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神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他
金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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(監事を務めています)

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2017年03月22日

熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

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メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2005-09

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 哲学には大きく分けると2つの立場があると理解している。1つは、客観的な知を探求する立場で、彼らは厳密な言葉で世界を還元しようとする。もう1つの立場は、「私」の「身体性」を重視し、身体や身体による行為を通じて表象される知とは何かを考察する。メルロ=ポンティは後者に属する哲学者である。後者の哲学者は、「私」が見たまま、感じたままの世界に直接触れ、言葉を紡ぎ出す。この点で哲学者は詩人と同じなのではないか?というのが本書の問題提起である。

 メルロ=ポンティは、身体を通じた意味の生成について、次のように論じている。我々が普段動かしているのは客観的身体ではなく、「現象的身体」である。現象的身体は、客観的身体ではとらえられないような感覚をつかむことがある。その一例が「幻影肢」と呼ばれる事象である。不慮の事故などによって手足を切断された人は、手足の先に痛みやかゆみを感じることがあるそうだ。客観的身体は失われているのに、意識が働く。これが現象的身体の特徴である。

 意識とは、「私は○○と考える」ではなく、「私はできる」という意味であるとメルロ=ポンティは言う。幻影肢の例で言えば、意識は、手足が欠けているにもかかわらず、手足の痛みをかばったり、手足のかゆみを解消したりしようとする。この時、現象的身体は自らを表象する必要はない。換言すれば、自分には手足が欠けているとか、手足に痛みやかゆみが生じているといったことをいちいち考える前に、手足の痛みやかゆみをカバーする。現象的身体は、身体の物理的な限界を超えて、直ちに意味を生成する。だから、我々は身振り手振りによって、身体の物理的な運動以上の意味を表現することが可能である。

 身体が表象を必要とせずに意味を発するという点は、言葉に関しても同じである。我々が日常生活の中で何かしらの言葉を発する時、わざわざ単語や文節に分解して表象するわけではない。言葉が口に出されたその瞬間に、我々は既に何かを語ってしまっている。つまり、意味が生成されている。現象的身体が内部に意味を有し、それを発露するのと同様に、言葉もまた内部に意味を有し、それを発露する。ここまでは私も何とか理解できる。問題はここからである。

 メルロ=ポンティによれば、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。本書で紹介されている例を単純化して説明すると次のようになる。ある時、私は森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。ところが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木なのだろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、私にとって枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常であれば、私が最初難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、それと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている。

 以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」の最後で、対象に向かって知覚の志向性が伸びていると書いた後、実は門脇氏が「私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある」と述べていることに触れた。信念が外部の世界の下にあるという同時性は、外の世界が既に意味を内包しているというメルロ=ポンティの主張に通じるところがあるような気がする。ただ、依然として、外の世界があらかじめ意味を内包しているとはどういうことか?しかも、その意味は決して客観的ではなく、知覚する1人1人の人間によって異なるとはどういうことなのか?という疑問は残る。

 特に、外の世界が全体としてあらかじめ意味を内包しており、それを部分に再配分するという点は、通常の我々の理解からは遠く離れているように感じる。ところが、そういう意味が存在することを示唆する事例があることをメルロ=ポンティは紹介している。それが「シュナイダー症例」というものである。シュナイダーは視覚の障害を持っており、色や形態、文字の認識に問題を抱えていた。だが、シュナイダーにはそれ以上に注目すべき徴候があった。

 シュナイダーは、鼻の先に蚊が止まれば手で払いのけることができたし、鼻をかむときにはポケットからハンカチを取り出すこともできた。ところが、目を閉じたまま鼻を指すように命じられてもそれができない。また、コップの水を飲むことは自然にできるのに、空のコップで水を飲む真似をすることは、シュナイダーにとって非常に難しい課題であった。つまり、シュナイダーは生活の中で具体的な意味を持つ身体行動は難なく遂行できる一方で、生活にとって意味を持たない抽象的な振る舞いをすることができないのである。シュナイダーには現象的身体が発する意味はあっても、外界が持つ意味を理解する能力が欠けている。

 シュナイダーにとって世界は単なる「もの」でしかない。だから、シュナイダーが世界を理解するには、世界を構成する断片的な意味をつなぎ合わせるしかない。シュナイダーは実際、物語のメロディー的な統一をとらえ、物語のリズムやテンポを理解すること、つまり物語を物語として理解することに困難を示した。このことから、健全な人間は、外界を構成する要素を分解し、それぞれに人間の側から意味を与え連合させるのではなく、外界そのものが既に有している全体的な意味、時に応じて部分に対し再配分される意味を受け取るのが通常なのだということが言える。

 以上をまとめると、意味には2種類ある。まずは、現象的身体が発する意味である。もう1つは、外界が包摂している意味である。そして、両者の交流によって新たな意味が創造される。「感覚する者」と「感覚されるもの」の相互的な交換によって意味が生じる。

 さて、本書の問題提起は、「哲学者は詩人でありうるか?」というものであった。詩人は現在を永遠のものとして語る。詩人が知覚している世界を、ありのままに言葉で表現する。ところが、哲学者にはそれができない。というのも、哲学者は反省する存在であるからだ。しかも、反省に先立つものに立ち戻って反省をしなければならないという矛盾を抱えている。哲学者は何とか現在をつかまえて、現在を反省しようとする。ところが、時間の流れが現在の拿捕を困難にする限り、哲学者は現在を考察することができない。よって、哲学者は詩人たることができないというのがメルロ=ポンティの答えである。それでもなお彼は、世界とその経験を現在において言いあてる語を探しあぐねる、詩人の辛苦を引き受けようとしていたのであった。

2017年02月16日

神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他

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ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2002-10

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 以前の記事「金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?」と同様、ニーチェの主要な著書である『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な、あまりにも人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』、『ツァラトゥストラはかく語りき』などを一切読まずに、本書だけを手がかりに記事を書くという暴挙。この年齢になって、大学生の時にしっかりと勉強しなかったことを本当に後悔している。

 ニーチェは非常に多産な哲学者であった。多産な物書きの宿命として、後代の人によってその人の文章から一部分だけが断片的に取り出されて好きなように解釈される、ということがある。私が敬愛するピーター・ドラッカーも多産な文筆家であり、そのような運命に陥っているように感じる(というか、私もその運命の片棒を担いでいる)。ニーチェの場合もこの運命を逃れることができなかったようだ。とりわけニーチェの場合は、親族によって著作が改竄されるという憂き目に遭っている。ニーチェの妹・エリザベートは、『力への意志』をナチスの活動と共鳴させる意図を持って出版した。その結果、ニーチェはナチズムの先触れという汚名を浴びることになった。

 『力への意志』はともかく、ニーチェの文章を(ニーチェには悪いと思いながら)断片的に追っていくと、『力への遺志』以外の文章においても、全体主義に通ずる部分があると感じる。
 この世界は、はじめも終わりもない巨大な力であり、増大も減少もせず、消尽されず、ただ変化するのみの、不動で固定的な一定量の力であり、支出も損失もないかわりに、同時に増殖も収入もなく、自らの限界以外の限界は「何も」なく、一定の力として一定の空間に収められ、しかもその空間のどこにも「真空」はなく、むしろ力として遍在し、力と力動の戯れとして、一にして同時に「多」であり、(以下略。太字下線は筆者)
 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で、全体主義に関する私の(浅はかな)理解を書いたが、改めてもう一度簡単にまとめておく。啓蒙主義以前の西洋には、唯一絶対の神と、神によって造られた不完全だが多様な人間がいた。ところが、啓蒙主義によって人間の理性が合理化されると、かつては人間の「あちら側」にあったメシアニズムが「こちら側」に手繰り寄せられ、人間が神と同じ絶対性を獲得することとなった。一般的に、啓蒙主義は脱宗教・世俗化のプロセスと説明されるが、私はむしろ人間が神になったと認識している。全ての人間は唯一絶対の神と等しいわけだから、個人と全体は同義である。多様性という考えはなくなる。これが、私有財産を否定する社会主義や、独裁と民主主義を同一視する全体主義へとつながっていく。
 卒業に際して提出した論文は、紀元前6世紀の詩人・テオグニスについてのものだが、その詩句の一節に、「地上に生きる人間にとっては生まれぬことこそ、また焼き焦がす陽の光を見ぬことこそ、すべてにまさって善きこと、だが生まれしうえは、一時もはやく冥府の門をくぐり、うず高い土塊の下に眠るにしかず」というのがあるが、(以下略)
 『悲劇の誕生』の第三節においても、ミダス王の追手から逃れつつ、頑に沈黙を守り続けたシレーノスから強いて聞き出したこととは、「人間にとって、生まれ来らぬことこそ最善のこと、だがしかし次善のこととしては、生まれた以上は、できるだけ速やかに死に至ることであり、これこそ人に可能な最善のこと」という言葉であった。
 以前の記事「『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他」で、左派の思考を突き詰めると、人間は生まれない方がよいという結論に至ると書いた。人間が生まれなければ、人間は絶対無である。ところで、神は無から有を創造する存在であるから、その本質は絶対無である。つまり、人間が生まれなければ、人間は神と同じ絶対性を達成できる。

 だが、実際には人間は生まれる。そこで、考え方を変えなければならない。人間が唯一絶対の神と同一であるということは、生まれながらにして完成していることを意味する。だから、生まれた瞬間という現在の1点が、時間の全てを支配している。そこには過去も未来もない。よって、過去から学ぶとか、未来に向かって能力を鍛えるという発想もない。そして、この時間軸における現在の絶対性を際立たせるために、人間は死ぬ。人間が早く死ねば死ぬほど、現在はより際立った時間となる。死んだ人間は無に帰すが、実はその無は再び有=新しい人間を生み出す源泉となる。神が無から有を生み出すのと同様に、人間もまた無から有を生み出す。こうして、人間の有と無は連関する。現在という絶対的な時間において、生まれては死ぬことを繰り返す。

 ニーチェの言葉を借りれば、これは「永遠回帰」である。
 おまえが現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いやさらに無数の回数、おまえは生きなければならぬだろう。そこに新たなものは何もなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、おまえの人生の言いつくせぬ大小さまざまの事柄の一切が、おまえの身に回帰せねばならない。しかも、何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって。
 見るがいい、この「瞬間」を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?(中略)

 そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるすべてのものをひきつれているのではないだろうか?したがって、―自分自身をも。まことん、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を―やはりもう一度走らなければならないのだ!―
 本書の副題は「どうして同情してはいけないのか」である。我々の道徳的感覚に反するような問いに対して、ニーチェは次のように答えている。
 他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの怯懦を確認させるであろう。(中略)われわれはこの種の苦痛と侮辱を拒絶して、憐れむという行為によって、それらに復讐する。この行為のなかには、巧妙な正当防衛や、あるいは復讐すら込められている。
 啓蒙主義がもたらした全体主義においては、1人は全体と等しいと書いた。よって、ある人がマイナスの感情を持てば、それは直ちに他者にも共有される。味わう必要のないマイナスの感情を負わされることになる。だから、それを真面目に受け止めて同情してはならないというわけである。ニーチェは、憐れみは「正当防衛」であり、「復讐」であると書いている。これはおそらく、ある人がマイナスの感情を自分に負わせることに対して、自分が憐れむ、すなわち同じようにマイナスの感情を抱くことで、その人にマイナスの感情を跳ね返して攻撃するという意味だろう。

 マイナスの感情を持つ他者に同情してはならないということは、同時に、自分もマイナスの感情を抱いて他者を害してはならないことを要求する。つまり、1人が全体と等しい世界では、感情があまりにも急速に共有されるから、一切の感情が禁止される。社会主義者は連帯を、全体主義者は民族意識の高揚を解く。しかし、逆説的だが他者と心理的につながることは禁止されているのである。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」という状態である。

 このように見ていくと、ニーチェの主張には救いがないように感じる。だが、ニーチェは全体主義的な傾向に陥らないための方策をいくつか用意していると私は解釈している。
 心酔し傾倒する相手に対して、その相手をまず二重化して、優れた点・好ましい点だけに注目して、そこに自己の模像もしくは分身を見出し、そして反対の劣った点・好ましくない点をそれと闘わせ、競い合わせて、前者の優れた点・好ましい点を高めていくという方法である。(中略)反発し敵対するようになったからといって、相手に対する敵対者としての尊敬を失うわけではない。
 これは、本ブログの言葉を使えば、「二項対立」を導入したということである。そして、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたように、フランス啓蒙主義の影響を受けて独立したアメリカが全体主義に陥らなかったのは、二項対立のおかげである。二項対立的発想によって、自分とは異なる他者の存在を認めることができるようになった。つまり、自己の絶対性は消える。二項対立においては、お互いに対立はするが、相手を完全に消し去ろうとはしない。相手を消し去ってしまえば、自己が絶対になってしまうからだ。だから、二項対立においては常に敵を必要とする(以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」を参照)。

 次に、永遠回帰についてだが、ニーチェはこれを理想とはしていない。永遠回帰は人間にとって「重し」である。ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』には、「鷲の首に絡みついた蛇」という比喩が登場する。「鷲」が表すのは「飛翔」、「蛇」が表すのは「円環」である。そして、同書の中で、鷲と蛇の関係は次のような結末を迎える。
 そのとき彼(※ツァラトゥストラ)は、この円環の象徴である蛇をかみ切るのである。してみると、「永遠回帰」の思想はついに「飛翔」のモチーフとは一体になれずに、愚かさをともなった「誇り」として「飛翔」を続けることを、ツァラトゥストラ自身予感していることになる。
 たとえ全体主義という、思想的には全く欠点がないように見えるものがあっても、人間は愚かなことにそれを捨て、いやそれどころか、愚かでありながら誇りを持ってそれを捨て、飛翔するのである。この時の人間の精神状態は、ニーチェが唱えた「ラクダ⇒獅子⇒子ども」という3段階説によれば、「子ども」の状態である。子どもにできるのは、「笑う」ことである。
 『善悪の彼岸』第26節は、そのことをもっとも端的に示す箇所であり、誇り高い孤高の人間が、邪悪な魂とは異なる低劣な魂のうちに誠実さを求めて下降する過程が描かれている。その邪悪ではない、低劣な魂とは、もっとも典型的には動物である。
 キュニコス的な真の自由は、自分の動物性を認めそれを感ずることのうちにある。それを肯定する人間にとっての最高の表現状態が哄笑なのである。人間という動物のみが笑うことができる。
 同情を禁じたニーチェは、未来回帰という考え方に基づいて全体主義に接近した。引用文の「誇り高い孤高の人間」とは、全体主義者のことである。ところが、ニーチェはそれを「重し」と感じて、最終的には放棄した。「低劣な魂」に下り、子どものように「哄笑」することを選択した。これにより、全体主義の暴力性と決別し、愚かであっても人間らしい暖かさを得られるようになった。

 本書の「はじめに」の部分で、著者は本書を9.11テロ事件の前後に書いたと述べている。テロの犠牲者に対して、我々は普通同情の念を禁じえないだろう。ところが、ニーチェの「同情の禁止」という命題が頭にあった著者は、本書でこの問題に触れないわけにはいかないと感じたそうだ。だが、本書を読んでも、我々はテロの犠牲者に対してどのような感情を抱けばよいのか、明確な回答は得られなかった。本書の最後は「子どもの笑い」で締められている。「子どもの笑い」のような感情であのテロ事件を、そしてテロ犠牲者を思うということは一体どういうことなのか、ない知恵を一生懸命絞って考えてみたものの、いい考えが思い浮かばなかった。

2017年01月31日

金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?

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ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンスベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
金森修

NHK出版 2003-09-25

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 著者が「正直いって、そうとうに難しいよ」というベルクソンについて、彼の代表作である『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』のいずれも読まずに、本書だけを読んでレビューを書こうというあまりにも無謀な試み。ベルクソンは、近代科学が様々な物質や事象を機械的・空間的に把握してきたことに対し、それでは説明から逃れてしまうものに注目した哲学者である。同時に、その説明から逃れてしまうものが、あたかも機械的・空間的に説明し尽くされたかのように扱われることに対して警告を発している。

 本書では「ウェーバー=フェヒナーの法則」が挙げられている。「感覚量は、刺激量の対数に比例する」というものである。例えば、今10本のロウソクが光っているとする。それに1本のロウソクを足して、その微妙な光り具合の変化を感じさせる。そして、次にロウソクを100本に増やす。この場合、先ほどと同じように1本のロウソクを足して101本にしても、光り具合の変化は感じられない。同じような変化を感じさせるためには、10本増やして110本にしなければならない、ということである。ウェーバー=フェヒナーの法則は、我々の感覚を数学的にシンプルに表現している。ところが、ベルクソンはこれに異を唱える。ロウソクが10本から11本になる時の質的な変化と、100本から110本になる時の質的な変化との間には、数値に還元できない何かがあると言う。

 このように、機械的・空間的に把握できないものの代表例として、ベルクソンは「時間」を挙げている。ベルクソンは、我々は時間を忘れているとまで言う。そんなことを言っても、私は今朝8時から銀座で行われるクライアントとのミーティングに合わせて、いつもより早い5時半に起床し、1時間かけてミーティングの資料に目を通しながら朝の準備をし、余裕を持って電車に乗って、銀座まで残り5駅だからあと10分ぐらいで到着するだろう、といった具合に時間を駆使している。だが、この24時間という時間、そして1日、1か月、1年というそれぞれの単位は、地球の自転や公転などの周期的な運動を基準にして決められたものである。人間が作為的に設定した単位という意味で、機械的・空間的である。ベルクソンはそのことを批判している。

 ベルクソンは、空間的時間とは異なる時間があると主張する。これを「純粋持続」と呼ぶ。
 それは空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である。
 機械的・空間的な思考に慣れきっている私には、この純粋接続を理解することは難しい。強いて別の表現をするならば、宇宙という全体性のことではないかと思う。ベルクソンは、我々は誰もが自分の中に純粋接続を持っており、何かしらの方法によってその純粋接続に触れることができると言う。言い換えれば、我々の中にある宇宙にアクセスできる。このように書くと、安直な私などは、私という個と宇宙という全体を一体化してとらえるのは「U理論」や「マインドフルネス」と共通する考え方であり、ひいては全体主義につながるのではないかと警戒してしまう(詳しくは「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照)。

 だが、ベルクソンは「自分だけのものとしての純粋接続」という表現を使っている。全体性でありながら、そこから個別具体的な何かが流れ出しているというのが純粋接続である。そう考えると、全体性が個性と同一化し、全ての人が一様に扱われ、人々が皆同じという点であたかも連帯しているかのように錯覚させる全体主義とは一線を画しているように思える。

 ベルクソンは、純粋持続と知覚、身体、記憶、自由との関係について論じている。その議論の特徴は、二項対立の中庸を取るという点にあると感じる。例えば、ベルクソンは「事物」と「表象」の間に「イマージュ」という概念を導入する。事物とは我々の外部にあって、機械化・空間化されたものである。一方の表象とは、我々の意識の内部に結ばれる像である。ベルクソンは両者の間にイマージュという言葉を挿入することで、実在論も観念論もともに問題があると指摘した。

 同様に、我々の外部にある「知覚」(知覚が我々の外部にあるというベルクソンの主張は我々にとって驚きである。しかしベルクソンは、知覚とは身体性とは関係のないところ、当の知覚対象がある場所に存在すると述べている)と、我々の内部にある「記憶」の間に「記憶心像」という概念を導入した。さらに、我々の外部にある「自然」と内部にある「意思」との間に「習慣」という概念を挿入する。自然という事物だけでは習慣は成立しない。我々は、外部にある自然を自分の意思によって我がものとし、それを反復的に扱うことで、習慣とすることができる。ベルクソンのように、二項対立の間を取るという発想は、本ブログで何度か述べた日本の「二項混合」的発想と何か共通点があるのではないかと思う。この辺りはさらに掘り下げてみたいテーマである。

 先ほど、記憶は我々の中にあると書いたが、実はベルクソンは、真の記憶は我々の中にないと主張している。記憶の背後には「純粋記憶」と呼ばれるものが存在している。そして、この純粋記憶は、我々の脳の中にはない。本書の著者は「まだ青臭い学生」だった頃にこの主張を読んで、「生意気盛りの若者らしく、『そんな馬鹿な』と思って、本を投げ捨ててしまった」という。
 要するに、君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心像が物質化しつつあるものに他ならない。
 我々が何か外部の事象を見る時、我々の背後に控えている膨大な純粋記憶がその事象に関する情報を与え、記憶心像を形成する。しかも、驚くべきことに、我々がその事象を初めて見る場合であっても、純粋記憶は記憶心像を結び、知覚を圧倒するのだという。

 この純粋記憶の性質について、著者はある仮説を提示している。
 どうやら、先の純粋記憶の存在の仕方は、必ずしも個人個人の人格内部に限定されているものではない、とベルクソンは考えていたらしい。つまり僕の純粋記憶は、僕の過去約50年の知覚の総体であり、君の純粋記憶は、君の全人生の知覚の総体だ、というように、それぞれの純粋記憶が人格ごとに弁別されているのでは、必ずしもなさそうなのだ。

 いわば、複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、とういような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。(中略)もしそうであるなら、それぞれの記憶が個人の脳に限定されている必要がなくなるのは、論理的にも当然のことだ。
 これまで生きた人間の記憶が、この宇宙のどこかに純粋記憶という形でデータベース化されており、我々が何か事物を見ると、そのデータベースから必要な情報が関連づけられ、知覚が形成されるということなのだろう。ただし、著者の考えには2つ問題があると思う。1つは、最初に生まれた人間にとっての純粋記憶は空っぽで、知覚を形成することができないということ。もう1つは、我々が純粋記憶に頼る限り、我々は過去の奴隷にすぎないのではないかという点である。

 1つ目の問題に対しては、純粋記憶とは今までに生きた人間の記憶の蓄積ではなく、宇宙という全体性を指していると解釈することで解決できるような気がする。2つ目の問題に対しては、純粋接続の考え方と共通するが、純粋記憶とは「空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である」という性質のものなのではないかと考える。

 全体主義のように全体性を一方的に個人に押しつけるのではなく、純粋記憶は全体性でありながら、そこからそれぞれの個人に向けて個別具体的な何かを絶えず生成するという点に意味がある。純粋持続や純粋記憶を探求すれば、我々は多様性を保つことができる。そして、それこそが人間にとっての自由である。ベルクソンが言いたかったのは、こういうことなのだろう。


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