プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年07月05日

中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(5)【独立5周年企画】


薬

 【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由
  1.中小企業診断士という資格を知ったきっかけ(7月1日公開)
  2.中小企業診断士を勉強しようと思ったきっかけ(7月2日公開)
  3.ベンチャー企業での苦労(7月3日公開)
  4.長い長い病気との闘いの始まり(7月4日公開)
  5.増え続ける薬、失った仕事(7月5日公開)
  6.点と点が線でつながっていく(7月6日公開)
  7.これから独立を目指す方へのメッセージ(7月7日公開)
 5.増え続ける薬、失った仕事
 私が復職したのは、2010年10月であった。しかし、社内の空気は相変わらず重苦しかった。既存サービスを磨かず、すぐに新しいサービスを開発したがる社長の悪癖も手伝って、社内には休職前よりもさらに中途半端な教育研修プログラムが増えていた。業績も悪化の一途にあった。そして2011年6月、会社の業績不振を理由に、私は整理解雇の憂き目を見た。以前にも書いた通り、最も社員が多かった時期にはグループ全体で50人以上もいたのに、リストラや転職などが相次ぎ、最後は10人ほどになっていた。とうとう私にも解雇の手が及んだのだ。だが、この精神状態で転職するのは無理であった。だから、個人事業主で細々と生きていく覚悟を決めた。

 整理解雇の場合、会社が作成する離職票に「事業主の都合による解雇」と記入する。しかし、どういう訳か私の離職票には「一身上の退職」と記入されていた。こんな汚い手を使うのかと私は憤り、さすがに社長に文句を言った。最終的には、経理担当者が間に入ってくれて、離職理由を書き換えてもらった。もっとも、離職後すぐに個人事業主として独立したため、離職理由が自己都合だろうと会社都合だろうと、失業手当は1円ももらわなかったという点では変わりがない。

離職票

 (※)私の実際の離職票。前職の苦しみを忘れないために今でも保管してある。

 ただ、この時も、私が休職した時と同じ問題が生じた。私が担当していた顧客企業の案件を引き継げる人がいないというのである。そこで社長は、クビにはするが、その案件だけは続けてくれと都合のよいことを言ってきた。結局社長としては、私との関係を雇用関係ではなく業務委託関係にすることで、コストを削減したかったのだろう。「仕事はやるから会社は辞めてくれ」というのは、一種の手切れ金のようなものである。私も、いきなりクビを切られて顧客がゼロの状況からスタートするより、社長との険悪な関係に目をつぶれば最初から仕事があるのはありがたいことだと自分に言い聞かせ、背に腹は代えられぬ思いで話を引き受けることにした。

 次の問題は、私と前職の企業との間でフィーをいくらにするかであった。私が担当していた案件は、社長が考える主たる事業領域からは外れていた。しかし、定期的に数千万円の売上が見込める顧客であった(そんな顧客を担当していた私を整理解雇すると言うのだから、もう無茶苦茶である)。それなのに、社長は随分と私のことを買い叩いた。社長の提示額は、私の希望額の6割ほどであった。もちろん、前職の企業が間に入っていくらかマージンを取るから、多少は安くなると覚悟していた。だが、それにしてもひどすぎるぐらい安い金額を提示された。「5年以上一緒に仕事をしてきた人間に対する評価額がその程度ということは、私に対する教育は失敗だったことを社長は認めることになる。それでもよいのか?」という言葉が喉までこみ上げた。

 私の心身状態は、あまり良好とは言えなかった。2010年の頭に休職して以降、クリニックを変えつつ、薬もたくさん試してみた。私が飲んだことのある薬を以下に列挙する(精神病薬の一覧のWebページを見て、見たことのある薬をピックアップしてみた)。

 <抗うつ病薬(主にうつ病に作用する)>
 アモキサン、ノリトレン、トリプタノール、アナフラニール、ルジオミール、デプロメール、パキシル、ジェイゾロフト、レクサプロ、サインバルタ、リフレックス
 <抗精神病薬(主に統合失調症に作用する)>
 ベゲタミン、ジプレキサ、エビリファイ
 <気分安定剤(主に双極性障害に作用する)>
 リーマス
 <抗不安剤(気分を鎮める方向に作用する)>
 デパス、ワイパックス、ソラナックス、メイラックス
 <睡眠剤>
 マイスリー、サイレース

 私が独立したのは2011年7月である。これらの薬を飲みながら、最初は前職の企業の下請けをしていた。だから、私は診断士として独立したわけではない。精神状態が不安定で、転職もできず、やむなく独立したというのが実情である。最近は若くして独立する診断士が増えている。中には、「実家が中小企業で、両親の苦労を見てきたこともあり、少しでも中小企業の手助けがしたい」、「事業承継を成功させて、高い技術を持つ中小企業を後世に残したい」などと、非常に高邁な理想を掲げる方もいらっしゃる。それに比べると、私の動機などはゴミくずである。

 どの薬を飲んでも一向に健康状態がよくならないこと、憎らしい前職企業の下請けに甘んじていること、その他色々なことが重なり、2012年夏に私の精神は限界を迎えてしまった。文字通り、何もできなくなった。ご飯を食べることすら面倒になり、1日中ベッドで横になっていた。元々やせ型の体型なのに、2週間で体重が7kg(183cm、67kg⇒60kg)も落ちた。もちろん、仕事などとてもできる状況ではない。そのため、全ての仕事を断って1か月ほど入院することになった。入院と言っても、うつ病の場合は薬を調整してただひたすら静養するだけである。入院直前には5種類ほどの薬を飲んでいたが、医師の指示によって2種類に減った。

 医師との面談では、病気に至った経緯を話した。その中で「非定型うつ病」という言葉を使った時、医師は私の言葉を遮って「ごめん、非定型うつ病って何?」と聞いてきた。この医師はベテランの先生である。先生によると、非定型うつ病というのは、学術的には全く確立されていないものであり、定型と非定型を区別する必要はないとのことであった。先生も「非定型うつ病という病気はないのですよ」とストレートに言ってくれればよかったのに、「非定型うつ病って何?」とわざと意地悪な言い方をしたのは、最近この「非定型うつ病」という言葉に騙されて不適切な処方を受けている患者が増えていることに辟易していたためだろう。

 先生との面談は週に2回で、1回あたり30分程度の短いものであったが、大事なことをいくつも教えてもらった。私が「病気のせいで人間不信になった」と告白すると、「人間不信でいいんじゃないかな。だって、信頼できるほど優れた人間なんて、そんなにいないでしょ?」と返してきた。「この病気がいつ治るか解らない」と不安を口にすると、「僕にも解りません。ただ、ある時ふっとよくなる瞬間が来ます。だから、病院でやった生活のリズムを退院後も守ってください」とアドバイスしてくれた。これらの言葉は今でも私の心の支えになっている。

 それから、先生の薬の選び方を見て、精神疾患の薬はどれも大して変わらないと思うようになった。患者は薬に頼って病気を治そうとする。しかし、治らないので医師が新たに薬を追加する。それでも患者はよくならないと訴える。そこで医師がさらに薬を追加する。この繰り返しで、入院時に患者が10~20種類もの薬を持ち込んできたという話は実によく聞く。私は医師ではないので、あくまでも一患者の感想にすぎないが、薬は最小限の種類にとどめ、薬以外の療法を組み合わせるのがよいと思う。薬以外の療法とは、何も認知行動療法をせよということではない。食事に気をつける、起きたら日光を浴びる、毎日10~30分散歩するなど、些細なことでよい。

 退院したのは2012年9月中旬であった。当初は1か月の予定であったが、結局40日間入院することになった。入院期間中、私は多少本を読み、音楽を聴き、iPodでゲームをいじったぐらいで、他は何もしていない。おそらく、今までの人生の中で最も暇な夏休みを過ごしたと言える。入院した時ばかりは、日本に生まれて本当によかったと思った。なぜならば、高額療養費制度のおかげで、1か月あたりの医療費が8万円程度で済んだからだ。仮にアメリカで40日も入院したら、我が家は間違いなく破産していただろう(アメリカは、盲腸で数日入院しただけで100万円も請求されるような国である。40日も入院したら一体どうなっていたことか)。

 さて、退院したのはよいが、困ったのは今後の仕事である。前職の企業からの仕事はもう期待できないし、私もそろそろ前職の企業と関係を断ち切りたいと思っていたので、入院はちょうどよいタイミングであった。入院する直前、前職の企業からの仕事がなくなったことを想定して、診断士として食べていくためにどういう事業展開をすべきか考えていた時期があった。顧問を何社獲得するのか、顧問料をいくらに設定するのか、誰をターゲットにして有料セミナーを行うのか、セミナーの内容と集客はどうするのか、などといったことを具体的に考えていた。だが、退院した後は、そういう計画を一度一切合切忘れて、とりあえず色んな人に会いに行こうと決めた。

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