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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2016年12月22日

姜尚中『ナショナリズム』―ナショナリズムと移民、国体(雑記)


ナショナリズム (思考のフロンティア)ナショナリズム (思考のフロンティア)
姜 尚中

岩波書店 2001-10-26

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 浅学の私ごときがナショナリズムについて何か特別な見解を持っているわけではないのだが、頑張って記事を書いてみる。まず、ナショナリズムがなぜ必要なのかを考えるにあたっては、国家がなぜ必要なのかに立ち戻らなければならない。国家起源の動態モデルの例としてカール・ドイッチュの説がある。ドイッチュは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。

 資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。一定の地域である程度のコミュニケーション密度が長期間継続すると、そこは「くに」(country)となる。そして、そこに住む人たちが「民族」(people)と呼ばれるようになる。この「民族」(people)が自分たち独自の政府(government)つまり統治機構(state)を持ちたいと考えた瞬間に「民族」peopleは「国民」(nation)となる。こうした「民族」(nation)あるいは「国民」(nation)が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」(nation-state)である。

 統治機構を持つということは、経済社会と文化情報共同体を管理・制御ないしは拡張・発展させるためのルールを策定することを意味する。そのルールに正解が1つしかないのであれば、地球上にはただ1つの国家が成立することとなる。いわゆる地球市民の誕生である。これに対して、そのルールが多様であるならば、その多様性の数だけ国家が生まれる。現代は多元国家社会であるから、後者の考え方に立脚していると言えるだろう。仮に人間が完全に合理的であれば、ただ1つのルールも成立しうるのかもしれない。しかし、人間は不完全な存在であるから、それゆえに多数の国家が導かれるのは自然の流れである。

 ナショナリズムは、統治のルールを策定した人々がこの世を去った後でも、国家が必要だと思わせるための動機である。あるいは、先代から引き継いだルールを現在の事情に合わせて調整する役割を担う覚悟である。いずれにしても、統治のルールが正統であると思わせるのがナショナリズムである。ただし、前述のように、ルールの正統性は客観的ではない。客観性があれば、ルールは結局1つに収斂し、単一国家が成立するはずだ。しかし、現実はこれと異なるので、正統性とは主観的である。主観的であるがゆえに、人によっては不自然さを覚える。不合理さを感じながらもなおそれが必要だと思わせるのは、国家に対する同情でも共感でもない。紛れもない愛である。我々は、愛する人に欠点を見出しても、それも含めて相手を愛することができる。

 国家はナショナリズムを高揚させるために、様々な手を打つ。典型的な手法は歴史教育である。ナショナリズムを重視する国家は、歴史教育において①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調する傾向がある(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。建国の神話は、統治のルールのプリミティブな源泉である。そのルールに基づいて創られた国家は、他の国家よりも優れていると刷り込む。そして、自国が優れているにもかかわらず、外部の国家から傷を受けたことを屈辱に思い、反骨心を燃やす。それがナショナリズムのエネルギー源となる。

 現在、グローバル化の進展に伴って移民が増加し、先進国のナショナリズムを脅かしていると言われる。先進国にとって、移民はナショナリズムを傷つける存在であるから、移民が増えれば増えるほど、ナショナリズムは否応なしに燃え上がる。そこで、移民を自国のナショナリズムに統合することはできないかと考えるようになる。例えば、ドイツは移民に対して日常生活で必要なドイツ語の教育を行い、ドイツのコミュニティに融合できるよう様々な支援を施している。

 ただ、個人的には、移民のナショナリズムを変えることは不可能に近いと考える。元々ヨーロッパ諸国は、国民国家が人為的に形成された国家である。まだ国家が脆弱で、ナショナリズムなるものがほとんど意識されていなかった時代には、一から国民国家を創造することもできただろう。しかし、現代は国民国家が成熟し、ナショナリズムを持つヨーロッパ諸国に、それとは別のナショナリズムを持つ移民が流入している。こうなると、いくら人為的に国民国家を創出した過去を持つヨーロッパと言えども、ナショナリズムの統合は困難を伴う。

 企業の合併においてさえ、双方の組織文化を統合することは難しい。よって、近年は合併せずに、経営統合によって持株会社を作り、その下に既存の企業をぶら下げるという手法が取られることが多い。こうすれば、組織文化の統合をあまり気にしなくても済む。企業ですらこんな具合なのだから、国家レベルでナショナリズムを統合するのは至難の業である。企業の場合、仮に組織統合に失敗しても、社員には企業を辞めるという選択肢がある。しかし、ナショナリズムの場合は、ナショナリズムの統合が気に入らないからと言って簡単に離脱することができない。だから、ナショナリズムの衝突は深刻な問題を引き起こす。

 やや話が逸れるが、日本は人種、経済社会、文化情報共同体の境界がほとんど奇跡的に一致していて、ほとんど自発的に国民国家が形成された国家である。近年、労働力不足を理由に移民の受け入れの是非が活発に議論されている。ヨーロッパでさえ苦労しているナショナリズムの統合を、日本がやすやすと行えるとは思えない。そうでなくても、日本は太平洋戦争で中国や朝鮮などの人々を完全に日本人化しようとして失敗している。このことを忘れてはならない。

 そもそも、移民の増加は本当にグローバル化のせいなのかという疑問が湧く。ヨーロッパに中東からの移民が流入しているのは、グローバル化が進展したからというよりも、アメリカを中心とする有志連合軍にヨーロッパ各国が参加し、シリアやISを空爆している結果である。よって、移民の増加は経済的な要因ではなく、政治的な要因である。だから、どうすれば移民を自国に統合できるか?移民と共存できるか?という問いは、問題の設定が誤っている。どうすれば移民が生じないようにできるかという政治的な問題に取り組まなければならない。

 一般的に、グローバル化した経済では、人、モノ、資金、情報、知識が国境を越えて自由に移動すると説明される。冒頭に挙げた経済社会は拡大傾向にある。経済社会が拡大すれば、新たな統治ルールが必要となる。しかし、現代において、新しい統治ルールのために国家が統合するという話はついぞ聞いたことがない。むしろ、国家の数は増える一方であり、特に小国の増加が目覚しい。その要因は、人だけは越境移動が少ないからではないかと思われる。

 確かに、外国で働く人は増えている。だが、その増加率は、他の要素の越境移動の増加率に比べると著しく低いと予想される。グローバル企業が外国に進出した場合、本社から現地法人に送り込まれる人間はごく少数で、ほとんどがローカル社員で構成される。特に、欧米企業はこういうマネジメントをやる傾向が強い。つまり、人の移動は大々的には発生しないのである。世界は思ったほどフラット化していない。よって、文化情報共同体は経済社会ほどには広がらない。むしろ、インターネットによって人々のコミュニケーションが密になると、文化情報共同体は分断される。これが、現代において小国が増加している一因であると考えられる。

 そうは言っても、移民や外国で働く人はゼロにはならないから、ナショナリズムの衝突に関する解決策も考えておかなければならない。そのためには、ナショナリズムの中身をもっと穏健なものにすべきだ。先ほど、ナショナリズム的な教育では、①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調すると書いた。このうち、②③は他の民族との競争、衝突を想定している。つまり、他の民族と競争、衝突しなければナショナリズムを保つことができない。移民によるナショナリズムへの攻撃とは、ナショナリズムの性質そのものが招来した結果であるとも言える。したがって、ナショナリズムから比較、優劣という概念を外し、②は相互尊重に、③は民族の自信(もちろん、他の民族を打ち破ったという自信ではない)に置き換えなければならない。

 ここからは日本の話。日本では、ナショナリズムは国体という言葉で語られることが多い。しかし、この国体が指す意味は非常に曖昧である。太平洋戦争では国体のために国民が戦ったと説明されるが、軍・政府の要人から末端の国民まで、国体の中身を理解している人は誰一人としていなかったと、本書の著者である姜尚中氏も山本七平も同じように指摘している。

 強いて言うならば、国体とは天皇制のことではないかと私は考える。よって、国体は天皇に近い立場にある人にとっては非常に重要となる。だが、本来、天皇に近い立場にある人は少数である。日本社会は、本ブログでも何度か述べたように(以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」を参照)、垂直方向と水平方向に細かく区切られた巨大なピラミッド社会であり、日本人がそれぞれの持ち場で能力を発揮することを美徳とする。ピラミッドの下層に位置する大半の人にとって、頂点に位置する天皇は遠い存在である(同じことは日本人と政治の関係についても言える。日本人から見ると、米仏の大統領選では候補者と国民の距離が近いことに驚かされる)。

 太平洋戦争は、天皇と縁遠かった一般人を無理やり天皇に近づけて、社会全体をフラット化し、総力を動員する戦いであった。慣れない方法で戦った日本は結局敗れ、天皇に近づいた多くの人々は元のポジションに戻った。その時に彼らが見せた反応は驚くほど似ている。つまり、「本当にこの人が軍隊を率いていたのか?」と思わせるような、ひ弱な反応を示すのである。分際を超えた役割を担わされたことの現れである。姜尚中氏は、丸山眞男の論文から次の箇所を引用している(孫引きとなることをご容赦いただきたい)。
 彼ら〔戦犯裁判の被告〕に於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。従ってそうした権威への依存性から放り出され、一箇の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於いて、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。
(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」)
 山本七平は、戦後に収監されたある将官の変化について次のように述べている。
 選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者(リーダー)の資質があるなら、今でも何かを感ずるはずだが、それは感じられない。

 野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。(中略)そういう苦悩があるとさえ感じられない。
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08

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 天皇に近い人にとってナショナリズムが重要であるということは、裏を返すと、大半の国民にとってナショナリズムは関係がないことだと思われるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。国民は天皇制を心象すればよい。その上で、巨大なピラミッド構造における自分の持ち場において、最善を尽くせばよい。というのも、巨大なピラミッドは、天皇が象徴すること、すなわち、

 ①歴史や伝統を重んじること。過去の遺産を引き継ぎ、生きている間に価値を加えて、よりよい形で次世代に引き継ぐこと。
 ②日本は天然資源に乏しい国である。そこで、限られた天然資源を有効に活用すること。
 ③一方で、日本人の能力は多様であり、様々な可能性があると信じること。学習によって個々の能力を伸ばし、適材適所を実現すること。
 ④集団・共同体・和を重んじ、仁の精神を実践すること。平時の際も危機の際も他者を助け、他者に奉仕し、秩序を守ること。
 ⑤③で日本人の能力の可能性を信じると書いたが、日本は西欧のように飛び抜けた天才に恵まれた国ではない。そこで、他国のよいところを積極的に取り入れることで能力を補うこと。その代わりに、他国に対する恩返しを忘れないこと。

を体現するように長い年月をかけて形成されてきたからだ(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)。つまり、それぞれの国民が自分のポジションで責任を全うすることが、天皇制の支持につながる。こういう”弱い”ナショナリズムが日本には合っていると思う。

 最後に1つ思考実験。仮に日本が移民だらけになった場合、それでもナショナリズムは存続するかという問いである。前述の通り、日本の場合はナショナリズム=国体=天皇制であるから、天皇制が存在する限りナショナリズムは存続すると考える(天皇制が続くということは、移民だらけになっても、皇室に入る日本国民が最低限度存在することを前提とする)。だが、移民だらけになった日本社会は、現在の社会とは似ても似つかぬものになるだろう。それでも天皇が前述の①~⑤を象徴していればナショナリズムが存続していると言えるのか、国民がほとんどいないのに①~⑤を象徴するとはどういうことなのか、①~⑤と現実社会が大幅に乖離していてもナショナリズムがあると言えるのか、これらの点については今の私には十分に論じることができない。

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