プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>@tomohikoyato谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士

Next:
next 【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション
Prev:
prev 【数学ⅡB】センター試験(2017年)を解いてみた(6年連続)
2017年01月19日

【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義


アメリカ

 現代のアメリカ企業の戦略を論じる前に、時代を3世紀ほど遡りたいと思う。18世紀、西洋では啓蒙主義が花開いた。啓蒙主義とは、一言で言えば人間の理性を絶対視する立場である。一般に、啓蒙主義の下では、宗教は因習的であり、理性を束縛するものとして批判されたと考えられているが、実際にはその逆であり、宗教と理性が固く結びついた。厳密に言えば、唯一絶対の神と人間の理性が結合した。それまでは、宗教は人間の手の届かない「あちら側」にあったが、啓蒙主義によって神を「こちら側」に手繰り寄せることに成功した。「あちら側のメシアニズム」が「こちら側のメシアニズム」になったわけだ。ピーター・ドラッカーは、『産業人の未来』の中で、この近代啓蒙思想が後の全体主義や社会主義(いわゆる左派)を生んだと指摘している。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 唯一絶対の神と人間の理性が結びついた世界では、神と人間が直線的につながることが理想とされる。もっと言えば、人間は神に似せて創造されたのだから、神と人間が完全かつ無限なる全体として一体になることが理想である。そのため、神と人間の間に何かしらの組織や機関が介在することを嫌う。組織や機関が介入するたびに、その正統性が厳しく問われる。政府や企業は人々から厳しい目を向けられる。信仰の場である教会ですら、糾弾のターゲットとなりうる。

 共産主義では国家が必要悪とされる。社会主義では、世界中の労働者階級が連帯して資本家階級の打倒を目指す。つまり、そこに国家は存在しない。社会主義に至る過程にあるのが共産主義であり、各国で社会主義者を育成し、プロレタリアートを動員するために、仕方なく国家の仕組みを活用するにすぎない。社会主義者が目下の目的を達成すれば、国家は不要となる。

 社会主義においては、共同体の最小単位とされる家族でさえ不要とされる。レーニンは、子どもが生まれたら国家が面倒を見ればよいと言った。日本の左派の中にも、家族が個人の自由を束縛するとして、家族の解体を主張する人がいる。例えば社民党の福島瑞穂氏は、子どもが成人に達したら「家族解散式」を行うと宣言していた。人間理性を絶対視する立場の人にとって、人間は生まれながらにして完全である。赤ん坊には、その子が将来どのような人間に成長するかが完璧にプログラミングされている。だから、親がしつけをする必要も、学校が知識を教育する必要もない。左派にとって、教育は脅威である。だから、左派は知識層を徹底的に攻撃する。

 繰り返しになるが、唯一絶対の神=人間の理性とする立場においては、人間は生まれながらにして完全である。ということは、人間が時間の流れに伴って成長するという発想がない。つまり、過去から未来に向かって時間が流れるとは考えない。生まれた時点という現在のその1点が全てであり、時間を無限に支配している。左派は進歩派とも呼ばれるが、実際には進歩などしない。だから、右派が新しい技術を開発するたびに、神の道を踏み外していると批判し、技術の危険性を誇張して、進歩を逆戻りさせようとする。極左ともなれば、人間の最も根源的な営みである農業への回帰を強く説く。このような原始共産主義の考え方は、古代ギリシアにも見られる。

 農業は共有財産に基づく営みである。人が神と同じく絶対で無限である時、個人は1人であると同時に全体でもある。1人が所有するものは、すなわち全体が所有するものである。ここに私有財産制は否定され、共有財産制が採用される。1が1であると同時に全体でもあることは、政治の世界にも表れる。全員が等しく同じ考えを表明できるという点では民主主義的である。しかし、別の見方をすれば、ある1人の意見が全体の意見に等しくなるのだから、専制的であるとも言える。カール・シュミットが指摘したように、民主主義と独裁は両立するのである。

 シュミットは、議会主義、民主主義、そして独裁の関係を、次のように整理した。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」(『現代議会主義の精神史的地位』)。

 ここでは、議会主義と、民主主義および独裁の間に境界線が引かれている。シュミットは、両者を分かつものについて次のように述べている。議会主義を構成するのは「討論」であり、「自由主義」であり、つまりは多元性と異質性の原理である。これに対して、「民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に―必要な場合には―異質なものの排除ないし絶滅ということである」。この同質性の原理によって、民主主義と独裁は繋ぎとめられるのであり、民主主義の源である「人民の喝采」、すなわち「反論の余地を許さない自明のもの」が、その強度を増していけば、それは独裁へと連続的に移行する(同上)。

現代議会主義の精神史的地位 (新装版)現代議会主義の精神史的地位 (新装版)
カール・シュミット 稲葉 素之

みすず書房 2013-05-17

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 唯一絶対の神=人間の理性という世界では、神の下での自由と平等が説かれる。それぞれの人間の完全なる自由はむき出しで、他者に無制限に向かっていく。我々の通常の感覚であれば、他人の自由を侵害する自由は認められない。しかし、今ここで問題になっているのは、完全なる人間が持つ完全なる自由である。だから、その自由を制限することなどあり得ない。自由に制限がないということは、自由を束縛する法律の存在を許さないということである。共産主義者は国家に対してアナーキズムを持ち出すと同時に、法律に対しても法ニヒリズムを主張する。

 左派はしばしば連帯の重要性を説く。しかし、その実態は実は空虚である。お互いがむき出しの自由をぶつけ合う世界で全員の自由を全て矛盾なく成立させるためには、逆説的だが個々人が孤立するしかない。そもそも、それぞれの個人は単体であると同時に全体でもあるのだから、敢えて連帯する必要がない。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」、つまり「一緒に一人で」いるしかないのだ。社交にのめりつつも内心ではつねにぽつねんとしている。

 このように書くと驚かれるだろうが、極左と極右は同根異種である。唯一絶対の神=人間の理性という世界における平等とは、全ての人間を等質に扱うことである。しかし、現実の人間には様々な差異がある。これに対する対処法は2つある。1つは、差異をなかったものとして扱うことである。非嫡出子に嫡出子と同等の法的地位を与えよとか、同性婚を法的に認めよとか、女性にも男性と同じように社会進出の機会を与えよといった主張はこれに該当する。また、最近の教育現場では、学校の運動会で順位をつけない、演劇発表会で生徒全員に桃太郎をやらせる、体育の時間に男女同じ部屋で着替えさせる、などといったことが行われている。個人の差に意味があることを無視して、全てを同じように扱えと言っているわけであり、これが極左の立場である。

 もう1つは、特定の属性を持つ集団のみを絶対視し、それ以外を徹底的に排除することである。ナチスやISはこれに該当する。世間では極右と呼ばれる存在である。ISはクルアーンを絶対視しており、クルアーンが成立した時点で時間の流れが止まっている。つまり、彼らには歴史という概念がない。だから、中東の各地において、歴史的遺産を平気で破壊することができる。寛容的な極左と暴力的な極右は全く異質なように見える。ところが、個人個人の差異をなかったものとして無理やり同質化することも、立派な暴力である。

 極左と極右は「死」をめぐっても同じ見解に達する。啓蒙主義以前の時代には、神の存在をどのように証明するかが議論となった。人間はある人間を原因として誕生する。その人間はまた別の人間を原因として誕生する。その因果関係をずっと遡っていくと、自分自身を自ら生み出すことができる自己原因的な存在を想定しなければならない。これが神だというわけである。ところが、啓蒙思想によって、唯一絶対の神=人間となった。ということは、人間が人間を生むことができるようになる。ハインツ・ゴルヴィツァーは、「来たるべき人間の生成が自己創造からのみ出現することができる」(『マルクス主義の宗教批判』)と述べている。

マルクス主義の宗教批判 (1967年) (新教新書)マルクス主義の宗教批判 (1967年) (新教新書)
ゴルヴィツァー 松尾 喜代司

新教出版社 1967

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 一方で、人間には死があり、有から無へと帰す。この点についてフォイエルバッハは、死によって「種属の意識」を強め、「われわれの墓のかなた天井の彼岸を、われわれの墓のかなた地上の彼岸と、つまり歴史的未来・人類の未来と置き換える」ことができると言う。死=無によって、現在生きている者の生を絶対化する。今生きている者=有は、死=無によって現在という1点に固定され、革命を目指す。他方で、死んだ者=無は雲散霧消はせず、今度は再び有を生み出す源泉となる。有と無は連環する。ここに革命の”永久機関”が実現する。これは極左的な考え方であるが、太平洋戦争時の日本で見られた極右の一億総玉砕的思想とも共通する。山本七平は、「『死の臨在』による生者への絶対的支配」と呼んだ(『一下級将校の見た帝国陸軍』)。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08

Amazonで詳しく見る by G-Tools


  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like