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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年11月16日

比嘉朝進『最後の琉球王国―外交に悩まされた大動乱の時勢』―中国に太平洋進出の野心を焚きつけたアメリカ?


最後の琉球王国―外交に悩まされた大動乱の時勢最後の琉球王国―外交に悩まされた大動乱の時勢
比嘉 朝進

閣文社 2000-02-20

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 ペリーは1853年、軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、フィルモア大統領の国書を提出して日本の開国を要求した。翌1854年には、軍艦7隻を率いて横浜に来航し、条約の締結を強硬に迫った。幕府はその威力に屈して、日米和親条約を締結し、①アメリカ船が必要とする燃料や食糧などを供給すること、②難破船や乗組員を救助すること、③下田・函館の2港を開いて領事の駐在を認めること、④アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることなどを取り決めた。

 以上が教科書的な説明であるが、実はペリーが浦賀や横浜を訪れる前に、琉球を訪れていたことを本書で知った。ペリーが琉球に寄港したのは、浦賀を訪れる2日前、横浜を訪れる4日前である。ペリーは、琉球が太平洋航路上の重要拠点であると見なし、要求を呑まなければ琉球を占領するとまで言った。結局、圧力に屈して琉球王府が要求を受け入れたことにペリーは満足し、海軍長官宛てに次のような上申書を送っている。
 那覇は太平洋航路のために最も便利な停泊地である。あらゆる手段を講じて獲得し、各種の施設を造った。琉球王国は日本帝国の最も重要な属国であるが、我々が事実上、琉球の支配権を握っている。本官は琉球を永久に維持しようと考えている。
 琉球に来たのはアメリカだけではない。ロシアからはプチャーチン提督が来ていた。そのプチャーチンに対し、米国士官は「日本政府が米国の要求を拒否したら、琉球を米国の支配下に置くので、他国は琉球に手出しをしないよう要請する」という内容の書簡を手渡した。この書簡は、戦後の「ダレスの恫喝」を思い起こさせるものだ。戦後、北方領土問題でソ連と交渉していた日本は、色丹・歯舞諸島の2島返還で手を打つというところまでソ連と話が進んでいた。だが、アメリカのダレス国務長官が、2島で妥協するならば沖縄を返還しないと”恫喝”したとされる。

 話を元に戻そう。当時の琉球王国は、清と日本との両属状態にあった。琉球にはアメリカ、ロシア以外にも様々な国が訪れ、通商を要求したが、琉球はそのたびに清との関係にひびが入ることを恐れていることが本書の随所から伝わってきた。
 (※琉米修好条約について、)琉球は清国の属国なので、独立国と認定されたら、清国と困難を生ずる恐れがある。ほかの条項に関しては承認しよう。
 琉球はその資力に耐えずまた外人には常に貧乏の小国と言ってあるのに、にわかに大金を支出すれば外人はこれを利として交易を拡大するであろう。それに清朝の意向もわからない。外人から受領した外貨以上に、要求物品を供給して多額の出費をこうむっている。今後、外人の要求もはかりがたいので、その幾分かを残留しておきたい。
 (※フランスとの貿易、フランスからの軍艦・大砲の購入に関して、)西洋の大国と貿易するのは、産物の乏しい小国にはとても無理である。留学生の件は内情が露見すれば不都合が生じるし、清朝関係にも響くおそれがある。座喜味親方は気ままな面があり、人気も離れているので引退してもらう。蒸気船・大砲の購入は異存ない。
 外国人の中には牧志(※通訳)の顔見知りがいて、万一琉薩交流のことが清国に知られたら、朝貢に支障をきたすおそれがある。通訳のことなら長堂朝清を代わりに出せる。
 琉球王府が外国との交易を極度に恐れていたのは、本来清国に対して朝貢品として差し出すべき物品が外国に流出してしまうからである。引用文にあるように、琉球が貧乏の小国であれば、なおさら致命的だ。清国にとってみれば、貧乏の小国である琉球からの朝貢品など、たかが知れていたかもしれない(むしろ清朝は、朝貢品を受けると、何倍にもして返礼するのが常であった)。だが、清国にとって重要なのは冊封体制の維持であり、体制から外れる国が出てくることは、清国のメンツが傷つけられることを意味する。琉球が恐れていたのはこのことだろう。

 ここで、以前の記事「相澤理『東大のディープな日本史2』―架空の島・トカラ島の謎」のことを思い出した。琉球は、清朝との属国関係を心配するだけでなく、日清との両属関係にあることを外国に隠そうとした。日本(薩摩藩)は琉球が清国の属国であることを知りながら、琉球を日本の属国としている。一方、清国は琉球が自国以外の国(日本)の属国になっていることを知らない。仮にそれがバレると、先ほどと同じように清国のメンツが潰れることになる。
(1)[海軍提督の申し入れ]北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。

(2)[琉球王府の返事]当国は小さく、穀物も産物も少ないのです。先の明王朝から現在まで、中国の冊封国となり、代々王位を与えられ属国としての義務を果たしています。福建に朝貢に行くときに、必需品のほかに絹などを買い求めます。朝貢品や中国で売るための輸出品は、当国に隣接している日本のトカラ島(架空の国)で買う以外に入手することはできません。その他に米、薪、鉄鍋、綿、茶などがトカラ島の商人によって日本から運ばれ、当国の黒砂糖、酒、それに福建からの商品と交換されています。もし、貴国と友好通商関係を結べば、トカラ島の商人たちは、日本の法律によって来ることが禁じられます。すると朝貢品を納められず、当国は存続できないのです。
(フォルカード『幕末日仏交流記』)
 上の文章(1)(2)は、1846年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めた時の往復文書の要約である。以前の記事でも書いた通り、(2)は琉球が日清との両属関係にあることを隠すための答弁だったと解説されている。しかし、改めてこの文章を読んでみても、私の国語力が足りないせいか、どうもそういうふうには解釈できない。(2)の答弁は1回の回答ではなく、海軍提督とのやり取りをまとめたものであろう。そのやり取りは、次の通りであったと推測される。

 琉球王府「当国は小さく、穀物も産物も少ないのです。先の明王朝から現在まで、中国の冊封国となり、代々王位を与えられ属国としての義務を果たしています」
 海軍提督「中国には何を納めているのか?」
 琉球王府「必需品のほかに絹などを納めています」
 海軍提督「絹は琉球で作れるのか?」
 琉球王府「(やばい、琉球では絹は作れない。実際には薩摩藩から入手している。しかし、それを正直に答えると、薩摩藩との関係が疑われる。よし、ここは適当なことを言ってごまかそう)絹は琉球に隣接するトカラ島という小さな島(架空の国)で買う以外に方法がありません」

 これでも結構危うい答弁である。海軍提督がトカラ島のことを詮索したらアウトである。幸いにも海軍提督はそれ以上突っ込んだことを聞かなかったので、1つ難を逃れた。しかし、その後に出てくる「もし、貴国と友好通商関係を結べば、トカラ島の商人たちは、日本の法律によって来ることが禁じられます」という言葉はいただけない。この言葉は、琉球と日本の間に何かしらの取り決めがあることを示唆してしまっている。個人的には、上記の琉球王府の回答は、琉球が日清との両属関係にあることをほとんど認めているように感じるのである。

 実は、琉球側の努力も空しく、琉球が日清との両属関係にあったことは、西欧の間では周知の事実であり、清国も知っていたという。
 1840年に「琉球の資本は多くこれを日本に貨とす。国中にて行使するのはみな日本の寛永銭にして、販するところの各貨を日本に運ぶのは十のうち八、九を常とする。たびたび中国に貢するのは、ただに恭順であるだけでなく、その国勢(貧小)がそうさせるのである。(清史稿)」と記している。
 明治時代に入ると、日本の一部となるのか、日清との両属関係を維持するのかで、王国を二分する論争が起きた。両属関係維持派は頑固派と呼ばれたが、彼らの本音はこうであった。
 官禄は世襲なので学識がなくとも、みんな年長にしたがって昇格する。日清両属の関係を持して門閥の資格を保ちたい。もし日本専属に帰すれば世襲の階級は皆無となる。ただ学識がある者が官に昇り、禄を受けるわれらの家門は衰微し、子孫は飢えてしまう。
 要するに、両属関係にあれば、年功序列制で自然と出世できるので、その方がよいというわけだ。自分の家のことを最優先し、国全体のことを考えていないと王府の人間は嘆いた。

 明治時代に入ると、日本の琉球処分をめぐって日清で激しい応酬が繰り広げられた。仲裁に入ったグラント元アメリカ大統領は、次のように忠告した。
 清国は琉球諸国を洋上航路に欠かせない要路とみている。朝貢は問題ではなく、争点は土地である。日清が争えば漁夫の利を得るのは西洋である。琉球諸国の境界を分画し、太平洋に出る航路を清国にあたえれば、承諾するだろう。
 だが、清には元々、太平洋進出の意図はなかったと思われる。清の李鴻章はこう述べている。
 琉球王国の島々は、清国沿岸と東シナ海との間にあって、海上交通要路の海域にまたがっている。琉球は台湾に余りにも近い。琉球王国が日本の手中に落ちるということは、触手が台湾の目前に迫ることであり、その台湾は清国沿岸の近くにある。だから、日本の南進を警戒しているのである。日本の暴挙に対し、対決する決意であり、日本を恐れるものではない。
 つまり、琉球が日本のものになると、太平洋進出の邪魔になるからではなく、日本の勢力が台湾まで迫って来るから困ると言っているわけである。清は、南シナ海は固有の領域と思っていたかもしれないが、太平洋に関してはほとんど関心がなかった。中国は現在、アメリカに対して、「太平洋を中米で二分割して支配しよう」などと発言している。しかし、その元をたどると、実はグラントのようなアメリカ人が入れ知恵したことが原因ではないかと邪推する。以前の記事「マイケル・ピルズベリー『China 2049』―アメリカはわざと敵を作る天才かもしれない」で、世界を二項対立的にとらえるアメリカは、自国の対抗馬をわざと作っておかないと気が済まないと書いたが、アメリカは100年以上前から、中国を将来の敵とすべく動き出していたのかもしれない。

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