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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年08月01日

『維新する(『致知』2017年8月号)』―デビュー25周年のMr.Childrenの歌詞を解剖する


致知2017年8月号維新する 致知2017年8月号

致知出版社 2017-08


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 《参考記事》
 【感想】Mr.Children新曲「himawari」(映画『君の膵臓をたべたい』主題歌)の
 歌詞を解剖する


 今回の記事は『致知』の内容とはほとんど無関係に、今年デビュー25周年を迎え、私が愛してやまないMr.Childrenの歌詞について書くことをご容赦いただきたい。
 平凡な日常のように思えても、それは決して同じことの繰り返しではありません。私たちの心や魂にエネルギーを与えてくれるキラリと光る出来事は、少し意識さえすれば、人生のあらゆる場面に満ち満ちているのです。
(鈴木秀子「夢みたものはひとつの幸福 ねがつたものはひとつの愛」)
 Mr.Childrenもサザンオールスターズと同じく、人生の応援歌、恋愛の歌、社会風刺の歌など、様々なジャンルの曲を作ることができるバンドであった。「であった」と過去形で書いているのは、社会風刺の曲に関しては、Mr.Childrenはある時からぱったりと作らなくなったからだ。

 Mr.Childrenの社会風刺の曲と言えば、真っ先に思い出すのは「マシンガンをぶっ放せ」や「everybody goes~秩序のない現代にドロップキック」、「フラジャイル(「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌」のカップリング)」、「So Let's Get Truth(アルバム『深海』収録)」、「傘の下の君に告ぐ(アルバム『BORELO』収録)」あたりである。ただ、社会風刺の曲はMr.Childrenのキャリアの初期に集中している。それ以降は数が減っていき、辛うじて2005年に発売された『Iラブ(※「ラブ」はハートマーク)YOU』に収録されている「ランニングハイ」や「跳べ」に社会風刺らしい歌詞が少し織り込まれた程度である。2007年に発売された『HOME』以降は、社会風刺の曲が姿を消し、僕の人生や君との愛を歌う曲に集中している。

 これにはいくつか理由があるだろう。あくまでも推測の域を出ないが、1つには、この頃から桜井和寿さんの精神状態が安定したこと、もう1つには、社会を批判することでお金を儲けることは、人の不幸を飯の種にしているようなものであり、それが許せなくなったということが挙げられるのではないかと思う。それよりも、ありふれた日常に目を向け、今自分が置かれている現状と対峙し、ちょっとした出来事がもたらす喜怒哀楽を素直に受け止めて、愛する君と一緒に生きる人生の意味をそこに見出していくという方向に転換した。2007年以降のMr.Childrenのテーマはこの1点に集中しており、この1点だけで2007年以降10年間も活動しているのである。

 渡辺和子氏の著書に『置かれた場所で咲きなさい』という本がある。タイトル通りの内容の本であり、人は必ずしも自分が望むような地位や役割を与えられるわけではない、それが仮に不遇に思えても、「神は決して、あなたの手に余る試練を与えない」のであって、微笑みと感謝の気持ちを持って無償の愛を相手に注げば、必ずその場所でその人なりの花を咲かせることができると書かれている。これは、ここ10年のMr.Childrenの歌詞の内容とぴったりと符合する。

置かれた場所で咲きなさい置かれた場所で咲きなさい
渡辺 和子

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 例えば、2015年のアルバム『REFLECTION』収録の「未完」では、「さぁ行こうか 常識という壁を越え/描くイメージはホームランボールの放物線/そのまま消えちゃうかもな/いいさ どのみちいつか骨になっちまう/思い通りに いかないことがほとんどで/無理に足掻けば囚われの身の動物園/いつか逃げ出してやるのにな/尖らせた八重歯 その日までしまう」と歌われている。「幻聴」の「向こうで手招くのは宝島などじゃなく/人懐っこくて 優しくて 温かな誰かの微笑み/遠くで すぐそばで 僕を呼ぶ声がする/そんな幻聴に 耳を澄まし追いかけるよ」という歌詞は、僕が目指しているのは宝島のような立派なものではないけれども、君の微笑みに呼応してこちらも微笑み返せば、明るい未来が見えるかもしれないと示唆している。

 Mr.Childrenが歌う愛も年々純化されているように感じる。初期のミスチルは、若者らしく欲望を抑えきれなかった「車の中でかくれてキスをしよう(アルバム『KIND OF LOVE』収録)」、歌の登場人物がダブル浮気をしていた「LOVE(アルバム『versus』収録)」、複雑な恋愛事情を歌った「ありふれたLove Story~男女問題はいつも面倒だ(アルバム『深海』収録)」などといった変化球をボンボン放っていた。ところが、2002年に発表された、その名もズバリのシングル「君が好き」あたりから、徐々に君への思いをストレートに表現するようになった。

 2012年の「常套句(アルバム『(an imitation)blood orange』収録)は「君に会いたい」と連呼しているし、前述の『REFLECTION』に収録されている「you make me happy」でも、趣味が自分とまるで違う君について「きみといるこの部屋が好き/きみといるこの暮らしが好き/You are the one. We are the one./今が好き」と包み隠さず歌っている。「運命」などは、40代後半に差し掛かったメンバーが歌うにはあまりにも純愛すぎて、聞いているこちら(聞いている私も30代中盤のおじさんなのだが)が恥ずかしくなりそうだった。

 今置かれている場所で、大切な人のために生きる―Mr.Childrenのここ10年のメッセージを端的にこう表すのであれば、私は少し反省しなければならないことがあると感じた。私は本ブログで、大雑把ではあるが日本の階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」と描写し、天皇を除いた各階層の内部もまた、複数の階層に分かれていると書いてきた(天皇だけはお一人)。日本人はこの複雑な階層社会のどこかに位置づけられる。もちろん、ある人がある時は会社で働き、ある時は家庭で父親となるといった具合に、複数の役割を持つのが普通であるが、どんな人も主たる役割というものが決まっている。

 私は当初、日本人がこの階層社会の中を(神や天皇は例外として)自由に動き回り、適材適所に落ち着くと考えていた(以前の記事「室谷克実『呆韓論』―韓国の「階級社会」と日本の「階層社会」について」を参照)。だがその後、そこまでの自由は日本にはなくて、むしろ不合理な理由によって、適材とは思えない人材が特定の地位や役割を占めることが多いのではないかと思い始めた。日本では能力本位ではなく、徳があるとされる人が高い地位に就く傾向がある(旧ブログの記事「功ある者には禄を、徳ある者には地位を-『人事と出世の方程式』」を参照)。

 以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(下)』―「正統性」を論じる時に「名」と「実」を分けるのが日本人」でも書いたように、日本人は正統性を後から考える人種である。通常は、「その地位に就くのにふさわしい=正統性を持った人を選ぶ」のだが、日本人の場合は、先に人を選んで、「そうなってしまった以上は仕方がない。それをどうやって正統化するか」と考える。とはいえ、日本人は決して無能ではなく、以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」で書いたように「成長型」の人間であるから、地位や役割がその人を育てることも期待できる。ただ、本人が周りの期待通りに成長するかどうかはやってみないと解らず、運に委ねられている。よって、日本社会は能力面で見ると、整然と適材適所が実現されているわけではなく、非常にでこぼこの多い不平等社会である。

 その不平等を少しでも解消できるようにと、私が導入したのが垂直方向の「下剋上」と「下問」、水平方向の「コラボレーション」(これにも「下剋上」や「下問」のようにカッコいい日本語の名前をつけたいのだが、今のところ妙案がないため、「コラボレーション」としておく)である(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。これによって、各人は与えられた役割に閉じ込められず、縦横に”少し”はみ出すことで、能力を発揮できる自由と機会を増やすことができると考えた。この自由があるから日本は自由主義だと書いたこともあった(以前の記事「『首都の難問─どう解決するか(『世界』2016年11月号)』―日本は不平等だが自由な社会、他」を参照)。

 だが、最近の私はこの「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」を強調しすぎていたというのが反省の内容である。「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」をする前に、まずは本分を全うしなければならない。つまり、自分を真っ先に必要とする人のために愛を注ぐということである。たとえその相手が能力的に見て適材だとは思えないとしても、である。上司のために尽くす、顧客のために尽くす、家族のために尽くす。私は最後のことが最も大切だと思う。(特殊な事情を抱えた人もいるが、)家族としての役割を持たない人はほとんどいないからである。

 家族、特に愛する人のために愛を注ぐ。しかも、見返りを求める愛ではなく、無償の愛である。これが人間関係の基本である。昔、前職のベンチャー企業で、起業家として成功している人は、家族も大事にしているから成功したのか、家族を犠牲にして仕事に全てを注いだから成功したのかという議論をしたことがある。明確な結論は出なかったが、前職のグループ会社3社の社長は皆家族関係が崩壊しており(ある社長の息子は引きこもりのニートになり、ある社長は妻を捨ててキャバ嬢と再婚した。もう1人の社長はどうなったか忘れた)、かつ3社とも業績が劣悪であったため、やはり家族は大事にするべきではないかとの見解に至った。愛する人との関係を抜きにして、「下剋上」や「下問」、「コラボレーション」を論じることはできない。

 私は最近ブログで政治について論じることが増えた。これは「企業/NPO」という階層に位置する私からすると「市場/社会」、「行政府」を超えて「立法府」を論じていることになるため、3階級特進である。つまり、本分を明らかに超えている。そんなことを高尚ぶって論じる前に、愛する人との関係を本当に大切にしているのかというMr.Childrenの声が聞こえてきそうだ。

 先ほど、Mr.Childrenは社会風刺の曲を書くのを止めたと書いたが、別の言い方をすれば、自分の力ではどうしようもできないことには触れないということでもある。例えば、「空風の帰り道(「HERO」のカップリング)」には「昨夜見たテレビの中/病の子供が泣いていた/だからじゃないがこうしていられること/感謝をしなくちゃな」というくだりがある。また、「ひびき(「箒星」のカップリング)」には、「去年の誕生日 クラッカーを鳴らして/破裂する喜びに酔いしれていたけど/外を歩いたら銃声が聞こえる/あの場所じゃ その音は 悲しげに響くだろうな/君が好きで 君が好きで 涙がこぼれるんだよ/血生臭いニュース ひとまず引き出しにしまって/風のように 川のように 君と歩いていく」という歌詞がある。

 最初に聞いた時は冷たい言葉だと思ったが、実はそうではない。同情したとしても子どもの病が治るわけでもなく、かの地の戦争が止まるわけでもない。だとすれば、その同情には何の効果もなく、むしろ他人の不幸をだしにして、「自分たちはこんなひどい目に遭わなくてよかったね」と優越感に浸っていることになる。これは傲慢以外の何物でもない。自分の手の届かない他人の不幸などは見ずに、今自分の前にいる人をまずは愛せよというメッセージなのだと思う。

 愛する人との関係で言うと、Mr.Childrenの歌詞にはもう1つ興味深い特徴がある。普通、愛する人とは価値観や考え方が似通っていき、まるで2人で1つであるかのように溶け合うのが理想のように思える。だが、前述の「君が好き」には、こんな歌詞がある。「僕の手が君の涙拭えるとしたら/それは素敵だけど/君もまた僕と似たような/誰にも踏み込まれたくない/領域を隠し持っているんだろう」。愛する人同士であっても、相手に公開しない自分だけの部分を持つ。つまり、お互いに、相手とは決定的に違う部分がある。逆説的だが、違いがあるからこそ、相手を1人の人間として尊重できる。前掲の『置かれた場所で咲きなさい』にはこんな文章がある。
 「人格」である限りは、あなたと相手は違いますし、違っていていいのです。相手もあなたと同じ考えを持たないで当たり前。「君は君 我は我也 されど仲よき」という、武者小路実篤さんの言葉があったと思います。そういう気持ちが大事なのです。自分が一個の人格である時、初めて他人とも真の愛の関係に入れるのです。
 通常は、愛する人が自分と同じであってほしいと思いたくなる。だが、この考え方を拡張していくと、「人類を皆愛するべきだ」という宗教的な愛の観念と、「愛する人は皆自分と同じ考えであるべきだ」という2つが結びついて、人類は皆自分と同じ考えでなければならないという結論に至る。つまり、一が全体であり、全体が一であるという、私が本ブログで何度も恐れてきた全体主義につながってしまう。「つよがり(アルバム『Q』収録)」には「着かず離れずが恋の術でも/傍にいたいのよ」という歌詞がある。愛する相手のことを全て知る必要はない。ただそっとそばにいて、相手が自分と違う部分を持っていることを認め、それを尊重する。それが全体主義という虚構を回避し、真の愛の関係を築くことにつながる。


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