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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年01月31日

金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?


ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンスベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
金森修

NHK出版 2003-09-25

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 著者が「正直いって、そうとうに難しいよ」というベルクソンについて、彼の代表作である『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』のいずれも読まずに、本書だけを読んでレビューを書こうというあまりにも無謀な試み。ベルクソンは、近代科学が様々な物質や事象を機械的・空間的に把握してきたことに対し、それでは説明から逃れてしまうものに注目した哲学者である。同時に、その説明から逃れてしまうものが、あたかも機械的・空間的に説明し尽くされたかのように扱われることに対して警告を発している。

 本書では「ウェーバー=フェヒナーの法則」が挙げられている。「感覚量は、刺激量の対数に比例する」というものである。例えば、今10本のロウソクが光っているとする。それに1本のロウソクを足して、その微妙な光り具合の変化を感じさせる。そして、次にロウソクを100本に増やす。この場合、先ほどと同じように1本のロウソクを足して101本にしても、光り具合の変化は感じられない。同じような変化を感じさせるためには、10本増やして110本にしなければならない、ということである。ウェーバー=フェヒナーの法則は、我々の感覚を数学的にシンプルに表現している。ところが、ベルクソンはこれに異を唱える。ロウソクが10本から11本になる時の質的な変化と、100本から110本になる時の質的な変化との間には、数値に還元できない何かがあると言う。

 このように、機械的・空間的に把握できないものの代表例として、ベルクソンは「時間」を挙げている。ベルクソンは、我々は時間を忘れているとまで言う。そんなことを言っても、私は今朝8時から銀座で行われるクライアントとのミーティングに合わせて、いつもより早い5時半に起床し、1時間かけてミーティングの資料に目を通しながら朝の準備をし、余裕を持って電車に乗って、銀座まで残り5駅だからあと10分ぐらいで到着するだろう、といった具合に時間を駆使している。だが、この24時間という時間、そして1日、1か月、1年というそれぞれの単位は、地球の自転や公転などの周期的な運動を基準にして決められたものである。人間が作為的に設定した単位という意味で、機械的・空間的である。ベルクソンはそのことを批判している。

 ベルクソンは、空間的時間とは異なる時間があると主張する。これを「純粋持続」と呼ぶ。
 それは空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である。
 機械的・空間的な思考に慣れきっている私には、この純粋接続を理解することは難しい。強いて別の表現をするならば、宇宙という全体性のことではないかと思う。ベルクソンは、我々は誰もが自分の中に純粋接続を持っており、何かしらの方法によってその純粋接続に触れることができると言う。言い換えれば、我々の中にある宇宙にアクセスできる。このように書くと、安直な私などは、私という個と宇宙という全体を一体化してとらえるのは「U理論」や「マインドフルネス」と共通する考え方であり、ひいては全体主義につながるのではないかと警戒してしまう(詳しくは「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照)。

 だが、ベルクソンは「自分だけのものとしての純粋接続」という表現を使っている。全体性でありながら、そこから個別具体的な何かが流れ出しているというのが純粋接続である。そう考えると、全体性が個性と同一化し、全ての人が一様に扱われ、人々が皆同じという点であたかも連帯しているかのように錯覚させる全体主義とは一線を画しているように思える。

 ベルクソンは、純粋持続と知覚、身体、記憶、自由との関係について論じている。その議論の特徴は、二項対立の中庸を取るという点にあると感じる。例えば、ベルクソンは「事物」と「表象」の間に「イマージュ」という概念を導入する。事物とは我々の外部にあって、機械化・空間化されたものである。一方の表象とは、我々の意識の内部に結ばれる像である。ベルクソンは両者の間にイマージュという言葉を挿入することで、実在論も観念論もともに問題があると指摘した。

 同様に、我々の外部にある「知覚」(知覚が我々の外部にあるというベルクソンの主張は我々にとって驚きである。しかしベルクソンは、知覚とは身体性とは関係のないところ、当の知覚対象がある場所に存在すると述べている)と、我々の内部にある「記憶」の間に「記憶心像」という概念を導入した。さらに、我々の外部にある「自然」と内部にある「意思」との間に「習慣」という概念を挿入する。自然という事物だけでは習慣は成立しない。我々は、外部にある自然を自分の意思によって我がものとし、それを反復的に扱うことで、習慣とすることができる。ベルクソンのように、二項対立の間を取るという発想は、本ブログで何度か述べた日本の「二項混合」的発想と何か共通点があるのではないかと思う。この辺りはさらに掘り下げてみたいテーマである。

 先ほど、記憶は我々の中にあると書いたが、実はベルクソンは、真の記憶は我々の中にないと主張している。記憶の背後には「純粋記憶」と呼ばれるものが存在している。そして、この純粋記憶は、我々の脳の中にはない。本書の著者は「まだ青臭い学生」だった頃にこの主張を読んで、「生意気盛りの若者らしく、『そんな馬鹿な』と思って、本を投げ捨ててしまった」という。
 要するに、君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心像が物質化しつつあるものに他ならない。
 我々が何か外部の事象を見る時、我々の背後に控えている膨大な純粋記憶がその事象に関する情報を与え、記憶心像を形成する。しかも、驚くべきことに、我々がその事象を初めて見る場合であっても、純粋記憶は記憶心像を結び、知覚を圧倒するのだという。

 この純粋記憶の性質について、著者はある仮説を提示している。
 どうやら、先の純粋記憶の存在の仕方は、必ずしも個人個人の人格内部に限定されているものではない、とベルクソンは考えていたらしい。つまり僕の純粋記憶は、僕の過去約50年の知覚の総体であり、君の純粋記憶は、君の全人生の知覚の総体だ、というように、それぞれの純粋記憶が人格ごとに弁別されているのでは、必ずしもなさそうなのだ。

 いわば、複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、とういような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。(中略)もしそうであるなら、それぞれの記憶が個人の脳に限定されている必要がなくなるのは、論理的にも当然のことだ。
 これまで生きた人間の記憶が、この宇宙のどこかに純粋記憶という形でデータベース化されており、我々が何か事物を見ると、そのデータベースから必要な情報が関連づけられ、知覚が形成されるということなのだろう。ただし、著者の考えには2つ問題があると思う。1つは、最初に生まれた人間にとっての純粋記憶は空っぽで、知覚を形成することができないということ。もう1つは、我々が純粋記憶に頼る限り、我々は過去の奴隷にすぎないのではないかという点である。

 1つ目の問題に対しては、純粋記憶とは今までに生きた人間の記憶の蓄積ではなく、宇宙という全体性を指していると解釈することで解決できるような気がする。2つ目の問題に対しては、純粋接続の考え方と共通するが、純粋記憶とは「空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である」という性質のものなのではないかと考える。

 全体主義のように全体性を一方的に個人に押しつけるのではなく、純粋記憶は全体性でありながら、そこからそれぞれの個人に向けて個別具体的な何かを絶えず生成するという点に意味がある。純粋持続や純粋記憶を探求すれば、我々は多様性を保つことができる。そして、それこそが人間にとっての自由である。ベルクソンが言いたかったのは、こういうことなのだろう。

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