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上野修『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』―無神論者というよりも「無理性主義者」?
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

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 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年01月05日

神崎繁『フーコー―他のように考え、そして生きるために』―「疎遠なるもの」に自己を変容させて到達する姿勢を経営学にも適用できるか?


フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2006-03

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 最初にこの本を読んだ時は全く理解できなくて、別のフーコー入門書を2冊読んだ後にもう一度チャレンジしたのだが、やはり十分には理解できなかった。120ページぐらいの薄い本なのに、デカルト、カント、ヒューム、サルトル、ハイデガー、フッサール、ニーチェ、メルロ=ポンティ、デリダなど様々な哲学者が登場するため、予備知識に乏しい私にはハードルが高かった。それでも、私なりに整理できたことを記事にしてみたいと思う。

 《参考記事(ブログ別館)》
 重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ
 中山元『フーコー入門』―「生―権力」は<悪い種>だけでなく<よい種>も抹殺してしまう

 我々が外界の事物をどのように認識するかについて、哲学者がどう考えたかについて見ていきたい。まずはデカルトである。デカルトは方法的懐疑という手法を用いて、あらゆる認識を疑った。そして、疑っているという自分が存在することだけは疑いようのない事実であることから、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を導き出した。

 デカルトは啓蒙主義の先駆けである。啓蒙主義とは、端的に言えば理性を絶対視する立場であり、先ほどのデカルトの言葉はこれをよく表している。その理性に対して、外界の事物はストレートに飛び込んでくる。理性が事物を表象する時、理性の中に埋め込まれた観念を組み合わせてイメージを形成する。逆に言えば、あらゆる事物は必ずいくつかの基本的な観念に分解できるということである(要素還元主義)。ここで、あらゆる事物の原因となる基本的な観念はどこから来たのかという問題が生じるが、デカルトはそれは神が仕込んだのだと答える。これがデカルトによる神の存在証明である。神がインプットした観念を組み合わせて表象するのだから、誰が(どの理性が)事物を表象しても、必ず同じようにイメージされる(以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」を参照)。

 デカルトの哲学が経験主義を下地とした唯物論であるのに対し、カントの立場は観念論と呼ばれる。デカルトは理性を絶対視したが、カントは経験や理性の限界を認める。デカルトにおいては、事物の無限な観念を人間の理性が持つことの根拠として神の存在が前提とされた。他方、カントにおいては、一方で理性が自らの経験の限界を設定することで自ら従うべき法則を課す自律性を確保しながら、同時にそうした経験を可能にする根拠を自らのうちに持つ必要が生じた。デカルトは認識の主体である身体や感覚まで方法的懐疑によって退けてしまったが、カントは認識の主体である人間を必要とした。そしてこの人間は、事象を見るのと同時に、自分自身を見ている。ただ、限定された理性が対象を見ていると同時に、自分自身も見られているという時の表象が各人にとってどんなものなのか、私もこの文章を書きながらよく理解できていない(汗)。

 デカルトもカントも、外界の事物が理性に飛び込んでくるという点では共通していたが、フッサールはこれとは異なる見解を示した。フッサールは、理性の方が外界の事物に向かって働きかけるというもう1つの矢印を想定した。フッサールは文の成立過程について考察を行っている。例えば私がペンを見た時、まずは「知覚の志向性」が働く。ペンの一部を見て、おそらくこれはペンであろうという認識を持つ(この段階ではまだ文にはなっていない)。部分的な経験から事物全体へと向かうことを可能にするものを、フッサールは「質料」と呼ぶ。次に、「これはペンである(これはペンであれかし)」という「信念の志向性」が現れる。そして最後に、「これはペンである」という文が発せられる(以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」を参照)。

 外界の事物がストレートに理性に飛び込んでくるという点をもっと深く掘り下げたのがメルロ=ポンティとサルトルである。メルロ=ポンティは、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。ある時、私が森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。だが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木だろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常は、私が最初に難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、私が見たものがそれと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている(以前の記事「熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる」を参照)。

 サルトルは、「眼差し」について考察を行っている。他者への眼差しは、その他者を対象化することによって、本来それ自体も「対自存在」、つまり意識的存在として自由なあり方をしているはずの他者を「即自存在」、すなわち事物と変わらない扱いをすることになる。だが、このことは翻って自己自身にも現に生じていることであり、眺めているということは、眺められているということを意味する。こうして、サルトルは、自己の自由というあり方が、他者の眼差しによって不意打ちを受けて逆転することから生じる疎外感や羞恥心を、自己の本質的構成要件と考える。つまり、自己は本質的に「対他存在」である(サルトルの主張も私はまだよく理解できていない)。

 さて、理性との関係でもう1つ問題になるのが、感情の位置づけである。伝統的なストア派は、理性と感情は対立しないという立場をとった。フーコーは(ここでやっとフーコーが出てきた)、デカルトが理性から狂気を排除していると指摘する。だが、デリダは逆に、デカルトは理性から狂気を排除していないと主張をしており、2人の間で論争が繰り広げられている。デカルトにおける感情の扱いが揺れるのは、『情念論』では理性と感情が両立するかのように書かれているのに対し、『省察』では理性から感情が排除されているかのように記述されているためである。

 フーコーは、死、狂気、逸脱、異常といった限界概念を経験の基点とした。自らに疎遠なものに敢えて挑んで自らのものとする、しかも自らを変えずに疎遠なるものを同化するのではなく、自らの変容を通じて、どこまで到達し得るかという限界を見極めようとした哲学者であった。

 私は、経営学やビジネスの現場で用いられる理論が、近代哲学を後追いしていると感じる時がある。例えば、ロジカルシンキングでお馴染みのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive:漏れなく、ダブりなく)とは、ニュートンやデカルトの言う要素還元主義のことである。カリスマ的な強いリーダーシップによって組織の価値観を統一し、変革を進めるという手法は、唯物論的な世界観を前提としている。また、意思決定の局面においては、まずは考え得る選択肢を全て洗い出し、冷静に時間をかけて検討を行えば必ず最善の解に行き着くと信じられているが、これはまさに啓蒙主義時代の代表的な考え方そのものである。

 しかし、社会は企業活動だけで成立しているわけではない。企業活動の上には政治が乗っている。そして、政治とは権謀術数の世界である。そこでは褒め殺し、誘惑、媚び諂い、威嚇、恫喝、脅迫、取引などが日々行われている。啓蒙主義が理想とした世界からはほど遠く、とても合理的な意思決定が行われているとは思えない。こうした政治の世界については、マーティ・リンスキー、ロナルド・A・ハイフェッツの『最前線のリーダーシップ』(ファーストプレス、2007年)が詳しい。また、以前には、公務員改革をめぐって「長谷川幸洋『官僚との死闘700日』―抵抗勢力の常套手段10(その1~3)(その4~7)(その8~10)」という記事を書いたこともある。

最前線のリーダーシップ最前線のリーダーシップ
マーティ・リンスキー ロナルド・A・ハイフェッツ 竹中 平蔵

ファーストプレス 2007-11-08

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 政治の世界とは、人間精神の異常が前面に出てくる世界である。啓蒙主義者は認めたくないだろうが、政治の世界がこのように混乱していても、国家は何とか回っている。ということは、啓蒙主義者が考える合理的な意思決定よりも、現実の政治的な意思決定の方が本質に近いのかもしれない。そして、こうした政治世界の傾向は、企業活動にも及びつつあると感じる。従来の企業活動は経済的、量的であったため、近代的な算術で処理することができた。だが、これからの企業は社会的ニーズと多様なステークホルダーに対応する質的な経営が求められる。換言すれば、企業活動が政治化する。ということは、フーコーのように異常からアプローチする必要が生じるに違いない。ここにおいて経営学は、現代哲学に追いつく。これは一見受け入れがたいことだが、我々は「イノベーションは辺境から生じる」というあの格言をここで思い出す必要がある。


2017年06月29日

上野修『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』―無神論者というよりも「無理性主義者」?


スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか シリーズ・哲学のエッセンススピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか シリーズ・哲学のエッセンス
上野 修

NHK出版 2006-07-29

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 スピノザの『エチカ』、『神学・政治論』、『国家論』を読まずに、本書だけを頼りにスピノザについて書くという暴挙をお許しいただきたい。本書は『神学・政治論』の解説を中心とした1冊である。

 スピノザはオランダ出身の哲学者である。『神学・政治論』が書かれた頃のオランダの状況を簡単に押さえておきたい。当時のオランダは共和国であったが、過度の自由を敵視する人々が存在した。政治的に言うと、実利主義的な観点から共和国政府の寛容政策を支持する「共和派」がいる一方で、聖職者や神学者といった正統派勢力は、強権的な締めつけを望む「総督派」であった。総督派は独立戦争時の軍事的リーダーの総督を担ぎ、君主制への移行を狙っていた。そして、群衆の多くも、総督派を支持していた。

 スピノザは、デカルトの流れを汲む自由主義者である。それまでのデカルト主義者は、神学と哲学の分離が1つの伝統になっていた。神学も哲学もどちらも真理であり、一方が真理であることは、もう一方が真理であることを妨げるものではないというのが共通の認識であった。だが、スピノザの時代になるとこの伝統が崩れてくる。一方には、「理性は聖書の意味に順応させられるべきだ」という正統派神学者の超自然的解釈があり、もう一方には「聖書の意味の方が理性に順応させられるべきだ」という急進デカルト主義者に典型的な合理的解釈が生まれた。ロドウェイク・メイエルというデカルト左派は、「聖書がもし真理なら哲学の真理に矛盾するはずがない。それならば、聖書が真となるように解釈するのは、結局、哲学的理性である」と主張した。

 スピノザはこうした混迷にケリをつけるために『神学・政治論』を書いた。同書は、「理性は神学の婢でなければならぬという考えさえなければもっと自由に哲学しているはずの人々」に向けた本である。つまり、デカルト主義者に向けられたものだった。スピノザはまず、聖書は全体が真理であるという前提自体が間違っていると述べた。聖書には様々な預言が含まれており、時に内容が矛盾することがある。これまでの神学者は、聖書が絶対的に真理であると信じて、全体の整合性が取れるように聖書を解釈してきた。スピノザはその伝統をいきなり否定した。

 スピノザは、預言の真理条件ではなく、主張可能性条件、つまり、預言が預言として成立するための条件に着目した。預言は、高尚な神学者や哲学者にしか理解できない難解なものではない。むしろ、高度な知識とは無縁の一般人であっても、その言葉の意味を十分に理解できる。スピノザは、その理解を可能にしている条件に着目した。言い換えれば、預言が一個の言語行為として成立できる条件を問題にした。預言が預言たりうることをスピノザは「預言的確実性」と呼ぶ。聖書は全体として正しいわけではないから、預言がなぜ正しいのかという諸原因は問われない。人間がどうこうできない命令の根拠づけなき正しさに、スピノザは聖書の神聖性を見出した。

 スピノザは、聖書の文法に着目し、聖書に流れる「普遍的信仰の教義」を整理した。「普遍的」という名前がついているが、これは、真理だから教義なのではなく、それを知らなければ神への服従が絶対に不可能となるような教義のことである。このような前提の下に書かれた聖書の文法を、本書の著者は「敬虔の文法」と呼んでいる。預言的確実性は、「言われていること」の真理にではなく、かく「言うこと」の倫理的・文法的な正しさに存在する。ここにおいてスピノザは、神学は敬虔と信仰を扱い、哲学は真理と叡智を扱うと明確に区別するに至った。

 次にスピノザが問題にしたのは、人が敬虔であるかどうかを誰が判定するのかという問題であった。敬虔の文法は「正義と愛をなせ」といった命令を語り方として含むものである。その命令を実行させるには、強大な第三者が最高権力を持って君臨する必要があるとスピノザは考えた。ここでスピノザは「神の国」のことを念頭に置いている。しかも、「普遍的信仰の教義」が神についての真なる命題では全くなかったように、「神の国」も国家についての真なる理論である必要はない。ただし、聖書を神聖たらしめるものが必要であったのと同じ理由で、国家権力を最高たらしめるものが要求される。それをスピノザは「契約」に求めた。

 スピノザの言う契約は、いわゆる社会契約であり、ホッブズらと変わらない。ただし、ホッブズと違うのは、スピノザの契約は敬虔の文法を下敷きにしているということである。スピノザは、出エジプト後のヘブライ人が実質的な社会契約に基づく国家を運営していたことを引き合いに出し、当時の民主国家と古代ヘブライ神聖政治は、起源である契約という部分では変わりがないとさえ述べている。なお、後年の『国家論』では、契約という表現は使われなくなり、国家権力を支えるのは「群集の力」だとされている。人間が最高権力の法に従う時、メンバー1人1人が持つ力は、彼以外のメンバーたちが全体として作り出す巨大な力によって圧倒的に凌駕される。人間は単独では大したことができないが、共同して結合すると、その総体ははるかに有能な一個体となる。1人1人と集団との間の圧倒的な力の差が、最高権力の物理的な基盤となる。

 ここまで読むと、スピノザは聖書の普遍的信仰の教義を擁護し、さらに敬虔の文法を下敷きとして政治を論じているため、デカルト主義者としての自由主義はどこに行ってしまったのかという気持ちになる。そこで、スピノザは最後に、言論の自由と敬虔・共和国の平和が共存することを示している。各人は国家権力をバックとする法を順守している限り、不敬虔になるのではないかと恐れる必要はない。その限りにおいて、言論の自由は保障される。逆に、言論の自由が除去された場合、共和国の平和と敬虔も同時に崩壊するとスピノザは論じた。

 こうして書かれた『神学・政治論』であるが、出版と同時に「スピノザは無神論者である」という批判が集中した。しかも、正統派である神学者ではなく、スピノザがこの本を読んでほしいと願っていたデカルト主義者から批判されてしまった。例えば、ファン・フェルトホイゼンは、聖書が真理を教えていないならば、我が国の宗教はまるで無知な人々を正義の徳へと駆り立てる大掛かりな詐欺ではないかと批判した。これに対して、スピノザは、信仰や神聖政治のカギこそが無知であると反論した。預言者たちは正義への誠実な思いだけを担保に、かく言うことの正しさの確信を得た。預言者は無知によって、欺瞞や策略の詮索から守られていた。預言者たちは無知で構わなかったし、事実無知であった。だからこそ、群集の力にさらされながら彼らがその無知によって成し遂げたことを心に留めよとスピノザは主張した。

 一般にスピノザは無神論者として理解されているが、本書の著者がスピノザは無神論者ではなく、むしろスピノザの方こそ最も宗教を肯定的にとらえていたという立場に立っているため、本書を読んでもスピノザが無神論者であるようには思えない。先ほども述べたように、神学と哲学の棲み分けをはっきりさせた上で、預言的確実性の条件や普遍的信仰の教義を整理したり、敬虔の文法に基づいて国家の最高権力を論じたりするスピノザには、無神論者の姿は感じられない。それどころか、政治の世界から理性を追い出している「無理性主義者」なのではないかという気さえしてくる。古代ギリシアの時代から、哲学と言えば政治のことであった。そして、哲学者たちは、政治の舞台で理性を発揮するための唯一の解を模索し続けてきた。しかし、スピノザが問題にしているのは「神の国」であり、絶対的な真理に従わなくてもよいと言う。

 スピノザが、聖書は全体が真理であるという前提が間違っているという前提から出発したように、我々も、政治は理性に従った真理の営みであるという前提を捨てなければならないのかもしれない。西洋は、近代の啓蒙主義以降、自由、平等、人権といった基本的価値観を理性の賜物として尊重し、その基本的価値観を実現する政治を世界中に広めようとしてきた。だが、西洋の政治的手法だけが唯一の解でないことは、現在の世界を見れば一目瞭然である。

 特に、イスラーム世界は、西洋的なやり方との間で大きな軋轢を生じている。狩猟民族と遊牧民族という違い、心の安寧を願うキリスト教と政治、経済、社会、文化、生活などあらゆる局面に織り込まれたイスラーム法という違いなど、様々な違いに着目するにつけ、イスラーム世界にはイスラーム世界に合った政治というものがあるような気がしてならない。繰り返しになるが、スピノザは聖書を絶対的な真理とせず、その議論の延長線上に、政治もまた絶対的な真理ではないとした。これに従えば、啓蒙主義を経て完成した現代西洋の理性的な政治は、スピノザの主張との間に深刻な矛盾を含む。むしろ、仮にイスラーム世界がクルアーンの脱真理化に成功し、クルアーンに基づく政治体制を構築すれば、まさにスピノザの主張が実現されたことになる。

 西洋諸国は20世紀に、イスラーム世界に乱暴なやり方で国境線を引いた。現在のイスラーム世界は、オリジナルの政治を模索して葛藤している最中であるように見える。西洋諸国はそこに介入してはならない。結果的にイスラームと西洋とで異なる政治が完成した時、「相手の政治は真ではないかもしれないが信じる価値がある」とお互いに言えるようでなければならない。


2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した


道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。



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