プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年06月22日

【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える


ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 ドラッカーは、アメリカが第2次世界大戦に参戦する直前に本書を書き始め、戦中の1942年に刊行した。本書の発表時、ドラッカーは33歳であった。10年ぶりぐらいに読み返したら、密度の濃さに圧倒された(10年前に初めて読んだ時は、その密度に気づくことすらできないほど、私はあまりにも無知だった)。私は34歳になってようやく右派と左派の違いが少しずつ解ってきたと喜んでいたのに(以前の記事「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」を参照)、ドラッカーははるかに上を行っていた。浮足立っていた自分が非常に恥ずかしくなった。

 本書の根幹を貫くドラッカーの思想は、次の部分に表れている。
 社会というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもちえなければ機能しない。前者、すなわち個人に対する位置と役割の付与は、社会の基本的枠組みを規定し、社会の目的と意味を規定する。後者、すなわち権力の正統性は、その枠組みのなかの空間を規定し、社会を制度化し、諸々の機関を生みだす。
 よく機能する社会とは、正統性を持つ権力が、1人1人の人間に対して位置と役割を付与する社会である。このように書くと、社会という存在は外在的であり、個人は社会から受動的に位置と役割を与えられるかのように感じられる。しかし、ドラッカーは次のようにも述べている。
 それら人間の本質についての理念が、社会としての目的を定める。そして、それら人間の存在の目的についての理念が、その目的を追求すべき領域を定める。これら人間の本質と存在の目的についての理念、すなわち人間観が、社会の性格を定め、個人と社会の基本的な関係を定める。
 つまり、人間の本質=人間観をどのように設定するかによって、社会の目的が規定される。そして、社会がその目的を達成するために、それぞれの個人に対して位置と役割を設定する。このように、社会と個人は、お互いに相手を規定する関係にある。

 19世紀末までの西欧社会は「商業社会」であった。商業社会においては、個人は「市場」に組み込まれることで位置と役割を与えられた。この点で、市場は経済的な仕組みでありながら、社会的機関でもあった。人々に位置と役割を与える権力の源泉は財産権である。大きな財産を持つ者ほど、市場で重要な役割を果たし、同時に重い責任を背負う必要があった。政治は、レッセ・フェールという考え方に従い、市場から距離を取っていた。また、当時の金本位制が、産業より市場が優位に立つことを可能とし、さらに政府が産業に介入することを防いでいた。こうした社会を支えていた人間観は、「経済人」、つまり経済的動機に基づいて行動する人間であった。

 ところが、19世紀も終わりに近づくと、商業社会の終焉を告げる出来事が次々と起きた。ドラッカーはまず、自由貿易理論が破綻したと指摘する。当時の貿易は、いわゆる比較優位理論に基づく国際分業であった。つまり、各国の貿易財は相互に補完関係にあった。しかし、各国の経済レベルが上がるにつれて、同じ財を製造できる国が増加した。これによって、各国の関係は補完的なものから競争的なものへと変質した。もう1つが独占の破綻である。独占は、生産量を制限し、価格を釣り上げることで利益を拡大する。だが、19世紀末頃から、大量生産で価格を下げることにより利益を拡大する企業が現れた。これは商業社会では考えられないことであった。

 だが、最も影響が大きかったのは、「株式会社」が社会の中心となったことである。もちろん、株式会社自体は以前からあった。しかし、19世紀末~20世紀初頭にかけての株式会社は、まず市民(株主)が財産権を株式会社に委託し、次に株式会社が多くの社員を抱えて彼らに位置と役割を与えるものであった。この図式は、人々が自然権を社会に付託し、国家を形成するという社会契約説に似ている。そのため、ドラッカーは株式会社を経済分野における社会契約説の実現であるとも述べている。株式会社を中心とする社会を、ドラッカーは「産業社会」と呼んだ。

 ここで、株主は社員に対して位置と役割を与える権力を放棄している。今や、その権力は株式会社の経営陣が保有している。このことは、1つ重要な問題を生じさせる。それはつまり、株主の権力は財産権に裏づけられていたが、経営陣の権力は何によって正統化されるのかという問題である。本書では必ずしも明確な答えが提示されているわけではない。経営陣の権力に関する問題は、後の著書『企業とは何か』(原書の刊行は1946年)に持ち越されている。

ドラッカー名著集11 企業とは何かドラッカー名著集11 企業とは何か
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-03-14

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 企業の経営陣は様々な手を打って、自らの権力の正統性を証明しようとした。初期には大量生産方式というイノベーションを編み出し、生産効率を劇的に飛躍させた。ところが、皮肉にも大量生産方式は大量の失業を生み出すこととなり、人々に位置と役割を与えるという社会の方向性とは正反対の結果になってしまった。その後、社会保障を充実させたり、労働組合運動を拡大させたりしたものの、目立った成果は上がらなかった。農地改革運動のような反動的な運動も起きたが、今さら商業社会以前の世界に戻れという主張は空虚にしか響かなかった。

 この「権力の空白」に着目したのが、ナチス・ドイツであった。ナチスが理想とする人間像は「英雄人」である。英雄人は、侵略と戦争を主たる目的とする。侵略と戦争を最も効率的に遂行するために、企業をはじめ社会のあらゆる権力を全て中央政府の手に集中させた。ナチスは企業を国有化し、国民の私有財産を禁止し、産業を物的にコントロールした。

 以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」などでも書いたが、ナチスは理性万能主義に基づいている。しかも、アーリア人の理性のみが万能であり、自由であると信じる。だから、アーリア人以外の非理性的で不自由な人間は、侵略と戦争によって排除しなければならない。しかし、この極端な思想の中に本当の意味での自由など存在しない。ドラッカーは、この大戦がナチスから真の自由を取り戻すための戦いであると位置づけて本書を書いたのである。

 産業社会において、企業の経営陣が正統性に裏づけられた権力を持たないことが問題であるとドラッカーは指摘したが、ドラッカーはもう1つ深刻な課題を挙げている。それは、産業社会の目的が見当たらないということである。先ほど、人間観が社会の目的を規定し、社会の目的が個々の人間の位置と役割を与えると書いた。産業社会の目的がないということは、社会全体が機能不全に陥る危険性がある。しかし、ここでドラッカーは、産業社会の明確な目的を掲げる代わりに、アメリカ政治を成立させた保守主義の作法を適用することを勧めている。具体的には、

 ①過去を否定するばかりでなく、未来志向で考えること。
 ②青写真や万能薬を信じない。
 ③実証主義に立つこと。今手に入るものを上手に活用すること。

ということである。これを私なりに柔らかく解釈すれば、大それた理想やビジョンを掲げるのではなく、1人1人が各々の持ち場で頑張れということだと思う。まずは身の丈に応じた働きをすることが第一である。しかし、時には自分の能力を少しストレッチした範囲で改善を試みる。ドラッカーは、こうした漸進主義を企業で働く人々に推奨したかったのではないかと考える。

 最後にもう1点だけ。ドラッカーは、仮に第2次世界大戦でヒトラーに勝ったとしても、次なる危険が顕在化する恐れがあると警告している。
 今日最大の危険は、ヒトラーの全体主義との戦争に勝った挙句、平和で安定した新しい種類の全体主義を手に入れてしまうことである。世界的規模の超国家の建設など、恒久平和をすべてに優先させる戦後秩序の模索ほど、自由の放棄と全体主義の容認に近いものはない。しかもその全体主義は、ヒトラーの全体主義よりも物的、精神的に、はるかに抵抗しがたいものとなるはずである。
 全体主義とは、簡単に言えば、理性万能主義に基づき、全ての人間を等質に扱うことである。1は1でありながら、絶対的で無限な全体であると見なすことである。しかし、実際には人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。以前の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」でも書いたが、1つが特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれるものだ。

 もう1つは、差異をなかったものとして扱うことである。最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。社会全体を見回してみても、非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張が増えている。これらは、個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えという主張であり、極左と呼ばれる。

 先ほどの引用文で示したドラッカーの危惧は、この極左から生まれる。極左は理論的には非常に美しいので、人々を魅了しやすい。ドラッカーが「ヒトラーの全体主義よりも物的、精神的に、はるかに抵抗しがたい」と述べている通りである。ところが、実際のところ、極左は極右と同根異種であると認めざるを得ない。極左に真の自由はないのである。

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