プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年05月09日

リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』―西洋人と東洋人は確かに違うが、中国人と日本人も大きく違うと思う


木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
リチャード・E・ニスベット 村本 由紀子

ダイヤモンド社 2004-06-04

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 ブログ別館でエリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』という本を紹介したが、その中で参考文献の1冊として挙げられていたのがこの本である。端的にまとめると、西洋人は対象を自然や文脈から切り離して分析し、可能な限り単純化して把握するのに対し、東洋人は対象を自然や文脈から切り離さず、要素間の関係を重視する、というのが著者の主張である。西洋人は人間が自然をコントロールできると信じる一方、東洋人は人間は自然との共生を目指すという違いもある。

 本書では、西洋人と東洋人の考え方の違いに関する様々な研究が紹介されていた。その研究で出題された問題を実際に私もやってみると、ことごとく東洋人と同じ発想をすることが解って、思わず笑いが出そうだった(自分も典型的な東洋人であることに安堵した)。
 西洋人は、その知の歴史を通じて、常に、二者択一的なカテゴリーに傾倒してきた。二分法はいずれの時代にも氾濫しており、しばしば実りのない討論(ディベート)のもとになった。「精神か身体か」という論争はその一例である。
 本ブログでも何度か書いてきたが、西欧人は二項対立的な発想を特徴としている。特に、大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアではその傾向が顕著である。これらの国の共通点は、唯一絶対の神を信仰するキリスト教圏に属することだ。逆説的だが、彼らは「1」というものを、相反する「2」の対立によって把握する(山本七平『存亡の条件』などを参照)。つまり、ある意見が絶対的に正しいということはなく、ある意見に対しては、それとは正反対の意見も必ず存在する。2つの意見は激しく対立するものの、対立が激しければ激しいほど、1つの真理に近づくことができる。

存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 アメリカの二項対立が最も顕著に表れているのは、世界で最も理想的な二大政党制であろう。共和党と民主党は政策をめぐって激しく対立する。大統領選挙ともなれば、両党の候補者は相手のことを痛烈に攻撃する。今年も大統領選が近づくにつれて、日本人ではとても堪えないような誹謗中傷合戦が展開されるに違いない。ドイツについては、冒頭で触れたエリン・メイヤーが著書『異文化理解力』の中で、ドイツ人の議論の特徴について次のように述べている。
 ドイツにはSachlichheit(即物性)という言葉がある。英語で一番近いのは「objectivity(客観性)」だろう。Sachlichheitを持って、私たちは誰かの意見やアイデアをその人とは分けて考えるんだ。ドイツ人の議論はSachlichheitの実演なんだ。私が「まったく同意できません」と言うとき、私はエリンの見解について議論しているのであって、彼女を否定しているわけではない。子供のころから、私たちドイツ人はSachlichheitの実践法を学ぶんだ。
異文化理解力 ― 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養異文化理解力 ― 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養
エリン・メイヤー 田岡恵 樋口武志

英治出版 2015-08-22

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 また、同じくエリン・メイヤーが『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2016年5月号に寄稿した論文には、ロシア人の議論スタイルを紹介した箇所がある。
 私が教えるロシア出身の学生は次のように言う。「ロシアでは、大論争をする心づもりで交渉に臨みます。もし相手のロシア人が、あなたの発言にはどれもまったく賛成できない、と力を込めて言ったら、それは交渉の雲行きが怪しいということではなく、むしろ、活発な議論をしようと誘っているのです」
(エリン・メイヤー「言語以外のシグナルを理解し、状況に対応する 異文化交渉力:5つの原則」)
DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2016年5月号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2016年5月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2016-04-09

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 本書に話を戻そう。著者のリチャード・E・ニスベットは、上記のような二項対立的発想の原点を古代ギリシアに求める。古代ギリシアは、各地から様々な民族が流れ込む多様性に満ちた社会であった。このような社会で、人々の意見を集約しながら民主的な政治を実現するには、自分の考えをはっきりと述べ、相手の意見が自分と異なればきっぱりと批判するスタイルが不可欠となる。そのため、古代ギリシアでは弁論術が発達した(もっとも、詭弁家も多かったようだが)。

 ただし、古代ギリシャはアメリカ、ドイツ、ロシアと異なり、一神教ではない。誰もが好きな神を信じてよいという多神教の社会である。その中でどのように二項対立的な発想が生じたのか、本書からは手がかりが得られなかった。この点は今後の課題である。
 一神教の場合、誰もが同じ神を同じ様に信じるべきだという主張が生じやすい。この点に関してギリシア人は潔白だと言う人もいるだろう。それはおそらく事実である(何といっても、ギリシア人は多くの神を信じ、個々人がどの神を好むかということをあまり気にしていなかった)。
 西洋的な二項対立においては、一方の主張をテーゼ、テーゼと相反する主張をアンティテーゼと呼ぶ。そして、テーゼでもアンティテーゼでもない第3の道をジンテーゼと呼ぶ。ヘーゲルは、ジンテーゼに至る方法を弁証法としてまとめた。しかし、これは私が勝手に抱いている仮説レベルの話だが、実のところ西洋人はジンテーゼに至ることをそれほど望んでいないのではないかと考える。つまり、テーゼとアンティテーゼが対立していた方が、彼らにとっては好都合である。

 アメリカ人、ドイツ人、ロシア人にとって、二項対立とはスポーツのようなものである。スポーツにおいては、敵と味方が激しく激突する。どちらのチームも敵に勝つことが目的である。しかし、誰も敵を完全に消し去ろうとはしないし、ましてや敵と融合して1つになろうなどとは夢にも考えない。敵は憎たらしいが、敵がいなければスポーツとして成立しない。西欧人の二項対立はこれと同じである。つまり、どんなに激しく論争しても、相手を消滅させようとはしない。

 海外の心理学の研究で、「選択バイアス」に関するものがある。まず、死刑賛成派と反対派の2つのグループを用意し、討論を行わせた。その後、両グループは別々の部屋に分かれて、死刑を擁護する論文と、死刑を批判する論文を同じ量だけ読んだ。そして、両者は再度同じ部屋に戻り、再び討論を行った。その結果どうなったか?賛成派は賛成の根拠をより自信満々に、反対派は反対の根拠をより自信満々に主張したという。これが西欧流の二項対立である。

中庸 現代の大国としては、アメリカ、ドイツ、ロシアの他に中国を外すわけにはいかない。本書では、中国はアジアであるから、西洋人とは違う発想をすると述べられている。とりわけ「中庸」という概念に言及している箇所が多い。中庸とは、左の図で表されるように、陰と陽の双方が共存する状態を表す。さらに、陰の中に小さな陽が、陽の中に小さな陰があるのも特徴である。西欧の二者択一が「あれか、これか」を問うのに対し、中国の中庸では「あれも、これも」を認める。

 ただ、アメリカ、ドイツ、ロシアの二者択一は、対立こそ激しいものの互いに相手を必要とし、結果的に両者が併存する。その点では、実は中国の中庸とさほど変わらないのではないかという気もする。だから、現代の4大国=米独露中はいずれも二項対立的な発想をする。ただし、中国だけは、2項の対立が他の3国に比べると穏当である。社会主義の実現を目指す中国は、経済面だけは資本主義を取り入れた。それでも全体的として見れば未だに共産主義国であるものの、台湾や香港、マカオには一国二制度を適用するという二面性も見せている。

 私は、二項対立的な発想は、大国に特有のものだと考えている。日本のような辺境の小国は、二項対立のような強いエネルギーを抱えてしまうと瓦解してしまう。そこで身につけたのが「二項混合」という方法である。ある項に対して対立する項が出現すると、相手を引き込んで融合させ、対立のエネルギーを消滅させるのである。その代表例が、日本で長く続いた朝幕二元体制である。歴代の幕府は朝廷=天皇家を滅ぼそうとはしなかった。逆に、朝廷から権威を認められることで実質的な支配権を確立した。一方の朝廷も、権威を完全に明け渡すのではなく、文化的な面では影響力を発揮した。幕府と朝廷の間では人材の交流もあった。

 日本は元々神道の国である。そこに仏教という異教が入ってきた時、朝廷では激しい論争が起きた。だが、最終的には、神道は現世の利益を、仏教は来世の利益を扱うという役割分担で落ち着いた。しかし、話はそれで終わらず、時代が下ると神仏習合という考え方が生まれた。神は仏が人々を救うためにこの世に仮に姿を現したものとされ、神の物語である『古事記』を仏の視点から書き直す運動も起こった。現代の宗教はもっとちゃんぽん状態である。日本人は神社にも寺院にも行くし、クリスマスを祝ったり、結婚式を教会で挙げたりする。イスラームの影響力が強くなって、日本でラマダーンの断食が行われるようになっても不思議ではないだろう。

 日本の二項混合の例は色々と挙げることができる。政治の世界では、専制政治と多党政治(二大政党制も含む)のどちらでもない、自民党による派閥政治が長く続いた。見た目は一党独裁だが、派閥によって多様性が担保されていた。それが崩壊して日本が二大政党制のようになった時、つまり民主党が政権を握った時、日本の政治は戦後最悪レベルの危機を迎えた。

 国家と市場の関係も、欧米では対立項としてとらえられる。国家は市場の自由を制限し、市場は国家が徴収すべき富を散在させていると見ている。ところが、日本の場合は官民が一体となって経済成長を遂げた。いわゆる護送船団方式は、諸外国からは日本市場に対する外資参入を阻害していると色々批判されたが、日本にとっては大成功の政策であった。このような日本経済の運用方式は、資本主義と社会主義のハイブリッドであると言ってもよいだろう。

 企業に目を向けると、欧米では経営陣と労働組合が激しく対立する。経営陣はいかに労働者から搾取するか、労働組合はいかに経営陣から高い賃金を勝ち取るかが課題である。ところが、日本の場合は労使協調路線が基本であった。ストライキはほとんど発生しない。終身雇用、年功序列賃金、労働組合は、日本的経営の三種の神器として称賛された。日本の労使協調路線の本質は、社員が経営に参画し、責任を持つことである。このことに気づいたアメリカ企業は、最近になって参加型経営の重要性を説くようになった。それが日本にも流入しているが、日本人は「何を今さら言っているのか?」と感じることだろう。

 企業はガバナンスを高めるために、取締役と経営陣を対立構造に置く。取締役は、経営陣の働きぶりを厳しく監視する。より第三者的な立場から経営陣を評価できるように、アメリカでは取締役の大半が社外取締役とされている。ところが、日本の場合は、ようやく最近になって社外取締役の登用が増えたものの、依然として取締役は社員が出世して就くものとされている。取締役は、経営にも携わるし、自らの行動をも律する。そういう器用さが日本人にはある。

 アメリカは訴訟大国である。訴訟こそ、二項対立的な発想の典型だ。だが、アメリカの民事裁判の場合、実は最終的に判決に至る割合は低い。これは、途中で双方が和解に応じるためである。原告と被告は対立したままだが、お金を払うことで手打ちにする。原告は被告を叩きのめそうとはしない。そんなことをしたら、和解金を支払う人がいなくなる。一方、日本では裁判に入る前に、調停を勧められる。調停は、原告と被告が今後お互いにどのような関係を構築するのか、金銭以外の面も含めて前向きに協議する場である。この点で、アメリカの和解とは性質が異なる。

 日本の教育現場では、長らく日教組を中心として左寄りの教育が行われてきた。しかし、通常の革新派は教育を重視しない。知識を持つことは権力を持つことにつながる。権力こそ、左派が最も忌み嫌うものである。だから、諸外国の革新派は知識層を逮捕・追放し、教育システムを破壊してきた。例えば、ポル・ポト派は徹底的に教師を排除したため、カンボジアでは現在でも教育制度が十分ではない。大学生の数学の知識は小学校3年生レベルとも言われる。正規の医師も知識層と見なされて追放されたため、地方ではヤブ医師が暗躍している。

 一方、日本の左派は、詰め込み教育と批判されても熱心に子どもを教育した。これは実に不思議な現象である。私は、左派の教育の質に関しては批判的なのだが、教育の量、つまりこれだけ大量の知識を教えてもらったことには感謝しなければならないのかもしれない。その知識のおかげで、世の中のことを色々と考えられるようになったのだから。

 いきなりアニメの話をして恐縮だが、私はドラゴンボール世代である。ドラゴンボールでは、孫悟空の前に様々な強敵が現れる。しかし、フリーザやセルなど一部の敵を除いて、多くの敵は悟空と戦った後に、悟空の仲間になっている。天津飯、ピッコロ、ベジータ、魔人ブウ、破壊神ビルスなど、次々と仲間が増えていく。魔人ブウ編では、永遠のライバルである悟空とベジータが”合体”するシーンがある。ドラゴンボールは、日本的な二項混合の発想に立ったアニメである。こういうストーリー展開は、アメリカなどでは絶対に考えられないと思う。

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