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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年07月05日

『師と弟子(『致知』2017年7月号)』―学校が企業への就職斡旋機関になったら教育は死ぬ、他

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致知2017年7月号師と弟子 致知2017年7月号

致知出版社 2017-07


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 (1)『致知』2017年7月号の特集は「師と弟子」である。法然と親鸞、如浄と道元、細井平洲と上杉鷹山、賀茂真淵と本居宣長、佐久間象山と吉田松陰といった師弟関係が紹介されている。私の師匠はと言うと、残念ながら私は人間が浅いため、心の底から付き従おうと思えるようなリアルの師匠はいない。私が勝手に師と仰いでいるのはピーター・ドラッカーだけである。ドラッカーのように、歴史に関する深い造詣を持ち、経済、政治、社会、文化などを巨視的に眺めながら、企業や非営利組織のマネジメントを人間中心に解りやすく論じることが私の目標である。

 中小企業診断士の世界にはすごい人はいないのかと聞かれそうだが、これもまた残念ながら否と答えるしかない。「この人は非常に優秀である」という評判はほとんど聞かない。「あいつは仕事ができない」、「仕事の前に人間としてなっていない」といった悪評ばかりが私のところに集まってくる。吉川英治の「我以外皆我が師」という言葉を知って以来、私はどんな診断士からも何かしらを学ぼうと努めているものの、それでもやはり私自身の生来の完璧主義が邪魔をして相手のあら捜しをしてしまい、人間全体として尊敬できる人になかなかめぐり合えない。

 例えば、メールで長文を改行せずに送ってくるだけで、私は「この人は仕事ができないのだろう」と勘ぐってしまう。要点をきちんと整理して、相手に解りやすく伝えるという配慮ができない人だと思ってしまう。また、コンサルタントは文書が唯一の成果物であるのにもかかわらず、WordやExcel、Powerpointを使いこなせない診断士が多すぎる。私は、WordやPowerpointで、半角と全角の数字やカッコが混在しているだけでも許せない人間である。文書が上手に作成できない分を、しゃべりでごまかそうとする人も多い。そういう人の話はたいてい論理的にまとまりがなく、「それから・・・」、「あと1つ・・・」、「そういえば・・・」といった具合に、思いつきでどんどんと話が長くなっていく傾向がある。「診断士は時にしゃべりではったりをかますことも必要だ」と堂々と言う人もいるぐらいだから、困ったものである(身内の批判はこのくらいにしておこう)。

 (2)
 童門:松下村塾は松陰の叔父である久保五郎左衛門が経営していた頃は、読み書き算盤を教える実用塾でした。(中略)ところが、久保からこの塾を譲り受けた松陰は読み書き算盤など全く教えない。それよりも「目を開けて世間をよく見よう。毎日起こっている出来事をきちんと受け止めよう。その出来事と政治の関わり合いを深く考えよう」と説くんですね。(中略)松下村塾を就職斡旋学校と思っていた親からすれば、政治大学校になったのですから、泡喰っちゃった。松陰は危険な思想家だというので弟子を遠ざけてしまったことも確かです。この頃の松陰にとって弟子たちは、何かを教える相手ではなく、共に学び、共に行動する学友だったんです。
(童門冬二、中西輝政「歴史に学ぶ師と弟子の系譜」)
 私は本ブログで何度か、日本の多重社会構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」というラフなスケッチで書いてきた。階層社会であるから、上の階層は自らが欲するものを下の階層に命じて提出させる。この考え方に従うと、私が「企業/NPO⇒学校」と書いている部分には、「企業やNPOが欲している実務的な人材を学校が教育して供給せよ」という意味が込められていると思われるかもしれない。

 しかし、私は決してそうとは考えていない。むしろ、学校はいかに「今すぐには役に立たないこと」を教えられるかが重要である。最近は大学への進学率が高まり、大学間で生徒の取り合いが激化しているため、他の大学と差別化するために就職・進路相談に力を入れ、就職率の高さを売りにしている大学が増えている。これは危険信号である。「今すぐに役立つこと」を教育するのは、大学よりも、学習と実践が密接にリンクしている企業やNPOの方が長けている。大学が企業やNPOと同じフィールドで勝負しても勝ち目はない。大学は、企業やNPOにはできない教育をするべきである。繰り返しになるが、「今すぐには役に立たないが、将来ひょっとしたら役に立つかもしれない知識」を教えることが大学の役目である。短期的な実用性とはかけ離れた知識をどれだけ教育・研究しているかが、大学の成熟度、さらにはその国の成熟度を表していると思う。

 そういう意味で、大学が教える一般教養(リベラルアーツ)は非常に重要である。一般教養は、企業やNPOに入りたての頃は全く役に立たない。むしろ邪魔ですらある。ところが、組織に入って何十年か経ち、人の上に立って組織をマネジメントするようになると、一般教養が必要になってくる。組織は社会の一市民として役割を全うする存在であるから、社会や倫理に関する深い理解が求められる。また、部下を動かしたり、顧客をはじめとする様々なステークホルダーと協力したりするためには、人間を洞察することも必要である。さらに、リーダーシップを発揮するには、自分の軸をはっきりとさせる必要があり、自分とは何者かという問いに答えなければならない。つまり、哲学的に思考しなければならない。そして、こうした社会観、倫理観、人間観、哲学的思考を支える大きな流れとして、歴史観を持つことも不可欠である。

 昔の経営者の文章と現在の経営者の文章を比較すると、一般教養の点で大きな差があるように感じられてならない。昔の経営者は、大きな世界観を持ち、歴史に学び、政治、経済、社会を大局的にとらえる視点を持っていた。その上で、崇高な社会的使命を掲げ、その使命を何としてでも達成するために、人をどのように育て、活かすかということに心を砕いていた。一方、現在の経営者は、経営コンサルタントがアメリカから持ち込んだ概念やフレームワークを使って語っているだけである。いや、概念やフレームワークに使われているのは経営者の方である。だから、文章を読んでいても迫力に欠ける。こういう経営者たちが、自分の在任中だけは何事もなく会社を経営しようと考えた結果、現在多くの日本企業が苦境に陥っているのではないかと思う。

 以上のような「企業/NPO⇒学校」の関係を、今度は「市場/社会⇒企業/NPO」にあてはめると、次のようなことが言えるのではないかと思う。通常、市場や社会は企業やNPOに対して、今抱えている経済的/社会的ニーズを充足する製品・サービスを提供することを要求する。企業/NPOはそのニーズを汲み取って、市場/社会に対して製品・サービスを提供する。しかし、これだけの関係では実は不十分であって、企業/NPOは「今すぐには役に立たないかもしれないが、将来ひょっとすると役に立つかもしれない」という付加価値をつけて製品・サービスを提供するのが望ましいのではないだろうか?
 山本:越後さん(※伊藤忠商事中興の祖と言われる越正一のこと)も快諾してくださったのですぐに向かったところ、トラック業界が求めている物とうちの商品ではかなりニーズに違いがあるということで、商談は成立しませんでした。後日、そのことを越後さんに報告に伺ったところ、「おまえ、それで帰ってきたんか。そんなもん、相手のニーズが合おうがどうかなんて関係あるかい。あんたがうちの商品をどう使うか考えてでも買えと言うてこい」って、もう一回行かされたんです。
(山本富造「教えずして教える 経営の師・越後正一の流儀」)
 これは極端で異質な例だが、私が言いたいのは、単に相手の短期的なニーズに合った製品・サービスを提供するのではなく、長期的・大局的な視点に立って、顧客がいつか気づくであろうニーズを先取りしておき、将来的に顧客がその機能の価値を認めて使ってくれることを期待して販売するべきではないか、ということである。これは、現代の大量生産・大量消費に対するアンチテーゼである。なぜなら、昔の陶磁器のように「使えば使うほど味が出てくる」ような製品・サービスを作るすることを意味するからである。耐久財の場合、製品の寿命を意図的に短くする計画的陳腐化ではなく、少なくとも製品の寿命を延ばすことが必要である。消費財の場合は、長期間使用・摂取することが顧客にとっての価値増大になるような製品設計をしなければならない。

 残念ながら、今の私にはこれといった具体的な方策がない。このような付加価値を実現する製品・サービス開発とは一体どのようなものなのか、今後の研究課題としたい。ただ1点、気をつけなければならないのは、将来ひょっとしたら役に立つかもしれない機能をつけ加えるべきだと言うと、日本企業ではすぐに技術者が競い合って、あれもこれもと機能を追加し、非常に使い勝手の悪い製品・サービスを作り上げてしまう。結果的に、そういう製品・サービスはすぐに顧客に捨てられる。これでは私が目指す企業と顧客の関係にはならない。こういう罠を避けながら、昔の陶磁器のような製品・サービスをどう開発すればよいのか、引き続き考察していきたい。

 (3)
 牧野:1日、2日でできるものじゃありませんからね。毎日仕事もしっかりこなしながら、睡眠時間を2、3時間くらいまで削って、大体40日間くらいかけて(※コンテストに出すケーキを)つくり上げていくわけでしょう。やっとできあがっても一瞬でバーン(※と比屋根会長に壊されるもの)だから、「ええっ!」と(笑)。私も若い頃はショックでした。
(比屋根毅、牧野眞一「我ら菓子づくりの道を極めん」)
 (※西田)王堂先生は日本春秋書芸院の総裁を務められ、当時全国の小中学校の習字の教科書をお一人で書かれるほど大変高名な方でした。(中略)「書に向かうことは、自分と対決することだ。上手でも下手でも、書の気持ちになって書け。余念を挟まず、上手に書こうとするな」これは先生がよくおっしゃっていました。それにお弟子さんが書かれた字を見て、すごい剣幕で「こんなのは字ではない。わしはそんなものを教えたことはない」と、バーンとおっ返されることも度々ありましたね。
(菅谷藍「本気になるから伝わるものがある」)
 上司が部下の成果物をバーンと壊すと、最近はすぐにパワハラだなどと騒がれるから、難しい世の中になってしまったものである。私は前職でコンサルティング&教育研修のベンチャー企業にいて、色々な大手コンサルティングファームの職場の話を聞いたが、たいていどのコンサルティングファームでも、マネジャーが若いコンサルタントの作成したPowerpointの資料を目の前で破り捨てるという事件が発生していた。ただ、部下の成果物を破り捨ててもなお尊敬されるマネジャーというのはいるもので、部下の成果物を破り捨てたがゆえに信頼関係が崩壊してしまうマネジャーとの間には何かしらの差があるようである。

 端的に言えば、部下のためを思って成果物を破り捨てるのか、ただただ自分の怒りに任せて成果物を破り捨てるのか、という違いである。部下のためを思って成果物を破り捨てるマネジャーは、その後のフォローもしっかりとしている。部下を飲みに誘って心理的なケアをし、どういうふうに仕事をすればよいのか具体的にアドバイスを与える。部下がやり直しで作成した成果物を、今度はじっくりと時間をかけて添削する。成果物の品質が要求水準を満たしたら、ご苦労様とねぎらう。こういうことが自然にできるマネジャーが望ましい。(1)とも関連するが、人間の感情の機微に敏感で、人間観を持って部下に接することのできるマネジャーがやはり尊敬される。

 稲盛和夫氏は、昔から役員の仕事をくそみそにこき下ろすことがあるらしい。それでも自分について来てくれる役員には感謝していた。ある時、稲盛氏は役員に対して、「何でいつも滅茶苦茶に叱っているのに自分について来てくれるのか?」と尋ねた。すると、役員は「どんなに怒られても、最後は稲盛さんが『ありがとう』と言ってくれるからです」と答えたそうである。もちろん、稲盛氏とそりが合わなくて辞めた役員も少なくないだろうが、稲盛氏が人間観を持って人間を大切にしたからこそ、経営チームが機能し、複数の企業で大きな成果を上げられたのだと思う。

2017年06月05日

『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について

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致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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 特集タイトルの「寧静致遠」とは、誠実でコツコツした努力を続けないと、遠くにある目的に到達することはできないという意味である。諸葛孔明が自分の子どもに遺した言葉に、「淡泊にあらざればもって志を明らかにするなく、寧静にあらざればもって遠きを致すなし」(私利私欲におぼれることなく淡泊でなければ志を持続させることができない。ゆったりと落ち着いた状況にないと遠大な境地に達することはできない)とあるそうだ。
 岡村:私たちの社会は一人ひとりの集まりですが、全体を数として見るのではなく、一人を見ることが同質のすべての人を見ることに繋がるという発想が東洋にはあったわけです。ですから、西洋でいう宗教という言葉自体が東洋には必要なかったのかもしれません。
(岡村美穂子、上田閑照「鈴木大拙が歩いた道」)
 鈴木大拙の「1が全体であり、全体が1である」という考え方は、全体主義に通じる危険性があるのではないかということを以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で書いた。
 岡村:人間は他の生物と比べて一足先に意識が変化しました。そこで何が起きたかというと、物事を主観と客観に分けて捉えるようになったんです。(中略)半面、自我をも発達させてしまったことで「自分はあなたじゃない」「あなたは自分ではない」という分離を生んでしまったんです。(中略)そこに生じるのが対立であり競争であり戦争です。
(同上)
 「1が全体であり、全体が1である」社会は、私とあなたという区分がない社会である。さらに言えば、この考え方の根底には汎神論(一切の存在は神であり、神と世界とは一体である)があり、その神は唯一絶対であるという前提がある。我々は皆、生まれながらにして絶対的な神と等しい完全な存在である。そこには、自分とは異なる他者の存在を容認する余地はない。

 私は、これを修正したのが「二項対立」という発想であると考えている。世の中の全ての事象を対立構造で把握する。確かに両者は激しく衝突し、引用文にあるように時に戦争にまで至るが、少なくとも、自分とは異なる立場を取る者が存在することを是認している。こうした修正に関しては、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション」で書いた。そして、現代の大国はおしなべて二項対立的な発想をする。この点については以下の参考記事を参照していただきたい。引用文にある岡村氏は、2つ目の引用文が1つ目の引用文より進んだ考え方だとしているが(そして、それが鈴木大拙の言う禅の思想だとしているが)、私は逆に、2つ目の引用文の方が進んでいるのではないかと感じる。

 《参考記事》
 アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)
 岡本隆司『中国の論理―歴史から解き明かす』―大国中国は昔から変わらず二項対立を抱えている

 ただし、二項対立的な発想ができるのは大国に限定される。二項対立は非常に大きなエネルギーを扱うことになるため、日本のような小国では手に負えない。そこで日本人が編み出したのが「二項混合」という手法である。これにより、対立する二項のエネルギーを減殺する(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」、「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。

 二項混合には、水平方向の混合と垂直方向の混合の2種類がある。まずは、水平方向の今号から説明したい。水平方向の混合にはいくつかのレベルがある。最もプリミティブな混合は、対立する2つの事柄について、ある時は一方を用い、別の時はもう一方を用いるという使い分けをすることである。経営で言えば、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップは対立関係にある。アメリカのビジネスでは、マーケティング部門とイノベーション部門(R&D部門)は激しくいがみ合い、変革に挑戦するリーダーは既成勢力のマネジャーから猛烈な反発を食らうというストーリーがしばしば描かれる。日本の場合は、マーケティングとイノベーション、マネジメントとリーダーシップの「スイッチを切り替える」ことで、対立を回避しようとする。

 2段階目の混合は、スイッチの切り替えの頻度を上げることである。以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で、野中郁次郎氏の知識創造理論はマインドフルネスやU理論に触れたことがないと書いた。野中氏のSECIモデルでは、SECIのサイクルを回す中で、主観と客観、物質と精神、身体と心、感覚と論理、個人と集合、部分と全体、過去と未来、形式知と暗黙知といった対立軸の間を頻繁に移動する。例えるならば、対立する二項の間で高速の反復横跳び運動をするようなものである。運動者は一種の酩酊状態に陥る。主観の中に客観を見、物質の中に精神を見る(あるいはそれらの逆)といった現象が生じる。

 3段階目の混合は、対立する二項を文字通り混ぜ合わせて、新しい事象を創造することである。政治の世界では、一方に独裁政治、もう一方に民主主義政治がある。日本の政治は両者の混合型である。すなわち、自民党が戦後のほとんどの期間において政権を握っていながら、自民党の内部が多様な派閥に分かれていることで、疑似的に多党制の民主主義が実現されていた(この点、小泉純一郎氏が派閥をぶっ壊してしまい、現在の自民党が派閥の弱い一党独裁のようになっている点が心配である)。また、経済の世界では、一方に資本主義、もう一方に社会主義がある。日本の戦後の高度経済成長は、日本株式会社とも呼ばれたように、国家が自由な市場経済や企業活動を牽引するという特殊型で成し遂げられたものであった。

 4段階目の混合は、もはや対立を二項に限定しない。多神教の影響を受けている日本人は、物事には様々な見方があることを知っている。そして、それぞれのいいところを都合よく取捨選択する。ここまで来ると、もはや二項混合ではなく多項混合である。明治時代の日本はまさに多項混合で近代社会を作り上げた。法律、金融、通信、軍隊など様々な社会制度は、ヨーロッパ諸国の制度のちゃんぽんである。私は、このちゃんぽん戦略こそが、日本が対立する大国の間に身を置きつつ、周囲の小国と連携しながら自国を守る術であると考えている(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。

 ここで、私が思い描いていた鈴木大拙の世界観について、少し修正しなければならないと思うようになった。「1が全体であり、全体が1である」という世界には、名前がない。名前をつけようがない。どんなに言葉を尽くしても、神が放つ強烈な輝きによって言葉は意味を失う。だからこそ、全体主義は恐ろしい。だが、鈴木大拙は、西洋に禅を紹介した書物の中でこう述べている。
 「花紅にあらず、柳緑にあらず。」―これも禅のもっともよく知られた言葉の一つであるが、「柳は緑、花は紅」という肯定と、同じものと考えられている。これを論理的な方式に書き直せば、「AはAであって、同時に非Aである(A is at once A and not-A.)」となろう。そうなると、われはわれであって、しかも、なんじがわれである。
禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 つまり、対立や矛盾が平然と存在するのが禅における全体である。禅に対する私の理解がまだ十分に追いついていないのだが、禅には二項混合的な発想があるのかもしれない。その複雑な世界を、修行者はあらゆる角度から考察する。彼らが語る言葉には矛盾や否定が多く含まれる。一般人には意味不明に聞こえる。だから、禅問答などと呼ばれる。以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」では、禅問答では言葉が表面的な意味を失って意味を無制限に拡散させているから、全体主義につながっていると書いてしまった。しかし、禅問答は混合的な世界を複眼的に描写しようとする修行者の苦労の跡であると解釈するのが公平な見方ではないかと考えるようになった。

 日本では、水平方向の二項混合だけでなく、垂直方向にも二項混合が見られる。通常、階層社会においては、上の階層と下の階層は対立関係でとらえられることが多い。ところが、日本の場合、下の階層が上の階層の権限を侵食し、より大きな影響力を行使することがある。ただし、ここで重要なのは、下の階層は決して上の階層を打倒しようとはしないということである。こうした現象を、山本七平は「下剋上」と呼んだ(一般的な意味での下剋上とは違うので注意が必要である)。マルクス社会主義が唱えた階級闘争とは異なる。

 日本の歴史を振り返ると、下の階層が上の階層の権限を侵食するという例は数多く見られる。平安時代の摂関政治は、藤原家が摂政・関白という地位を利用して強い政治力を発揮した現象である。日本で長く続いた朝幕二元支配は、幕府(武士)が天皇の執政権の大部分を担ったものである。その幕府の中でも下剋上が起きたことがある。鎌倉時代には、将軍の力が弱く、代わりに執権である北条氏が実権を握っていた。明治時代に入ると、大日本帝国憲法によって天皇に強大な行政権が与えられるようになったが、内閣総理大臣(実は帝国憲法に定めがない)の任命は、天皇の下にいる元老(これも帝国憲法に定めがない)の助言に従って行われていた。

 私は、究極の二項混合は、神仏習合であると思う(以前の記事「義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴」を参照)。大陸から仏教が伝わった頃、信仰の内容がはっきりしない神祇信仰は、教義が明確な仏教に比べると圧倒的に不利であるように見えた。事実、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹説が唱えられたり、日本書紀に登場する神々が仏の名前によって書き換えられたりもした。ところが、仏教はついに神社を破壊しなかったし、天皇から祭祀の機能を取り上げることもなかった。明治時代に入って廃仏毀釈が起き、神道と仏教が分離して現在に至るものの、初詣は神社で、葬式はお寺で行うという習慣の中に、弱い神仏習合が見られると言えるのかもしれない。

 下の階層が1つ上の階層に対して下剋上するだけではなく、2つ以上上の階層に対して下剋上をする場合もある。本ブログで何度も書いているように、(非常にラフなスケッチだが)日本社会は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という多重階層構造になっている。ここで、企業は単に顧客の要望に忠実に従うだけでなく、「お客様はもっとこうした方がよい」と提案することがある。これが1つ目の下剋上である。さらに進んだ企業は、市場に対して公正な資源配分を命ずる行政府に対して、「もっとこういうルールにした方が、市場が効果的に機能する」と提案する。いわば、企業による二階級特進である。ヤフーには政策企画部という部門があり、行政に対して様々な提案を行っていると『正論』2017年6月号に書かれていた。

正論2017年6月号正論2017年6月号

日本工業新聞社 2017-05-01

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 企業の内部には、経営陣⇒部長⇒課長⇒係長⇒現場社員といった階層構造がある。論理的に言えば、市場の大まかなニーズを経営陣が把握し、それを部長⇒課長⇒係長⇒現場社員の順に具体化して、製品・サービスを製造・提供する。ここで、下剋上が進んだ企業では、顧客と直に接する現場社員が上司である係長、課長、部長、経営陣の意向をすっ飛ばして、自らの判断で製品・サービスを提供することがある。二階級特進どころか、三階級、四階級特進である。こういう企業では、現場に対して大幅な権限移譲がされている。私は、時にこのような下剋上が起きる企業こそが強い企業だと思う。逆に、弱い企業というのは、担当者と話をしても、いつも「上と相談してからでないと回答できない」と言われてしまうような動きの鈍い企業である。

2017年05月08日

『その時どう動く(『致知』2017年5月号)』―企業の「弱み」を活かした経営というものを考えられないか?

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致知2017年5月号その時どう動く 致知2017年5月号

致知出版社 2017-05


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 今回の記事は単なる問題提起で終わっている点をあらかじめご了承いただきたい。『致知』の定期購読を始めて3年以上になるが、『致知』に登場する企業は、欧米流の経営を行う企業と、日本流の経営を行う企業とが混在していると最近は思うようになった。

 欧米流の経営においては、まずは強力なリーダーシップを持つ人間が「自分はこれがやりたい」という壮大で明確な目標を設定する。ターゲット市場は最初から全世界である。リーダーは自分が考案したイノベーションについて、「私がやりたがっていることは、世界中の人々が受け入れてくれるはずだ」という強い信念を持っている。そして、そのイノベーションを世界中に普及させるために、VCや株式市場から調達した豊富な資金を使って、大々的なキャンペーンを実施する(その手法は時に強引であるため、「ゴリ押しマーケティング」などと揶揄される)。

 リーダーは、自分が設定した壮大な目標からバックキャスティング的に計算して、いつまでにどんな目標を達成すべきか、綿密な計画を立てる。そして、それぞれの目標をクリアするためのCSF(重要成功要因:Critical Success Factor)を特定する。目標は定量的に測定可能なものであり、CSFは数が絞り込まれているほどよい。リーダーはCSFに経営資源を投入し、目標に向けて邁進する。自ずとその経営は短期志向となる。また、リーダーは目標達成に向けて人一倍努力しているわけだから、他人よりも多くの利益の分け前を要求する。リーダーが数々の目標をクリアし、当初設定した壮大な最終目標を完遂すれば、リーダーの自己実現が完結する。そして、リーダーは莫大な富を手にし、成功者の栄誉をほしいままにする。

 一方の日本流の経営では、強力なリーダーシップを持つ人がいない。顧客をはじめとする様々なステークホルダーから「あれがほしい」、「これをしてほしい」などと色々と注文を受け、それに対して受動的に反応する。したがって、欧米企業のような明確で壮大な目標を持ちづらい。ターゲット顧客も、全世界の人々を想定するといった大げさなことはしない。あくまでも、自社から顔が見える人々のために尽くすのが日本企業である(以前の記事「『繁栄の法則(『致知』2017年4月号)』―日本企業は「顧客の顔が見える経営」に回帰すべきではないか?」を参照)。

 日本企業は、企業を社会の公器として位置づけ、長く存続することをよしとする。よって、欧米企業とは対照的に、中長期的な視点での経営が行われる。と言っても、遠い未来に何か目標を設定して、そこから逆算してスケジュールを組むようなことはしない。企業として、いや人間として当たり前のことを日々1つ1つ積み重ねていけば、自ずとよい結果が得られると信じている。だから、日本企業では職場での挨拶や工場での5Sといった、企業の業績に直結しているとは考えにくい社会的・倫理的行動の数々が重視される。企業は経済的存在である前に、社会的存在でなければならない。欧米企業のように、利益を目的としない。企業やそこに勤める人々が日々善であるならば、利益は後からついてくる。しかも、その利益は非常に慎ましいものである。

製品・サービスの4分類(大まかな分類)

製品・サービスの4分類(各象限の具体例)①

製品・サービスの4分類(各象限の具体例)②

 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」や「『イノベーション研究 これからの20年(『一橋ビジネスレビュー』2017年SPR.64巻4号)』―「製品・サービスの4分類」に関する修正案」で上図を用いたが(何度も言い訳間がしいが、まだこの図は自分の中で腹落ちしておらず、修正の余地がある)、欧米流の経営は左上の<象限③>と親和性が高い。<象限③>では顧客のニーズを先取りし、新市場を創造しなければならない。伝統的な市場調査は役に立たない。そこで、イノベーターが自らを最初の顧客に見立て、「自分ならこんな製品・サービスがほしい」と思うものを形にする。そして、「自分がこれほどほしがっているものだから、世界中の人々もきっと同じようにほしがるに違いない」と考える。そして、イノベーションによる世界征服を企む。

 一方、日本流の経営は右下の<象限②>と親和性が高い。この象限では顧客のニーズが比較的明確であるため、企業側が敢えてイノベーションで冒険をしなくてもよい(もちろん、イノベーションが全く不要であるとは言わない)。1人1人の顧客のニーズにきめ細かく応えていけば、それなりの業績は後からついてくる。ただし、<象限②>は、製品・サービスの欠陥が許されない象限である。例えば、自動車業界は不良ゼロを目指している。野球やサッカーではミスをしたチームが負けると言われるが、<象限②>ではいかなるミスも許されない。そのため、社員1人1人が一挙手一投足において、「自分は正しい行動をしたか?」と問わなければならない。

 欧米流の経営のもう1つの特徴は、「自社の強みを活かす」ことである。ドラッカーをはじめ、様々な経営学者やコンサルタントが口を酸っぱくして言っていることだ。強みの要件を整理したゲイリー・ハメル&C・K・プラハラードの「コア・コンピタンス」や、強みを評価するフレームワークであるJ・B・バーニーの「VRIO」が有名である。強みがなければ、はったりをかますこともある。
 佐藤:例えばある(※ヨーロッパの)オペラのクラスで、「この役を歌える人」と先生から聞かれた時に、私を除いて皆が一斉に手を挙げました。あとで友達に、「何で手を挙げないの」と聞かれ、歌ったことがないからと言ったら、その友達に、「歌ったことがある人なんか一人もいないわよ。経験があるかないかじゃなくて、自分に任せろって言えなきゃダメでしょ」と言われました。でも、「私、そんな嘘つけない」って(笑)。
(村上和雄、佐藤しのぶ「最高の幸せは出逢いの中にある」)
 ここで発想を逆転させて、日本流の経営では、「自社の弱みを活かす」経営ができないか?というのが私の問題提起である。というのも、人間関係においては、自分の強さばかりをアピールする人が受け入れられるとは限らないからだ。敢えて自分の弱みを告白すると、かえってその人に対する信頼感が増すことがある。
 横田:魅力ということで言えば、私は相田みつを先生が自分の弱さを平気でお書きになって、それを認めておられるところが大きな魅力だと、こう思っているんです。
(横田南嶺、相田一人「相田みつをの残した言葉」)
 ただし、「敢えて弱みを見せる」という経営は、今のところ<象限②>よりも<象限③>の方が効果がありそうである。例えば、日本の例になってしまうが、ソニーが1999年に発売したAIBOがそうである。AIBOは、その当時の最新の人工知能、64ビットのRISCプロセッサ、赤外線センサーつき1万8000ピクセルのカラーCCDカメラなどを備えたハイテク製品であった。ところが、エンジニアたちの予想通り、最先端で高度に複雑なデバイスの初期世代につきものの欠点をことごとく備えていた。内蔵ソフトに不具合が起きやすく、持ち主の命令に全く答えないこともあった。しかし、ロボットではなくペットとして売り出されたため、つまり<象限②>ではなく<象限③>の製品として売り出されたため、ユーザーから予期せぬ反応を引き出すこととなった。

 通常のロボットであれば欠陥と見なされる事象が、ペットにありがちな気まぐれな行動に見え、まるでAIBOが「自分の心を持っている」かのように感じられたのである。AIBOのユーザーはAIBOの欠陥を許し、AIBOに愛着を覚えた。雑誌に記事を書くためにAIBOをレンタルしていた人は、AIBOをソニーに返さなければならない時に非常に残念に思ったと雑誌に書いた(以上、ヤンミ・ムン『ビジネスでいちばん、大切なこと』〔ダイヤモンド社、2010年〕より)。最近の例で言えば、AppleのSiriに対して我々が抱く感情がこれに近いだろうか?

ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業
ヤンミ・ムン 北川 知子

ダイヤモンド社 2010-08-27

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 私が大好きな「水曜どうでしょう」も「敢えて自らの弱さをさらけ出す」バラエティー番組であろう。いつも「自分が考えた企画は楽しい」と言いながら、旅の途中でなぜか辛い方向に行ってしまう藤村ディレクター、その藤村ディレクターを叱咤して旅を強引に進めるものの、最後は自壊するミスター、フリートークではあれだけ人の心の先読みができるのに、料理の段取りは全くできず、またディレクター陣には何度も騙される大泉さん、カメラマンなのにブレブレの映像を平気で撮影し、挙句の果てには出演者ではなく車窓や風景にカメラを向ける嬉野ディレクターという4人に、視聴者は癒しを感じる(大泉さんは「サラリーマンの入浴剤のような存在」と言っていた)。

 「自分の弱みを見せる」ことが効果的なのは、上図にある通り、<象限③>は情緒面を重視することと関係しているのかもしれない。企業側が見せる弱みや欠陥がむしろ人間味を醸し出し、それに共感する顧客が増えていくということは十分に考えられる。では、情緒面ではなく、機能面を重視する<象限②>で「自分の弱みを見せる」経営は果たして可能なのだろうか?繰り返しになるが、<象限②>は欠陥が許されない、言わば非常に緊張感のある領域である。そこで企業の弱みを前面に打ち出す余地はあるのか?この点は引き続き考えてみたいと思う。


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