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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年03月22日

熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

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メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2005-09

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 哲学には大きく分けると2つの立場があると理解している。1つは、客観的な知を探求する立場で、彼らは厳密な言葉で世界を還元しようとする。もう1つの立場は、「私」の「身体性」を重視し、身体や身体による行為を通じて表象される知とは何かを考察する。メルロ=ポンティは後者に属する哲学者である。後者の哲学者は、「私」が見たまま、感じたままの世界に直接触れ、言葉を紡ぎ出す。この点で哲学者は詩人と同じなのではないか?というのが本書の問題提起である。

 メルロ=ポンティは、身体を通じた意味の生成について、次のように論じている。我々が普段動かしているのは客観的身体ではなく、「現象的身体」である。現象的身体は、客観的身体ではとらえられないような感覚をつかむことがある。その一例が「幻影肢」と呼ばれる事象である。不慮の事故などによって手足を切断された人は、手足の先に痛みやかゆみを感じることがあるそうだ。客観的身体は失われているのに、意識が働く。これが現象的身体の特徴である。

 意識とは、「私は○○と考える」ではなく、「私はできる」という意味であるとメルロ=ポンティは言う。幻影肢の例で言えば、意識は、手足が欠けているにもかかわらず、手足の痛みをかばったり、手足のかゆみを解消したりしようとする。この時、現象的身体は自らを表象する必要はない。換言すれば、自分には手足が欠けているとか、手足に痛みやかゆみが生じているといったことをいちいち考える前に、手足の痛みやかゆみをカバーする。現象的身体は、身体の物理的な限界を超えて、直ちに意味を生成する。だから、我々は身振り手振りによって、身体の物理的な運動以上の意味を表現することが可能である。

 身体が表象を必要とせずに意味を発するという点は、言葉に関しても同じである。我々が日常生活の中で何かしらの言葉を発する時、わざわざ単語や文節に分解して表象するわけではない。言葉が口に出されたその瞬間に、我々は既に何かを語ってしまっている。つまり、意味が生成されている。現象的身体が内部に意味を有し、それを発露するのと同様に、言葉もまた内部に意味を有し、それを発露する。ここまでは私も何とか理解できる。問題はここからである。

 メルロ=ポンティによれば、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。本書で紹介されている例を単純化して説明すると次のようになる。ある時、私は森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。ところが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木なのだろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、私にとって枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常であれば、私が最初難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、それと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている。

 以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」の最後で、対象に向かって知覚の志向性が伸びていると書いた後、実は門脇氏が「私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある」と述べていることに触れた。信念が外部の世界の下にあるという同時性は、外の世界が既に意味を内包しているというメルロ=ポンティの主張に通じるところがあるような気がする。ただ、依然として、外の世界があらかじめ意味を内包しているとはどういうことか?しかも、その意味は決して客観的ではなく、知覚する1人1人の人間によって異なるとはどういうことなのか?という疑問は残る。

 特に、外の世界が全体としてあらかじめ意味を内包しており、それを部分に再配分するという点は、通常の我々の理解からは遠く離れているように感じる。ところが、そういう意味が存在することを示唆する事例があることをメルロ=ポンティは紹介している。それが「シュナイダー症例」というものである。シュナイダーは視覚の障害を持っており、色や形態、文字の認識に問題を抱えていた。だが、シュナイダーにはそれ以上に注目すべき徴候があった。

 シュナイダーは、鼻の先に蚊が止まれば手で払いのけることができたし、鼻をかむときにはポケットからハンカチを取り出すこともできた。ところが、目を閉じたまま鼻を指すように命じられてもそれができない。また、コップの水を飲むことは自然にできるのに、空のコップで水を飲む真似をすることは、シュナイダーにとって非常に難しい課題であった。つまり、シュナイダーは生活の中で具体的な意味を持つ身体行動は難なく遂行できる一方で、生活にとって意味を持たない抽象的な振る舞いをすることができないのである。シュナイダーには現象的身体が発する意味はあっても、外界が持つ意味を理解する能力が欠けている。

 シュナイダーにとって世界は単なる「もの」でしかない。だから、シュナイダーが世界を理解するには、世界を構成する断片的な意味をつなぎ合わせるしかない。シュナイダーは実際、物語のメロディー的な統一をとらえ、物語のリズムやテンポを理解すること、つまり物語を物語として理解することに困難を示した。このことから、健全な人間は、外界を構成する要素を分解し、それぞれに人間の側から意味を与え連合させるのではなく、外界そのものが既に有している全体的な意味、時に応じて部分に対し再配分される意味を受け取るのが通常なのだということが言える。

 以上をまとめると、意味には2種類ある。まずは、現象的身体が発する意味である。もう1つは、外界が包摂している意味である。そして、両者の交流によって新たな意味が創造される。「感覚する者」と「感覚されるもの」の相互的な交換によって意味が生じる。

 さて、本書の問題提起は、「哲学者は詩人でありうるか?」というものであった。詩人は現在を永遠のものとして語る。詩人が知覚している世界を、ありのままに言葉で表現する。ところが、哲学者にはそれができない。というのも、哲学者は反省する存在であるからだ。しかも、反省に先立つものに立ち戻って反省をしなければならないという矛盾を抱えている。哲学者は何とか現在をつかまえて、現在を反省しようとする。ところが、時間の流れが現在の拿捕を困難にする限り、哲学者は現在を考察することができない。よって、哲学者は詩人たることができないというのがメルロ=ポンティの答えである。それでもなお彼は、世界とその経験を現在において言いあてる語を探しあぐねる、詩人の辛苦を引き受けようとしていたのであった。

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