プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>@tomohikoyato谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士

Next:
next 【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える
Prev:
prev 小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?
2016年06月20日

和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない


日本倫理思想史(一) (岩波文庫)日本倫理思想史(一) (岩波文庫)
和辻 哲郎

岩波書店 2011-04-16

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 キリスト教圏(とくにアメリカ)では、唯一絶対の神と個の人間が直線的に結ばれるのが理想である。他方、日本の場合は神と個人の間に様々な階層が介在し、全体として社会を安定させていると本ブログでは何度か書いてきた。非常に大雑把な整理であるが、日本においては「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という階層構造が成り立つ(昔の参考記事の中には、矢印が右向きではなく左向きになっているものもあるが、上の階層から下の階層への命令・情報の流れを考慮すると、右向きの矢印が正しい)。

 《参考記事》
 加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?
 渋沢栄一、竹内均『渋沢栄一「論語」の読み方』―階層を増やそうとする日本、減らそうとするアメリカ
 竹内洋『社会学の名著30』―「内部指向型」のアメリカ、「他人指向型」の日本、他
 『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他
 『コーポレートガバナンス(DHBR2016年3月号)』―長期志向であるためには短期志向でなければならない、他

 まず、神は天皇に対し、理想の国家を運営するよう命じる。天皇はその命を受けて、理想の国家にふさわしい理想の国民像を明らかにし、その実現を動機づけるルールを策定するよう立法府に命じる。立法府はその命を受けて法律を策定し、行政府に対して法律の運用を命ずる。行政府は市場/社会の成員に対し、策定された法律の枠内で、理想的な国民として振る舞うように命ずる。市場/社会の成員は、理想的な国民として生きる上で必要な製品・サービスを企業/NPOに要求する。企業/NPOは、その製品・サービスを提供する際に必要不可欠な人材を育成するよう、学校に命ずる。学校は、教育が滞りなく行われるよう、家族に対し子どもを健全な状態で学校に送り込むことを要請する。家族は、個人に自らの健康を維持するよう要求する。

 これは大まかな整理であって、実態はもっと複雑である。例えば、市場/社会は、その中で人々が倫理的・道徳的な国民として行動するよう、学校に対して適切な教育を要求する。企業/NPOは、その業務を円滑に遂行するために、家族に対して健康な社員や会員を企業/NPOに送り込むように要求する。こう書くと、憲法の国民主権とは全く違うとか、市場は自由主義であって行政の求めに応じて顧客が動くわけではないとか、学校は企業に仕える僕ではないといった様々な異論が出るだろう。しかし、日本の歴史を振り返ると、「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という構造の方が私は腑に落ちる。

 さて、ここから本書の内容に入るわけだが、和辻哲郎によれば、神と天皇の世界もまたいくつかの階層に分かれているのだという。
 以上によってわれわれは、神の意義のうちに3つの層を分かつことができる。一、天皇は天つ神の御子として神聖な権威を担っている神である。二、この神聖な権威の背後には皇祖神、天つ神としての神がある。それは天皇の尊貴性の根源である。三、雨の神、風の神のような自然を支配する神がある。
 天皇は天つ神の命令に従う。だから、天皇は自ら神として祀られると同時に、神を祀る存在でもある。しかし、天皇が祀るこの天つ神には1つ面白い特徴がある。それは、その正体が最初から明らかなのではなく、命令する段階になって初めて名前が判明するということである。
 この物語において注目すべきことは、神の命令によってかかる大事が決せられるのであるにかかわらず、その神が必ずしも皇祖神のみでなく、ここで初めて名の顕われるような神々だということである。しかもそれが何神の命であるかといいうことは、きくまではわからない。従って最初神の命令の発せられる時には、不定の神々の命令として人間に与えられる。
 端的に言ってしまえば、天皇はぼんやりと神の命令を聞いていることになる。「誰に言われたのかよく解らないが、何となく上からやれと言われたからやっている」という状態は、読者の皆様も勤め先などで経験したことがあると思う。この日本特有の命令系統の曖昧さの原点を、ここに見出すことができるような気がする。さて、前述のように神が3階層に分かれるだけでなく、天つ神の中もまた階層化している。すなわち、天つ神の間にも上下関係がある。では、最上位に立つ天つ神はどのように振る舞うのであろうか?和辻は次のように指摘する。
 イザナギ・イザナミの二神は、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所に帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた。その時天つ神たちは、いかなる仕方で命令を与えたか。驚くべきことに彼らは、「フトマニにうらないて」指令を与えたのである。

 占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はいない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。すなわち、最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。
 最上位の天つ神さえ、何者かよく解らないものの命令を聞いているのである。これを拡張すれば、その何者かよく解らないものもまた、おそらくさらに上位に位置するもっと何者かよく解らないものの命令を聞いているに違いない。つまり、日本の階層構造を上方へずっとたどって行っても、頂点は一向に見えない。一神教の世界であれば、頂点に立つのは神である。人間など自然界のあらゆる事物は、何者かを原因としそこから生まれる。その原因をずっとたどって行くと、最後は神に行き着く。その神だけは唯一、自分自身を原因として、無から有を創造することができる。だから、神は絶対無である。これが、西欧における神学の常識である。

 しかし、日本の場合、神は決して絶対無ではない。「あるのかないのか解らない」のである。この違いは非常に大きい。この「あるのかないのか解らない」という存在に、どのような名前をつければよいのか、今の私にはいい案が思い浮かばない。
 究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。言い換えれば、神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、すなわち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかったということを意味する。(中略)

 絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することにほかならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母胎としてあくまでも無限定にとどめたところに、原始人の率直な、私のない、天皇の大きさがある。
 起点が不定である、神聖な無であるということは、そこからありとあらゆるものが生じる可能性を秘めていることでもある。すなわち、日本という国は国の成り立ちからして、多様性を受け入れる器を持っていたと言える。もちろん、ミクロレベルで見れば宗教的な対立もあったものの、歴史全体を通して見ると、日本は総じて他の宗教に対して寛容であった。しばしば、日本は「単一民族のモノカルチャーの国」と言われるが、私はこの説には与しない(そもそも、日本は単一民族の国ではないし、単一民族として多くの人々が想像する日本人は、DNAを解析すると様々な人種が組み合わさった雑種であることが解っている)。

 多様性を受け入れるためには、異質な他者と共存を図らなければならない。異質な他者と出会うたびに戦闘を繰り返しているようでは、さすがに我が身が持たないであろう。和辻は、古代の日本における戦争について、ある特徴を見出している。
 しかるに記紀の物語る征服戦争は、多くの場合、敵の服従によって終わるものである。しかも、服従した敵は奴隷とせられるのではない。これをバビロニアやアッシリアのあの残虐をきわめた戦争と比較すれば、いうまでもないことであるが、ギリシアの古伝説に見られる殲滅戦争と比較してさえも、その特徴はきわめて明白であろう。従ってここには深刻な敵対感情や残虐な復讐は語られていない。
 出雲の国譲りが極めて平和的になされたことは有名である。当時の大和朝廷と出雲国の関係は、西洋であれば戦闘が起きても全く不思議ではない状態であった。ところが、出雲国からは武器が出土しておらず、記紀にも戦闘に関する記述はない。当時最強であった出雲国の併合でさえ”話し合い”によって行われたわけであるから、それよりも小国に対しては武力を用いる必要など全くなかった。日本という国は、各国の協議によって何となくでき上がったという、極めて不思議な国である(以前の記事「 竹田恒泰『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』―よくも悪くも「何となく、何とかしてしまう」のが日本人」を参照)。

製品・サービスの4分類(修正)

 またこの図を使うことをご容赦いただきたい(図の説明は、以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」などを参照。繰り返しになるが、この図は未完成である)。

 アメリカ企業は左上の象限に強い。一方、日本企業が強いのは右下の象限であり、また左下の象限にも多くの企業が属する。左上の象限では、イノベーターが競合他社を徹底的に攻撃し、世界市場の制圧を目指す。これに対して、左下の象限では様々な業態の企業が手を組み、相乗効果で魅力を上げるという戦略がしばしば採用される。百貨店や商店街などはその典型である。最近は、ユニクロがビックカメラやニトリとコラボした店舗を出すなど、異業種の大企業同士の連携も見られる。また、例えばラーメン街のように、敢えて競合他社同士が密集するケースもある。各店舗が腕を競い合えば、結果的に顧客への価値が高まり、集客効果も期待できる。

 日本企業が強い右下の象限では、競合他社はライバルであると同時に、共同開発の重要なパートナーであることが多い。自動車業界はそれが顕著であり、各メーカーの関係を図示することが難しいぐらい、関係が複雑である。中小製造業は、それぞれ違う親会社向けに仕事をしていながら、稼働率を平準化するためにお互いに仕事を融通し合ったり、技術不足で悩んでいる他社に社員を派遣して仕事を手伝ったりすることがある。まだ十分に調べ切れていないが、右下の他の業界でも、競合他社同士の連携が見られるのではないかという仮説を持っている。

 以上のように、日本では異質(それが自分と競合する相手であっても)に対して寛容である。その起源は、和辻が指摘するように、記紀に求められるのかもしれない。もちろん、日本でも戦国時代はあったし、村八分のような排他的な行動があることは承知している。この点も含めて、全体としてどのように整合の取れた説明をするべきなのかは、私にとって今後の課題である。

 何となく上の階層からの命令に従い、異質の他者とも何となく共存している間は、日本は安泰である。ところが、階層構造に頂点を見出し、それを絶対視するようになると、日本は危ない。別の言い方をすれば、天皇を絶対視するようになると、赤に近い黄色信号が点る。そもそも日本という社会は、「私」を排除し「公」を尊重する社会であったと和辻は分析している。
 従って中央政府の官僚組織が不備である間は、かかる地位にある大臣大連の「私」が行なわれやすい。しかし臣連たちはこの種の政治上の「私」に対して非常に敏感であった。そこでこの弊を取り除くために、この種の「私」の根源である私有地私有民の廃止が要望されざるを得なかったのである。
 古代から長い時間を経て、徐々に「私」の領域が確保されてきたわけであるが、太平洋戦争の際には「公」が「私」を食いつぶしてしまった。いや、正確に言えば、「私」は「公」と等しいものとして「公」に包摂された。天皇を絶対視し、「公」=「私」となると、天皇=「公」=「私」という図式が成り立つ。すなわち、日本国民は皆等しく絶対的な存在となる。これはまさしく全体主義に他ならない。その結果が天皇万歳、一億総玉砕であった。

 その反省から、戦後は「私」が重視された。特に教育現場ではそれが顕著であったが、最近は行き過ぎた個人主義の弊害が指摘されている。欧米のような二項対立論ではなく、二項”混合”論を主張する私は、「私」の領域にもう一度「公」を取り入れる必要があると考えている。具体的には、家庭では道徳や倫理をしっかりと教育する、企業は経済的なニーズだけでなく社会的なニーズにも応えていく(今後日本で急増する高齢者が不自由なく生活するための製品・サービスを開発する、必需品が足りていない新興国で事業展開するなど)、といった具合である。

 公私混同という言葉には悪いイメージがあるが、批判されるのは「公」に「私」を持ち込むことである。逆に、「私」に「公」を持ち込む公私混同は、今後もっと推奨されるべきではなかろうか?

  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like