プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年06月27日

片倉もとこ『イスラームの日常世界』―「ラーハ(ゆとろぎ)」のために労働する、他


イスラームの日常世界 (岩波新書)イスラームの日常世界 (岩波新書)
片倉 もとこ

岩波書店 1991-01-21

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 本書を読んで勉強になったことのまとめ。

 ・イスラームは「人間性弱説」という立場をとる。弱い人間の意思を作為的に強くし、人間同士の約束を履行することに重点を置く時には、契約に持ち込む。結婚も一種の社会契約である。しかも、人間の弱さを初めから認め、相手を永遠に愛せるほど人間は強くないと考える。身体が移ろうように、心も移ろうことを最初から勘定に入れておく。結婚の契約書には、離婚した時には相手にいくら払うかという項目が入っている。後払いの「結納金(マハル)」の方が、結婚時の前払いのマハルよりも高い。また、後述のようにイスラーム世界では女性の力が強いため、実質的な結婚の取り決めは、女性同士の社会的つながりのなかでなされる。マハルの金額を決めるのは、花嫁花婿の母など、女性の親族同士である。

 ・我々はムスリムの人々はイスラーム法によってがんじがらめの生活を送っているようなイメージを持っているが、実際には違う。「義務(ファルド・ワージブ)」と「禁止(ハラーム)」の間に、「しない方がよい(マクルーフ)」、「した方がよい(マンドゥーフ〔ムスタハッブ〕)」、「どちらでもよい(ハラール〔ムバーフ〕)」といった緩やかな範疇が存在し、この部分が圧倒的に大きい。例えば、イスラーム世界では豚を食べることが禁止されていることがよく知られているが、実は旅に出て食べる物が豚肉しかない時には、ムバーフとして許される。

 ・祈りには「サラート」と「ドゥアー」の2種類がある。サラートは五行(イバーダート)の1つである。サラートは形式も時間も決まっていて、それに従ってムスリムは一心に神と対峙する。そこには神への感謝が存在するだけである。望みがかないますようにとか、神に何とかしてくれるよう頼み込むといった願いごとは入れてはいけない。これに対して、ドゥアーは個人が自分の望みを神に呼びかけるものである。サウジアラビアを中心とするアラビア半島のムスリム社会は、サラートを重視し、ドゥアーはビドア(異端、逸脱)として推奨しない。他方、エジプト、シリア、イラン、イラクなどのムスリム社会では、もちろんサラートはするものの、ドゥアーもよくする。

 ・イスラーム世界では、1日に5回の礼拝を行う。①ファジル=日が出る前までに行う、②ズフル=太陽が頭の真上に来てから、自分の影が背の高さの2倍になるまでの間に行う、③アスル=ズフルの後、日没までの間に行う、④マグリブ=日没から夕焼けが消えるまでの間に行う、⑤イシャー=夕方から夜にかけて、寝床につくまでの間に行う。ファジルとズフルの間は10時間ほど離れており、この間に8時間労働を行うことも可能である。「ムスリムは礼拝ばかりしていて仕事をしない」という批判は必ずしもあてはまらない。

 ・ムハンマドが生まれた頃の社会は、母系的傾向の強い社会であったとされる。財産も住まいも女性が握っていた。ムハンマドがメッカでイスラームを興した7世紀の初め頃、メッカの経済は最盛期を迎え、その結果利己主義的傾向が出現し、利潤追求が至上目的となった。女性の生理的条件、妊娠、出産、授乳はハンディキャップと見なされ、女性は後退を余儀なくされた。逆に、有利な立場に立った男性は、母系集団の持つ財産を要求し始めた。財産をめぐるいざこざがムハンマドのところに頻繁に持ち込まれたことが、クルアーンにもよく表れている。クルアーンでは、女性の相続分は男性の2分の1と定められている。これをもってイスラーム世界は男尊女卑だと言う人がいるが、実際には、そのように定めなければ女性が全て相続してしまう、あるいは相続分が男性の2分の1でも女性は十分な財産を持っていた、というのが理由のようである。

 ・イスラーム暦で9月は断食月(ラマダーン)に該当する。断食月の断食はムスリムにとって義務であるが、それ以外にオプショナルな断食も勧められている。
 ○イスラーム暦第1月(ムハッラム)の10日
 ムハンマドがユダヤ教の贖罪の日の断食を模倣したものと言われる。シーア派第3代イマームであるフサインが、イラクのカルバラーの地でウマイヤ朝の政府軍と戦って殉教した日である。したがって、シーア派の人たちには、この日に断食する人が特に多い。
 ○断食月の翌月、第10月(シャッワール)の2日~7日の6日間
 断食月明けの祭の第1日(この日は断食が禁止されている)を除いて、祭りの第2日目からさらに断食する人は意外に大勢いる。断食に慣れているから、他の時よりやりやすい。ラマダーン月の陶酔感を、今少し持ち続けたいと思うのだと言う。
 ○巡礼月(第12月、ズー・ル・ヒッジャ)9日
 ヤウム・ル・ワクファと呼ばれ、巡礼のクライマックスと言われるアラファートの野に立って礼拝をささげる日である。巡礼をしていない者が、この日の巡礼者と神への心を分かち合うために断食をする。なお、アラファートの野にいる巡礼者は断食しない。
 このような年に1回の断食日の他に、月曜日と木曜日が毎週の断食オプション日とされている。この日は天国の門が開く日であり、ムハンマドも断食していたと伝えられる。

 ・イスラーム世界では、西暦の1月1日を祝わない。日本の正月に該当する2大祭が、①断食月明けの祭(イード・ル・フィトル、小祭)と②犠牲祭(イード・ル・アドハー、大祭)である。犠牲祭は、巡礼月10日に行われる羊、山羊などの家畜をほふる行事である。ほふった家畜を神にささげること自体に意味があるのではなく、神への全き忠誠心を思い起こし、自分の欲望を犠牲にして神に帰依するという意味がある。ムスリムはこの2大祭の際に「新年おめでとう」のような挨拶を交わす。しかも、祭の前後1か月間ぐらいはこの挨拶が有効である。仮にどちらかの機会を逃してしまっても、祭は年に2回あるから、後で挽回のチャンスがある。

 ・ブログ別館の記事「エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』」で「カルチャーマップ」について触れたが、「スケジューリング」に関しては、中東の人たちは「柔軟な時間」という考え方をする。今、ある人と商談をしていたとしよう。30分後には別の商談があり、今から移動しなければ間に合わないとする。時間に厳しい日本人は、商談を何とか上手に切り上げて、時間通りに次の商談に向かうだろう。ところが、柔軟な時間の意識の人々は、たとえ次のアポに遅れることになっても、この商談が終わるまでは絶対に席を立たない。今、自分の目の前にいる人との関係を重視する。そして、次の商談に遅刻しても、悪びれる様子はない。しかも、相手もそれを咎めたりはしない。

 ムスリムの間では、「アル・ウルム・ヤハラス・ワ・アル・アムル・ラー・ヤハラス(寿命には終わりがあるけれども、仕事には終わりがない)」という言葉がよく使われる。「仕事があるのでこの辺でおいとまして」、「あなたもお忙しいでしょうから、そろそろ失礼させていただきます」などと言うと、それに対してこの一句が出てくる。これは決して日本のようなモーレツ社員を想定しているわけではない。仕事には終わりがなく、いつまでも続くだろうが、あなたと私がお会いするのは今しかないかもしれない、明日もお互いに生きているかどうかは解らない。「だから、まあ、そう急いでお帰りにならないで」という意味で使われるのである。

 ・イスラームの五行の中に、「喜捨(ザカート)」がある。イスラーム社会では、吝嗇(ケチ)が最悪徳である。お金を持っていないのは恥ずかしいことではない。持っているのに使わない、流さない、ため込んでばかりいるのがいけない。ザカートの本来の意味は「浄め」である。喜捨によって、自分の財産が浄められると考える。よって、ザカートをもらう人が「ありがとうございました」などとは言わない。持てる人の財産を清らかなものにし、その人が宗教的義務を果たす手伝いをしてあげたと考える。ありがとうと言うとすれば、神に対してありがとうである。くれた人に対しては、もらってやったのだからお前の方がありがとうと言え、というような顔をしていたりもする。

 ・イスラーム世界では「ラーハ」が重視される。日本語に訳しにくい言葉で、強いて言えば「休息」、「安息」にあたる。しかし、労働したから休む、疲れたから休息するといった受動的な意味ではない。むしろ、ラーハの時間を持つために労働をするといった、能動的な意味を持っている。本書の著者はラーハに「ゆとろぎ」という訳語をあてている。「ゆとり」と「くつろぎ」を一緒にした言葉である。ゆとろぎの時間をたくさん持つことが人間らしい、いい生き方である。ラーハに該当するのは、家族とともに過ごすこと、人を訪問すること、友人とおしゃべりをすること、神に祈りをささげること、眠ること、旅をすること、勉強すること、知識を得ること、詩を謳い上げること、瞑想すること、ぼんやりすること、寝転がること、などである。ごろんとすることも、勉強することも、同じラーハの範疇に入り、同じ価値を持っているのがイスラーム世界である。

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