プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年08月16日

『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―アメリカは「核の次」の兵器で「対立」構図を保とうとする、他


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 (前回の続き)

 (4)
 実際に、全面的核戦争と限定的戦争のギャップを埋める目的で、米軍特殊部隊はすでに25年前から、いわゆる"Backpack nukes"なる特殊核破壊弾(B-54 Special Atomic Demolition Munition(SADM))の小型核兵器を開発・配備済みという。現に中東への軍事介入では、小型核弾頭が核兵器とは認識されずに実戦使用されている懸念があるが、一般メディアでは報道されない。
(池上雅子「核兵器廃絶への課題―「核帝国主義」の超克 再考 核と人類(2)」)
 本号の特集は「「核なき未来」は可能か」である。「核なき未来」は、理論的には可能であろう。つまり、核保有国が(1)で書いた相互確証破壊戦略によって完全に均衡すれば、どの国も相互確証破壊戦略を支えるほどの大規模な核兵器を保有する意味がなくなるため、持て余した核兵器の削減に向けた交渉が始まる。冷戦期において米ソが核軍縮の交渉を行ったのは、このような理由によるものであった。だが、全ての核保有国が相互確証破壊戦略で完全に均衡する状況が出現するとは考えにくい。したがって、やはり「核なき未来」は単なる理想郷にすぎない。

 それから、アメリカという国の本質を見誤ってはならない。日本のように和の精神を重んじる国は、すぐに「どの国も世界平和のために仲良くしましょう」などと考える。しかし、それは小国の発想であり、アメリカのような大国には全く通用しない。大国は「対立」を基本軸として行動する。そして、対立のためのグローバルルールを策定する。言い換えれば、アメリカは常にスポーツのフィールドに立っており、そのスポーツのルールを自ら策定して、他のプレイヤー(他国)にも強制的に適用するのである。現在のNPT-IAEA体制は、アメリカが主導して構築したものである。これが「ルール・メイカー」としてのアメリカの顔である。

 だが、アメリカにはもう1つの顔がある。それは「ルール・チェンジャー」としての顔である。つまり、アメリカは自分で策定したルールを、自国にとって都合のいいように変更する。実際、アメリカではスポーツのルールを変えたらどうなるか真剣に議論されることがある。例えば、野球(MLB)においては、一塁線と三塁線間の角度(フェアグラウンド)を広げたり縮めたりするとどういう影響があるか、といったことが真剣に議論される。核の話に戻すと、アメリカは従来型の核兵器についてNPT-IAEA体制で運用する一方で、NPT-IAEA体制を無価値にするほどの新型兵器を極秘に開発する。そして、それを世界に先駆けて使用することで既成事実化する。

 他国が「アメリカのやり方はおかしいではないか」と反発し、アメリカに倣って新型兵器を開発したとする。すると、今度はアメリカが文句を言ってくる。こうなればアメリカの思うつぼである。「そんなに我が国にいちゃもんをつけるのならば、グローバルルールを策定しようではないか」。これがアメリカの常套句である。引用文にあるSADMは、ルール・チェンジャーとしてのアメリカの顔をうかがうことのできる事例である。仮に世界の核軍縮の交渉が非常に上手くいって、核なき世界が実現したとしても、その頃にはアメリカは核の次の兵器をちゃっかりと準備しているに違いない(具体的には「極超音速兵器」など)。こうして、アメリカは常に「対立」構造を維持し続ける。

 (5)
 たとえば、近時わが国でも社会的な関心を集めつつある同性婚を取り上げよう。たしかに、日本国憲法24条は、「両性の合意」(1項)や「両性の本質的平等」(2項)という表現に示されるように、婚姻が男女という異性間の結合であるという前提に立っていることをうかがわせる。しかし、だからと言って、わが国では憲法24条があるから同性婚は認められないと説くことは適切ではない。(中略)

 「両性の」とあるのは、単にその当時(※憲法制定当時)同性婚そのものが全く想定されていなかったことの反映にすぎないであろう。むしろ、男性であれ女性であれ、「個人の人格を尊重する、人間そのものの尊さを眼目にする」ことが制憲者の目指したものであったから、同性婚は憲法24条の下で許容されると解することができる。
(野坂泰司「憲法は変わったのか <憲法の解釈>と<憲法の変化>」)
 本論文は、憲法の制定過程から各条文の意味を解釈するというものであり、憲法9条がその中心となっているのだが、議論の流れで24条にも触れている箇所があった。「「両性の」とあるのは、単にその当時同性婚そのものが全く想定されていなかったことの反映にすぎないであろう」と著者は述べているものの、これは日本では昔から同性愛が広く認識されていたという事実に反する。かつて、男性の同性愛は「男色」(なんしょく、だんしょく)、江戸期以降の武家社会におけるものは「衆道」、「若衆道」、歌舞伎の世界では「陰間」などの言葉で表現されていた。女性の同性愛については未解明な部分も多いが、江戸期には存在していたとされる。

 それでも憲法制定者が「両性の」という限定をつけたのは、両性の婚姻に特別な意味を見出したからに他ならない。それは、両性の婚姻のみが子どもを産むことができ、国民の数を維持し、国家を存続させることにつながるからである。これが同性愛との決定的な違いだ。よって、24条が同性婚も許容しているという見解は到底受け入れられない。なお、誤解されないようにつけ加えておくが、私は決して同性愛否定派ではない。恋愛は個人の自由である。ただし、両性の婚姻だけは、上記の理由から特別に法的な保護を受けられる、ということを言いたいのである。

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