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『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案
『世界』2017年10月号『「一強」は崩壊したのか』―「様々な政治的課題で左派の山の方が大きい」という事実誤認、他
『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年11月28日

『世界』2017年11月号『北朝鮮危機/誰のための働き方改革?』―「働き方改革」を「働かせ方改革」にしないための素案


世界 2017年 11 月号 [雑誌]世界 2017年 11 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-10-07

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 特集2は「誰のための働き方改革?」である。私は珍しく、この特集の内容には賛成を示したいと思う。「働き方改革」の柱は、大きくは①高度プロフェッショナル制度の導入、②裁量労働制の適用範囲の拡大、③残業時間の上限規制の引き上げ(特例で年720時間とし、繁忙期で月100時間未満、2~6カ月の平均で80時間)の3つである。これに女性の活躍推進やシニア人材の活用が加わるので、「働き方改革」とはつまり、日本国民全員が今以上にもっと働けという国からの命令であり、「働かせ方改革」である。少し考えればすぐに解ることだが、国民全体の労働時間が長くなれば消費に回す時間が削られ、消費が冷え込む。また、別の角度から言うと、労働力の供給が増えれば、その分物品・サービスが供給過剰となり、脱デフレの流れに逆行する。

 ここからは大雑把な議論になるが、日本人の労働時間が長いのは、日本の消費者の要求水準が「世界一」と言われるほど高く、かつ多様であるためだと考える。日本では昔から、男性が企業で働き、女性が家庭を守るという分業が成立していた。よって、消費の主体は女性であった。その女性が、企業に対して厳しく、かつてんでバラバラな要求を突きつける。日本人は真面目なので、それらの要求に応えようとする。そのため、企業で働く男性の労働時間が長くなる。

 すると、今度は長時間労働をする男性のニーズに応えるために、24時間営業のスーパーやコンビニエンスストア、長時間営業の飲食店やレジャー施設などが登場する。これらの店舗は、いつ来店するか解らない男性のために、常に店舗を開けておかなければならない。一部の顧客のためにカスタマイズする費用、一部の顧客のために営業時間を延長するコストは、本来であれば他の顧客に転嫁したいところである。ところが、財布の紐が固い日本人はそれを許さない。よって、社員は低賃金で長時間働かされる。これが日本社会のおおよその構図である。

 上記の点を念頭に置いて、私が考える「働き方改革」の素案を披露したいと思う。まだ素案段階のため、施策間の整合性が取れていない箇所がある点はご容赦いただきたい。

 ①まずは、日本人が「便利すぎる社会」を捨てることである。24時間365日コンビニが開いていなくてもよいではないか?ネットで注文した商品が翌日に届かなくてもよいではないか?そもそも、今後日本の労働力人口が減少していくというのに、いつまでも今のような便利な社会を支えることは不可能である(河合雅司『未来の年表』〔講談社、2017年〕)。日本人は「ほどほど」の生活水準で満足すればよい。そのような社会的合意が成立すれば、一部の声の大きい顧客のために追加された機能やサービス、そして、それらにかかるコストが価格に転嫁できていない機能やサービスを企業側は思い切って削減できる。これは企業の収益向上につながる。

未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)
河合 雅司

講談社 2017-06-14

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 その意識醸成を行う役目を担うのは、私は行政だと思っている。私は本ブログでしばしば日本の多重階層構造を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」というラフなスケッチで描いてきた。行政府から市場/社会へと矢印が伸びる、つまり行政府が市場/社会に対して何かを命じるということは、自由市場の原則からすると普通は想定されない。だが、日本の場合はあり得る、いややる必要があると私は考える。行政は消費者に対して、良心的な市民として振る舞うよう働きかける。ドイツでは「社会的市場経済」という考え方が浸透しており、国家が市場に介入して、富の再分配や社会的公正の実現を目指している(ブログ別館「高松平藏『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』―日本の理想社会を一足先に実現しているドイツ?」を参照)。同じことを日本でも行うべきであろう。

 ②現在検討されている「高度プロフェッショナル制度」は、成果を客観的に測定し、それを給与に適切に反映できるという信念が前提にある。しかし、私はそもそもこの前提が誤っていると思う。私はこれまでにコンサルティングプロジェクトなどを通じて、成果を定量的に把握する方法を模索してきた。だが、どんなに精緻な制度にしても、完全に客観的な制度にはならないことに気づいた。精緻な制度にすればするほど複雑怪奇になり、年金制度のように誰にも理解できない代物になってしまう。それに、成果給制度は以下のような問いに答えることができない。

 ・ある社員のプロジェクトは短期的には芽が出なかったものの、引き継いだ後任の社員が5年後に大きな成果を出した。だが、その成果は最初の社員の取り組みに負うところが大きい場合、この成果を最初の社員と後任の社員の間でどのように分配すればよいのか?
 ・逆に、ある社員のプロジェクトが短期的に大成功したが、数年経って企業の屋台骨を揺るがしかねないほどの危険なプロジェクトだと判明した場合、最初の社員に支払った多額の給与から、企業の損失に応じて給与の一部を返還してもらうのか?
 ・イノベーションを促進するには、失敗にも報いることが重要である。では、失敗の価値をどのように算定するのか?また、失敗の価値に相当する給与は、その失敗から教訓を得て仕事を成功させた他の社員の給与から捻出することになるが、按分の割合はどうすればよいのか?

 上記のような問題は、給与を仕事に対する対価ととらえることに端を発している。だから、見方を変えて、給与を成果給ではなく生活給としてとらえ直すべきである。この点は、マルクスが特に重視していたことでもある(こう書くと私はリベラルに転向したのではと思われるかもしれないが・・・)。生活にかかる費用は年齢とともに増加するから、結局のところ最も公平な報酬制度とは年功制である、というのが現時点での私の結論である。これは、出光佐三がかつて出光興産で実施していたことでもある(出光佐三『人間尊重七十年』〔春秋社、2016年〕)。

人間尊重七十年人間尊重七十年
出光 佐三

春秋社 2016-03-10

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企業のサブ目的

 前述した日本の多重階層構造のラフなスケッチをもう少し詳細に書くと上図のようになる(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。私はこの図を用いて、上の階層への「下剋上」、下の階層への「下問」、水平方向の「コラボレーション」の重要性を説いてきた。

 企業はその活動を主に学校、家庭、取引先(上図からは抜けているので修正が必要だと気づいた)、株主、金融機関に依存している。下問とは、上の階層が下の階層に対し、「あなたが自らの目的を達成し、成功するために我々が支援できることはないか?」と問うことである。下問によって下の階層が成功すれば、それは上の階層にとってもプラスとなる。企業が家庭に対して下問するというのは、家庭の目的、すなわち家計を維持し、健康な労働力を企業に送り込み、子どもを生み育てるという目的を達成するために企業としてどんな支援ができるかと問うことである。そのためには最低限、生活費を保障することが絶対条件となる。

 ③以前の記事「DHBR2017年11月号『「出る杭」を伸ばす組織』―社員の能力・価値観を出発点とする戦略立案アプローチの必要性」でも書いたが、現在の戦略立案の定石では、まずは環境分析を通じて戦略機会を発見し、次にターゲット顧客、差別化要因、戦略目標を設定し、そしてそれらを実現するためのビジネスモデルやビジネスプロセスを設計して、必要な能力を持った社員をあてがうという流れになっている。ただ、この流れに従うと、新しい戦略にフィットしない社員は昇進のチャンスを絶たれ、最悪の場合はリストラされてしまう。私自身もこの定石にすっかり慣れきってしまっているのだが、そろそろ発想の転換が必要ではないかと感じている。

 ミドル、シニア社員が昇進の機会を絶たれ、リストラの恐怖におびえている企業ほど若者にとって魅力的でないものはない。若者には、「この会社で頑張っていれば昇進の可能性がある」と思わせなければならない。ということは、企業は原則として、社員全員を昇進させる必要がある。ここでも昇進の基準は「年齢」である。というのも、成果と同様に、能力も客観的に評価するのが困難だからである。社員がある年齢に到達したら、強制的に次のポストへと昇進させる。これは典型的な年功序列制である。企業は昇進した彼らのために仕事を創出するような戦略を構想しなければならない。私は、「仕事に人を割り当てる」という言説を信じてきたのだが、今後は「人に仕事に人を割り当てる」ことが重要になるであろう。恥ずかしながら、そのためのフレームワークを私はまだ持ち合わせていないため、急いで開発しなければならない。

 ただし、ここで企業は大きなチャレンジに直面することになる。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(下)』―「雇用の維持」は企業の社会的責任か?」で簡単に試算したところ、10年で上の階層に昇進する、1人の上司は10人の部下を持つ、各階層とも10年で3割が自然退職するという前提で計算すると、企業は10年間で社員数、売上高を少なくとも7倍にしなければならないことが判明した。それを可能にする戦略をあらゆる企業に要求するのはさすがに酷であろう。だから、先ほど原則として全員を昇進させるべきだと書いたが、実際にはミドル、シニア社員の一部を削減せざるを得ない。彼らを昇進できないまま企業にとどめておくのは、若手社員にとって害以外の何物でもない。彼らは若手社員のために道を開けなければならない。

 旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(1)(2)(3)」でも書いたが、日本の人口動態から見て、将来的には従来型のピラミッド組織に加えて、40代・50代を底辺とし、70代・80代を頂点とする第2のピラミッド組織が登場すると予想している。後者の組織は、ミドル、シニア人材の起業によって生まれる。そこで、既存の企業は、全ての社員にポストを用意できない代わりに、ミドル、シニア人材の起業を促進するインフラを整備する。具体的には、複数の企業が資金を出し合ってファンドを形成するのも1つである。また、こうした新興企業に転職するミドル、シニア人材向けの転職支援金を捻出する保険制度を構築してもよいだろう。

 ④最近、商工中金や神戸製鋼、日産自動車の不正が明るみになって大きな社会問題になった。これらの企業に共通するのは、「厳しいノルマ」が課せられていたということである。アメリカのイノベーティブな企業が大胆な目標を掲げる経営を行っていることに触発されて、日本企業も野心的な目標を設定しているようである。ところが、スタンフォード大学のケリー・マクゴニガルは、将来の目標と現実があまりにもかけ離れていると目標達成の意欲が減退すると警告している(以前の記事「ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)(その4~6)」を参照)。

 また、野心的な目標が効果的なのは、企業が急成長しており、かつ経営資源に余裕がある場合であって、成長が鈍化しており、かつ経営資源が逼迫している時に野心的な目標を立てると組織が窒息するという研究もある(シム・B・シトキン、C・チェット・ミラー、ケリー・E・シー「身の丈に合わない方法では業績不振から抜け出せない ストレッチ目標で成功する企業 失敗する企業」〔『DHBR2017年9月号』〕)。

製品・サービスの4分類(①大まかな分類)

製品・サービスの4分類(②各象限の具体例)

 「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いた上図に従うと、アメリカ企業は左上の<象限③>に強い。この象限はいわゆるイノベーションであり、潜在的な需要がどの程度存在するのか事前に予測することが難しい。上手くいけば全世界を制覇することができるし、世界中の人に何度も繰り返し購入させる、あるいは新しいイノベーションを次々と購入させることができる(スマホのゲームに多額のお金を課金する人、映画を何回も見る人、書籍・音楽を大量に購入する人などがいる)。よって、イノベーターは野心的な目標を設定し、その実現に向かって驀進する。

 これに対して、日本企業が強いのは右下の<象限②>である。この象限は必需品であり、人口や世帯数によって市場規模を相当程度正確に予測することができる。また、競合他社の数からして、自社がどの程度のシェアを獲得できそうかという見込みも立つ。だから、野心的な目標よりも、現実的な目標を立てる方が賢明である。しかも、顧客のニーズが顕在化しているから、企業として当たり前のことを着実に実行していれば、結果は自ずとついてくる。よって、結果に焦点を置いたマネジメントではなく、プロセスに焦点を置いたマネジメントを実施するべきである。

 そもそも、日本人は野心的な目標を理想とすることに慣れていない。日本人は理想と現実という二項対立の扱いが下手であることは、以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」でも書いた。山本七平は陸軍に所属していた時、現場を知らない上司から、軍の物品などの数を実際の数ではなく、上司が言った数で報告するように指示されたという。陸軍には「員数を合わせる」という言葉があった。山本はこうした陸軍の文化を「員数主義」と呼んだ。欧米人でさえ野心的な目標に対しては警戒感があるのだから、日本人は目標というものをもっと慎重に扱わなければならない。

 ⑤働き方改革によって労働時間が短くなった日本人は、単に消費活動に精を出せばよいというわけではない。ピーター・ドラッカーが指摘したように、知識労働者は高等教育に戻る必要がある。社会人が大学に行くことには2つの意味がある。1つ目は、日常業務を離れて新たな視点から知識を吸収することで、企業に戻った時により創造的な仕事を行うことが可能になるということである。もう1つは、先ほど示した企業から学校(大学)への下問の説明に従うと、新しい知の創造を目的としている大学に対して、企業の社員が現場の実践的な知をフィードバックすることで、大学の研究活動を刺激することができるということである。

 大学に戻る社会人が増えると、若者の高等教育の無償化の実現につながる。以前の記事「『正論』2017年9月号『戦後72年/誰も金正恩を止めない・・・』―日本が同じように統治したのに戦後の反応が異なる韓国と台湾、他」でも書いたように、2013年の調査によると、25歳以上の大学への入学者の割合は、OECD加盟国の平均が20.6%であるのに対し、日本はたった2.7%と非常に低い。OECD並みの水準とまではいかなくとも、仮に25歳以上の大学への入学率が2.3%増えて5%になったと仮定しよう。日本の労働力人口は2016年時点で6,648万人であるから、大学に入学する社会人は約153万人増える。社会人が大学を卒業するまでに要する年数を、若者と同じく4年とすると、毎年の社会人学生は約612万人増加することになる。彼らが負担する授業料を年間50万円に設定すれば、年間の授業料収入は約3兆円上乗せされ、高等教育の無償化に必要な財源とされる3.7兆円の大部分をカバーすることができる。


2017年10月17日

『世界』2017年10月号『「一強」は崩壊したのか』―「様々な政治的課題で左派の山の方が大きい」という事実誤認、他


世界 2017年 10 月号 [雑誌]世界 2017年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-09-08

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 (1)
 現下の状況では、米朝両国に対し、世界中に災厄を撒き散らしかねない武力衝突への道を回避するように諫め、朝鮮戦争の完全停止―両国の平和条約締結・国交正常化に向かう話し合いを開始せよ、と促すことだ。
(神保太郎「メディア批評 第118回」)
 米朝関係が緊迫したまま膠着状態にあるが、左派はすぐにここで「対話」を持ち出してくる。しかし、この段階で米朝がどんな対話をすればよいのか、具体的なスクリプトを提示した左派を私は知らない。ただ単に、対立する両者が交渉のテーブルに着いて、「まあまあ、ここは仲良くやりましょうよ」と言えば、両者が和解するというユートピアを描いているかのように私には映る。

 第一、ミサイルを次々と打ち込んでくる北朝鮮に対して、すぐに対話を求めること自体がおかしい。仮に、日本国内で、空に向かってパンパンと拳銃を撃ち鳴らす凶暴な人がいたら、まずは警察に何とかしてくれと頼むであろう。まさか、その人に近づいて行って、「ここは話し合いを」などと言う人はいない。それに、左派がすぐに対話を求める姿勢は、沖縄県における基地反対運動と矛盾する。辺野古移設をめぐっては、工事現場に出入りする車両を力づくで止めようとする左派、市民活動家が後を絶たないと聞く(実際に逮捕者も出ている)。力に対しては力で対抗するのが普通の反応である。左派は、身近に感じている脅威に対しては過激に振る舞うのに、それ以外の脅威に対しては冷静な対話を要求しているわけであり、論理的に一貫していない。

 そもそも、左派は「対話」というものを誤解している。旧ブログの記事「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」でも書いたが、一般的に「対話」と言うと、和やかな雰囲気の中でお互いの意見を語り合うという印象がある。しかし、対話は「議論」の対極に位置する。議論は、参加者が冷静に意見交換をし、合理的に結論を導くプロセスである。その対極にある対話とは、実は本質的に暴力的である。参加者は冷静さを欠き、感情的に高ぶっている。相手を非難し、罵倒し、恫喝し、脅迫する。その言動は時に支離滅裂であり、非合理的である。一歩間違えば、本当に暴力の応酬になる。かろうじて残っている理性が非理性を何とか制御している。

 そして、お互いに気の済むまで自分の見解を奔放にぶつけ合うと、相手の意識の根底に横たわっていた本音が透けて見えてくる。ここに至って初めて、相互理解が進む。対立していた両者は、必ずしも相手のことを正しいとは認めないが、未来に向けて同時に一歩を踏み出すようになる。何か合理的な結論に双方が合意することが重要なわけではない。むしろ、そんな合意は存在しないかもしれない。双方が膠着から前進へと移るという事実こそが重要である。これが本来の対話のプロセスというものなのである。現在、北朝鮮は相変わらずミサイルでアメリカを挑発し、アメリカがそれに言葉と制裁で応酬するということを繰り返している。これは彼らなりの対話のプロセスの一環であり、将来的に交渉のテーブルに着くために避けては通れない道である。

 (2)
 中野:実際の世論調査では、むしろリベラル、左派の山のほうが大きい。どういうことかというと、原発、雇用、福祉、安保法制、特定秘密保護法、共謀罪―これらのイシューで民進党の立ち位置よりも左側に多くの有権者がいることを世論調査はむしろ示している。真ん中に高い山が1つではなく、右寄りと左寄りに2つ山があるのかもしれない。
(中北浩爾、中野晃一「政党政治の底上げは可能か―揺れる安倍政権と野党の活路」)
 引用文中にある政治的課題をめぐっては、右派より左派の方が山が大きいと著者は言うわけだが、これは正確な表現ではない。実際の世論調査の結果を拾えるだけ拾ってみた。

 <安保法制
 ・共同通信=「廃止するべきではない(47%)」⇔「廃止するべきだ(38%)」
 ・産経新聞=「必要(57%)」⇔「必要だと思わない(35%)」
 ・日本経済新聞=「廃止すべきではない(43%)」⇔「廃止すべきだ(35%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(51%)」
 ・毎日新聞=「評価する(37%)」⇔「評価しない(49%)」

 <共謀罪
 ・日本経済新聞・テレビ東京=「賛成(58%)」⇔「反対(23%)」
 ・読売新聞=「賛成(58%)」⇔「反対(25%)」
 ・産経新聞・FNN=「賛成(57.2%)」⇔「反対(32.9%)」
 ・朝日新聞=「賛成(35%)」⇔「反対(33%)」
 ・毎日新聞=「賛成(49%)」⇔「反対(30%)」

 <特定秘密保護法
 ・共同通信=「賛成(35.9%)」⇔「反対(50.6%)」
 ・時事通信=「必要(63.4%)」⇔「必要でない(23.7%)」
 ・FNN=「必要(59.2%)」⇔「必要でない(27.9%)」
 ・日本テレビ系列=「支持する(57.3%)」⇔「支持しない(27.6%)」
 ・テレビ朝日系列=「支持する(38%)」⇔「支持しない(32%)」
 ・NHK=「必要(25%)」⇔「必要でない(16%)」
 ・朝日新聞=「賛成(30%)」⇔「反対(42%)」
 ・毎日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(59%)」

 <原発再稼働>
 ・朝日新聞=「賛成(29%)」⇔「反対(57%)」
 ・毎日新聞=「賛成(26%)」⇔「反対(55%)」

 原発再稼働に関する世論調査は、東日本大震災から6年を迎える今年の3月に実施されたものであるが、朝日・毎日新聞以外では実施されていないようであった(個別の原発の再稼働に関して、地元新聞が行った世論調査はあった)。引用文中には、あと「雇用」と「福祉」がある。雇用に関しては「労働市場を流動化するべきか、それとも労働者の権利を保護すべきか」、福祉に関しては「社会保障を削減するべきか、それとも充実させるべきか」という世論調査を想定しているのだろうが、「雇用 世論調査」、「労働市場 世論調査」、「福祉 世論調査」、「社会保障 世論調査」をキーワードにgoogleで上位100ページを調べたものの、そのような世論調査は見つからなかった。以上の結果を見ると、右派より左派の山の方が大きいのは原発再稼働ぐらいで、総合的に左派の山の方が大きいとはとても言い難い。

 今月号は、何としてでも安倍政権を倒したいという意向が随所に垣間見える内容だった。上記の世論調査に関する印象操作はまさにその典型である。左派は自分にとって都合のいいように事実を捻じ曲げている。左派は、歴史問題に関しては、まずは事実と真摯に向き合うべきだと主張する。日中、日韓の間で、歴史的事実に関して完全なる合意ができなければ、両国との過去を清算し、未来志向の関係を構築することは困難だと言う(もっとも、左派が言う歴史的事実が本当に事実なのかという疑問はあるのだが)。ところが、こと実際の政治問題となると、虚言を並べ立てる。ナチスでプロパガンダの天才と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルスは、「嘘も100回言えば真実になる」と言い、旧ソ連は虚偽の情報を国民に信じ込ませるための広告手法を共産党員に熱心に教育した。日本の左派がやっていることは、これと大して変わらないのではないか?

 (3)
 そんな中、1つだけはっきり言えるのは、「ポスト安倍」時代こそ「中庸の精神」にもとづく政治が必要とされてくる、ということだ。安倍政権は、戦後秩序を根本から変えるという国民を二分するテーマに挑戦し続け、国民の間に深刻な軋轢を生じさせた。寛容な態度で多様な価値観を認める「中庸の精神」という保守主義の美徳は、国民の分断という傷を癒やし、再び統合へと導く大きな力となるだろう。
(園田耕司「保守政党よ、「中庸の精神」たれ―「ポスト安倍」時代への提言」)
 私は、安倍総理は十分に中庸の精神を発揮していると思う。前回の衆議院議員総選挙で改憲勢力が3分の2以上を獲得した時、自民党は野党時代の2012年に取りまとめた「日本国憲法改正草案」をベースに議論を進める予定であった。しかし、この草案は現行憲法の内容を大きく書き換えるものであり、天皇を元首として定め、愛国心と郷土愛を強調し、国民の基本的人権を制限し、家制度の復活を匂わせる内容であった。さすがにこの内容では国民の理解が得られないと感じた安倍総理は、熟慮の結果、9条の改正一本に絞ったわけである。しかも、自民党草案では「国防軍」と明記されていたところを、まずは国民に広く理解・支持されている「自衛隊」の存在を9条3項に書き込むという、極めて穏健な加憲を目指すことにした。

 もちろん、この加憲案は問題もはらんでいる。9条2項には「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあり、この後に3項として自衛隊の存在を加えると、「戦力ではない自衛隊とは何なのか?」、「交戦権が認められていないのに、自衛権を行使してもよいのか?」などといった議論を巻き起こす恐れがある。そして、これまでもそうであったように、この手の議論は日本を取り巻く安全保障の現状を離れて、神学的な論争になりやすい。それでも私は、安倍総理が本当は心の中で実現したいと思っている自民党草案を一旦棚上げし、9条のみにフォーカスしたことに中庸の精神を感じるのである。少なくとも、改憲か護憲かという単純な二項対立の図式にはめ込み、改憲と護憲の中庸は護憲であるという不可解な方程式を導く左派よりはずっとましである。

 (4)
 しかし、事故前に定められた「自衛隊原子力災害対処計画」にはない、原発敷地内、つまり原発オンサイトでの原子炉への注水や給水、燃料プールへの放水などの作業が、いつ誰からどのような経路で自衛隊に依頼され、自衛隊内部でどのような議論がなされ、事後それはどう総括されたかという点については(※防衛省は)一切回答しなかった。
(七沢潔、中村勝美「吉田調書を超えて(第3回)―原発事故と自衛隊(下)」)
 福島原発事故では自衛隊が出動したが、日本の自衛隊は海外の軍とは違って、ポジティブリスト方式で動いている。海外の軍は「これだけは絶対に行ってはいけない」という禁止事項を列挙するネガティブリスト方式であるのに対し、日本の場合は「これだけは行ってもよい」という事項を列記するという方式をとっている。本記事は、原発オンサイトにおける自衛隊の一連の活動が、このポジティブリスト方式に則っていないのではないかと問題提起をするものであった。

 自衛隊のミッションは、非常事態において国民の生命を守ることである。非常事態においては何が起きるか事前に予測することが不可能であり、その時の状況に応じて柔軟に対応することが要求されるから、本来であれば海外のようなネガティブリスト方式の方が適切である。だが、日本のポジティブリスト方式をネガティブリスト方式にがらりと変えるのは、抜本的すぎておそらく非常に時間がかかる。よって、当面は自衛隊が行ってもよいことをポジティブリストの中にできるだけ包括的に定めておくという策が現実的であろう。今回の福島原発事故が、将来の原発事故に備えてポジティブリストを見直す契機になるとよいと思う。

 ところで、9月には2020年の東京五輪・パラリンピックを見据えて、テロ対策の訓練が秩父宮ラグビー場など各地で実施された。訓練の主体は警視庁や海上保安庁であった。私はここで、なぜ自衛隊が加わっていないのかと不思議に感じた。テロは不特定多数の国民の生命を脅かす行為である。ならば、警察ではなく自衛隊が出動するべき場面であるはずだ。

 日本では伝統的に、自衛隊よりも警察の方が権限が強いという傾向がある。国際問題アナリストの藤井厳喜氏は、オウム真理教による地下鉄サリン事件はテロであり、警察のキャパシティを超えているがゆえ、自衛隊マターであったと述べている(藤井厳喜、飯柴智亮『米中激戦―いまの「自衛隊」で日本を守れるか』〔KKベストセラーズ、2017年〕)。海外では、テロが起きると必ず軍が最前線に出てくる。日本の場合、ポジティブリストにテロへの対応がまだ十分に書き込まれていないのかもしれない。テロへの対応は自衛隊と警察が協力して行うものだという認識に立って、どこまでが警察の守備範囲であり、どこからが自衛隊の出番なのか、そして、警察と自衛隊はどのように連携するのかをポジティブリストの中で明らかにする必要があると考える。

米中激戦!  いまの「自衛隊」で日本を守れるか米中激戦! いまの「自衛隊」で日本を守れるか
藤井厳喜 飯柴智亮

ベストセラーズ 2017-05-26

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 (5)
 武田さんが生涯を通じて問い続けてきたのは、伝統に根ざす、特殊で排他的な要素をも含む土着的価値の中のポジティブな要素を、いかにして普遍的な「民主的価値」にまで高めていくか、ということである。
(阿部菜穂子「インタビュー 武田清子氏に聞く―「天皇観の相剋」と現代」)
 武田清子氏は『天皇制の相剋』などの著書がある、御年100歳の近代日本思想史学者である。戦前の天皇制が天皇の絶対化・神格化から全体主義へと至ったという過去を反省し、戦後の日本人は「常に人間を超えた普遍的な価値というものに、自分たちの現実が沿っているか銅貨を反省してインプルーブしていく」ことが重要だと説いている。

 だが、ここで私は「人間を超えた『普遍的な価値』」というものが果たしてあるのかどうかと疑問に感じる。引用文では、それを「民主的価値」に高めていく必要があるとされているが、これではまるで、戦前の日本が上からの全体主義化であったのに対し、21世紀の日本が下からの全体主義化を志向しているようにも見えてしまう。実は、『正論』2017年10月号にも、「脱宗教化されたグローバルで民主的な普遍的価値をアメリカが世界に広めていき、日本はそれに協力するべきだ」といった趣旨の記事があった(ケヴィン・M・ドーク「グローバル社会だからこそ「武士道」を」)。私はこうした主張に首をかしげざるを得ない。

月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]月刊正論 2017年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2017-09-01

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 我々は人間を超えた価値を認めるべきである。これは、人間が合理主義者を名乗って傲慢にならないようにするために絶対に必要である。合理主義を超える価値は、非合理である。なぜ正しいのかを合理的に説明することはできない。ただ、人間を超越しているからというその理由だけで尊い。そして、その非合理的な価値には、人間がどれだけ逆立ちしても到達することができない。我々はその価値を信じるしかない。よって、これは宗教である。そして、ここからが重要であるが、その宗教が政治を規定する。非合理が合理を規定する。合理は非合理に影響されることによって、逆説的だが絶対に完全な合理になることがない。つまり、人間を謙虚にする。

 近代以降の原則は政教分離であるとされるが、実際には土着の非合理が世俗の合理の輪郭を作る。したがって、唯一絶対の政治システムというものは存在しない。土着の非合理の数だけ、政治も多様になる。そして、我々は、他国の土着の非合理が自国の政治を脅かさない限りにおいて、他国の土着の非合理を尊重しなければならない。他国の政治を理解するとは、その国の宗教を理解することである。ある国が自国の宗教に対して謙虚であるのと同様に、他国の宗教に対しても寛容さを示せば、世界に多様な宗教的価値が併存することを認めることができ、全世界を普遍的価値が覆う場合と比べて、かえって国家間の連帯が可能になるであろう。


2017年09月26日

『世界』2017年9月号『報道と権力』―「信頼」をめぐっては左派も右派もねじれた考え方をしている


世界 2017年 09 月号 [雑誌]世界 2017年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-08-08

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 メディアをはじめとする報道は権力をどう監視するべきかが本号のテーマである。報道による監視は、西欧と日本ではまるで違う。本ブログでも何度か書いているように、西欧の国々、特に大国であるアメリカ、ドイツ、ロシアは、物事を利害の対立でとらえる傾向が強い(タグ「二項対立」の記事を参照)。Aという事象があれば、必ずBという反対の事象を立てる。こうした二項対立的な発想があるがゆえに、権力に対しても権力を外部から監視する機関を設ける(以前の記事「『ジャーナリズムが生き延びるには/「核なき未来」は可能か(『世界』2016年8月号)』―権力を対等に監視するアメリカ、権力を下からマイルドに牽制する日本、他」を参照)。

 もう1つ、西欧と日本の違いを挙げるとすれば、西欧は形式知重視であるということである。西欧では、昔から様々な民族が国家の中に混在している。彼らの間でコミュニケーションを円滑に進める、別の言い方をすれば「言った」、「言わない」の議論にならないようにするためには、情報を必ず文書という形で目に見えるようにする必要がある。形式知を最も重視しているのが官僚組織である。マックス・ウェーバーは、官僚組織の特徴の1つとして文書化を挙げた。

 だから、西欧で権力を外部から監視する報道機関は、監視対象の組織が公表する情報や、監視対象の組織が保管している文書を入手して、それを丹念に分析し、組織が不正を行っていないかどうかをモニタリングする。これが西欧の「調査報道」のスタイルである。調査報道からは話が外れるが、元外務省官僚の佐藤優氏は、「(海外の)インテリジェンスの9割は公開情報に基づいている」と述べている。ただし、その弊害がないわけではない。あまりにも公開情報などの形式知に頼りすぎているがゆえに、アメリカのCIAでは、四六時中職員がコンピュータに張りついたままで、ロクに現場を知らない若手職員が増えていると指摘する人もいる。
 最後に、米メディア界のご意見番ともなっているアメリカン大学のチャールズ・ルイス教授(63歳)に話をきいた。(中略)その代表作が、著書『The Buying of The President』だ。シリーズ化されたこの本で、ルイス教授は、大統領候補者に誰が寄付をしているかを整理し、その寄付者の分析から当選後の政策に言及。まさに、大統領は金で買われた存在であることを告発した。(中略)ルイス教授自身は、政権に食い込んで情報をとるような取材ではなく、公文書を入手してそれを読み込んで事実を掘り起こす取材を行ってきた。それは、情報公開制度を利用して公文書を入手しては読み込むという作業で、『The Buying of The President』も連邦選挙委員会などに提出された資料を入手して分析したものだ。
(立岩陽一郎「トランプVSメディア―活性化するアメリカのジャーナリズム」)
 もちろん、こうした調査報道が可能なのは、引用文の最後にあるように、情報公開制度が発達していることが大きい。翻って日本を見ると、報道は権力の外部にあるのではなく、権力の中に取り込まれている。さらに、西欧とは異なり暗黙知重視であるから、情報は監視対象となる人物から直接入手しなければならない。本ブログでは、日本の場合は二項対立ではなく二項を「混合」させると書いてきたが、ここでも権力と報道は対立構造ではなく混合構造になっている。
 国民の知る権利を代行するという建前から報道各社は官邸にブースを与えられる。「内閣記者クラブ」に所属するメディアが官邸に陣取って見張りをすることになっている。デスク級をキャップとし、数人の記者が張り付く。首相番記者は執務室に通ずる廊下に待機し、誰が面会に訪れるかをチェックする。閣議の冒頭では写真撮影が許され、定刻になると官房長官が会見、質問に答える。官房副長官は懇談に応じ、取材源を明かさないことを条件に情報を提供する。首相は節々で記者会見し政権の方針を述べる。テレビやラジオに出演して国民に直接訴えることもする。
(神保太郎「メディア批評 連載第117回」)
 取材相手の代弁者は尽きることはない。そんな彼らを私は「族記者」と呼んできた。「族議員」と同じく、記者クラブを根城に、単なる特定の政策分野に明るい専門記者として各省庁の応援団や利益代弁者の役割を果たすだけではなく、省庁からは”特ダネ”の提供はもちろん、審議会等の委員や専門委員として遇され、退職後は再就職先の面倒まで見てもらおうという輩である。
(川邊克朗「政治の道具と化す警察―安倍一強時代の「秩序感覚」」)
 要するに、日本の報道関係者は、調査対象の人物と個人的な関係を築いて、重要な情報(暗黙知)をこっそりと教えてもらう。普段はその情報の宣伝役に徹するが、時々は調査対象の人物との信頼関係を破壊しない程度に権力を批判する、というやり方をとる。

 西欧と日本のやり方には、どちらも一長一短があると思う。西欧における権力の監視は、客観的な情報に基づく理想的な監視の在り方のように見える。しかし、その半面でデメリットもある。まず、調査対象となる権力が膨大な文書を残すために多大なるコストをかけている。そして、それを外部から監視するためにさらに多くのコストを費やすことになる。これらのコストを最終的に負担するのは国民である。また、外部の監視機関は、情報公開制度では入手できない情報を入手するために、ハッキングのような違法行為に手を染めることもある。

 日本の場合、権力は文書を残さないし、監視機関は権力の中に取り込まれているため、西欧に比べると非常に安上がりである。権力と報道があからさまな対決姿勢を示さないのは、古来から和の精神を重んじる日本らしい一面でもある。ただし、権力側と監視側の人間関係という極めて不安定な結びつきに立脚しており、一度その関係が崩壊すると、監視側の人間が締め出され、権力側にとって都合のよい情報しか流れない状況に陥ってしまう。

 私は本ブログで山本七平の「下剋上」という言葉をしばしば使ってきた。これは、下の階層の者が上の階層の指示に従うだけでなく、時に上の階層に対して耳の痛い意見や批判を加えることを指している。本来の下剋上は上の階層を打倒することを志向するが、山本七平の言う「下剋上」では、下の階層の者が下の階層にとどまったまま上の階層に諫言することが許される。私はこれを中国の『貞観政要』などから学んだ日本人の知恵だと思っている。しかし、権力が暴走すると、この「下剋上」が封じ込められてしまう(現在の安倍政権に見られる危うさである)。

 日本の権力は文書を残さないため、文書の価値が過小評価されている。最近も、菅義偉官房長官が加計学園の獣医学部新設計画をめぐり、「総理のご意向」と記された文書を「怪文書」と言って切り捨てたのはその一例である。私は外資系コンサルティング出身者が設立したベンチャーのコンサル会社にいたことがあるのだが、外資系コンサルは顧客企業と会議をする時に膨大な資料を用意する。これは間違いなく本国の影響である。私もその文化に慣れて育ったので、会議では必ず文書を用意するようにしている(ただし、たくさん資料を作っても読んでもらえなければ意味がないから、ボリュームは最低限に抑えるようにしている)。しかし、独立して様々な企業や組織の”普通の”会議に参加させてもらうと、資料はほとんど用意されないことに気づいた。

 中小企業診断士の組織も例外ではない。診断士の組織には企業と同じように様々な部署があり、定期的に各部の責任者が集まって情報交換や議論をする会議が開催される。総務部は、各部からの報告事項を事前に集約して、会議の前に責任者にメールで配信する。これは、会議で各部からの報告に費やす時間を節約し、重要な議論のために時間を振り向けるための措置である。ところが、いざ会議になると、「報告事項なし」と報告した部署の責任者が、「この紙には書いていないが2点ほど報告事項があって・・・」などと話を始める。つまり、この会議に参加した人でしか得られない属人的な情報というのがある。日本の場合は、紙に書いた情報というのがあてにならない。口頭で交わされた一瞬の情報に重要な価値があり、極めて監視がしにくい。

 報道が権力を監視しなければならないのは、権力に対する不信が根底にあるからである。この「信頼」をめぐって、左派と右派はいずれもねじれた考え方をしていることに気づいた。左派は、水平関係においては「連帯」という言葉によく表れているように、信頼を強調する。一方で、自分たちより上に立って権力を行使する者は必ず腐敗するとの信念から、権力に対しては強い不信感を示す。本号には、明治時代の自由民権運動家である植木枝盛の言葉があった。
 <人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなかりければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかもはかり難きなり。故に曰く、世に単に良政府なしと>
 <唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存じ、全く政府を信ずることなきのみ>
(桐山桂一「「文一道」でゆく―憲法大臣・金森徳次郎の議会答弁(下)」)
 一方、右派は階層社会を前提としているため、権力に対しては比較的肯定的である。日本のように権威主義的な社会であればなおさらである。ところが、水平方向の関係となると、不信感が顔を出す。それが端的に表れているのが国際社会における国家間関係である。現代の国際社会では、全ての国はその大小にかかわらず水平関係にある。しかし、右派は左派のように国家間の連帯を説くのではなく、他国を警戒する。特に現在は、中国や北朝鮮の脅威が、日本のみならず海外の右派の不信感に拍車をかけている。

 国内においては、下の階層が上の階層を信頼し、下の階層が上の階層に対して利他的に貢献することで、結果的に下の階層にも利益がもたらされる。だが、国際社会においては、国家が利己的、自己保存的に振る舞うという矛盾を抱えている(ブログ別館の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―国家関係がゼロサムゲームである限り「信」を貫くことは難しい、他」を参照)。国家に自然に備わっているとされる自衛権が、かえって軍拡競争をもたらしている(以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」を参照)。

 国内においても、水平関係の不信は見られる。私は、垂直方向には前述の「下剋上」(と「下問」)を、水平方向には「コラボレーション」の重要性を説いてきた。日本企業は、日本に特有の業界団体という存在を通じて、時に競合他社と協力するという動きを見せてきた。また近年では、業界の枠を超えた連携が進んでいる。さらに、企業が経済的なニーズだけでなく、社会的なニーズも充足させなければならないという社会的要請を受けて、非営利組織との連携も模索している。だが、日本企業はややもすると陰湿な方法で競合他社の足を引っ張り、異業種からの参入を阻み、社会的要請から目を背ける傾向がある。もしかすると、「コラボレーション」は私の単なる幻想で、現状ではこうした負の側面の方がはるかに大きいのかもしれない。

 以上の内容をまとめると、左派は権力に対しては不信感を抱く一方で、水平方向の関係を信頼している。これに対して右派は権力をある程度信頼する一方で、水平方向の関係に対して不信感を抱いている。前述の通り、日本の特徴は二項「混合」にある(私はこれを日本の美徳だと考えている)。よって、垂直方向、水平方向いずれにおいても、信頼しながらも疑うという関係、つまり「半信半疑」の関係を構築することができないものかと思案しているところである。



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