プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年02月22日

鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った


禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 足かけ約12年で記事の数が2,000本に到達しました(旧ブログ1,118本、現行ブログ679本、ブログ別館203本)。いつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。1本あたりの文字数は時期によってバラバラなのですが、仮に平均2,000字/本とすると、約400万字書いた計算になります。原稿用紙に換算すれば約1万枚、原稿用紙1枚の厚さは約0.1㎜なので、積み上げると約1mに上ります。

 ただ、2,000本書いても自分で本当によく書けたと思う記事は数えるほどしかありません(涙)。右カラムの自己紹介欄に、モットーとして「実事求是」、「一貫性」と掲げていますが、間違ったことや矛盾したことを書いたかもしれません(何か所かは自覚症状あり)。作家の北方謙三氏は、20代の頃に原稿用紙1万枚分ぐらいの作品を書いたけれども、全部ボツにしたという話を『致知』のインタビュー記事で読んだことがあります。今の私の心境もそれに近いものがあります。本当の勝負はここからスタートです。次は4,000本を目指して精進したいと思います。
 ブログ別館の記事「『人を育てる(『致知』2016年12月号)』」で、アメリカで今流行りの「マインドフルネス」は禅の影響を受けていることに触れた。ここで私は、「本来の禅とは、絶対性や全体性の獲得を目指すものだったのであろうか?確かに禅には、静謐な空間で、他者との交わりを断って厳しい修練を積むというイメージがある。しかし、その修行の目的は、他者の異質性を認め、顔の見える他者と血の通った交流をじわじわと広め、さらにその関係を深化させることにあるのではないだろうか?」と書いた。そこで、禅について知るために本書を読んだ。本書は、宗教家である鈴木大拙が海外に禅を紹介したものである。本書を読んだ第一の感想は、「禅と全体主義は共通点が多い」ということであった。私の仮説はものの見事に打ち砕かれてしまった。

 私が理解する全体主義について、今一度整理しておきたいと思う(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義は18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の嫡子である。啓蒙主義においては、唯一絶対の神と人間の理性が同一化された。啓蒙主義は非合理的な宗教を排除したと説明されることが多いが、実際にはむしろ逆で、宗教と人間が深く結びついた。人間は唯一絶対で全体性を帯びた神に似せて創造されたのであるから、人間も神と同じ性質を有する。地球上には何十億という人間がいるが、皆唯一絶対の存在であり、全体である。すなわち一が全体に、全体が一に等しいことを意味する。

 一が全体に等しく、全体が一に等しい社会においては、私有財産は否定される。私のものとあなたのものという区別はなくなり、財産は全人類の共有物となる。また、一が全体に等しく、全体が一に等しい社会では、独裁と民主主義が両立する。というのも、1人の意見は全体の意見に等しいからである。全体の意見を抽出すれば民主主義的に見えるが、その全体の意見は結局のところ1人の意見と等しい。こうして、全体主義では共有財産制と独裁がその特徴となる。

 神は無から有を生み出す存在である。神と人間は等しいのであるから、人間もまた、無から有を生み出すことができる。唯一絶対の神と等しい人間は、生まれながらにして唯一絶対である。言い換えれば、生まれた時点で既に完成しており、革命は成就している。だから、教育によって人間の能力を伸ばそうとか変えようといった発想はない。むしろ、人間が下手に教育を施して、人間の完全無欠性が傷つけられることを恐れる。だから、全体主義社会においては、知識人や教育者が激しく迫害・弾圧される。全体主義では、生まれた時点という現在が時間軸の全てを支配する。現在という時間は有限であるが、同時に無限である。無限なる有限と言ってもよい。

 ところで、神と人間には決定的な違いがある。神は不滅であるが、人間は死ぬ。この点をどう考えればよいか?人間は死によって、生き残った者を現在という時間に固定する。そして、その固定をより強めるためには、人間は早く死んだ方がよい(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。太平洋戦争で若者が天皇陛下万歳と叫びながら次々と特攻していったのも、この理屈で説明できる。山本七平はこれを「死の臨在」による生者への絶対的支配と呼んだ。死んだ者は無に帰すが、その無は再び有を生み出す源泉となる。つまり、無とは円周であり、円周上の一点において有という現在が出現し続ける。こうして、人間もまた神と同じく不滅となる。

 以上が私の全体主義に関する大まかな理解であるが、本書で説かれている禅とこの全体主義がいかに共通しているかを以下に示したいと思う。まず、唯一絶対の神と人間は等しいという点について、本書には次のように書かれている。
 「心単純な人々は、あたかも神は彼方にましまし、われわれは此方にいるのだと考える。そうではない。神とわたしとは、わたしが神を覚知する行為において一つである。」この事物の”絶対的一”に禅はその哲学の基礎を据える。
 禅にとっては、有限はすなわち無限である。時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。「アブラハムの存在した前にわたしはある。」さらにまた、神は無限の可能性、かぎりない自由、はてしない責任に、何の恐怖すべきものも認めない。禅は無限の可能性とともに動く。
 「禅問答」という言葉があるように、禅は答えのない問いを繰り返すイメージがある。ところが、著者によれば、問いというのは、問うものと問われるものを分ける行為、主体と客体を分ける行為であり、禅の本質ではないという。禅は主客二元論をはじめ、あらゆる二元論を認めない。禅は、世界を世界のまま受け止めることを目指す。これを「シューニヤター(空)」と呼ぶ。そして、シューニヤターは全世界であると同時に、世界を構成する個々の事物の中に存在する。つまり、全体が一であり、一が全体であることを意味する。
 相対の世界は、”シューニヤター”の上に、また、中にある。”シューニヤター”は、いわば全世界を包み、同時にそれはまた、世界に存在する一つ一つの事物の中にある。”シューニヤター”は、内在論でもなければ、超越論でもなく、もしこういうことが許されるなら、その両方である。
 禅を通じてシューニヤターを知覚する時、我々の中にある「潜在意識」が呼び起こされる。
 「潜在意識」もまたあらゆる形の神秘主義を蔵する倉であって、およそ潜在とか異常とか、霊魂とか心霊とかの名で呼ばれるものは、すべてこれに含まれる。自己の存在の本性を見究める力もまた、ここに隠されているかもしれない。そして、禅がわれわれの意識の中に目覚めさせるものも、それであるかもしれない。
 潜在意識という言葉は、U理論やマインドフルネスの下地となった、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」という言葉を想起させる。ボームは、我々が通常意識する「顕在秩序」の背後に、一切を包み込む「内蔵秩序」があると主張した。我々は言葉や知識を用いて顕在秩序を理解しようとする。ところが、言葉や知識は世界を分断し、人々を対立へと陥れる。そこでボームは、人々が潜在意識のレベルで連帯する必要があると説いた(その手法として「ダイアローグ(対話)」を挙げた)。すると、人々は全世界を包む内蔵秩序に触れ、対立から変革へと向かうことができると言う。この考え方はまさに、U理論やマインドフルネスに受け継がれている。

 全体主義は現在を絶対化し、現在を無限なる有限と位置づけると書いた。これに関連する禅の言葉を本書の中からいくつも発見することができる。
 救いは有限そのものの中に求めねばならぬ、有限なるものを離れて無限なるものはない。もしおまえが何か超越的なものを求めるならば、それはおまえをこの相対の世界から切り離すであろう。
 有限は無限である。また無限は有限である。それは2つの別のものではない。われわれが、知性の上でそう考えさせられているだけである。
 かれは無限を円周とする円の中に生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在の中心にいる。かれが実在そのものである。
 絶対の現在もまた然り。そして、”エカクシャナ”は絶対の現在であり、永遠の「今」である。かくて、禅は一刹那の中に成就すると言われるのである。
 禅は時間と歴史を越えるゆえに、それが認めるのは、はじめもなく、おわりもない生成の過程のみである。
 人間は無という円周の上に生きるのであるから、そこには始まりも終わりもない。円周上のただ1点において、一瞬だけ有(でありながら無限)が生成されるのみである。

 先ほど、禅には二元論がないと書いた。二元論は対立を生み出す。力に依存する。そうではなく、二元論を超越する愛を持つべきだと著者は述べている。だが私は、禅がこれほどまでに全体主義と共通することを知る時、むしろ恐れおののいてしまう。本ブログで繰り返し書いてきたように、二元論、二項対立こそ、人間が独善的にならないための知恵ではないかと私は考える。というのも、二項対立は自分と異なる他者の存在をまずは肯定するからである(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」を参照)。

 禅は、インドで生まれた仏教が中国で変質・完成したものであると言う。インド人は超自然を認める。この点でインド人は空想的であり、実際に空想的な物語を描く。これに対して中国人は、どこまでも実際的である。孔子が「怪力乱神を語らず」と言ったように、超自然的なことには目を向けない。だから、中国人は、仏陀の額から光が出るなどといった物語を描くことはない。中国人は極めて実際的だが、逆説的なことに、実際的であるがゆえに知性を超えて直観で宇宙を把握することができる。逆に、空想的なインド人は、知性によって制限されている。

 中国人の思想は本当にとらえどころがない。仮に、禅が中国の思想を体現しているならば、中国には全体主義的な傾向があることになる(個人的には、全体主義=反共という点はあまり重要ではないと考える)。一方、大国である中国は、大国の流儀である二項対立的な発想に従う(以前の記事「岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている」を参照)。かと思えば、「中庸」という言葉があるように、二項”混合”的な考え方もする。二項”混合”は、日本のような小国の得意技である(以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」を参照)。

 U理論やマインドフルネスに傾倒するアメリカは、全体主義に向かっているのかもしれない(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。同時に、中国も一党独裁を強め、言論の自由を制限し、三権分立を否定するなど、全体主義に傾きつつある。2つの大国が全体主義化する時、両国が手を結ぶことがあり得る。全体主義国家が結託する時、起きるのは戦争に他ならない。それも、全体主義国同士の戦争ではなく、全体主義国家と反全体主義国家との間の戦争である。これは、第2次世界大戦の歴史が示す通りである。

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