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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年07月27日

市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?


社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 本書は社会の構造や特徴を分析した社会学の書籍ではない。「『社会的』であるとはどういうことか?」を問うた1冊である。「『社会的』である」とは、一言で言えば「自由」かつ「平等」であることである。そのためには租税国家の仕組みを活用すべきであり、その仕組みは民主主義に立脚していなければならない、というのが著者の主張である。

 著者によると、西洋で「社会」と言えば、社会主義、すなわちマルクス=レーニン主義を意味したという。社会的な国家とは、すなわち福祉国家のことであり、分配によって平等を実現することが正義とされた。社会は規範的な概念である。その社会主義は、一般的には1989年のベルリンの壁の崩壊によって終焉を迎えたかのように認識されているが、現場であった東ドイツにおいては、自由を獲得する「革命」として位置づけられていた。こうして、西洋では社会的なものが自由主義によって前向きに書き換えられるという能動的な体験をしている。

 これに対して、日本では「社会的」という言葉の意味が政治的に厳しく問われることがなかった。その表れとして、著者は、日本で政党名に「社会」という語が入る政党が激減していることを指摘している。政治を通じて「社会的なもの」を実現しようとする勢力は少なくなっている。

 本書の中で著者は、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの面白い議論を紹介している。冒頭で、「社会的である」とは「自由」かつ「平等」であることだと述べた。しかしベンヤミンは、「社会的なもの」とは何か?社会の正しい目的とは何か?という議論を一旦脇に置いて、その目的を実現する正しい手段は何か?を問うこととした。これは非常にユニークな論法である。

 ブログ別館の記事で紹介した「エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』」では、アメリカ人やイギリス人が応用優先、帰納的思考であるのに対し、ドイツ人やフランス人は原理優先、演繹的思考であると書かれていた。別の言い方をすれば、アメリカやイギリスはすぐに役に立つ結論を欲する。他方、ドイツやフランスは、どのような論理の道筋で考えたのかというプロセスを重んじる。アメリカやイギリスにとっては達成すべき目的こそが全てであり、目的が明確でなければ手段を考えようがない。ところが、ドイツ人のベンヤミンはその思考プロセスを変形して、上記のような新たな思考の枠組みを設定している。

 ベンヤミンは、「社会的なもの」を達成する手段は民主主義であると論じた。これを「社会民主主義」と呼ぶ。1848年、フランスでは二月革命が起こり、王制の廃止と憲法の制定により共和制へと移行した。その影響はドイツにも及び、帝国領内の諸民族が民族自治権や民族の諸権利の要求、憲法の制定、民主主義の実現を求めて立ち上がった。これが三月革命である。これ以降も、フランス二月革命に端を発する運動はヨーロッパ各地に波及し、1815年以来、君主制に立脚する列強を中心に自由主義運動を抑圧してきたウィーン体制は崩壊した。

 「社会民主主義」と言うと、社会主義と民主主義が結びついているように見える。だが、19世紀末~20世紀初頭にかけて、民主主義は強く警戒されていた。社会主義よりも民主主義の方が危険であると見なされたぐらいだ。マルクスは、1848年のフランス二月革命が議会制民主主義を目指したのは茶番だと批判した。マルクスは、革命の手段として議会制民主主義を用いることを嫌い、それに頼らない社会主義の実現を目指した(この路線は、その後エンゲルスによって修正された)。日本では、初の社会主義政党である社会民主党が1901年に結成され、即日活動停止処分を受けたが、その理由は社会主義ではなく民主主義の方が問題視されたためであった。

 ここで、民主主義に議会制は必須なのか?という問題が生じる。本書の中でカール・シュミットの言葉が引用されているが、シュミットは「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる」と述べている。ただし、シュミットは続けて、「独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」とも述べている。民主主義と独裁がなぜ独立しうるのかは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」などで考察を試みた。シュミットはナチスに入党し、全体主義を支持したことで知られる。

 ベンヤミンは議会制民主主義に関して、次のような問いを立てる。「社会の目的を達成する手段として、いかなる暴力が正当化されるのか?」(ここでも、「社会の目的とは何か?」という問いは一旦後回しにされている)ベンヤミンによれば、暴力には、①法=権利を維持する暴力、②法=権力を措定する暴力、③法=権利を否定する暴力の3種類があるという。そして、①と②の暴力を「神話的暴力」、③の暴力を「神的暴力」と呼ぶ。

 1918年11月9日、社民党主流派のP・シャイデマンが「ドイツ共和国」の成立を宣言し、同日に左派のリープクネヒトも「ドイツ社会主義共和国」の成立を宣言した。社民党主流派は革命を議会制民主主義の枠内に抑える方針をとり、これに反対したルクセンブルクらは社民党を離脱、12月30日にドイツ共産党を立ち上げた。社民党のG・ノスケは、共産党勢力の封じ込めを狙った。翌年1月15日、ルクセンブルクはリープクネヒトとともに殺害された。この事件にノスケが関与したかは不明である。この血なまぐさい状況の中で、1月19日に国民議会選挙が実施され、エーベルトが大統領に、シャイデマンが首相になり、8月11日にはヴァイマール憲法が採択された。

 この状況をベンヤミンは次のように分析する。①と②の暴力とは、議会(+警察)のことである。ノスケの暴力は(真偽は別として)、国民議会に先立って、議会という枠組みの外で”例外的に”行使された暴力である。だが、例外であるということは、裏返せば本来の議会を承認していることを意味する。したがって、ノスケの暴力は、議会制の枠内にあり、議会制を支える暴力であると言える。そして、ノスケのような暴力を制度化したのがヴァイマール憲法第48条(国家緊急権)であった。その上で、ベンヤミンはこれらの暴力を「神話的」と呼び、否定する。

 「神話的暴力」と対峙させる形でベンヤミンが提示しているのが「神的暴力」である。神的暴力は、法=権力を”否定する”暴力である。しかし、ここで言う否定とは、正義の否定ではない。否定を通じて、新たな法=権力の余地を切り開くことを意味する。議会制民主主義においては、議会制の中にありながら、議会制を内部から揺さぶるもの、これがベンヤミンの言う「神的暴力」である。殺害されたルクセンブルクが唱えていた「唯―議会主義」の否定も、同じ文脈上にある。

 ヴァイマール憲法第48条の「国家緊急権」とは、国家が緊急事態に陥った場合には、大統領が公共の安全と秩序を回復するために、必要な措置をとることができるというものであった。議会制民主主義を評価するシュミットは、国家緊急権も支持した。ところが、この第48条があったがために、ヒトラーの台頭を許し、ドイツは全体主義へと傾倒してしまった。ベンヤミンが暴力論を書いたのは1920年前後のことであるが、まるで「神話的暴力」の暴走を見通していたかのようである。ナチスの歴史的過ちへの反省もあってか、ドイツでは議会制に対する警戒感が強い。

 冒頭で、「社会的なもの」は民主主義によって達成されると書いた。その民主主義とは、単なる議会制民主主義ではなく、「議会制を超える議会制」によって支えられる民主主義である。西ドイツでは「APO(Ausserparlamentasiche Opposition)」と呼ばれる議会外反対勢力(日本で言えば「新左翼」)が存在し、議会の外から様々な力を民主主義に供給しているという。ただ、ここで注意が必要なのは、APOは必ずしも議会制そのものを否定しているわけではないということだ。議会制がなければAPOは存在できない。したがって、民主主義にとって議会制は不可欠なのであり、APOは議会制民主主義を補強する勢力ととらえるのが適切であろう。

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