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頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した
熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる
神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した

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道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。

2017年03月22日

熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

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メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2005-09

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 哲学には大きく分けると2つの立場があると理解している。1つは、客観的な知を探求する立場で、彼らは厳密な言葉で世界を還元しようとする。もう1つの立場は、「私」の「身体性」を重視し、身体や身体による行為を通じて表象される知とは何かを考察する。メルロ=ポンティは後者に属する哲学者である。後者の哲学者は、「私」が見たまま、感じたままの世界に直接触れ、言葉を紡ぎ出す。この点で哲学者は詩人と同じなのではないか?というのが本書の問題提起である。

 メルロ=ポンティは、身体を通じた意味の生成について、次のように論じている。我々が普段動かしているのは客観的身体ではなく、「現象的身体」である。現象的身体は、客観的身体ではとらえられないような感覚をつかむことがある。その一例が「幻影肢」と呼ばれる事象である。不慮の事故などによって手足を切断された人は、手足の先に痛みやかゆみを感じることがあるそうだ。客観的身体は失われているのに、意識が働く。これが現象的身体の特徴である。

 意識とは、「私は○○と考える」ではなく、「私はできる」という意味であるとメルロ=ポンティは言う。幻影肢の例で言えば、意識は、手足が欠けているにもかかわらず、手足の痛みをかばったり、手足のかゆみを解消したりしようとする。この時、現象的身体は自らを表象する必要はない。換言すれば、自分には手足が欠けているとか、手足に痛みやかゆみが生じているといったことをいちいち考える前に、手足の痛みやかゆみをカバーする。現象的身体は、身体の物理的な限界を超えて、直ちに意味を生成する。だから、我々は身振り手振りによって、身体の物理的な運動以上の意味を表現することが可能である。

 身体が表象を必要とせずに意味を発するという点は、言葉に関しても同じである。我々が日常生活の中で何かしらの言葉を発する時、わざわざ単語や文節に分解して表象するわけではない。言葉が口に出されたその瞬間に、我々は既に何かを語ってしまっている。つまり、意味が生成されている。現象的身体が内部に意味を有し、それを発露するのと同様に、言葉もまた内部に意味を有し、それを発露する。ここまでは私も何とか理解できる。問題はここからである。

 メルロ=ポンティによれば、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。本書で紹介されている例を単純化して説明すると次のようになる。ある時、私は森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。ところが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木なのだろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、私にとって枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常であれば、私が最初難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、それと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている。

 以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」の最後で、対象に向かって知覚の志向性が伸びていると書いた後、実は門脇氏が「私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある」と述べていることに触れた。信念が外部の世界の下にあるという同時性は、外の世界が既に意味を内包しているというメルロ=ポンティの主張に通じるところがあるような気がする。ただ、依然として、外の世界があらかじめ意味を内包しているとはどういうことか?しかも、その意味は決して客観的ではなく、知覚する1人1人の人間によって異なるとはどういうことなのか?という疑問は残る。

 特に、外の世界が全体としてあらかじめ意味を内包しており、それを部分に再配分するという点は、通常の我々の理解からは遠く離れているように感じる。ところが、そういう意味が存在することを示唆する事例があることをメルロ=ポンティは紹介している。それが「シュナイダー症例」というものである。シュナイダーは視覚の障害を持っており、色や形態、文字の認識に問題を抱えていた。だが、シュナイダーにはそれ以上に注目すべき徴候があった。

 シュナイダーは、鼻の先に蚊が止まれば手で払いのけることができたし、鼻をかむときにはポケットからハンカチを取り出すこともできた。ところが、目を閉じたまま鼻を指すように命じられてもそれができない。また、コップの水を飲むことは自然にできるのに、空のコップで水を飲む真似をすることは、シュナイダーにとって非常に難しい課題であった。つまり、シュナイダーは生活の中で具体的な意味を持つ身体行動は難なく遂行できる一方で、生活にとって意味を持たない抽象的な振る舞いをすることができないのである。シュナイダーには現象的身体が発する意味はあっても、外界が持つ意味を理解する能力が欠けている。

 シュナイダーにとって世界は単なる「もの」でしかない。だから、シュナイダーが世界を理解するには、世界を構成する断片的な意味をつなぎ合わせるしかない。シュナイダーは実際、物語のメロディー的な統一をとらえ、物語のリズムやテンポを理解すること、つまり物語を物語として理解することに困難を示した。このことから、健全な人間は、外界を構成する要素を分解し、それぞれに人間の側から意味を与え連合させるのではなく、外界そのものが既に有している全体的な意味、時に応じて部分に対し再配分される意味を受け取るのが通常なのだということが言える。

 以上をまとめると、意味には2種類ある。まずは、現象的身体が発する意味である。もう1つは、外界が包摂している意味である。そして、両者の交流によって新たな意味が創造される。「感覚する者」と「感覚されるもの」の相互的な交換によって意味が生じる。

 さて、本書の問題提起は、「哲学者は詩人でありうるか?」というものであった。詩人は現在を永遠のものとして語る。詩人が知覚している世界を、ありのままに言葉で表現する。ところが、哲学者にはそれができない。というのも、哲学者は反省する存在であるからだ。しかも、反省に先立つものに立ち戻って反省をしなければならないという矛盾を抱えている。哲学者は何とか現在をつかまえて、現在を反省しようとする。ところが、時間の流れが現在の拿捕を困難にする限り、哲学者は現在を考察することができない。よって、哲学者は詩人たることができないというのがメルロ=ポンティの答えである。それでもなお彼は、世界とその経験を現在において言いあてる語を探しあぐねる、詩人の辛苦を引き受けようとしていたのであった。

2017年02月16日

神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他

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ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2002-10

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 以前の記事「金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?」と同様、ニーチェの主要な著書である『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な、あまりにも人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』、『ツァラトゥストラはかく語りき』などを一切読まずに、本書だけを手がかりに記事を書くという暴挙。この年齢になって、大学生の時にしっかりと勉強しなかったことを本当に後悔している。

 ニーチェは非常に多産な哲学者であった。多産な物書きの宿命として、後代の人によってその人の文章から一部分だけが断片的に取り出されて好きなように解釈される、ということがある。私が敬愛するピーター・ドラッカーも多産な文筆家であり、そのような運命に陥っているように感じる(というか、私もその運命の片棒を担いでいる)。ニーチェの場合もこの運命を逃れることができなかったようだ。とりわけニーチェの場合は、親族によって著作が改竄されるという憂き目に遭っている。ニーチェの妹・エリザベートは、『力への意志』をナチスの活動と共鳴させる意図を持って出版した。その結果、ニーチェはナチズムの先触れという汚名を浴びることになった。

 『力への意志』はともかく、ニーチェの文章を(ニーチェには悪いと思いながら)断片的に追っていくと、『力への遺志』以外の文章においても、全体主義に通ずる部分があると感じる。
 この世界は、はじめも終わりもない巨大な力であり、増大も減少もせず、消尽されず、ただ変化するのみの、不動で固定的な一定量の力であり、支出も損失もないかわりに、同時に増殖も収入もなく、自らの限界以外の限界は「何も」なく、一定の力として一定の空間に収められ、しかもその空間のどこにも「真空」はなく、むしろ力として遍在し、力と力動の戯れとして、一にして同時に「多」であり、(以下略。太字下線は筆者)
 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で、全体主義に関する私の(浅はかな)理解を書いたが、改めてもう一度簡単にまとめておく。啓蒙主義以前の西洋には、唯一絶対の神と、神によって造られた不完全だが多様な人間がいた。ところが、啓蒙主義によって人間の理性が合理化されると、かつては人間の「あちら側」にあったメシアニズムが「こちら側」に手繰り寄せられ、人間が神と同じ絶対性を獲得することとなった。一般的に、啓蒙主義は脱宗教・世俗化のプロセスと説明されるが、私はむしろ人間が神になったと認識している。全ての人間は唯一絶対の神と等しいわけだから、個人と全体は同義である。多様性という考えはなくなる。これが、私有財産を否定する社会主義や、独裁と民主主義を同一視する全体主義へとつながっていく。
 卒業に際して提出した論文は、紀元前6世紀の詩人・テオグニスについてのものだが、その詩句の一節に、「地上に生きる人間にとっては生まれぬことこそ、また焼き焦がす陽の光を見ぬことこそ、すべてにまさって善きこと、だが生まれしうえは、一時もはやく冥府の門をくぐり、うず高い土塊の下に眠るにしかず」というのがあるが、(以下略)
 『悲劇の誕生』の第三節においても、ミダス王の追手から逃れつつ、頑に沈黙を守り続けたシレーノスから強いて聞き出したこととは、「人間にとって、生まれ来らぬことこそ最善のこと、だがしかし次善のこととしては、生まれた以上は、できるだけ速やかに死に至ることであり、これこそ人に可能な最善のこと」という言葉であった。
 以前の記事「『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他」で、左派の思考を突き詰めると、人間は生まれない方がよいという結論に至ると書いた。人間が生まれなければ、人間は絶対無である。ところで、神は無から有を創造する存在であるから、その本質は絶対無である。つまり、人間が生まれなければ、人間は神と同じ絶対性を達成できる。

 だが、実際には人間は生まれる。そこで、考え方を変えなければならない。人間が唯一絶対の神と同一であるということは、生まれながらにして完成していることを意味する。だから、生まれた瞬間という現在の1点が、時間の全てを支配している。そこには過去も未来もない。よって、過去から学ぶとか、未来に向かって能力を鍛えるという発想もない。そして、この時間軸における現在の絶対性を際立たせるために、人間は死ぬ。人間が早く死ねば死ぬほど、現在はより際立った時間となる。死んだ人間は無に帰すが、実はその無は再び有=新しい人間を生み出す源泉となる。神が無から有を生み出すのと同様に、人間もまた無から有を生み出す。こうして、人間の有と無は連関する。現在という絶対的な時間において、生まれては死ぬことを繰り返す。

 ニーチェの言葉を借りれば、これは「永遠回帰」である。
 おまえが現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いやさらに無数の回数、おまえは生きなければならぬだろう。そこに新たなものは何もなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、おまえの人生の言いつくせぬ大小さまざまの事柄の一切が、おまえの身に回帰せねばならない。しかも、何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって。
 見るがいい、この「瞬間」を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?(中略)

 そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるすべてのものをひきつれているのではないだろうか?したがって、―自分自身をも。まことん、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を―やはりもう一度走らなければならないのだ!―
 本書の副題は「どうして同情してはいけないのか」である。我々の道徳的感覚に反するような問いに対して、ニーチェは次のように答えている。
 他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの怯懦を確認させるであろう。(中略)われわれはこの種の苦痛と侮辱を拒絶して、憐れむという行為によって、それらに復讐する。この行為のなかには、巧妙な正当防衛や、あるいは復讐すら込められている。
 啓蒙主義がもたらした全体主義においては、1人は全体と等しいと書いた。よって、ある人がマイナスの感情を持てば、それは直ちに他者にも共有される。味わう必要のないマイナスの感情を負わされることになる。だから、それを真面目に受け止めて同情してはならないというわけである。ニーチェは、憐れみは「正当防衛」であり、「復讐」であると書いている。これはおそらく、ある人がマイナスの感情を自分に負わせることに対して、自分が憐れむ、すなわち同じようにマイナスの感情を抱くことで、その人にマイナスの感情を跳ね返して攻撃するという意味だろう。

 マイナスの感情を持つ他者に同情してはならないということは、同時に、自分もマイナスの感情を抱いて他者を害してはならないことを要求する。つまり、1人が全体と等しい世界では、感情があまりにも急速に共有されるから、一切の感情が禁止される。社会主義者は連帯を、全体主義者は民族意識の高揚を解く。しかし、逆説的だが他者と心理的につながることは禁止されているのである。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」という状態である。

 このように見ていくと、ニーチェの主張には救いがないように感じる。だが、ニーチェは全体主義的な傾向に陥らないための方策をいくつか用意していると私は解釈している。
 心酔し傾倒する相手に対して、その相手をまず二重化して、優れた点・好ましい点だけに注目して、そこに自己の模像もしくは分身を見出し、そして反対の劣った点・好ましくない点をそれと闘わせ、競い合わせて、前者の優れた点・好ましい点を高めていくという方法である。(中略)反発し敵対するようになったからといって、相手に対する敵対者としての尊敬を失うわけではない。
 これは、本ブログの言葉を使えば、「二項対立」を導入したということである。そして、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたように、フランス啓蒙主義の影響を受けて独立したアメリカが全体主義に陥らなかったのは、二項対立のおかげである。二項対立的発想によって、自分とは異なる他者の存在を認めることができるようになった。つまり、自己の絶対性は消える。二項対立においては、お互いに対立はするが、相手を完全に消し去ろうとはしない。相手を消し去ってしまえば、自己が絶対になってしまうからだ。だから、二項対立においては常に敵を必要とする(以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」を参照)。

 次に、永遠回帰についてだが、ニーチェはこれを理想とはしていない。永遠回帰は人間にとって「重し」である。ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』には、「鷲の首に絡みついた蛇」という比喩が登場する。「鷲」が表すのは「飛翔」、「蛇」が表すのは「円環」である。そして、同書の中で、鷲と蛇の関係は次のような結末を迎える。
 そのとき彼(※ツァラトゥストラ)は、この円環の象徴である蛇をかみ切るのである。してみると、「永遠回帰」の思想はついに「飛翔」のモチーフとは一体になれずに、愚かさをともなった「誇り」として「飛翔」を続けることを、ツァラトゥストラ自身予感していることになる。
 たとえ全体主義という、思想的には全く欠点がないように見えるものがあっても、人間は愚かなことにそれを捨て、いやそれどころか、愚かでありながら誇りを持ってそれを捨て、飛翔するのである。この時の人間の精神状態は、ニーチェが唱えた「ラクダ⇒獅子⇒子ども」という3段階説によれば、「子ども」の状態である。子どもにできるのは、「笑う」ことである。
 『善悪の彼岸』第26節は、そのことをもっとも端的に示す箇所であり、誇り高い孤高の人間が、邪悪な魂とは異なる低劣な魂のうちに誠実さを求めて下降する過程が描かれている。その邪悪ではない、低劣な魂とは、もっとも典型的には動物である。
 キュニコス的な真の自由は、自分の動物性を認めそれを感ずることのうちにある。それを肯定する人間にとっての最高の表現状態が哄笑なのである。人間という動物のみが笑うことができる。
 同情を禁じたニーチェは、未来回帰という考え方に基づいて全体主義に接近した。引用文の「誇り高い孤高の人間」とは、全体主義者のことである。ところが、ニーチェはそれを「重し」と感じて、最終的には放棄した。「低劣な魂」に下り、子どものように「哄笑」することを選択した。これにより、全体主義の暴力性と決別し、愚かであっても人間らしい暖かさを得られるようになった。

 本書の「はじめに」の部分で、著者は本書を9.11テロ事件の前後に書いたと述べている。テロの犠牲者に対して、我々は普通同情の念を禁じえないだろう。ところが、ニーチェの「同情の禁止」という命題が頭にあった著者は、本書でこの問題に触れないわけにはいかないと感じたそうだ。だが、本書を読んでも、我々はテロの犠牲者に対してどのような感情を抱けばよいのか、明確な回答は得られなかった。本書の最後は「子どもの笑い」で締められている。「子どもの笑い」のような感情であのテロ事件を、そしてテロ犠牲者を思うということは一体どういうことなのか、ない知恵を一生懸命絞って考えてみたものの、いい考えが思い浮かばなかった。


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