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2016年05月17日
『テレビに未来はあるか(『世界』2016年5月号)』―北朝鮮に関して報道されない不都合な真実(推測)、他
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(前回の続き)
(4)
長谷部:少なくとも自衛隊の設立以降は、日本が直接攻撃を受けたときには必要な範囲内で最小限の武力を行使する個別的自衛権は行使できるとしています。「他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権」という説明は正確ではない。個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、「報復」つまり武力復仇は国際法上認められない(ブログ別館の記事「『論客58人に聞く 初の憲法改正へ、これが焦点だ/北の非道と恫喝は決して許さない/福島第一原発事故から5年(『正論』2016年4月号)』」を参照)。最近、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを何発か撃ち込んでいるが、仮にミサイル1発が日本本土を直撃したとしても、日本はその後に北朝鮮に向けてミサイルを発射することはできない。北朝鮮がミサイルを発射し続けている状況で、防衛のために武力を行使することが自衛権である。
ただ、憲法9条がある以上は、他国が武力を受けたときにまで報復の対象を広げる集団的自衛権は認められないとしています。集団的自衛権を行使するのであれば、憲法9条の改正を行うことがまずは必要である。これは、何度も政府によって説明されてきた解釈です。
(長谷部恭男、石川健治「立憲主義のエッセンス」)
北朝鮮の意図を正しく報じているメディアは少ないように思える。北朝鮮は、現存する5つの共産主義国(中国、北朝鮮、ラオス、ベトナム、キューバ。何と、5か国中4か国は東アジアに存在する!)のうち、未だに社会主義の実現を本気で信じている。まずは、資本主義国=韓国を倒して、朝鮮半島を統一する。本当は中国がその役割を担うべきだが、中国が変質=資本主義化したため、社会主義化を実行できるのは北朝鮮だけだと思い込んでいる。北朝鮮はアメリカを牽制し、アメリカの介入を防ぐために、アメリカ本土まで届く大陸間弾道ミサイルを開発している。
北朝鮮による拉致事件についても、メディアの情報は十分ではない。単なる拉致事件がこれほど長い間解決されないのはあまりにも不自然である。つまり、単なる拉致事件ではないのだ。単刀直入に言えば、拉致事件は北朝鮮による日本国家転覆戦略の一環である。北朝鮮は日本人を北朝鮮に連行し、社会主義の思想を徹底的に叩き込む。その後、日本に帰して、日本国内での革命活動に従事させる。これが北朝鮮のプランであった。北朝鮮が拉致被害者を頑なに日本へ帰さないのは、日本に帰すと北朝鮮の計画が全てばれてしまうためだ。
だから、北朝鮮としては、拉致被害者を何とかして死んだことにしたいわけだ。遺骨の偽造を本気で研究しているのもそのためである。この辺りが正確に報じられないのは、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)からメディアに対して圧力がかかっているためではないかと感じさせる。
(5)
つまり、戦場体験者のビデオを撮影する、映像に残すことが戦場体験の継承ではないし、書き残した資料を収集するだけでもなく、それを私たちが生きているその中でどのように生かしていくか、未来にどうつなげていくか、それが本当の意味での「受け継ぐ」ということではないかと思います。要するに、それは私たち一人ひとりがどのような未来を望むかによるのです。そのためには、まずは過去のリアルな戦場を知ることです。過去を知らずして、現在も未来も語れません。以前の記事「岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ」でも書いたが、戦争のような悲惨な体験は、その記憶を全て正確に伝えようとすると、かえって前に進めなくなると書いた。中国・韓国との間で抱えている歴史問題を見れば解るように、ある歴史的事実が本当に真実なのかどうかをめぐっては、どうしても泥沼の論争になる。歴史学者であれば、真実を突き止めるのが責務であろう。しかし、一般の人々は未来に向かって歩いていかなければならない。したがって、いつまでも争いを続けるわけにはいかない。日本は中国・韓国とどのような未来を生きるのかを議論する必要がある。
(遠藤美幸「戦場の体験をなぜ聞くのか」)
ただし、「『そのためには』、まずは過去のリアルな戦場を知る」べきだというのはやや引っかかる。繰り返しになるが、過去をリアルにとらえることにこだわりすぎると、未来の創造的なデザインが難しくなる。未来のデザインに「あたって」過去を参照することはあるかもしれないが、未来のデザインの「ために」過去を参照するのではない。未来のデザインは過去の把握に先行する。
以前の記事「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」で、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」という言葉を紹介した。歴史家がある事実に注目する時、完全なる客観性を持って事実を拾い上げているわけではない。歴史家は、内面に抱く思想という基準によって取捨選択を行っている。そして、その思想とは、歴史家個人の動機だけではなく、その時の社会的な文脈に大きく影響される。
社会的な文脈とは、その社会では何が望ましくて何が望ましくないのか?その社会をどのような方向に持って行きたいのか?という志向、価値判断である。その社会的な文脈というレンズを通して過去を見た時に、どのような物語が紡ぎ出されるのか、それが歴史である。だから、歴史とは書かれた人の物語ではなく、書いた人の物語なのである(したがって、時代や社会情勢が変われば、全く異なる歴史ができ上がるのは何ら不思議ではない)。
中国・韓国との関係に話を戻せば、中国・韓国と日本との関係では何を重視するのか?何を善とし何を悪とするのか?という社会的な文脈において、まずは合意形成をするべきである。しかる後に、その基準に照らし合わせて、これまでに論争を生んだ様々な歴史的事実を解釈すると、どのようなことが言えるのか?と問う。そうすれば、従来のような重箱の隅をつつくような細かい議論で袋小路に入り込まずに、もっと大局的かつ建設的な議論が可能となるように思える。
今年1月に天皇・皇后両陛下がフィリピンを訪問された際、「これでフィリピンでの戦闘が風化されずに済む」と現地の人が語ったという記事を読んだ。両陛下のご訪問は、風化への抵抗であったということだ。逆に言えば、レイテ島の戦いなどは風化しつつあり、それはすなわち、日本とフィリピンが戦後本当に十分な関係を構築できたのか?という問いを投げかけているように思う。
フィリピンは概して親日的であるとされる。しかし、日本とフィリピンが国際社会の諸問題、外交、経済、社会福祉、教育、環境、人権などの分野でどのような関係を構築すべきか、きちんと答えられる人は少ないに違いない(恥ずかしながら、私も答えられない)。こうした未来志向の欠如ゆえに、未来から過去を見つめ直す機会が失われ、過去が風化してしまうのだろう。