、次の若い世代には再び下からよじ登るチャンスが与えられる。むしろヨコ社会の方が、資格に固定されて上位層へ上昇できない固定的な社会かもしれない。

 普通に考えると、タテ社会よりもヨコ社会の方が人間関係がフラットで、自由に議論できるように思える。実際に著者も、ヨコ社会においては下の資格の者が上の資格の者に意見することができると述べている。しかし、私が聞いた話では、アメリカやドイツなどでは、上司に意見することはタブー視されている。上司の権限を踏みにじる行為であるからだ。欧米企業では、トップダウン以外の指揮命令系統はあり得ない。フラットなヨコ社会に隠れて、実は強烈なタテ社会が裏に埋め込まれているのかもしれない。最近は現場社員の声を重視すべきだという主張も見られるようになったが、そのためには現場に権限移譲をし、ピラミッドの組織図を逆三角形にする必要がある。欧米社会では、命令はあくまでも上から降りてくるものとされているからだ。

 一方、日本企業にはミドルアップダウンという言葉がある。ミドルマネジャーが部下に命令すると同時に、上司にも意見を述べる。この特異性を著者も認めている。A―Bという人間関係がある場合、BはリーダーAに「介入」し、Aを「自由自在に動かす」ことができると言う。これは、本ブログで山本七平の言葉を借りて「下剋上」と呼んだ現象である(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」を参照)。

 冒頭で述べた通り、ヨコ社会とは共通の資格を重視する社会である。そして、たいていの資格には一定の思想が反映されている。よって、同一の資格を貫く絶対的な思想が生まれやすい。例えば、個人には宗教が、資本家には資本主義が、労働者には社会主義が、女性にはフェミニズムが存在する。どの資格=思想も自らを絶対視するあまり、異なる資格=思想との間で激しい軋轢を生じる。これが、ヨコ社会の決定的な弱点となっている。ヨコ社会では個人が複数の資格を保有することができる、つまり複数の思想を持つことができるはずなのに、実際には特定の資格と紐づいた特定の思想に拘泥し、他の思想を排撃するという矛盾が生じる。

 他方、タテ社会は様々な資格を有する者を人間関係によってつなぐ社会である。だから、絶対的な思想が生まれようがない。どの組織も多様なタテ関係を包含した複雑なものになる。著者はこれを「相対的原理」と呼ぶ。確かに、著者が指摘するように、あるタテ関係は別のタテ関係と競合する。しかし、前述のように、私自身は競合関係よりも協調関係の方が多く見られるのではないかと考えている。だからこそ、組織内の相対性が担保される。年功序列という言葉には、どうしても硬直的なイメージがつきまとう。ところが、つぶさに見てみると、タテ方向は決して単線的な上方向の矢印だけとは限らないし、ヨコ方向にも緩やかな連帯があって多様性を生み出している。年功序列を軸とした組織は、意外と柔軟性に富んだ仕組みなのかもしれない。

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