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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年05月29日

門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に


フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
門脇 俊介

NHK出版 2004-01-30

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 『哲学のエッセンスシリーズ』は、10年ほど前に中小企業診断士の勉強の合間に読んでいたものである。診断士の勉強の傍らで読んでいたため(言い訳)、ほとんど理解できなかった。本棚に眠っているのを見て、昨年あたりから久しぶりに読み返しているところである。このシリーズは大体100ページ程度の薄い本なのだが、どれも本当に難しい。今回のフッサールの本も、この記事を書くために2回読んだものの、とても十分に理解できたとは言えない。上記のクリプキとデイヴィドソンを先に読んでいなかったら、もっとチンプンカンプンだったかもしれない。

 (※)以下、私が理解したことを書いていきますが、哲学に関する私の知識など大したものではなく、大いに間違っているかもしれませんので、もしおかしな点に気づいたらコメント欄やメールなどで教えていただけると大変ありがたいです(他力本願)。

 クリプキについておさらい。クリプキは、「ブルー」と「グリーン」の合成語である「グルー」という言葉を用いて、あらゆる言葉に意味はないと論じた。だが、このままでは会話が成立しないから、ヒュームの「投影主義」を導入する。私が「AはBである」と言う時、AにもBにも確定した意味はない。つまり、「AはBである」は真とは言い切れない(事実に関する言明ではない)。しかし、「AはBである」と言うことで、「確かにこの世界においてAはBである」という私の”主観的”な「態度」を投影することができる。コミュニケーションとは、お互いに相手の態度を読み取ることである。

 デイヴィドソンは、我々が日本語、英語、フランス語・・・などと呼ぶ言語は存在しないと主張する(あくまで哲学の世界における話である)。デイヴィドソンは「T-文」という概念を導入する。T-文とは、「『・・・』が真であるのは、・・・の場合その場合に限る」という形式の文である。「『雨が降っている』が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る」といった具合だ。

 日本語で説明してもピンと来ないが、例えば私が未知の民族と遭遇し、彼らが「daGagR・・・」と言ったとしよう。最初の頃は、私には何のことか解らない。しかし、彼らと長く一緒にいると、彼らは雨が降るたびに「daGagR・・・」と言っていると気づく。そこで、「『daGagR・・・』が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る」というT-文が成立する。T-文は、文の真偽値を”客観的”に確定する仕掛けである。ただし、本当に「真である」と言い切るのは難しいため、現実的には「真とみなす」という緩和措置が取られる。これを「寛容の原理」と呼ぶ。

 我々人間は世界をどのように表象しているのか?という問いについては、哲学の世界で様々な議論が繰り広げられてきた。プラトンはイデアという概念を持ち出し、人間の理性にはイデアがあらかじめ備わっていて、現実の世界をイデアに照らし合わせて認識していると説いた。プラトンのような考え方は決して特殊ではなく、哲学の世界においてはむしろ長年の間主流であった。デカルトは次のように考えている。
 例えば私が目の前にあるペンを知覚しているとき、私はこのペンを直接に知覚しているのではなく、ペンについての現れつまりクオリアを知覚しているのだと、デカルトは考える。心の内面の劇場に出現する現れのうち、ペンのような外界の事物についての現れは、その現れが即事物の実在を保証しないから(錯覚や幻覚がありうる)、知識の本当の基礎としては脆弱である。
 クオリアとは「感覚質」と訳され、心の中で完結した心象を意味する。つまり、人間が外界を知覚する時、彼が見ているのは外界の客観的な事物ではなく、心の中の主観的なイメージなのである。デカルトは、懐疑主義の立場に立ち、知覚した事象の真偽は断定できないとした。ただし、今ここで私がこうして「考えているということ」だけは疑いようのない事実である。ここから、「我思う、ゆえに我あり」という、かの有名な言葉が生まれた。

 さらに言えば、私が考えているということは、本当に私に帰属するのかも疑わしい。私が考えているということが、他の人が考えているということとは違い、他ならぬ私が考えていることだとどうして言い切れるだろうか?他の人が考えているということが、私の意識を支配している可能性はないのだろうか?この懐疑が発生する限り、「我思う、ゆえに我あり」の「我」は、特定の人間を指すことができない。つまり、本当に確かなのは、「考えているということ」だけである。この考え方を突き詰めていくと、近代の全体主義につながる恐れがあることは、以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」でも書いた。

 近代哲学においては、表象は人間の心の中で結ばれる主観的なものとされた。私は、唯一絶対の神が自身に似せて完全な合理性を持つ人間を創造した、という西洋の宗教観が強く影響しているのではないかと考えている。人間は生まれながらにして世界を知り尽くした完全な存在なのだから、外界の動きと連動せずとも、表象は心の中で完結させることができる。近代哲学と宗教の関係については、今後もっと理解を深めていかなければならないと感じている。

 さて、フッサールの話に入る前に、フレーゲに触れなければならない。フレーゲは「文中心主義」の立場に立ち、文の意味を心の働きやイメージといった主観的要素から切り離した。
 「ソクラテスは美しい」という(おそらく偽の値を持つ)文の意味とは何か。フレーゲが退ける伝統的な答えは、そのような文を生みだす心のはたらきや、文に伴って生みだされるイメージが文の意味であって、それが表現されて他者に伝達されるというものである。(中略)

 しかし、そのような主観的なものに頼っていては、私たちは、世界についてきちんとした報告をしたり、お互い同士で同じ言葉の意味を理解し合うことはできないのではないか。むしろ私たちが言葉の意味を共通に理解し合えるのは、文が真あるいは偽という、世界の客観的な状況に応じて値を持つという事実があるからではないだろうか。「ソクラテスは美しい」という文の意味は、ソクラテスが美しいときにその文は真であり・そうでなければ偽であるという、きわめて単純な一事に尽きる。
 フレーゲによれば、文の「意味」とは真偽の値である。ここでフレーゲは、「意味」と「意義」を区別する。例えば、「宵の明星」と「明けの明星」は同じ金星を指すという点では、意味は同じである。しかし、我々が敢えて宵の明星と明けの明星を使い分ける場合には、何らかの意図が働いている。これをフレーゲは「意義」と呼んだ。ただし、あくまでも文中心主義を貫くフレーゲは、「意義」の作用や源泉について積極的に論じようとはせず、物でも主観的表象でもなく、「第3の領域」に属するなどと述べて態度を明らかにしなかった。

 フッサールもフレーゲに倣った整理をしている。言葉の用法がややこしいのだが、フレーゲが「意味」、「意義」と呼ぶものを、フッサールはそれぞれ「対象」、「意味」と呼んでいる。フレーゲとフッサールの最大の違いは、意味(フレーゲの意義)に対してフッサールが積極的な評価を行ったことである。フッサールは、対象が存在せず、意味単独でも意味が成立するとさえ主張した。ここで言う意味とは、「・・・であれかし」と望むことであり、「信念の志向性」と呼ばれる。フレーゲ(や他の哲学者)とフッサールのもう1つの大きな違いは、他の哲学者が知覚というあやふやな概念を扱うことを嫌ったのに対し、フッサールは知覚にも志向性を認めたことである。

 フッサールによれば、例えば私がペンを見た時、まずは知覚の志向性が働く。ペンの一部を見て、おそらくこれはペンであろうという認識を持つ(この段階ではまだ文にはなっていない)。部分的な経験から事物全体へと向かうことを可能にするものを、フッサールは「質料」と呼ぶ。次に、「これはペンである(これはペンであれかし)」という信念の志向性が現れる。そして最後に、「これはペンである」という文が発せられるのである。知覚の志向性が言語表現の志向性に透明に転写されるのかをめぐっては議論があるようだが、私の力量を超えるので今回は省略する。

 このように書くと、至極当たり前のことをフッサールは言っているようにも思える。ところが、繰り返しになるが、伝統的な哲学は全く異なる発想に立っていた。従来の哲学においては、外界から人間の心に向かって矢印が伸びており、人間が心の中で主観的な像を結んでいた。ただ実際には、表象は心の中で完結させることができるため、矢印は弱い点線で描くのが適切だろう。これに対して、フッサールの哲学では、人間の心から外界に向かって志向性という矢印が強く伸びて、対象をつかまえようとしているような印象を受けた。

 と、以上のように私は理解してきたのだが、本書の最後の最後で著者は次のように述べており、世界と心の関係がそんなに単純ではないことを思い知らされてしまった。
 私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある。
 単に内から外へと伸びる関係ではなく、信念が世界へとコミットするとはどういうことであろうか?信念と世界とを矢印で結ぶような時間の流れではなく、信念が外部の世界の下にあるという同時性は何を意味しているのだろうか?この辺りを探究するのが今後の私の課題である。

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