プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年02月16日

神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他


ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2002-10

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 以前の記事「金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?」と同様、ニーチェの主要な著書である『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な、あまりにも人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』、『ツァラトゥストラはかく語りき』などを一切読まずに、本書だけを手がかりに記事を書くという暴挙。この年齢になって、大学生の時にしっかりと勉強しなかったことを本当に後悔している。

 ニーチェは非常に多産な哲学者であった。多産な物書きの宿命として、後代の人によってその人の文章から一部分だけが断片的に取り出されて好きなように解釈される、ということがある。私が敬愛するピーター・ドラッカーも多産な文筆家であり、そのような運命に陥っているように感じる(というか、私もその運命の片棒を担いでいる)。ニーチェの場合もこの運命を逃れることができなかったようだ。とりわけニーチェの場合は、親族によって著作が改竄されるという憂き目に遭っている。ニーチェの妹・エリザベートは、『力への意志』をナチスの活動と共鳴させる意図を持って出版した。その結果、ニーチェはナチズムの先触れという汚名を浴びることになった。

 『力への意志』はともかく、ニーチェの文章を(ニーチェには悪いと思いながら)断片的に追っていくと、『力への遺志』以外の文章においても、全体主義に通ずる部分があると感じる。
 この世界は、はじめも終わりもない巨大な力であり、増大も減少もせず、消尽されず、ただ変化するのみの、不動で固定的な一定量の力であり、支出も損失もないかわりに、同時に増殖も収入もなく、自らの限界以外の限界は「何も」なく、一定の力として一定の空間に収められ、しかもその空間のどこにも「真空」はなく、むしろ力として遍在し、力と力動の戯れとして、一にして同時に「多」であり、(以下略。太字下線は筆者)
 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で、全体主義に関する私の(浅はかな)理解を書いたが、改めてもう一度簡単にまとめておく。啓蒙主義以前の西洋には、唯一絶対の神と、神によって造られた不完全だが多様な人間がいた。ところが、啓蒙主義によって人間の理性が合理化されると、かつては人間の「あちら側」にあったメシアニズムが「こちら側」に手繰り寄せられ、人間が神と同じ絶対性を獲得することとなった。一般的に、啓蒙主義は脱宗教・世俗化のプロセスと説明されるが、私はむしろ人間が神になったと認識している。全ての人間は唯一絶対の神と等しいわけだから、個人と全体は同義である。多様性という考えはなくなる。これが、私有財産を否定する社会主義や、独裁と民主主義を同一視する全体主義へとつながっていく。
 卒業に際して提出した論文は、紀元前6世紀の詩人・テオグニスについてのものだが、その詩句の一節に、「地上に生きる人間にとっては生まれぬことこそ、また焼き焦がす陽の光を見ぬことこそ、すべてにまさって善きこと、だが生まれしうえは、一時もはやく冥府の門をくぐり、うず高い土塊の下に眠るにしかず」というのがあるが、(以下略)
 『悲劇の誕生』の第三節においても、ミダス王の追手から逃れつつ、頑に沈黙を守り続けたシレーノスから強いて聞き出したこととは、「人間にとって、生まれ来らぬことこそ最善のこと、だがしかし次善のこととしては、生まれた以上は、できるだけ速やかに死に至ることであり、これこそ人に可能な最善のこと」という言葉であった。
 以前の記事「『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他」で、左派の思考を突き詰めると、人間は生まれない方がよいという結論に至ると書いた。人間が生まれなければ、人間は絶対無である。ところで、神は無から有を創造する存在であるから、その本質は絶対無である。つまり、人間が生まれなければ、人間は神と同じ絶対性を達成できる。

 だが、実際には人間は生まれる。そこで、考え方を変えなければならない。人間が唯一絶対の神と同一であるということは、生まれながらにして完成していることを意味する。だから、生まれた瞬間という現在の1点が、時間の全てを支配している。そこには過去も未来もない。よって、過去から学ぶとか、未来に向かって能力を鍛えるという発想もない。そして、この時間軸における現在の絶対性を際立たせるために、人間は死ぬ。人間が早く死ねば死ぬほど、現在はより際立った時間となる。死んだ人間は無に帰すが、実はその無は再び有=新しい人間を生み出す源泉となる。神が無から有を生み出すのと同様に、人間もまた無から有を生み出す。こうして、人間の有と無は連関する。現在という絶対的な時間において、生まれては死ぬことを繰り返す。

 ニーチェの言葉を借りれば、これは「永遠回帰」である。
 おまえが現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いやさらに無数の回数、おまえは生きなければならぬだろう。そこに新たなものは何もなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、おまえの人生の言いつくせぬ大小さまざまの事柄の一切が、おまえの身に回帰せねばならない。しかも、何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって。
 見るがいい、この「瞬間」を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?(中略)

 そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるすべてのものをひきつれているのではないだろうか?したがって、―自分自身をも。まことん、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を―やはりもう一度走らなければならないのだ!―
 本書の副題は「どうして同情してはいけないのか」である。我々の道徳的感覚に反するような問いに対して、ニーチェは次のように答えている。
 他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの怯懦を確認させるであろう。(中略)われわれはこの種の苦痛と侮辱を拒絶して、憐れむという行為によって、それらに復讐する。この行為のなかには、巧妙な正当防衛や、あるいは復讐すら込められている。
 啓蒙主義がもたらした全体主義においては、1人は全体と等しいと書いた。よって、ある人がマイナスの感情を持てば、それは直ちに他者にも共有される。味わう必要のないマイナスの感情を負わされることになる。だから、それを真面目に受け止めて同情してはならないというわけである。ニーチェは、憐れみは「正当防衛」であり、「復讐」であると書いている。これはおそらく、ある人がマイナスの感情を自分に負わせることに対して、自分が憐れむ、すなわち同じようにマイナスの感情を抱くことで、その人にマイナスの感情を跳ね返して攻撃するという意味だろう。

 マイナスの感情を持つ他者に同情してはならないということは、同時に、自分もマイナスの感情を抱いて他者を害してはならないことを要求する。つまり、1人が全体と等しい世界では、感情があまりにも急速に共有されるから、一切の感情が禁止される。社会主義者は連帯を、全体主義者は民族意識の高揚を解く。しかし、逆説的だが他者と心理的につながることは禁止されているのである。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」という状態である。

 このように見ていくと、ニーチェの主張には救いがないように感じる。だが、ニーチェは全体主義的な傾向に陥らないための方策をいくつか用意していると私は解釈している。
 心酔し傾倒する相手に対して、その相手をまず二重化して、優れた点・好ましい点だけに注目して、そこに自己の模像もしくは分身を見出し、そして反対の劣った点・好ましくない点をそれと闘わせ、競い合わせて、前者の優れた点・好ましい点を高めていくという方法である。(中略)反発し敵対するようになったからといって、相手に対する敵対者としての尊敬を失うわけではない。
 これは、本ブログの言葉を使えば、「二項対立」を導入したということである。そして、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたように、フランス啓蒙主義の影響を受けて独立したアメリカが全体主義に陥らなかったのは、二項対立のおかげである。二項対立的発想によって、自分とは異なる他者の存在を認めることができるようになった。つまり、自己の絶対性は消える。二項対立においては、お互いに対立はするが、相手を完全に消し去ろうとはしない。相手を消し去ってしまえば、自己が絶対になってしまうからだ。だから、二項対立においては常に敵を必要とする(以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」を参照)。

 次に、永遠回帰についてだが、ニーチェはこれを理想とはしていない。永遠回帰は人間にとって「重し」である。ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』には、「鷲の首に絡みついた蛇」という比喩が登場する。「鷲」が表すのは「飛翔」、「蛇」が表すのは「円環」である。そして、同書の中で、鷲と蛇の関係は次のような結末を迎える。
 そのとき彼(※ツァラトゥストラ)は、この円環の象徴である蛇をかみ切るのである。してみると、「永遠回帰」の思想はついに「飛翔」のモチーフとは一体になれずに、愚かさをともなった「誇り」として「飛翔」を続けることを、ツァラトゥストラ自身予感していることになる。
 たとえ全体主義という、思想的には全く欠点がないように見えるものがあっても、人間は愚かなことにそれを捨て、いやそれどころか、愚かでありながら誇りを持ってそれを捨て、飛翔するのである。この時の人間の精神状態は、ニーチェが唱えた「ラクダ⇒獅子⇒子ども」という3段階説によれば、「子ども」の状態である。子どもにできるのは、「笑う」ことである。
 『善悪の彼岸』第26節は、そのことをもっとも端的に示す箇所であり、誇り高い孤高の人間が、邪悪な魂とは異なる低劣な魂のうちに誠実さを求めて下降する過程が描かれている。その邪悪ではない、低劣な魂とは、もっとも典型的には動物である。
 キュニコス的な真の自由は、自分の動物性を認めそれを感ずることのうちにある。それを肯定する人間にとっての最高の表現状態が哄笑なのである。人間という動物のみが笑うことができる。
 同情を禁じたニーチェは、未来回帰という考え方に基づいて全体主義に接近した。引用文の「誇り高い孤高の人間」とは、全体主義者のことである。ところが、ニーチェはそれを「重し」と感じて、最終的には放棄した。「低劣な魂」に下り、子どものように「哄笑」することを選択した。これにより、全体主義の暴力性と決別し、愚かであっても人間らしい暖かさを得られるようになった。

 本書の「はじめに」の部分で、著者は本書を9.11テロ事件の前後に書いたと述べている。テロの犠牲者に対して、我々は普通同情の念を禁じえないだろう。ところが、ニーチェの「同情の禁止」という命題が頭にあった著者は、本書でこの問題に触れないわけにはいかないと感じたそうだ。だが、本書を読んでも、我々はテロの犠牲者に対してどのような感情を抱けばよいのか、明確な回答は得られなかった。本書の最後は「子どもの笑い」で締められている。「子どもの笑い」のような感情であのテロ事件を、そしてテロ犠牲者を思うということは一体どういうことなのか、ない知恵を一生懸命絞って考えてみたものの、いい考えが思い浮かばなかった。

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