プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2017年07月26日

【感想】Mr.Children新曲「himawari」(映画『君の膵臓をたべたい』主題歌)の歌詞を解剖する


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 映画「君の膵臓をたべたい」の主題歌で、Mr.Childrenの今年2枚目のシングルとなる「himawari」の歌詞を私なりに解剖してみた。以下、「キミスイ」のネタバレを一部含んでいるので注意してください。また、私は普段は小説を滅多に読まない人間であり、まして小説のレビューなど書いたことがないから、ぎこちない文章になっている点はご容赦いただきたい。
 優しさの死に化粧で
 笑ってるように見せてる
 君の覚悟が分かりすぎるから
 僕はそっと手を振るだけ
 いきなり「死に化粧」という言葉が登場する衝撃的な始まりである。【秘密を知っているクラスメイト】くんこと志賀春樹は、クラスメイトの山内桜良が膵臓の病気であり、あと数年の命であることを偶然知ってしまった、桜良の家族以外の唯一の人間である。実は、桜良の葬儀には、春樹は出席していない。だから、桜良の死に化粧も、春樹は直接見ていない。いつもケラケラと声を立てる闊達な桜良は、死に化粧をしても笑っているように見えるというのは、春樹の想像であろう。

 桜良の覚悟とは何だろうか?残り少ない余命を悔いのないように生きるという覚悟ではない。確かに、桜良に残された時間は少ない。しかし、桜良よりも春樹の方が、不慮の事故などで先に命を落とす可能性もある。よって、死が予定されているからと言って1日の価値が上がるわけではなく、どんな人にとっても1日は等価である。そのことを覚悟しているという意味である。
 「ありがとう」も「さよなら」も僕らにはもういらない
 「全部嘘だよ」そう言って笑う君を
 まだ期待してるから
 実は、桜良が病気とは別の理由で突然命を落とす結果となったため、春樹も桜良も、桜良が生きている間にはお互いに「ありがとう」と素直に言う機会がなかった。そして、桜良が死ぬ時も、お互いに「さよなら」を言えなかった。ところが、桜良が膵臓の病気を知ってからつけ始めた『共病文庫』という日記の最後に、桜良があらかじめ用意しておいた春樹向けの遺書で、春樹が桜良の本当の想いを知った時、2人は完全に心を通わせることができた。桜良はもうこの世にいないけれども、桜良は春樹の心の中でこれからも生き続ける。だから、敢えて「ありがとう」と言う機会を探る必要はないし、まして「さよなら」と言う必要もない。

 ただ1つだけ、桜良には「全部嘘だよ」と言ってほしかった。無論、実は病気ではありませんでしたなどという安物の嘘ではない。いつも明るく周りにはたくさんの友人が集まってくる桜良は、病気が判明してからも変わらない様子で振る舞っており、春樹はそれが桜良の天性によるものだと思っていたが、本当は桜良も死が怖かったのではないかということ。1日の価値は等価だと覚悟を決めていたが、本当は寿命が1日、また1日と削られていくことに深い悲しみを抱いていたこと。そうでなければ、桜良は『共病文庫』を作ったり、「死ぬまでにしたいこと」を書き出してそれを実行したりしなかったはずだ。春樹は桜良の矛盾を見抜いていた。
 いつも
 透き通るほど真っ直ぐに
 明日へ漕ぎだす君がいる
 眩しくて 綺麗で 苦しくなる
 桜良は、傍目にはもうすぐ死ぬ人間にはとても見えない。いつも通り学校に来て、いつも通り友人と騒いで、いつも通り試験を受けて、いつも通り透き通った笑い声をこの世に響かせている。桜良には明日がないかもしれないのに、明日もまた今日と同じように生きようとしている。それが春樹には「眩しくて綺麗」に見える。しかし、春樹は桜良が心の奥底から垣間見せていた闇を知っていたから、桜良が「眩しくて綺麗」であるほど、春樹の心は「苦しくなる」のである。
 暗がりで咲いてるひまわり
 嵐が去ったあとの陽だまり
 そんな君に僕は恋してた
 「キミスイ」の作者である住野よる氏は、Mr.Childrenの「himawari」を聞いて、「楽曲のタイトルが『himawari』、桜良をヒロインとしたこのお話の主題歌に夏の花のタイトルがついていたことに想像を悠々と超えられた感覚があった」とコメントしている。

 おそらく、桜良の寿命は(普通に生きていれば)高校3年の春頃までだったと思われる。他の高校生とは違い、春に大学入試の合格発表を見ることができない。いや、たとえ合格発表を見て吉報を得たとしても、桜が散る4月上旬には寿命が尽きて、大学の入学式に出席できなかったに違いない。そういう切なさを込めて、主人公の名前を桜良にしたのだと思う。しかし、桜良は春樹の心の中に存在し続ける。春を終え、夏を迎える。そこには大きな、とても大きな一歩がある。だから桜井和寿さんは、主題歌のタイトルとして、敢えて夏の花であるひまわりを選択したのだと思う。さらに言えば、「嵐が去ったあとの陽だまり」とは、台風の後の太陽が水たまりを照らす様子を指している。つまり、春から夏へとだけでははなく、夏から秋へとも時間は進んでいく。

 「そんな君に恋してた」とあるが、春樹と桜良は恋人関係にあったわけではない。このことは桜良が『共病文庫』の中で明確に否定している。2人は、友達とも恋人とも違う特異な関係にあった。桜良は、もし相手が親友や恋人であったら、病気のことを絶対に知られたくなかったと言う。病気を知ってしまった親友や恋人は、病気に過剰反応して、普段通りに桜良に接してくれなくなる。桜良の病気を知った家族が、高校生には似つかわしくない豪華なテレビやテーブルなどを自分の部屋に用意してくれるのを見て、桜良はおよそ自分の病気を知ってしまった人間というのは、そういう行動をとるものだと悟った。病気という真実を伝えると、日常が崩れてしまう。その点、春樹は人間関係というものに無関心であり、桜良の病気を知っても興味を持ちこそすれ、動揺はしなかった。春樹ならば、真実と日常を両立できると桜良は思ったわけだ。
 想い出の角砂糖を
 涙が溶かしちゃわぬように
 僕の命と共に尽きるように
 ちょっとずつ舐めて生きるから
 春樹と桜良が時間をともにしたのは、わずか4か月である。その4か月に濃密な思い出が凝縮されているのだが、所詮、高校生という未熟な時期の思い出である。だから、角砂糖のように小さくてもろい。今悲しみでたくさん泣いてしまえば、かえって心の重荷が吹き飛んで、思い出が消えてしまうかもしれない。春樹が桜良と心の中で少しでも長く一緒にいるために、悲しみを道連れにすることを覚悟の上で、思い出をかみしめていくことを春樹は選択した。
 だけど
 何故だろう 怖いもの見たさで
 愛に彷徨う僕もいる
 君のいない世界って
 どんな色してたろう?

 違う誰かの肌触り
 格好つけたり はにかんだり
 そんな僕が果たしているんだろうか?
 前述の通り、春樹と桜良は恋人だったわけではない。だから、春樹が今後、別の女性と恋に落ちることは十分あり得る。違う誰かの肌触りを感じ、桜良には見せなかったような恰好つけた態度やはにかんだ態度をとるかもしれない。だからと言って、それが直ちに桜良に対する春樹の不義理を意味するわけではないだろう。心の中に桜良という特別な存在を抱きながら、別の女性を愛するということが一体どういうことなのか、まだこの時の春樹には想像がついていない。そして、実際に春樹に愛する人ができた時にも、この葛藤に苦しむに違いない。桜良という人物を春樹の人生の中でどのように意味づけするのかは、春樹の人生に課された大きな宿題である。
 諦めること
 妥協すること
 誰かにあわせて生きること
 考えてる風でいて
 実はそんなに深く考えていやしないこと
 思いを飲み込む美学と
 自分を言いくるめて
 実際は面倒臭いことから逃げるようにして
 邪にただ生きてる
 これは春樹のことを指している。小学生の頃から友達というものを持ったことがない春樹。当然、恋人がいたこともない。春樹は人間関係を煩わしいものと考えていた。自分の世界に浸り、何事も自己完結させることを好んだ。他人には何も主張しない。友達がいないのだから、そもそも主張する相手がいない。とはいえ、ある時突然誰かが春樹の世界に侵入してきたら、その人の意見には従う。春樹はそんな生き方を「草船」的だと表現して自己正当化してきた。

 一方の桜良は、春樹とは全く正反対の性格である。友達にも恵まれ、これまでに3人の恋人がいたという。食事の好みも、趣味の方向性もまるで真逆だ。もし、桜良の性格を知りたければ、春樹を鏡に映せばいい。逆に、春樹の性格を知りたければ、桜良を鏡に映せばいい。そのぐらい2人の性格は違っていた。いや、あまりにも違っていたからこそ、ジグソーパズルのピースがかみ合うように、2人はお互いをすんなりと受け入れることができた。仮に友達や恋人の関係であったら、2人の間に共通点を見出そうとしただろう。そして、最初はその共通点を喜んでいたのに、次第に相違点に目が行くようになり、それがいざこざの原因となる。しかし、春樹と桜良は全く重なり合う部分がなかったので、友達や恋人とは違う特殊な関係を構築することができた。

 春樹は桜良からたくさんのことを学んだ。春樹は草船のように流されながら生きてきたと思ってきたが、実は人生とは主体的な選択の連続であること。桜良との出会いも、偶然ではなく、春樹が選んだことであること。そして、生きるとは、誰かを心を通わせることであること。誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手をつなぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う、それが生きるということである。

 逆に、桜良も春樹からたくさんのことを学んでいた。桜良の人生は、周りにいつも誰かがいることが前提だった。桜良の魅力は、桜良の周りに誰かがいないと成立しなかった。誰かと比べられて、自分を比べて、初めて自分を見つけられる。だが、春樹はいつも自分自身だった。春樹は自分のためだけに、自分だけの魅力を持って、自分の責任で生きていた。そんな春樹に桜良は憧れていた。2人の性格がまるっきり違うからこそ、お互いの違いを尊重することができた。そして、いつしか2人はお互いを心の底から必要とするようになった。

 だから、春樹は桜良が死ぬ直前に送ったメールで、そして、桜良は『共病文庫』で春樹に宛てた遺書の最後で、全く同じ言葉を書いたのである。「君の膵臓を食べたい」。春樹は「僕は君になりたかった」と言っている。おそらく、桜良も「私は君になりたい」と思っていたのだろう。ただ、相手のよさを自分に取り入れることで、別の言い方をすればお互いの膵臓を食べることで、本当に自分を変えようとしたわけではないように思う。人間はそれほど簡単には変われない。お互いに、自分には全くないものを持っている人をずっと身近に置いて手放したくなかった。それが「君の膵臓を食べたい」という言葉となって吐露されたと言える。春樹にとって、人生には今まで自分が考えていたものとは違う可能性があることを示してくれた桜良。「だから」、桜良が死んでもなお明日へと放つ眩しさに見とれ、同時に桜良の存在のあまりの大きさに胸が苦しくなる。
 だから
 透き通るほど真っ直ぐに
 明日へ漕ぎだす君をみて
 眩しくて 綺麗で 苦しくなる

 暗がりで咲いてるひまわり
 嵐が去ったあとの陽だまり
 そんな君に僕は恋してた
 そんな君を僕は ずっと
 高校時代のたった4か月間であったが、特別な関係をつむぎ、今まで経験したことのない思い出をくれ、人生の色々なことを教わった「そんな君を僕はずっと」心に留めてこれから生きていくのだろう。たとえ、春樹にいわゆる恋人という人ができたとしても。だが、1人苦悩する春樹を尻目に、桜良は生きていた時と同じようにぶはははと笑い飛ばすのかもしれない。

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