プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年08月02日

『思いを伝承する(『致知』2016年8月号)』―最近の私の5つの価値観について(2/2)


致知2016年8月号思いを伝承する 致知2016年8月号

致知出版社 2016-08


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 (前回の続き)

 (3)意思決定は他人に任せる。
 私は迷った時にはいつでも「それは私自身が選んだ道なのか?」と自分に問い掛けるようにしています。(中略)そうすると、私自身覚悟を持っていろんなことに臨めるんですよね。
(鈴木比砂江「自分を大切にできる人を、もっともっと増やしたい」)
 自分というのは可愛いもので俺はもっとできるとか、他の仕事のほうが向いているなどと思いがちですが、他人の目のほうが自分を正確に見ていることが多いのです。
(福地茂雄「20代をどう生きるか 解決しない問題はない」)
 「私はこれがやりたいんだ」と神と契約して自己実現を目指すアメリカ人は、強い意思で重要な決断を下す。リーダーにはそのような決断力が必要であるというのがアメリカ的な考え方である。しかし、私はこの点にも疑問を感じ始めている。以前の記事「「重要な意思決定を自分自身で下すとたいてい失敗する」という私的パラドクス」でも書いたように、私は人生において重要な決断を自分自身で下すとたいてい失敗し、逆に他人に任せると成功することが多いからだ。

 福地茂雄氏の言葉にあるように、私は自分が何者なのか、何ができるのかを把握しきれていないようである。私のことは、私の周りにいる人の方がよく理解している。だから、前回の記事でも書いたように、今の私は自分から「こういう仕事をしたい」と売り込むことはまずない。周りの人から「こういうことをお願いしたい」と言われたことを地道にやっているだけである。周囲の人は、私ならそれができるはずだと評価しているからこそ、私に仕事をお願いしているわけである。私は、周囲にそれだけ評価されていることを素直に喜びたいと思う。

 マズローの欲求5段階説によれば、最上位はアメリカ人の得意技である「自己実現」である。だが、この欲求5段階説は実証的に立証されておらず、仮説レベルにとどまる点は意外と知られていない。そして、多くの人は必ずしも自己実現を目指しておらず、その1つ下の「承認の欲求」で満足するのではないかと指摘されている。もちろん、これもまた仮説であり証明されていないのだが、私はとりわけ日本人にはこの見方がよくあてはまるように思える。日本人は共同体に生きる存在である。私が何をしたいかよりも、共同体や他者から要請される役割を果たし、共同体の一員として承認されることを重視する。自律より他律の方が日本人の性に合っている。

 たまたま、今月号の裏表紙には、Youtubeの広告が掲載されていた。YoutuberのMACOさんが歌う写真とともに、「好きなことで生きていく」という言葉が書かれていた。自分でやりたいことを決めて、それを実現させるというのは、まさにアメリカ人らしい自律的な生き方である。一方、ラグビーの五郎丸歩選手が出演するCITIZENのCMでは「未来を変えられると人は簡単に言う。でも違う。今を変えない限り、未来は変わらない。今を変えろ」と語られていた。これを私なりに解釈すると、将来のビジョンを自律的に設定するのではなく、今の自分には周りから何が求められているのかを他律的に認識し、なすべきことを積み重ねよ、ということになる。

 「ジャムの実験」で知られるシーナ・アイエンガの『選択の科学』によると、人間は基本的に自分で意思決定を下した方が満足度が高いとされる。ところが、人生を左右するような重要な局面では、他人に意思決定を委ねた方が満足度が高くなることもあると述べられている。例えば、幼い我が子に危険度の高い手術が必要だと判明したケースで、手術をするべきか否かを親が自ら決断するよりも、医師に決断を任せた方が、親の満足度が高いことが解っている(以前の記事「シーナ・アイエンガー『選択の科学』―選択をめぐる4つの矛盾(前半)(後半)」を参照)。

選択の科学選択の科学
シーナ・アイエンガー 櫻井 祐子

文藝春秋 2010-11-12

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 (4)他人を信頼しない。
 ギルバート:私は成人式で講演を頼まれることがよくあるんですけれども、私が若者に言いたいのは、まず「信頼」という言葉を忘れないでほしいということ。この社会は信頼に基づいて成り立っているんだから、人の信頼を裏切るようなことは絶対にしないでくださいと。
(ケント・ギルバート、山谷えり子「いま、後世に語り継ぐべきこと」)
 他人を信頼するということは、「相手はこのぐらいのレベルのことができるだろう」と期待することである。相手が実際にそのレベルに達していれば、その人は信頼に足る人間と評価できる。逆に、期待するレベルに達しなかった場合は、信頼を裏切られたと感じる。私は、前職の企業で幾度となく信頼を裏切られた経験があり、その影響もあってか精神的に参ってしまったことは、以前の記事「【シリーズ】中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由」でも書いた。

 「マネジャーだからこのぐらいの仕事はできて当たり前だ」、「上司だから部下の面倒を見て当たり前だ」、「営業だからこのぐらいの商談はできて当たり前だ」、「研修講師だからこのぐらいの講義はできて当たり前だ」、「経営者だから会社全体のことを常に考えるのが当たり前だ」など、私は自分の心の中で、相手に対して勝手に色々な「当たり前」を設定していた。そして、それが満たされないたびに裏切られたと感じ、強い怒りに襲われた。それが私の精神を蝕んでいった。

 入院中、医師に「他人のことが信頼できなくて、人間不信になりそう」とこぼしたところ、「人間不信でいいんじゃないかなぁ」と言われて随分と気が楽になった覚えがある。そうか、最初から相手のことを信頼しなければよいのか!相手への期待値はゼロだから、相手がどんな成果物を出してきても、どんなレスポンスを返してきても、それが期待値を下回っているという理由でイライラする必要がない(もちろん、私も完璧ではないから、未だにイライラするケースは多々あるが)。

 相手に対する期待値を設定すると、相手のレベルとのギャップをどう埋めるのかという問題解決型の思考が必要になる。だが、これは非常にストレスがかかる。他方、相手に最初から何も期待していなければ、まず相手から何らかの反応があったりした時点で、期待を上回ったと言える。ある中小企業の社長は、社員が毎日ちゃんと出勤してくれるだけでありがたいと語っていた。私などはまだまだそこまでの境地に達していないが、目指すのはそういうところだ。

 そして、相手の反応を見て、どうすればもっとよりよくすることができるか、どうすればもっとお互いの関係を良好にできるかという視点で議論をする。あるべき姿とか期待水準とかに縛られず、純粋に前向きな方向性を検討する。こうした議論は、収束型の問題解決思考とは異なり、拡散型のポジティブな議論になる。そうすれば、無用なストレスから解放されるに違いない。

 相手を信頼しないということは、信頼に足る人と足りない人とを切り分けて、付き合う人を取捨選択しない、ということでもある。すると、人間の器が大きくなり、あらゆる人を受け入れることができる。明治時代の実業家・渋沢栄一は、どんなに忙しくても自分を訪ねてくる人には必ず面会したと言われる。企業経営に関して相談したいという人から、渋沢の資産を目当てに金を無心しようとする人まで様々な人がいたそうだ。仮に渋沢が他人を信頼するタイプであったら、どうしようもないクズみたいな人間にまで二言三言アドバイスをするようなことはなかっただろう。

 ここで、「(3)意思決定は他人に任せる」と書いたということは、他人を信頼しているのではないかと思われるかもしれない。確かに、意思決定を特定の誰かに委ねるのであれば、その人のことを信頼していることになる。しかし、私は何か意思決定をする時に、人を選ばない。その時にたまたま私に助言をくれた人の言葉に従うようにしている。もちろん、そういう場当たり的な行動のせいで、騙されそうになることはある。しかし、騙されそうになるのは、私の心に卑しい部分があるからである。私は因果応報を信じている。私が騙されるのは、私が知らず知らずのうちに他人を騙してきたからだ。精神の鍛錬が足りないから、私は他人に騙されるのである。

 (5)自分のモチベーションを上げない。
 (※(5)は関連する文章を今月号の『致知』から見つけられなかった) 私が罹患している双極性障害は、一般的には気分が異常にハイになる時と、気分がひどく落ち込む時とを繰り返す病気であると説明される(厳密に言うと、これはⅠ型である。私の場合はⅡ型で、躁と鬱が混在した状態となり、やる気が出ない低空飛行が続き、さらに些細なことで怒りっぽくなる)。

 私はモチベーションが以前のように上がらずに随分と苦しんだ。だがある時、モチベーションのことを気にするからいけないのではないかと思うようになった。最初からモチベーションを上げようとしなければ、モチベーションが上がらないことで苦しむことはない。これが、私の長い闘病生活の中で発見したことである。だから、今の私は仕事に臨む際に、特別に気合いを入れようなどとはしない。自分の能力が発揮できる範囲で、コツコツと物事を進めるだけである。

 その代わり、自分の能力を高める努力は怠らない。仮にモチベーションが0.8、能力が1.3だとすれば、成果は0.8×1.3=1.04となる。ただ、1.04を目標にしても1.04が達成できることは稀であり、だいたい1.01ぐらいに落ち着く。それでも、前回の記事で書いたように、これを毎日続ければ、年間で1.01^365=約38倍となる。30年続ければ約1,134倍である。

 日本の社員のモチベーションは世界的に低いことがいくつかの調査で解っている。例えば、アメリカの人事コンサルティング会社KeneXa High Performance Institute(現在はIBMが買収)は、28か国の社員100名以上の企業・団体に所属する社員(フルタイムの従業員)を対象に「従業員エンゲージメント」指数を調査した。「従業員エンゲージメント」とは、「組織の成功に貢献しようとするモチベーションの高さ、そして組織の目標を達成するための重要なタスク遂行のために自分で努力しようとする意思の大きさ」と定義されており、要するにモチベーションである。

 世界最高はインドで77%。以下、デンマーク67%、メキシコ63%と続く。他の主要国では、アメリカが59%で5位、中国が57%、ブラジルが55%、ロシアが48%など。イギリス、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ先進国も40%台後半。韓国は40%、日本が31%で最下位となっている(DIAMOND ONLINE「世界でダントツ最下位!日本企業の社員のやる気はなぜこんなに低いのか?」〔2013年1月15日〕を参照)。勤勉な日本人は少数派になってしまったようだ。

 だが、モチベーションが高すぎるのにも問題があると私は思う。モチベーションが高い人は、理想も高い。しかし、理想に手が届かないとストレスを感じる。彼らの理想は高いだけに、余計にストレスも大きくなる。すると、精神疾患にかかるリスクが高くなる。あるいは、並々ならぬ努力で高い理想を達成した人は、その後の目標を見失って燃え尽き症候群に陥る可能性もある。いずれにしても、単にモチベーションが高ければよいという簡単な問題ではなさそうである。

 メンタルヘルス障害の生涯有病率(一生のうちに病気になる割合)は、アメリカが47.4%と飛び抜けている。フランスは37.9%、メキシコは26.1%とやや高い。日本は18.0%で、世界的に見ても低い部類に入る(「図録▽メンタルヘルスの国際比較」を参照)。中国、ロシア、ブラジルなどを十分に調べ切れていないため、結論づけることは難しいが、モチベーションが高い国の人々は、その分精神疾患のリスクも高まる傾向にあると推測される。

 第一次世界大戦で活躍したドイツの将軍、ハンス・フォン・ゼークトは、能力の高低、モチベーションの高低という2軸でマトリクスを作り、人間を4つのタイプに分類している。そして、「有能な怠け者は指揮官にせよ。有能な働き者は参謀に向いている。無能な怠け者は下級兵士が務まる。無能な働き者は銃殺するしかない」と述べた。最も組織のトップに向いているのは、有能だがモチベーションは低い人なのである。逆に、モチベーションは高いのに無能な人は、組織にとって百害あって一利なしというわけだ(これは私も前職の企業で嫌というほど経験した)。

 経営者の中には、「社員のモチベーションが低くて困っている」という方がいらっしゃる。しかし、そもそもなぜ経営者は社員のモチベーションを上げなければならないのだろうか?経営者は社員に対して給与を払う立場である。お金を払う人がお金をもらう人のモチベーションを上げることがいかに不自然であるかは、顧客が企業の製品・サービスを購入するたびに、その企業の社員のモチベーションを上げようとはしないことを想起すればよく解る。経営者は社員のモチベーションに神経質になる必要はない。モチベーションが高くなくても、成果は出せる。

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