プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年09月19日

北川東子『ハイデガー―存在の謎について考える』―安直な私はハイデガーの存在論に日本的思想との親和性を見出す


ハイデガー―存在の謎について考える (シリーズ・哲学のエッセンス)ハイデガー―存在の謎について考える (シリーズ・哲学のエッセンス)
北川 東子

日本放送出版協会 2002-10

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 ハイデガーの『存在と時間』などどいうのは今の私には難しすぎて手が出ないのだが、本書は『存在と時間』の内容を非常に解りやすく説明してくれた。安直な私は、ハイデガーの存在論と日本的思想との間に、ある種の親和性を見出した。

 ブログ別館の記事「『どう生きますか 逝きますか 死生学のススメ/LCC乱気流/ヘリコプターマネーの功罪(『週刊ダイヤモンド』2016年8月6日号)』」でも書いたが、日本人は「何となく生まれ、何となく死んでいく」存在である。自分の生や死の瞬間を明確に自覚することはできない。日本人の誕生が不安定であると同時に、日本という国もまた、その誕生に遡ると非常に不確定である。聖書では神が世界を創造したことになっている。一方、日本の神話では、最初から日本の国土が存在し、神々がそれぞれの土地に派遣されるところから話が始まる。この「何となく始まる」というのが、日本と日本人の1つの特徴である。本書には次のようにある。
 ハイデガーは眠りについて、「眠っているものは、独特なかたちで不在であると同時に現にいる」と言いますが、半ば不在であると同時に半ば現にいるもの、それだけが目を覚ますことができます。逆に言うと、目を覚ますためには、自分が眠っている状態、つまり曖昧な宙吊りの状態にあることを知らなくてはなりません。
 以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」などでも書いたが、日本では「(神?)⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族⇒個人」という階層構造が成り立つ。日本人は生まれた瞬間から、この階層構造に取り込まれている。だから、必ずしも平等ではない。西欧人が考えるように、スタートの時点で平等というわけにはいかない。

 階層社会においては、上下関係が決まっている。まず、神は天皇に対し、理想の国家を運営するよう命じる。天皇はその命を受けて、理想の国家とは何かを構想する。日本にとって理想の国家とは、多様性に満ちた国民が共生し、限りある資源を有効に活用して国民が皆豊かになることである。天皇は立法府に対して、理想の国家を実現するルール作りを命ずる(実際には、現行憲法の下では天皇は政治的行為を禁じられているため、あくまでも”象徴”という形で君臨するのみである。天皇が立法府に命ずるのではなく、立法府の側から天皇の意図を汲み取る)。

 立法府はその命を受けて法律を策定する。具体的には、成長という経済的課題と、分配という社会的課題を両立させるための法律を策定する。そして、行政府に対して、法律を具体的に解釈し、課題解決に向けた施策を実行するよう命ずる。市場/社会は、限りある資源を適正に分配しながら社会全体の成長を実現する調整の場である。市場/社会は、無制限に物やサービスを欲することはできない。行政府が運用するルールの枠内で、”よき消費者”、”よき市民”として振る舞うことを義務づけられる。例えば、環境破壊につながる製品を買ってはいけないし、人権を蹂躙する団体からサービスの提供を受けてはならない(現在の日本は自由主義が行きすぎて、行政府から市場/社会に対する矢印の機能が弱くなっていると感じる)。

 市場/社会の成員は、行政府からの命に応じて”よき消費者”、”よき市民”として行動することを前提として、自らが欲する製品・サービスを企業/NPOに要求する。オーダーを受けた企業/NPOは、その製品・サービスを製造・提供する際に必要不可欠な人材を育成するよう、学校に命ずる。学校は、教育が滞りなく行われるよう、家族に対し子どもを健全な状態、十分にしつけがなされた状態で学校に送り込むことを要請する。家族は、個人に自らの健康を維持し、家族という組織・コミュニティの最小単位の中で、決められた役目を果たすよう要求する。

 日本人は、与えられた場所で自らの役割を全うすることを美徳とする。しかし、決して従属的に生きているわけではない。逆説的だが、階層社会という枠組みがあるからこそ、日本人は自由になれる。さらに言えば、与えられた場所にいながら、上の階層に対して物申すこともできる。上司の命令が絶対である欧米では考えられないことだ。日本企業の「提案制度」を欧米人は不思議がる。もちろん、欧米でも、部下が上司に(時には直接CEOに)苦情のメールを送ることはある。しかし、この場合は労使関係における不満のはけ口を求めているという意味合いが強い。一方、日本の提案制度は、我が社をよりよくするためにはどうすべきかという視点で運用される。

 「提案制度」があるからと言って、下の階層の者は、決して上の階層の人間を蹴り落とそうとしているわけではない。上の階層からの命令に対して、現場に近い自分が持っている情報に基づいて、もっとよい方法があると提案しているにすぎない。これを山本七平は「下剋上」と呼んだ(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」)。こうした下剋上も一種の自由であり、下剋上が成り立つのは、階層社会が階層社会として機能しているからである。日本人の自由は「権力からの自由」でも「権力への自由」でもない。不思議な表現ではあるけれども、「権力の中での自由」である。

 日本の階層社会は、かつてのイギリスの階級社会などのように、身分が固定されているわけではない。上(もしくは下)の階層への移動が比較的自由に行われる。ただし、上の階層への移動は、個人的な意思に基づくというよりも、周囲の評価によって決まる。日本企業では、結果を出し続けてきた野心あふれる人間が社長の座に就くとは限らない。むしろ、周囲から「あの人は社長の器を持っている人格者だ」と評価された人が社長になる。そして、選ばれた社長も、「自分などは社長にふさわしくないと思うのだが、周りの皆様からのたってのお願いとあって社長を引き受けることになりまして・・・」などと社員の前であいさつする。

 日本の場合は、「周囲からの評価」が非常に重要視される。「与えられた場所で、周りからよい評価をもらうために創意工夫する」というのが日本人のモチベーションの源泉である。マズローの欲求5段階説によれば、最上位の欲求は自己実現欲求であるが、日本人の場合は、その下の承認欲求の方が強い。これを動機づける側から見れば、欧米人に対しては内発的な動機づけが有効であるのに対し、日本人に対しては外発的な動機づけが効果的であるということになる。欧米かぶれの人事コンサルタントはすぐに内発的動機づけ、すなわち「やりがい」や「フロー」に注目したがる。だが、日本の場合は依然として「地位」や「叱咤激励」が重要な意味を持つ。

 本書には、次のように書かれた箇所がある。
 むしろ、ハイデガーは、「投げ込まれたこと」を存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。自分がいるかぎり、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかない。「誰が」や「どのようにして」というような「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることはできない。
 どのようにして自分の生が始まったのかは解らないが、とにもかくにも状況に「投げ込まれた存在」として人生をスタートさせた日本人は、前述の通り、自分の持ち場で創造性を発揮し努力をする。だが、日本人の人生にはゴールがない。このことを、私は日本の多神教文化と紐づけて何度か説明してきた。日本人には1人1人に異なる神が宿っている。しかし、キリスト教の神のように唯一絶対の神とは異なり、日本の神々はどこか人間臭く、不完全である。

 日本人が「私は何者なのか?」と問うことは、自分に宿る神の正体を探ることと同値である。キリスト教の場合、教会で真摯に祈りを捧げることで神にアクセスする。しかし、日本人がいくら内心で不完全な神と対話を繰り返したところで、私の正体を知ることはできない。

 「私は何者なのか?」という問いに答える有効な手立ては、自分とは異なる神を宿しているであろう他者と積極的に交流することである。異質との出会いは学習を触発する。「彼の神はそのように考えるのか?何となく私の神の考えとは違うように思える?彼の神がそう考えるということは、私の神はこう考えているということではないか?」といった具合に、私の神の姿を少しずつ描き出していく。とはいえ、他者の神もまた不完全であるから、私の学習が完結することは決してない。学習は一生涯に渡って続く。これを、古来の日本人は「道」と呼んだ。

 本書には次のような記述がある。
 では、このときの優位とはなんでしょうか。問題に決着をつけることではない、とハイデガーは言います。そうではない、「途上にあること」を真に受けとめることだ。途上というのは、答えのない問いを立てることです。(中略)自分が生きて存在している事実について、なにか確実なことを見つけ出して、それを支えにしようというのではない。正しい生き方という正解を手に入れようとするのではない。どうしても答えが見つからないような疑問に身をさらすことが、存在論を考える私たちの優位なのです。
 先ほどから、「状況に埋め込まれた存在として、自分の持ち場で努力する」と書いてきたが、これはもう少し別の言い方をすると、「頑張りすぎない」、「無茶をしない」ということでもある。欧米的な自己啓発に毒された人たちは、「自分をストレッチさせる高い目標を設定して、そこに向かってがむしゃらに働く」ことをよしとする。だが、ハイデガーの存在論によれば、そういう生き方は否定される。なぜなら、そのような生き方は「自己喪失」の危険性をはらんでいるからである。
 金銭欲や名誉欲にかられて、自分を見失い、人を裏切るようなことをする。自分でも思いもかけないことをしてしまう。瑣末なことに囚われてしまい、自分自身を見失ってしまう。
 ハイデガーはこれを、「本来でない」方への自己喪失と呼んだ。私が目標を規定するのではなく、目標に私が規定され、さらに目標によって私が過大に拡張されている状態である。当の欧米人の中にも、あまりに高すぎる目標を立てることの危険性を指摘する者がいる。例えば、ケリー・マクゴニガルはその1人である(以前の記事「ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)(その4~6)」を参照)。

 ハイデガーはもう1つ、「本来」の方への自己喪失もあると指摘している。「本来でない」方向への自己喪失が他者を犠牲にする方向へと働くのに対し、「本来」の方への自己喪失は、他者の存在が前面に出すぎてしまい、自己が矮小化され、他者の中に埋没してしまう。
 我を忘れてひとつのことに没頭する、自分のことは忘れて他人のために尽くす、自分をさておいてまでも使命を果たそうとする。そのようなとき、私たちはどこにいるのでしょうか。やはり、「自分の前」ではありません。
 この「本来でない」方への自己喪失と、「本来」の方への自己喪失の説明を読んで、私は以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」、「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか』―原因は中国人ではなく日本人の側にあった」のことを思い出した。

 イザヤ・ベンダサン(山本七平のペンネーム)の分析によれば、日本軍が南京を総攻撃したのは、日本の天皇制こそが中国王朝の真の理想を体現していると信じ込んだためであった。つまり、「本来でない」方への自己喪失が起きたと言える。逆に、田中角栄が1978年に日華平和条約を破棄して日中平和友好条約を締結し、「土下座外交」を展開したのは、日本を捨てて中国という現実にひれ伏した形であり、「本来」の方への自己喪失である。ハイデガーの存在論は、どうやら日本の外交的失敗を説明することもできるようだ。

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