プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年11月29日

【ドラッカー書評(再)】『企業とは何か―その社会的な使命』―GMの分権化の特徴、他


企業とは何か企業とは何か
P.F.ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2005-01-29

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 GMの分権化の特徴
 ドラッカーが研究したGMは、典型的な事業部制組織であった。事業部制組織はさらに3つのパターンに分けられる。1つ目は、財務会計、人事、情報システムといった、いわゆるスタッフ機能も全ての事業部制組織に持たせ、本社経営陣の直下には経営企画室ぐらいしかないというパターンである(この事業部制において、それぞれの事業部を自立させると、いわゆる社内カンパニー制になる)。2つ目は、財務会計、人事、情報システムなどをそれぞれの事業部が持つと同時に、本社経営陣の直下にも同じく財務会計、人事、情報システム部門がスタッフ部門としてぶら下がる形である。事業部の中にある人事部の社員は、事業部内の人事部マネジャーに報告すると同時に、スタッフ部門の人事部マネジャーにも報告する義務が生じる。

 3つ目は、本社経営陣の下に、典型的なスタッフ部門だけでなく、調達、製造、物流、営業といったライン機能もぶら下がるという形式である。調達、製造、物流、営業などは、それぞれの事業部と本社経営陣側で重複する。GMが採用していたのがこの方式であった。
 これら製品別の各事業部に加え、本社機能として、生産、技術、販売、研究、人事、財務、広報、法務等、それぞれ担当の副社長に率られるスタッフ部門がある。本社スタッフ部門は、本社経営陣と事業部長に対する補佐役であって、経営政策の策定と事業部間の調整に携わっている。
 本社スタッフ部門は、事業部外の情報を事業部に伝えるとともに、事業部の情報を本社経営陣に伝える。本社経営陣は、事業部の生産、技術、流通、人事についての情報をスタッフ部門に依存する。それらの情報は、本社経営陣と事業部経営陣のチームワーク上重要な意味を持つ。(中略)スタッフ部門が経営政策を定めるわけではない。提案するだけである。採用してもらうためには、本社経営陣と事業部経営陣双方に売り込まなければならない。
 ドラッカーは、GMの経営組織の強みを「分権化」にあるとした。分権化とは、簡単に言うと、事業部制組織において、それぞれの事業部長に大きな権限を与え、本社の経営陣は事業ポートフォリオ管理や組織横断的な組織文化の醸成など、全社的な経営課題に集中するという仕組みである。また、スタッフ部門は、引用文にある通り、事業部に対してサポート機能を果たすにとどまる。GMの事業部制組織は、スタッフ部門にライン機能が含まれる”重たい”事業部制組織であるにもかかわらず、この原則が守られていた。

 分権化が各事業部長への権限移譲であれば、それは事業部制組織の特徴そのものであって、ドラッカーが敢えて分権化と名づけるまでもないはずである。分権化の本質は、本社経営陣から各事業部長への権限移譲ではない。事業部長は課長へと、課長は現場社員へと、組織の下層に対して次々と権限委譲をする点が重要である。本社経営陣は10の権限のうち、9を事業部長に移譲して、手元に1の権限を残す。事業部長は9の権限のうち、7を課長に移譲して、手元に2の権限を残す。課長は7の権限のうち、4を現場社員に移譲して、手元に3の権限を残す。現場社員は4の権限を手にする。つまり、組織の下層に行くほど権限が大きくなり、上層に行くほど責任が大きくなる。換言すると、いわゆる「権限―責任一致の原則」は、分権制では崩れる。

 ドラッカーも、事業部内での権限移譲について、次のように述べている。
 GMの事業部のなかには、事業部内で分権制をとっているものがある。戦時に創設された航空機関係の事業部の1つでは、事業部全体を分権制によって組織している。5つの工場すべてが、それ自体独立した事業部であるかのようにマネジメントされている。(中略)

 しかもこの事業部は、分権制を工場レベルの下のレベルにまで適用していた。工場内の各部門を独立させ、それらの長に全面的な権限を与えた。ただし、経営幹部は全員、頻繁に開かれる会議を通じ、事業部の方針や直面する課題を知らされていた。
 分権化を進めるためには、部下に対して単に「この範囲の仕事を創意工夫を凝らして実施せよ」と告げるだけでは不十分である。引用文にあるように、権限移譲される側は、仕事・組織の全体像は何か?その全体像の中で自分の役割はどのような位置づけにあるのか?を知らされなければならない。その上で、全体像に貢献するために、自分はどのような成果を上げるべきか?その成果はどのような尺度によって測定するのか?を決定する。ただし、成果を上げるための手段については、権限移譲される側の自由に委ねられる。これが分権化の手順である。
 第2の教訓は、人は金のために働くのであり、仕事や製品のために働くのではないとの考えの間違いだった。働く者は、作業、製品、工場、仕事を知り、理解しようとしている。そ粉で工場の経営陣は、社会的見地ではなく効率的見地から、仕事と製品の関係が見えるようにするために知恵を絞った。その結果は効率と生産性だけでなく、士気と満足度の向上だった。
 この事業部では、工場の仕事、空気、音、匂いになれさせるために、新人をすぐ機械に配備した。2、3日してから訓練係が工場付属の射撃場へつれていき、目の前で銃を分解して構造を説明した。そして、その新人がかなり正確に加工した部品をつけて、実際に何発か撃たせた。次に、同じくその新人が雑に加工した部品をつけて撃たせた。こうして部品と性能の関係を納得させた。
 分権化においては、組織はフラット化しない。この点は誤解されがちだが、ドラッカーはきっぱりと、分権化とフラット化は異なると断じている。分権制においてはむしろ、階層構造が維持される。社員は階層を昇りながら、徐々に大きな責任を身につけていく。つまり、徐々にリーダーとしての能力を習得する。リーダーシップとは究極のところ、自分の思い通りには動かない人たちを使って、望ましい成果を上げることである。分権化による組織の階層は、上に昇れば昇るほど自分の思い通りには動かない部下が増える構造であり、リーダーシップを少しずつ練習する格好の場となっている。仮に組織がフラット化すると、事業部長はいきなり自分の思い通りには動かない部下を大勢抱え、大きな責任を背負うことになる。これでは社員が潰れてしまう。

 自由企業体制と集産体制
 私が経済学に疎いこともあって、ドラッカーの経済学を理解するのにはいつも苦労してしまうのだが、本書で論じられているドラッカーの経済学を私なりに整理すると次のようになる。まず、現代社会は産業社会、つまり産業が社会の中心を占める社会である。この点については誰も異論はないだろう。その産業社会を支える体制として、ドラッカーは集産体制と自由企業体制の2つを挙げる。集産体制は、天然資源を中心として、国家の富を増やすことを目的とする。そして、需要が量的に無限大であるのに対し、供給が限定的であるという前提に立つ。

 この場合、限られた供給を上手くコントロールしないと、価格体系が崩壊する(現代でも、石油に関してOPECが行っていることがこれである)。そこで、国家自身が供給のコントロールに乗り出す。したがって、(国家が所有する)企業は自ずと独占的になる。自由競争に供給や価格の調整を委ねるという発想はない。集産体制は将来の見通しが立てやすい経済である。だから、計画経済が成り立つ。ただし、需要が”量的に”無限大ということを前提にしているため、今国民が欲しているものを永遠に生産し続けることを意味する。したがって、国民の生活水準が上がって、将来的に国民のニーズが変化する可能性がある点は全く無視されている。

 もう一方の自由企業体制は、集産体制とは正反対の前提に立つ。まず、自由企業体制の目的は、天然資源ではなく、人的資源を活用して国家の富を増やすことである。さらに、無限なのは需要側ではなく供給側である。その需要は限定的であると同時に、時間によって変質するという特性がある。また、供給側は、土地や設備といった古典的な生産要素ではなく、人的資本すなわち人間の能力に依存しているため、”質的に”無限大である。供給側は人間の能力を鍛え、様々に組み合わせることで、可変的な生産能力を手にすることができる。

 需要側も供給側も変動的であるから、集産体制のように、国家による統制は不可能である。代わりに、需要側と供給側が出会う場として、市場が重要な役割を果たす。市場では、価格が自由に形成される。このことは、消費者である市民が、無限の供給の中から自らの需要に合致したものを選択する自由な存在であることの証となる。国家は供給の統制を放棄しているため、市場には競合他社が現れる。市場が有限で、かつ競合他社が存在するということは、競争を健全に保つ上での企業の適正規模があることを意味する。大きすぎても小さすぎても競争は歪められる。その適正規模を測る指標として、ドラッカーは市場シェアとコストという2つを示している。

 ドラッカーは、自由企業体制を攻撃する人たちは、利益と利潤動機を混同し、かつどちらも悪いものと見なしている点を批判する。まず、利益とは、前回の記事でも書いたように、将来のコストである。企業が持続的に成長・発展し続けるための投資の源泉である。よって、利益とは本来的には企業の手元に残るものではない。次に、利潤動機についてであるが、ドラッカーは利潤動機という個人的な欲求を、社会的な目的へと融合させることができると説いている。利潤動機は、人に対する欲求ではなく、モノに対する欲求である。よって、利潤動機が原因で、圧政という政治的暴力の悲劇が生じることはない。人々が利潤動機を追求すれば、社会の富を豊かにするという社会的目的の達成につながることをドラッカーは期待している。

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