プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年02月14日

日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(2/2)


組織図

 前回の記事「日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(1/2)」の続き。

 ⑤権限委譲という名の丸投げ
 欧米流の組織論は、「権限と責任を一致させなければならない」と教える。これを「権限・責任一致の原則」と呼ぶ。ところが、日本企業の場合は、上位になるほど権限より責任の方が大きくなる。というのも、現場を重視する日本企業は、現場にできるだけ大きな権限を持たせる傾向があるからだ。仮に経営者が最初に10の権限を持っていたとする。すると、経営者は10の権限のうち9を部長に移譲して、手元に1だけ残す。部長は移譲された9の権限のうち、7を今度は課長に移譲して、手元に2だけ残す。課長は移譲された7の権限のうち、4を今度は現場に移譲して、手元に3だけ残す。つまり、権限は経営者<部長<課長<現場の順で大きくなる。これに対して、責任は現場<課長<部長<経営者の順で大きくなる。

 権限移譲は、前回の記事で述べた「下剋上」を下位の階層から引き出す上でも重要である(以前の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』―部下からの「下剋上」を引き出すには①大枠の提示と②権限移譲、他」を参照)。なぜなら、組織を改善するほどの重要なアイデアは、細分化された仕事よりも、大きな仕事をしている中から生まれるからだ。また、上司が部下の「下剋上」を採用し、部下にそのアイデアを実行させる段階でも、やはり部下に大きな権限が必要である。上司から「君がそこまで言うのならば、君がやってみなさい」と言われたのに、部下が経営資源(人・モノ・金・情報・知識)を自由に動かせないのであれば全く意味がない。

 ここからが問題なのだが、日本企業では、しばしば権限委譲と丸投げが混同される。権限移譲とは、「会社としてはこのような方向性で考えている」、「最低限、こういう行動規範、倫理規定、価値観に従ってほしい」という大枠を設定した上で、部下に仕事を任せることである。それをせずに、好きなようにやってよいというのは、単なる丸投げである。幕末の長州藩種・毛利敬親のように「そうせい候」と言っているだけではいけないのだ(ただし、毛利敬親に関しては、木戸孝允や伊藤博文、高杉晋作など傑出した人物を輩出した点をプラスに評価する向きもある)。以前の記事「『人事再生(『一橋ビジネスレビュー』2016年SUM.64巻1号)』―LIXILと巣鴨信用金庫について」では、巣鴨信用金庫がおもてなしサービスを開発した際に、経営トップが開発チームに丸投げした結果、新サービスがなかなか日の目を見なかったことについて触れた。

 ⑥自分では何もやらない批評家・評論家タイプの量産
 ⑤で、日本企業においては、権限は経営者<部長<課長<現場の順で大きくなり、責任は現場<課長<部長<経営者の順で大きくなると書いた。これが重要な問題を引き起こす。つまり、ミドルマネジャー(部長・課長)は、権限は下位者に移譲してしまい、責任は上位者が取ってくれるというポジションにいるため、責任ある行動をしなくなるのである。「我が社はここがダメなんだ」、「我が社はもっとこうするべきだ」と、口先では立派なことを言うのに、何一つ行動を起こさない批評家・評論家型のミドルマネジャーはどの企業にもいると思う。

 この問題は日本企業の構造がもたらす一種の宿命であるから、解決するのは非常に難しい。強いて解決策を書くならば、「下剋上」と「下問」をすることだろう。特に、「下問」をするべきである。というのも、ミドルマネジャーが「下剋上」しても、上位者は自分よりも権限が小さく、責任だけが大きい人であるから、アイデアを実行してもらえない可能性がある。それよりも、下位層に「下問」すれば、そこには自分よりも大きな権限を持った人たちがいる。彼らの仕事の目的達成を支援すれば、実りある成果が得られる可能性が高い。そうすれば、「あのマネジャーは口先だけでなく、行動が伴っている」と、部下からの評価も高まるに違いない。

 ⑦誰も責任を取らない「社会全体無責任体質」
 日本企業では、責任は現場<課長<部長<経営者の順で大きくなるから、最後は経営者が責任を取るだろうと思われがちだが、実際には違う。企業が不祥事を起こすと、経営者が責任逃れに徹するという場面を、我々は嫌というほど見せつけられている。この現象を分析するには、日本社会全体を巨視的にとらえる必要がある。ラフなスケッチになるが、日本社会は「(神?⇒)天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭⇒個人」という多重階層構造になっている。下の階層は上の階層に従うという構図は、企業内の構図と全く同じである。

 ここで、企業が不祥事を起こしたとする。不祥事をやった現場の社員を問い詰めると、「上司に言われてやりました」と答える。そこでその上司を問い詰めると、その上司もまた「上司に言われてやりました」と答える。こうして組織の階層を上に上っていけば、最後は経営者に行き着くわけだが、彼らは「(企業の上に位置する)市場の要求でやりました」と内心では思っている(もちろん、記者会見で正直にそんなことを言う経営者はいない)。先ほどのラフなスケッチに従うと、市場の上には行政府が、行政府の上には立法府が、立法府の上には天皇がいる。だから、非常に極論であるが、企業の不祥事の責任を追及していけば、天皇にまで行き着くことになる。

 だが、天皇の上には神々がおり、この神々も実は階層構造になっていて最上位が見えない(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)。だから、無限に責任追及は上昇していき、究極の責任を突き止めることが不可能なのである。いわば、日本社会は全体が無責任状態にある。太平洋戦争の終結後、昭和天皇の責任を問う声が戦勝国から上がったが、日本人はついに昭和天皇に戦争責任を被せなかった。その理屈も、これまでの話でかなりの程度説明できると思う。

 ⑧強すぎる水平方向の「ムラ」意識
 日本企業は水平方向にコラボレーションをし、時には競合他社や異業種と連携すると書いた。水平方向のコラボレーションは無限に拡大していく可能性を秘めている。これが理想形であるが、中にはコラボレーションの拡大を止めてしまい、似た者同士の集合に変質してしまうケースがある。日本人は「和」の精神を大切にしていると言われる。本来の「和」とは、価値観や考え方などが異なる多様な人や集団を共存させるものである。ところが、その「和」が勘違いされて、いつの間にか同類の仲良しクラブになってしまう。そうすると、異質な者の参入に対して過剰反応し、異質を排除するようになる。これは、本来の「和」からは程遠い行動である。

 以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」で、日本社会は「にじみ絵型」であると表現した。これは、組織が「下剋上」や「下問」を通じて垂直方向に、「コラボレーション」を通じて水平方向に移動することで、組織の境界線を敢えて明確にしない状態を表したものである。日本の企業は、異質を取り込むための窓を開けているか常に自問自答しなければならない。連携している企業との関係が極めて安定的であるならば、閉鎖的な仲良しクラブと化していると見た方がよい。

 海外の論文では、組織がコラボレーションをする時、組織間で共有の価値観を持つことが重要であるとよく言われる。しかし、日本の場合はこれを額面通りに受け取ってはいけないと思う。もちろん、複数の組織が一緒に行動する以上、最低限守らなければならないルールは存在する。だが、価値観が完全に一致するならば、組織が分かれている必要はなく、組織を統合してしまえばよい。組織が異なるということは、価値観の相違が必ず存在するということであり、価値観のコンフリクトが必ず生じるものである。しかし、そのコンフリクトから重要な学習が生まれ、新しい価値が生じる。ここに「コラボレーション」の醍醐味がある。だから、単に共有の価値観を持つだけでなく、価値観が適度に対立している状態を目指すべきである。

 ⑨同業他社などの失敗から学べない
 ⑧とも関連するが、日本企業の水平的な「コラボレーション」の範囲が狭くなると、同業他社などの失敗から学習することができなくなる。食品の産地偽装、自動車のリコール、粉飾会計など、似たような企業不祥事が日本では頻繁に繰り返される。ある食品会社で産地偽装が発覚すれば、通常は他の企業は褌を締め直して、「我が社では同じような問題が生じないようにしよう」と対策を練るのが普通である。ところが、日本企業はなぜか同業他社などの失敗を対岸の火事ととらえており、自社は同じ失敗を犯さないと思い込んでいるように見える。

 安易な二分論を持ち出すのはよくないのかもしれないが、日本は農耕社会、欧米は狩猟社会である。欧米の狩猟社会においては、獲物が獲得できないことはすなわち死を意味する。そのため、失敗(=獲物が捕獲できなかったこと)の原因は徹底的に追及され、その原因を人やシステムに帰着させる。そして、二度と同じ失敗を繰り返さないように、人的・システム的な対応策を十分に検討し、幅広く水平展開する。これに対して、農耕社会の日本では、失敗(=農作物が収穫できないこと)は天候などのせいにされてしまう。これに、⑦で述べたような「社会全体無責任体質」が加わると、誰も失敗を真面目に分析しようとしない。

 日本企業は、水平方向の視野をもっと広く持つ必要がある。競合他社の製品・サービスの特徴や差別化要因を徹底的に分析するのと同じ姿勢で、競合他社などの失敗事例を徹底的に検証し、「我が社で同じようなことが起きるリスクはないか?」と厳しく問うことが重要である。

 ⑩リセットボタンを押さないと抜本的な改革ができないという思い込み
 日本企業は長い歴史と伝統の上に構築されている。このコンテクストの上に様々な改善を加えていき、その結果として、中長期的に見れば組織が大きく変化することを狙う。この作業は実は非常に難しい。企業が培ってきた歴史や伝統の深さに対する十分な理解が必要であるし、その歴史や伝統の上に一貫性を保ちながら新たな要素を追加していかなければならないからだ。端的に言えば、重厚な論理的思考と途方もない粘り強さが要求される。これに耐えられない人は、欧米流の変革マネジメントでリセットボタンを押し、一から再構築した方が早いと考える。

 確かに、日本の歴史を振り返ってみると、明治時代と終戦直後はリセットボタンが押された時代であったと言えるだろう。そして、リセットボタンを押した後に、日本社会が急激に成長した。しかし、日本の長い歴史全体で見れば、リセットボタンが押されたのはその2回だけであり、むしろ例外中の例外である。だから、リセットボタンを理想化するのはよくない。リセットボタンで歴史が断絶することは、すなわち種が一度は存続の危機に瀕することを意味する。歴史を失った民族や国家がどのような道をたどるかは、世界の情勢を見ていればよく解る。歴史は、自己保存のために不可欠なのである。そして、歴史を保ったまま変革することは決して不可能ではない。

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