プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年01月13日

『「トランプのアメリカ」と向き合う(『世界』2017年1月号)』―大国は常に「恐れ」を抱いていることを忘れてはならない、他


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 (1)
 「ブレグジッティアーズ」と「トランピスト」たちを敢えて一括りにすれば、彼らは「没落しつつある中間層」と特定することができるだろう。イギリスにおいては、それは「ミッドランド」と呼ばれる、戦後の高度成長を牽引してきた工業地帯の住民たちであり、低学歴でも真面目に勤め上げていればそれなりの生活を送ることができた人々であった。アメリカにおいても、トランプの得票がいわゆる「ラストベルト(錆びついた工業地帯)」と呼ばれるミシガンやオハイオ州で伸びたことは記憶に新しい。
(吉田徹「グローバリズムの敗者はなぜ生まれ続けるのか」)
 日本でも中間層は没落していると考えられる。日本は消費不振によるデフレから未だに脱却できていない。黒田総裁がバズーカ砲を発射して日銀に大量の国債を購入させても、インフレ目標の2%に遠く及ばない。日銀は金融機関が保有する国債を購入することで金融機関の資金を潤沢にし、それが企業の設備投資資金として融資されることを期待していた。しかし、デフレとはモノ余り、カネ不足の状態なのだから、企業はこれ以上設備投資をしようがない。行き場を失った資金が株式市場に流れて、経済の実態を伴わない株価の上昇を招いているのが現状である。それによって利益を得ているのは、外国の機関投資家である。

 モノ余り、カネ不足の状態から脱却するには、金融機関ではなく、最終消費者にお金が回るようにしなければならない。そのためには、企業が労働分配率(付加価値のうち、いくらを賃金に回しているかを表す割合)を引き上げる必要がある。日本の労働分配率は、1977年には76.1%であったが、2011年には60.6%と、30年余りで20.4%も減少している(同じ期間のアメリカの労働分配率は、1977年が68.2%、2011年が63.7%で、6.6%の減少となっている)。

 以前の記事「『震災から5年「集中復興期間」の後で/日本にはなぜ死刑がありつづけるのか(『世界』2016年3月号)』―「主権者教育」は子どもをバカにしている、他」で、日本は個人よりも組織を優先する社会であるから、法人税を減税する一方で消費税を上げようとすると書いた。しかし、一時的にこの傾向を改めて、企業が労働分配率を上げるように政府が働きかけ、それにもかかわらず労働分配率を抑えて内部留保をため込もうとする企業に対しては高い法人税率を課すことが必要であろう。企業が社員に高い給与を支払うことで、彼らの消費を活性化する。これもまた、「事業の目的とは顧客の創造である」というドラッカーの名言のもう1つの意味だと思う(以前の記事「ドラッカー「顧客の創造」の意味に関する私的解釈」を参照)。

 (2)
 この要素を特に強調したのは大陸系のカルヴィニズム神学であったが、その中心的なモチーフはあくまえも「片務契約」、すなわち神は人間の不服従にもかかわらず一方的に恵みを施与する存在である、という点だった。ところが、ピューリタニズムがアメリカに移植される頃になると、次第にその強調点が転移して「双務契約」化する。つまり、神と人間は、お互いに契約履行の義務を負う存在となるのである。人間の義務は神に従うことであり、神の義務は人間に恵みを与えることである。神は、正しい者には祝福を与え、悪い者には罰を与える。因果応報、信賞必罰の論理で、ひとたび人間が義務を果たしたら、今度は神が義務を果たす番になる。つまり、正しい者は神に祝福を強要する権利をもつのである。(中略)

 プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムの神学においては、救いはひとえに絶対者である神の予定にかかっているのであって、人間の義や行いが左右できるものではなく、したがって人間の知り得るところではない。
(森本あんり「ドナルド・トランプの神学」)
 私が本ブログで何度か書いたアメリカのイノベーションを支える神学に合致する部分であるため、やや長いが引用した。イノベーションとは、まだこの世に存在しないニーズを先取りして革新的な製品・サービスを創造することである。よって、イノベーターは、伝統的な市場調査に頼ることができない。代わりに、イノベーター自身を最初の顧客に見立てて、「私はこういう製品・サービスがほしい」という思いを形にする。そして、「私がこれだけ心の底からほしがっているということは、世界中の人も同じようにほしがってくれるに違いない」と信じる。その普遍化した信念に基づいて、イノベーターは神と契約を締結する。その契約内容とは、「このイノベーションをいつまでに全世界に普及(布教)させる」というものである。

 ただし、その契約が本当に正しいかどうかは、引用文にもある通り、神にしか解らない。正しい契約を結ぶことに成功したイノベーターは、全世界に自分のイノベーションを広めることに成功し、莫大な富を手に入れることができる。しかし、なぜその契約が正しかったのかを神は教えてくれない。だから、イノベーションの成功要因を第三者が分析しても、それらしい理由はいくつか思いつくものの、本質的なことはよく解らないのである。イノベーションを表面的に模倣して、第二、第三の成功を狙おうとする者が現れるが、神は彼らに対して祝福を与えない。

 それから、正しい契約を結ぶことができなかったイノベーター、それから、そもそも神と正しい契約を結ぼうとしなかった者も、富を得ることができない。彼らが生きる道は、神と正しい契約を結んだイノベーターの道具となって、馬車馬のように働くことしかない。よって、アメリカでは表向きは神の下の平等が保障されているにもかかわらず、実際には非常に大きな格差が生じる。

 (3)
 2015年PKO法改正案には、「駆けつけ警護」=「紛争による混乱に伴う切迫した暴力の脅威から住民を保護する」、および「宿営地共同防護」=「外国の部隊の要員が共に宿営するものに対する攻撃があったとき当該要員と共同して武器を使用する」の2類型がくわえられた(25条)。どちらも武器使用の次元を「警告・威嚇」から「突入・射殺」へと格段に増大させるものとなる。
(前田哲男「境界線失う「武器の使用」と「武力の行使」」)
 安保法制の下で自衛隊が外国人を防護する場面が増えることになった。国際的な要請に従ったということになっているが、軍事音痴の私が素朴に疑問に思うことは、外国人云々の前に、そもそも自衛隊は日本を守ることが本当にできるのかということである。以前の記事「『天皇陛下「譲位の御意向」に思う/憲法改正の秋、他(『正論』2016年9月号)』―日本の安保法制は穴だらけ、他」でも書いたように、安保法制には様々な欠陥がある。暴走する中国に対して安倍総理が一応のファイティングポーズを見せたことは評価できるものの、中国が日本の法体系を調査して穴を発見した場合、その穴をついてくる可能性がある。

 現在の日本にとっての軍事的脅威は、確率が高いものから順に並べると、①尖閣諸島における中国との衝突、②朝鮮半島における北朝鮮と韓国の戦争、③ロシアの南下である。ロシアは世界一の国土を持ちながら、いや世界一の国土を持つがゆえに、他国から侵略されるのではないかと恐れている(実際には、ロシアの国土の大半は、農業にも工業にも適さない土地なので、それをほしがる国などほとんどないのだが)。そのため、ロシアは南下して自国の影響範囲を広げようとする。クリミア併合はこの文脈で理解することができる。ロシアが北方領土問題で、択捉島と国後島だけは絶対に譲ろうとしないのは、ロシアが太平洋に出たいからである(逆に、歯舞諸島、色丹島は太平洋進出の障害にならないため、日本に返還してもよいと言っている)。

 現在の日本の自衛隊は、この3つの脅威に十分に対応できる体制になっているのだろうか?まず目につくのは、陸・海・空の人員構成のいびつさである。海上自衛隊と航空自衛隊は約4万人ずつであるのに対し、陸上自衛隊は14万人いる。陸上自衛隊の数が突出しているのは、敵軍が日本本土に上陸した際に専守防衛に徹することを想定しているためだと言われる。しかし、現代の武力衝突の主戦場は海と空である。しかも、日本の海洋面積(領海+排他的経済水域(EEZ))は447万平方キロメートルもあり、世界6位である(日本の国土は約38万平方キロメートルで世界61位)。もちろん、この全ての海洋が外国からの軍事的脅威に面しているわけではないが、わずか4万人ずつの海上自衛隊と航空自衛隊で本当に十分なのか不安になる。

 沖縄に基地が集中しているのも懸念材料である。中国からの脅威や朝鮮半島における両国の衝突に対応するためには沖縄が最適であろう。しかしながら、ロシアの南下に対して、現在の基地の配置が本当に適切なのかどうか、私にはよく解らない。

 (4)
 米政府は、核兵器を禁止しようとするとかえって「核兵器の使用の可能性も含む・・・非常に不安定な安全保障環境をつくり出すリスクがある」(2015年10月12日、国連総会第一委員会でフランク・ローズ米国務次官補)という。だが、核を禁止すると核がむしろ使用されやすくなるというのは、屁理屈としかいいようがない。
(川崎哲「核兵器禁止条約と日本の安全保障」)
 核兵器のような危険なものはいっそ禁止してしまおうというのは、小国の発想である。大国はそのようには考えない。アメリカでは銃乱射事件が頻発するにもかかわらず、銃の規制が一向に進まない。合衆国憲法に銃を保有する権利が規定されているとか、銃の業界団体が規制に反対しているとか色々言われるが、一番大きいのは、「相手が武器を持っているならば、こちらはもっと強力な武器を持とう」と考えるアメリカ人の思考である。だから、相手が銃を持っているならば、もっとたくさんアメリカ人に銃を持たせようというわけである。

 (3)でも書いたが、アメリカやロシアのような大国は、常に外国から侵略されるのではないかという恐れを抱いている。その恐れを緩和するために、強力な武器を持つ。大国であるがゆえに、その恐れも必然的に大きなものとなり、自国を守る武器も巨大化・高度化する。それが核兵器のような凶悪な武器を生み出す。こういう思考回路は、日本のような小国には絶対に理解できない。引用文は、核兵器禁止条約にアメリカが反対していることを示す文章であるが、ロシアが復活し、中国が急激に軍事費を増大させている中で、アメリカが核兵器を放棄することはとても考えられない。今後もアメリカは核兵器に頼り続けるだろう。

 仮にアメリカが核兵器の放棄に着手するとしたら、①核兵器の製造・維持にかかるコストが大きくなりすぎて財政を圧迫している、②核兵器システムが複雑になりすぎてコントロールが難しくなっている、という2つの局面しかない。あくまでもアメリカの都合によって動くのであって、世界平和のために動くわけではない。①②の条件が揃えば、アメリアは核兵器禁止条約に署名するかもしれない。しかし、したたかな、一方で非常な恐れを抱くアメリカは、その頃には核兵器に代わる新しい武器を開発済みであろう。すなわち、核兵器よりも低コストでコントロールがしやすく、かつ破壊力が大きい兵器を用意している。残念ながら、これが国際政治の現実である。

 (5)
 佐藤:「命を守るマニュアルになっているかどうか」という話です。想定内のときにはマニュアルは要らない。大事なのは、想定外のときに役立つかという観点です。
(山形孝夫、佐藤敏郎、諸永裕司「学校は子どもの命を守れるか」)
 大川小学校の悲劇に関する記事である。想定外の時に役立つマニュアルというのが具体的にどういうものを指しているのか、この記事では詳しく書かれていなかった。想定外の時に役立つのであれば、それは既に想定されていることではないかという素朴な疑問が湧く。

 あらゆることを想定してマニュアルに落とし込むのは不可能である。そんなことをすれば、マニュアルが分厚くなりすぎて、肝心な時にすぐに参照できない。だから、どこかで線引きをして、「これ以上は想定外」と割り切るしかない。ただし、想定外だから何もしないというわけにはいかない。本文中で言う「想定外の時のマニュアル」とは、想定外の時にどのような意思決定プロセスを踏むのかを定めたマニュアルのことではないかと考える。

 例えば、(非常にラフな案だが、)①緊急時には必ず3~5人で協議する、②反対意見や第三の意見が出るまで議論を続け、それぞれの案のメリット、デメリットを比較する、③最後は集まった3~5人の中で最も職位が上の者が決断を下す、といった意思決定プロセスをマニュアルに明確に定めておく。そして、次の点が重要だが、マニュアルに定められた適切な意思決定プロセスを経たのであれば、仮に結果が最悪に終わったとしても、当事者の責任を問わない。

 ところで、この記事における佐藤氏の発言には1つ矛盾がある。「決断するのはリーダーだとしても、議論はみんなでやるものです」と述べておきながら、一方で次のように語っている。
 裏山に逃げようと考えた先生が複数いたのは事実です。教頭も山に避難したいと思っていた。私は、そこで地域の人に聞いたのが間違いだったと思います。なぜなら、地域の人について言えば、大川小も危険だと予想した人はすでに別の場所に避難しているからです。校庭にいる地域の人は、ここが安全だと思って集まっているわけです。そこで教頭が孤立してしまった。(同上)
 議論は皆でやるべきだと言っているのに、住民は間違った考えを持っているから排除すべきだったというのは、あくまでも結果論にすぎないと思う。間違った考えを持っている人が含まれているかもしれないことを前提として、それでも集団が合理的と考える結論に至るにはどういう意思決定プロセスをたどるべきかを探究する必要があるのではないだろうか?

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