プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年06月23日

【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる


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神・人間の完全性・不完全性

 (※)以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照。

 何度もこの図を用いてくどいようだが、私の頭の整理のためにもう一度記述する(お付き合いください)。唯一絶対神を信じ、人間の理性が合理的だと考える人々は、右上の象限に該当する。この象限においては、神と人間が直線的に結ばれることが理想とされる。もっと言えば、人間は神に似せて創造されたものであるから、神と人間が完全かつ無限なる全体として一体になることが理想である。そのため、神と人間の間に何かしらの組織や機関が介在することを嫌う。組織や機関が介入するたびに、その正統性が厳しく問われる。信仰の場である教会ですら、糾弾のターゲットとなりうることは、宗教革命の歴史が示す通りである。

 アメリカでは、大きな政府が嫌われる。政府は必要悪として、最小限の規模にとどめるべきだとされる。20世紀になって社会の中心となった企業についても正統性が問われることは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える」でも書いた。アメリカでは、ギャラップという世論調査会社が、大企業や政府に対して国民がどの程度信頼しているかを毎年尋ねている。裏を返せば、アメリカ人は潜在的に大企業や政府に不信感を抱いているということだ。こういう類の調査は日本にはないと思う。

 共産主義では国家が必要悪とされる。社会主義は、世界中の労働者階級が連帯して資本家階級の打倒を目指す。つまり、そこに国家は存在しない。社会主義に至る過程にあるのが共産主義であり、各国で社会主義者を育成し、プロレタリアートを動員するために、”仕方なく”国家の仕組みを活用するにすぎない。社会主義者が目下の目的を達成すれば、国家は不要となる。

 社会主義においては、共同体の最小単位とされる家族でさえ不要とされる。レーニンは、子どもが生まれたら国家が面倒を見ればよいと言った。日本の左派の中にも、家族が個人の自由を束縛するとして、家族の解体を主張する人がいる。例えば社民党の福島瑞穂氏は、子どもが成人に達したら「家族解散式」を行うと宣言していた。人間理性を絶対視する立場の人にとって、人間は生まれながらにして完全である。赤ん坊には、その子が将来どのような人間に成長するかが完璧にプログラミングされている。だから、親がしつけをする必要も、学校が知識を教育する必要もない。左派にとって、教育は脅威である。だから、左派は知識層を徹底的に攻撃する。

 繰り返しになるが、右上の象限においては、人間は生まれながらにして完全である。ということは、人間が時間の流れに伴って成長するという発想がない。つまり、過去から未来に向かって時間が流れるとは考えない。生まれた時点という現在のその1点が全てであり、時間を無限に支配している。左派は進歩派とも呼ばれるが、実際には進歩などしない。だから、右派が新しい技術を開発するたびに、神の道を踏み外していると批判し、技術の危険性を誇張して、進歩を逆戻りさせようとする。極左ともなれば、人間の最も根源的な営みである農業への回帰を強く説く。このような原始共産主義の考え方は、古代ギリシアにも見られる。

 農業は共有財産に基づく営みである。右上の象限においては、人間は神と同じく絶対で無限である。言い換えれば、個人は1人であると同時に全体でもある。よって、私有財産という概念はなじまない。財産は共有でしかありえない。1が1であると同時に全体でもあることは、政治の世界にも表れる。全員が等しく同じ考えを表明できるという点では民主主義的である。しかし、別の見方をすれば、ある1人の意見が全体の意見に等しくなるのだから、専制的であるとも言える。カール・シュミットが指摘したように、民主主義と独裁は両立するのである。


 《2016年6月26日追記》
 東京大学大学院総合文化研究科の市野川容孝教授が著書『社会』の中で、シュミットの考えを次のように整頓している。孫引きが多くなるがご容赦いただきたい。
 シュミットは、議会主義、民主主義、そして独裁の関係を、次のように整理した。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」(稲葉素之訳、みすず書房、1972年、44頁)。

 境界は、一方の議会主義と、他方の民主主義及び独裁の間に引かれているが、両者を分かつものは何なのか。シュミットによれば、議会主義を構成するのは「討論」であり、「自由主義」であり、つまりは多元性と異質性の原理である。これに対して、「民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に―必要な場合には―異質なものの排除ないし絶滅ということである」(同前、14頁)。この同質性の原理によって、民主主義と独裁は繋ぎとめられるのであり、民主主義の源である「人民の喝采」、すなわち「反論の余地を許さない自明のもの」が、その強度を増していけば、それは独裁へと連続的に移行する(同前、25頁)。
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 右上の象限では、神の下での自由と平等が説かれる。それぞれの人間の完全なる自由はむき出しで、他者に無制限に向かっていく。我々の通常の感覚であれば、他人の自由を侵害する自由は認められない。しかし、今ここで問題になっているのは、完全なる人間が持つ完全なる自由である。だから、その自由を制限することなどあり得ない。自由に制限がないということは、自由を束縛する法律の存在を許さないということである。共産主義者は国家に対してアナーキズムを持ち出すと同時に、法律に対しても法ニヒリズムを主張する。

 左派はしばしば連帯の重要性を説く。しかし、お互いがむき出しの自由をぶつけ合う世界で連帯が成立するのか、私にははなはだ疑問である。むしろ、全員の自由を全て矛盾なく成立させるためには、個々人が孤立するしかないのではないかと考える。このように考えてみると、左派の進歩や連帯というスローガンはいかにも空虚なものに聞こえる。

 右上の象限の人々が求める平等とは、理性万能主義に基づき、全ての人間を等質に扱うことである。しかし、現実には人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。1つは、特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれる。ISはクルアーン(コーラン)を絶対視しており、その時点で時間の流れが止まっている。つまり、彼らには歴史という概念がない。だから、中東の各地において、歴史的遺産を平気で破壊することができる。

 もう1つは、差異をなかったものとして扱うことである。最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。社会全体を見回してみても、非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張が増えている。これらは、個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えという主張であり、極左と呼ばれる。極左の人々は、よもや自分たちが極右と同じ仲間だとは思わないだろうが、私の理解では、両者は同根異種である。

 前置きが随分と長くなったが、ドラッカーはもっと端的に右上の象限を批判している。
 人間を完全無欠なものとして認め、あるいは人間は完全無欠になるための方法を知りうると認めるならば、必然的に専制と全体主義がもたらされる。全人類の中で一人の人間だけが完全無欠であり、あるいは完全無欠に近いことを認めるならば、自由は不可能となる。なぜならば、ある特定の人間の完全性を認めることは、他の者による選択の権利と義務を否定することになるからである。
 ドラッカーは、絶対真理を認めつつも、人間がそれに絶対に到達しえない不完全な存在である、つまり、冒頭の図の右下の象限にあるからこそ、真の自由を獲得できると主張する。
 自由が成立するためには、人の手には届きえぬ絶対真理、絶対合理が存在するものとしなければならない。さもなければ、責任は存在しえない。責任が存在しなければ、物質的な利害による以外、いかなる理念も存在しえないことになる。(中略)自由とは、人間自らの弱みに由来する強みである。自由とは、真理の存在を前提とした懐疑である。(中略)自由に意味があるのは、いかなる人間といえども、完全な善でも悪でもありえないからである。そして、善を追求することが万人に課された責務であるからこそ、自由の必要性が生じるのである。
 冒頭で紹介した記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」で、アメリカが右上の象限から右下の象限に移行するにあたって、いくつかの仕掛けを採用したと書いた。その1つが、「二項対立」の導入である。一般的に、アメリカの独立はフランス革命に刺激されたと説明される。しかし、ドラッカーは、フランス革命を支えた啓蒙主義こそ後のヒトラーを生み出した元凶であり、アメリカの独立運動はそれとは全く別であると言い切る。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
 ドラッカーによれば、アメリカの独立運動に影響を与えたのは、イギリスの名誉革命であるという。つまり、アメリカは、イギリスの非絶対主義の理念に立つ立憲政治のシステムを導入した。そのイギリス政治を、ドラッカーは次のように説明している。
 19世紀のイギリスの政治制度の中核は、議会主権の制限、および多数派政府の制限にあった。さらには、多数派の同意による少数派支配の制限にあった。これを可能としたものが、野党を政治に組み込む二大政党制であり、内閣であり、官僚機構だった。
 官僚機構の上層部にいる者は、当然のこととして、野党のための政策案を準備することが期待された。その結果、イギリスでは、1つの問題について、同一の基本理念に立つ2つの政策案が、つねに自動的に準備されることになった。
 ただし、せっかく苦労して右上の象限から右下の象限へ移動しても、再び逆に右下の象限から右上の象限へと戻ってしまう可能性をドラッカーは示唆している。
 あらゆる保守主義が反動主義に陥る危険をはらんでいるように、あらゆるリベラリズムが全体主義に向かう要素をはらんでいる。ヨーロッパ大陸について見るかぎり、リベラリズムにたつ運動と政党は、すべて信条として例外なく全体主義の要素をもっている。アメリカのリベラリズムにおいても、全体主義の要素は、ヨーロッパの影響、とくに清教徒の伝統として存在している。
 実際、アメリカではカリスマに権力の源泉を持つ強力なリーダーが、明確なビジョンや理念を掲げることを期待されている。そのビジョンや理念は、唯一絶対の神との間で交わされる絶対的な”契約”である(以前の記事「森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他」を参照)。だから、契約は完全なものでなければならないし、絶対に完遂しなければならない(ブログ別館の記事「『視座を高める(『致知』2016年5月号)』」を参照)。アメリカ大統領に至っては、就任式で聖書に手を当てて「アメリカに神の祝福を」と述べ、在任期間中に使命を全うすることを誓う。

 アメリカ政治に導入された二項対立は、企業の世界に置き換えれば競合他社=敵との激しい競争を意味するだろう。ここで、二大政党制は絶対に野党を駆逐しないことを忘れてはならない(駆逐すれば一党独裁の全体主義になってしまう)。与党は、自らが自由であるために野党を必要とする。同様に、企業も自社の組織能力を自由に発揮するために、競合他社を必要としている。アメリカは比較広告に対する規制が緩く、広告で競合他社の製品を攻撃する。しかし、これは裏を返せば、競合他社の存在を借りて自社のポジショニングを規定することに他ならない。

 ところが、近年はデファクト・スタンダードが増えているように感じる。デファクト・スタンダードとは、競争の中から生まれた世界標準を絶対とし、競合他社を強制的に締め出して、1社独占、つまりその企業のみが正統性を有するという状態を作り出すものである。

 アメリカは、表向きは国家が市場に介入しないことを自国の自由主義の特徴としている。しかし、裏では国家と企業が一体となり、政治力をバックに特定の企業の製品・サービスを世界中にばらまくことがある。軍需産業には軍産複合体という言葉があるし、医療業界については、以前の記事「崎谷博征『医療ビジネスの闇―”病気産生”による経済支配の実態』―製薬業界を支配する「国家―企業複合体」」で書いた。そして、これらの業界の裏で糸を引いているのが金融業界である。こういう事実を見ると、アメリカが右上の象限に戻るのではないかと不安になる。


 《2016年6月25日追記》
 中村達也、伊東光晴「J・K・ガルブレイス没後10年 歴史に残る社会科学者の条件」(『世界』2016年7月号)で、『権力の解剖』について触れられていた。アメリカ企業は本来は二項対立的構造に収まるはずなのだが、近年はそれが崩れていると指摘している。
 中村:ガルブレイスは独占的大企業が力をもつとき、それに対抗する力が反対側に生まれ、競争とともに問題を解決していくことになると言っていますね。その考え方を一般化したのが『権力の解剖』です。ところが、この本の短い注で、対抗権力によって均衡状態がもたらされると考えたのは、少々楽観的であった、そう自らの見通しの誤りを修正しています。現実の推移を見ると、むしろ権力の集中が進んでいると。
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