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市野川容孝『身体/生命』―「個体と全体」、「物質と精神」の「二項混合」
姜尚中『ナショナリズム』―ナショナリズムと移民、国体(雑記)
市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年06月21日

市野川容孝『身体/生命』―「個体と全体」、「物質と精神」の「二項混合」

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身体/生命 (思考のフロンティア)身体/生命 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2000-01-21

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 「はじめに」で著者(本書を書いた時の年齢が私と同い年だった)は「生物学や生命科学における最先端の知見を動員しながら、今世紀初頭のE・ヘッケルさながら「生命の驚異」を解き明かすことなど、一社会学徒にすぎぬ私のはるか及ばぬところである」と書いているが、一介の中小企業診断士・コンサルタントである私が「身体/生命」について論じるなど、さらにはるか及ばぬことである。それでも何とか記事にしてみたいと思う。

 著者は、「個体(自己)―全体(他者)」、「物質―精神」という2つの対立軸を用意し、両軸の中間に「身体/生命」を配置している。対立軸が出てくると、私などはすぐに「二項混合」のことを想起してしまう。以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」でも書いたが、AとBという二項対立があった場合、日本人はAとBの間をまるで高速反復横飛びするように自在に移動する。そして、AでありながらB、BでありながらAという状態を作り出す。それは一種の酩酊状態とでも言うことができるだろう。

 まず、「個体(自己)―全体(他者)」という二項対立について考えてみたい。ここで、個体と全体を単純に混合すると、「1が全体でありながら、全体が1である」ということになる。ただし、この言葉には注意が必要である。というのも、この言葉はややもすると全体主義に結びつく恐れがあるからだ(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義においては、1が全体に等しいと言いながら、実は1は全体に圧殺されている。全体は1に優先しており、識別可能は1は存在しない。つまり、全体は全体なのであり、この点で全体主義は個人にとって過激なまでに暴力的である。

 ここで言う全体とは、本書に従えば王である。王とは、社会の存立を支える身体/生命の集合体が1つに凝集し、化身した特異な身体である。日本であれば、天皇が該当する。よって、個体と全体の関係は、国民と天皇の関係と読み替えることができる。ここで、国民と天皇が二項混合するとはどういうことであろうか?まず、天皇は、国民に接近し、全体の中から識別可能なそれぞれの1を発見する。一方、国民の側は、天皇に接近してその全体性を吸収しつつ、自身が全体とは同一視されない1、全体を超克しようとする特異な1を志向する。逆説的だが、国民は天皇との距離を詰めることで、天皇から離れようともする。そして、天皇は再び国民に近づき、全体を突き抜けていく国民を包摂し、全体へと統合する。両者はこのような複雑な関係にある。

 今上天皇は、憲法に定められた国事行為にとどまらず、被災地や太平洋戦争の戦地を積極的にご訪問され、国民1人1人の心に寄り添うことを大切にされた。これは、前述した天皇から国民に対する働きかけをよく表している。一方で、国民の側は、天皇との関係を意識して、何事かを実践したと言えるだろうか?天皇が日本国民の何を象徴しているのか(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)、日本人の精神とは何なのかを考えると同時に、今日的な世界・社会情勢に鑑みて、さらに望ましい精神を発揮する努力をしたであろうか?多くの国民は天皇制を支持するが、形だけの支持に終わっていないか、反省する必要があるだろう。

 ところで、生前退位をめぐる議論の中で、保守派の識者が「天皇は祈るだけでよい」と発言したことに、天皇は非常にショックを受けられ、国民の目線まで下りてくるというこれまでの生き方を否定されたとお感じになっていると毎日新聞が報じていた(毎日新聞「退位議論に「ショック」 宮内庁幹部「生き方否定」」〔2017年5月21日〕を参照)。だが、私は右派の『正論』と左派の『世界』を両方定期購読しているから解るのだが、天皇は国事行為だけやっていればよい、それ以外の公務はおまけであると主張していたのは左派の方が多い(以前の記事「『「3分の2」後の政治課題/EUとユーロの行方―イギリス・ショックのあとで(『世界』2016年9月号)』―前原誠司氏はセンターライトと社会民主主義で混乱している、他」を参照)。

 生前退位についてもう1つ議論を展開したい。本書には、スーダンのシルック族の風習が紹介されている。シルック族は、王(レス)が病気になったり老齢によって衰弱したりすれば、民族もまた病気になってしまうため、王を殺害すると言われている。では、日本で天皇が病気になったり衰弱したりした場合、天皇は退位するべきなのだろうか?ここでは、天皇が自身のご意思で退位するようになると、政府の政策がお気に召さない時に退位して、政府に影響力を発揮できるようになってしまうといった、政治面の議論はひとまず脇に置いておく。

 国民と天皇の関係が、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という静的な関係であるならば、天皇は天皇「である」だけで十分である。天皇という人物が存在することに意味がある。逆に言えば、天皇は存在し続けなければならないのであり、自身の意思でその存在から降りることはできない。よって、生前退位は認められないという結論になる。しかし、冒頭で述べたように、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という前提は、全体主義に転落する危険性と紙一重である。

 先ほど見たように、二項混合における国民と天皇の関係は、天皇が個別の1を識別し、全体からはみ出していこうとする1を再び全体へと統合していくような動的な関係である。その能力が十分でなくなった場合には、天皇を「する」ことが困難になるため、生前退位が正当化されるようにも見える。ただし、この考え方にも問題はある。なぜなら、天皇の条件として、血縁以外に何かしらの能力を要求することになるからである。その能力要件はどのようにして正当化されるのか?天皇の能力はどのように評価するのか?天皇の能力を第三者が評価することが許されるのか?仮に、天皇の能力が十分でないにもかかわらず天皇が退位を選択しない場合、国民には天皇の交代(=革命?)を要求することができるのか?などといった様々な論点が噴出する。

 さらに、天皇に血縁以外の条件を要求するのと同様に、動的に振る舞うべき国民にも能力面の要求がなされることになる。全体性を吸収しながらも全体とは同一視されない特異な1、全体性を超克していく1、そういう1を目指すことのできない国民は国民ではないことになってしまう。この点で、特に障害者など能力面でハンディキャップを抱えた人たちにとって、絶望的な結論となる。残念ながら、生前退位を認めるべきか否か、私の中で立場を明確にすることができない。

 生前退位の問題は、結局1代限りの特措法で解決されることになった。私は恒久法による解決を望み、あれこれと逡巡した結果、最終的には憲法を改正するしかないと思っていた。特措法による解決は、「法外の法」で解決を図るという点で、いかにも「日本教」的(山本七平)なやり方である(以前の記事「山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教」を参照)。法律の文言に「お気持ちへの共感」という文言を盛り込むことで(時事通信社「「お気持ち」への共感、第1条に=退位特例法案、政府が与党に提示」〔2017年5月12日〕を参照)、疑似的に憲法改正を行ったという形に持ち込みたいというのが政府・与党の意向であろう。

 続いて、「物質―精神」という二項対立について。本書では脳死の問題を取り上げている。伝統に従えば、死にとって機能的な中心を占めるのは肺の死であり、時間的に見て最も遅れてくるのが心臓の死である。脳の死は間接的で弱い影響しか他の器官に及ぼさず、時間的に見ても比較的早い段階で生じるものと考えられていた。また、肺と心臓を「有機的生命」、脳を「動物的生命」と分類し、死の条件は有機的生命が死ぬことであり、動物的生命の死のみをもって死とすることはできないというのが共通認識であった。ところが、20世紀に入ってから動物的生命の死を人間の死とする定義の書き換えが起こり、それが脳死を人間の死と認める現在の見解につながっているという。脳死をめぐる議論では、有機的生命が動物的生命に優先するという従来の原則を守るため、有機的生命の源を脳に求めるという転換も行われている。

 この議論が興味深いのは、人間の死をめぐる議論においては、有機的生命=物質が動物的生命=精神に優先するとされていることである。我々は高度に発展した物質的社会を目の前にして、精神世界の退廃を嘆くのが普通である。今こそ精神を取り戻さなければならないというのは、社会的スローガンのようにもなっている。ところが、脳死に関する議論では、これと逆のことが起きているように見えるのである。ただ、私は生物学や生命科学に関しては全くの素人であるから、脳死の議論にはこれ以上立ち入らない。物質と精神の二項混合を考えるにあたって、私が10数年以上前に読んだシュレディンガーの『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』を読み返してみた(案の定、内容は全く覚えていなかった、苦笑)。

精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察
エルヴィン シュレーディンガー Erwin Schr¨odinger

工作舎 1999-01

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 本書は様々な内容から成り立っているが、まずはラマルクとダーウィンの進化論の比較について触れてみたい。ラマルクは、動物が生存中に訓練や環境への適応などによって獲得した特別な形質は、100%ではないが遺伝によって子孫に伝達されると主張した。一方、ダーウィンは、進化というのは偶然の長い連鎖と自然淘汰によって実現されるものだとした。ラマルクの主張は精神の働きを、ダーウィンの主張は物質の働きを強調している。

 ここで、シュレディンガーは両者の中間的な立場を主張する。すなわち、最初の変異は偶然であり、それが子孫に遺伝するが、親は変異によって新しく獲得した器官の使い方を例示や教育によって子孫に学習させなければならないという。例えば、変異によって手が器用に動かせるようになったとしよう。子孫には手の構造は伝達されるものの(物質)、その手を器用に動かせるかどうかは、親が子を適切に教育するか否かにかかっている(精神)。このように考えると、シュレディンガーの主張は精神と物質の両方の世界を統合していると言える。

 物質と精神の対立は、客体と主体の対立と言い換えることもできる。自然科学は客体を客観的に記述することにある程度成功してきたが、よく言われるように、客体を観察する主体も世界の一部であり、それを取り除いたまま記述した客体は十分な客体ではない。特に、感性的な性質が欠落している。もちろん、これはある意味仕方がないことであった。客体と主体が未分離のまま世界を語ろうとすると、人々は好き勝手に世界を語ってしまう。これではコミュニケーションが成立しない。そこで、一旦主体と客体を切り離して、客体に関する共通言語を生成する必要があった。だが、その作業が一段落ついたら、今度は主体と客体を統合しなければならない。

 主体と客体を統合するとは、主体を客体の言葉で語り、客体を主体の言葉で語ることである。主体(精神)を客体(物質)の言葉で語る試みは、シュレディンガーも含め、多くの自然科学者が取り組んでいる。近代的な自然科学の手法では、世界の全体像を把握するのに限界があるという強烈な危機感を持ったためである。一方で、客体を主体の言葉で語る活動が一体どこまで進んでいるのか、正直なところ私にはよく解らない。例えば文学が精神世界を飛び出して物理世界を描写するということが考えられるが、あいにく私は文学論に疎く、語る素地がない。

 ところで、日本人は、本当は対立している2つの事項を渾然一体と把握することに元々長けている。これが、物事を基本的には二項対立でしかとらえられない西洋人に対する決定的なアドバンテージである。だから、主体と客体に関しても、何となく融和した形で認識することができてしまっている。一例としては、日本人の精神と自然の調和などが挙げられるだろう。だが、日本人がその「何となく」を抜け出し、高度で明確化された思考を獲得するには、渾然としている二項を一旦切り離し、それを再統合する作業が必要である。これこそ本当の二項混合であり、21世紀に求められる「関係知」である(以前の記事「武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない」を参照)。

 シュレディンガーの著書では、科学と宗教の関係についても触れられている。科学と宗教の関係も、物質と精神の関係と置き換えることができるだろう。そして、科学と宗教の二項混合とは、宗教を科学の言葉で語り、科学を宗教の言葉で語ることである。シュレディンガーは、プラトン、カント、アインシュタインという3人の科学者(初めの2人は科学者ではないが、彼らの哲学的疑問への強烈な専心と世界に対する熱い興味は、科学から出発したものと言ってよいだろうとシュレディンガーは述べている)が、宗教に対して時間の概念を提供したと指摘する。もちろん、ここで言う時間とは、客観的に測定可能な時間のことではない。その時間軸を超えた存在を認め、そこに精神の意義を見出した点に注目している。科学が宗教を語ったのである。

 宗教の言葉で科学を語った事例としては、シュレディンガーの著書を離れ、またオカルトの話になってしまうが、以前の記事「川久保剛、星山京子、石川公彌子『方法としての国学―江戸後期・近代・戦後』―国学は自由度の高い学問である」で書いた、平田篤胤と国友藤兵衛の名前を挙げることができるかもしれない。彼らは霊界を見ることができる特殊能力を持つという少年・寅吉から霊界の話を聞いて、仙砲や弩弓といった武器を完成させた。しかも、それらの武器の性能は、西洋製の武器を上回っていた。評論家の池田清彦氏は、現代科学とはそもそもオカルトの嫡子であり、今日我々が偉大な科学者であったと考えているケプラーやニュートンも実のところはオカルト信者だったと述べている。宗教の側から科学との境界線を越えていくことが今日、特に日本にとって、二項混合を実現する上で重要な課題となるであろう。

2016年12月22日

姜尚中『ナショナリズム』―ナショナリズムと移民、国体(雑記)

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ナショナリズム (思考のフロンティア)ナショナリズム (思考のフロンティア)
姜 尚中

岩波書店 2001-10-26

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 浅学の私ごときがナショナリズムについて何か特別な見解を持っているわけではないのだが、頑張って記事を書いてみる。まず、ナショナリズムがなぜ必要なのかを考えるにあたっては、国家がなぜ必要なのかに立ち戻らなければならない。国家起源の動態モデルの例としてカール・ドイッチュの説がある。ドイッチュは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。

 資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。一定の地域である程度のコミュニケーション密度が長期間継続すると、そこは「くに」(country)となる。そして、そこに住む人たちが「民族」(people)と呼ばれるようになる。この「民族」(people)が自分たち独自の政府(government)つまり統治機構(state)を持ちたいと考えた瞬間に「民族」peopleは「国民」(nation)となる。こうした「民族」(nation)あるいは「国民」(nation)が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」(nation-state)である。

 統治機構を持つということは、経済社会と文化情報共同体を管理・制御ないしは拡張・発展させるためのルールを策定することを意味する。そのルールに正解が1つしかないのであれば、地球上にはただ1つの国家が成立することとなる。いわゆる地球市民の誕生である。これに対して、そのルールが多様であるならば、その多様性の数だけ国家が生まれる。現代は多元国家社会であるから、後者の考え方に立脚していると言えるだろう。仮に人間が完全に合理的であれば、ただ1つのルールも成立しうるのかもしれない。しかし、人間は不完全な存在であるから、それゆえに多数の国家が導かれるのは自然の流れである。

 ナショナリズムは、統治のルールを策定した人々がこの世を去った後でも、国家が必要だと思わせるための動機である。あるいは、先代から引き継いだルールを現在の事情に合わせて調整する役割を担う覚悟である。いずれにしても、統治のルールが正統であると思わせるのがナショナリズムである。ただし、前述のように、ルールの正統性は客観的ではない。客観性があれば、ルールは結局1つに収斂し、単一国家が成立するはずだ。しかし、現実はこれと異なるので、正統性とは主観的である。主観的であるがゆえに、人によっては不自然さを覚える。不合理さを感じながらもなおそれが必要だと思わせるのは、国家に対する同情でも共感でもない。紛れもない愛である。我々は、愛する人に欠点を見出しても、それも含めて相手を愛することができる。

 国家はナショナリズムを高揚させるために、様々な手を打つ。典型的な手法は歴史教育である。ナショナリズムを重視する国家は、歴史教育において①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調する傾向がある(以前の記事「鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』―韓国の教科書は旧ソ連並みに社会主義的」を参照)。建国の神話は、統治のルールのプリミティブな源泉である。そのルールに基づいて創られた国家は、他の国家よりも優れていると刷り込む。そして、自国が優れているにもかかわらず、外部の国家から傷を受けたことを屈辱に思い、反骨心を燃やす。それがナショナリズムのエネルギー源となる。

 現在、グローバル化の進展に伴って移民が増加し、先進国のナショナリズムを脅かしていると言われる。先進国にとって、移民はナショナリズムを傷つける存在であるから、移民が増えれば増えるほど、ナショナリズムは否応なしに燃え上がる。そこで、移民を自国のナショナリズムに統合することはできないかと考えるようになる。例えば、ドイツは移民に対して日常生活で必要なドイツ語の教育を行い、ドイツのコミュニティに融合できるよう様々な支援を施している。

 ただ、個人的には、移民のナショナリズムを変えることは不可能に近いと考える。元々ヨーロッパ諸国は、国民国家が人為的に形成された国家である。まだ国家が脆弱で、ナショナリズムなるものがほとんど意識されていなかった時代には、一から国民国家を創造することもできただろう。しかし、現代は国民国家が成熟し、ナショナリズムを持つヨーロッパ諸国に、それとは別のナショナリズムを持つ移民が流入している。こうなると、いくら人為的に国民国家を創出した過去を持つヨーロッパと言えども、ナショナリズムの統合は困難を伴う。

 企業の合併においてさえ、双方の組織文化を統合することは難しい。よって、近年は合併せずに、経営統合によって持株会社を作り、その下に既存の企業をぶら下げるという手法が取られることが多い。こうすれば、組織文化の統合をあまり気にしなくても済む。企業ですらこんな具合なのだから、国家レベルでナショナリズムを統合するのは至難の業である。企業の場合、仮に組織統合に失敗しても、社員には企業を辞めるという選択肢がある。しかし、ナショナリズムの場合は、ナショナリズムの統合が気に入らないからと言って簡単に離脱することができない。だから、ナショナリズムの衝突は深刻な問題を引き起こす。

 やや話が逸れるが、日本は人種、経済社会、文化情報共同体の境界がほとんど奇跡的に一致していて、ほとんど自発的に国民国家が形成された国家である。近年、労働力不足を理由に移民の受け入れの是非が活発に議論されている。ヨーロッパでさえ苦労しているナショナリズムの統合を、日本がやすやすと行えるとは思えない。そうでなくても、日本は太平洋戦争で中国や朝鮮などの人々を完全に日本人化しようとして失敗している。このことを忘れてはならない。

 そもそも、移民の増加は本当にグローバル化のせいなのかという疑問が湧く。ヨーロッパに中東からの移民が流入しているのは、グローバル化が進展したからというよりも、アメリカを中心とする有志連合軍にヨーロッパ各国が参加し、シリアやISを空爆している結果である。よって、移民の増加は経済的な要因ではなく、政治的な要因である。だから、どうすれば移民を自国に統合できるか?移民と共存できるか?という問いは、問題の設定が誤っている。どうすれば移民が生じないようにできるかという政治的な問題に取り組まなければならない。

 一般的に、グローバル化した経済では、人、モノ、資金、情報、知識が国境を越えて自由に移動すると説明される。冒頭に挙げた経済社会は拡大傾向にある。経済社会が拡大すれば、新たな統治ルールが必要となる。しかし、現代において、新しい統治ルールのために国家が統合するという話はついぞ聞いたことがない。むしろ、国家の数は増える一方であり、特に小国の増加が目覚しい。その要因は、人だけは越境移動が少ないからではないかと思われる。

 確かに、外国で働く人は増えている。だが、その増加率は、他の要素の越境移動の増加率に比べると著しく低いと予想される。グローバル企業が外国に進出した場合、本社から現地法人に送り込まれる人間はごく少数で、ほとんどがローカル社員で構成される。特に、欧米企業はこういうマネジメントをやる傾向が強い。つまり、人の移動は大々的には発生しないのである。世界は思ったほどフラット化していない。よって、文化情報共同体は経済社会ほどには広がらない。むしろ、インターネットによって人々のコミュニケーションが密になると、文化情報共同体は分断される。これが、現代において小国が増加している一因であると考えられる。

 そうは言っても、移民や外国で働く人はゼロにはならないから、ナショナリズムの衝突に関する解決策も考えておかなければならない。そのためには、ナショナリズムの中身をもっと穏健なものにすべきだ。先ほど、ナショナリズム的な教育では、①建国の神話、②民族的優位性、③国家が過去に受けた傷を強調すると書いた。このうち、②③は他の民族との競争、衝突を想定している。つまり、他の民族と競争、衝突しなければナショナリズムを保つことができない。移民によるナショナリズムへの攻撃とは、ナショナリズムの性質そのものが招来した結果であるとも言える。したがって、ナショナリズムから比較、優劣という概念を外し、②は相互尊重に、③は民族の自信(もちろん、他の民族を打ち破ったという自信ではない)に置き換えなければならない。

 ここからは日本の話。日本では、ナショナリズムは国体という言葉で語られることが多い。しかし、この国体が指す意味は非常に曖昧である。太平洋戦争では国体のために国民が戦ったと説明されるが、軍・政府の要人から末端の国民まで、国体の中身を理解している人は誰一人としていなかったと、本書の著者である姜尚中氏も山本七平も同じように指摘している。

 強いて言うならば、国体とは天皇制のことではないかと私は考える。よって、国体は天皇に近い立場にある人にとっては非常に重要となる。だが、本来、天皇に近い立場にある人は少数である。日本社会は、本ブログでも何度か述べたように(以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1/2)」を参照)、垂直方向と水平方向に細かく区切られた巨大なピラミッド社会であり、日本人がそれぞれの持ち場で能力を発揮することを美徳とする。ピラミッドの下層に位置する大半の人にとって、頂点に位置する天皇は遠い存在である(同じことは日本人と政治の関係についても言える。日本人から見ると、米仏の大統領選では候補者と国民の距離が近いことに驚かされる)。

 太平洋戦争は、天皇と縁遠かった一般人を無理やり天皇に近づけて、社会全体をフラット化し、総力を動員する戦いであった。慣れない方法で戦った日本は結局敗れ、天皇に近づいた多くの人々は元のポジションに戻った。その時に彼らが見せた反応は驚くほど似ている。つまり、「本当にこの人が軍隊を率いていたのか?」と思わせるような、ひ弱な反応を示すのである。分際を超えた役割を担わされたことの現れである。姜尚中氏は、丸山眞男の論文から次の箇所を引用している(孫引きとなることをご容赦いただきたい)。
 彼ら〔戦犯裁判の被告〕に於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。従ってそうした権威への依存性から放り出され、一箇の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於いて、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。
(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」)
 山本七平は、戦後に収監されたある将官の変化について次のように述べている。
 選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者(リーダー)の資質があるなら、今でも何かを感ずるはずだが、それは感じられない。

 野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。(中略)そういう苦悩があるとさえ感じられない。
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08

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 天皇に近い人にとってナショナリズムが重要であるということは、裏を返すと、大半の国民にとってナショナリズムは関係がないことだと思われるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。国民は天皇制を心象すればよい。その上で、巨大なピラミッド構造における自分の持ち場において、最善を尽くせばよい。というのも、巨大なピラミッドは、天皇が象徴すること、すなわち、

 ①歴史や伝統を重んじること。過去の遺産を引き継ぎ、生きている間に価値を加えて、よりよい形で次世代に引き継ぐこと。
 ②日本は天然資源に乏しい国である。そこで、限られた天然資源を有効に活用すること。
 ③一方で、日本人の能力は多様であり、様々な可能性があると信じること。学習によって個々の能力を伸ばし、適材適所を実現すること。
 ④集団・共同体・和を重んじ、仁の精神を実践すること。平時の際も危機の際も他者を助け、他者に奉仕し、秩序を守ること。
 ⑤③で日本人の能力の可能性を信じると書いたが、日本は西欧のように飛び抜けた天才に恵まれた国ではない。そこで、他国のよいところを積極的に取り入れることで能力を補うこと。その代わりに、他国に対する恩返しを忘れないこと。

を体現するように長い年月をかけて形成されてきたからだ(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)。つまり、それぞれの国民が自分のポジションで責任を全うすることが、天皇制の支持につながる。こういう”弱い”ナショナリズムが日本には合っていると思う。

 最後に1つ思考実験。仮に日本が移民だらけになった場合、それでもナショナリズムは存続するかという問いである。前述の通り、日本の場合はナショナリズム=国体=天皇制であるから、天皇制が存在する限りナショナリズムは存続すると考える(天皇制が続くということは、移民だらけになっても、皇室に入る日本国民が最低限度存在することを前提とする)。だが、移民だらけになった日本社会は、現在の社会とは似ても似つかぬものになるだろう。それでも天皇が前述の①~⑤を象徴していればナショナリズムが存続していると言えるのか、国民がほとんどいないのに①~⑤を象徴するとはどういうことなのか、①~⑤と現実社会が大幅に乖離していてもナショナリズムがあると言えるのか、これらの点については今の私には十分に論じることができない。

2016年07月28日

市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく

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社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する(「市民」を表す"civil"という単語の語源は身分制を前提としていることは、以前の記事「『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他」で少し触れた)。

 その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。

 「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスの所有権と共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定している。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。

 ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じく啓蒙思想家として名前が挙がるイギリスのロックは、考えが全く正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。

 ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。つまり、「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。

 端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いたように、全体主義につながる考え方ではないだろうか?

 本書では、ルソーの次のような言葉が紹介されている。
 「統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから」(今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』岩波文庫、54頁)。あるいは、「主権者」は「市民宗教」を「信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。・・・のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむことになろう。彼らを〔正しい宗教に〕つれもどすか迫害するかが絶対に必要である」(同前、191~192頁)。
 この激しい言葉の連続を読めば、ドラッカーが『産業人の未来』(初版は1942年)の中で書いた次の文章もよく理解できるように思える。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

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 ここからは私の考えを述べたい。アメリカはどうなのかと言うと、ロックのようなイギリスの伝統を引き継いでいるから、人間は生まれながらにして自由で平等であると考える。人間は唯一絶対の神に似せて創造された万能な存在であるから、どんな職業でも成功して金持ちになれる可能性を秘めている。経営者でも技術者でもアーティストでも職人でも農家でも医者でも教師でも聖職者でも、何でも好きな職業を自由に選択してよい。そして、選択した職業を全うすることを神と契約する。相手が神であるから、契約内容は絶対である(以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」を参照)。

 とはいえ、全てのアメリカ人が神との契約を履行できるとは限らない。契約内容に瑕疵があったためかもしれないし、本人が契約履行の努力を怠ったからかもしれない。そのため、出発点は自由・平等でも、やがて不平等が生じる。だから、自由でありながら不平等になるのがアメリカ社会である。いや、その不平等が原因となって様々な機会への自由なアクセスが制限され、不自由に陥ることがあることを踏まえれば、不自由・不平等な社会と言うのが正しいのかもしれない。ただし、不自由・不平等の原因は本人に帰せられる。神はせっかく自由で平等な存在として世に送り出したのに、本人がその機会を十分に活かさなかったというわけである。

 (※)これはアメリカの理念的な話をしているだけであって、政府や社会が実際には不自由・不平等を是正するために施策を展開していることを私が忘れているわけではない。

 日本の場合、出発点は不自由・不平等である。以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」で書いたように、日本人は階層社会に組み込まれて周囲の制約を受ける。ただ、日本人の不思議なところは、そういう制約があった方がかえって自由に振る舞えるようであるということだ。日本人は階層社会の一部分にずっと固定されているわけではなく、水平・垂直方向に比較的自由に移動するという特徴がある(水平方向に関しては、組織内の「ジョブローテーション」、組織間の「業界団体」など。垂直方向に関しては、山本七平の「下剋上」、金井壽宏教授の「ミドルアップダウン」など)。

 アメリカ人が唯一絶対の神に似せて創造された完全体であるのに対し、日本人は不完全な存在であるから、人によって能力には差がある。つまり、職業の向き・不向きがあることを意味する。しかも、アメリカ社会が水平的でどの職業でも成功すれば儲かるのに対し、日本は階層社会であり、基本的に階層が下になればなるほど儲けが小さくなる。よって、自分が向いている職業が必ずしも儲かるとは限らない。この点で、日本人は不平等である。

 さらに言えば、自分が一体何に向いているのか/向いていないのかは、本人にも解らない。だから、日本人は様々な分野に挑戦し、あれでもない、これでもないと彷徨いながら、自分の能力と適所を発見する必要がある。自分が向いている職業がたとえ儲からない職業だったとしても、それを受け入れるしかない。階層社会の中で与えられたポジションにおいて、前述のように不自由の中で多少の自由を発揮する。これが日本人の生き方である。アメリカ人は自由・平等から出発して不自由・不平等に至るのに対し、日本人は不自由・不平等から出発して、結局不自由・不平等のままである。これが日本とアメリカの大きな違いである。

 もちろん、私も不自由・不平等を放置しておけばよいなどとは思っていない。私が目指しているのは、各人の能力の違いによって、適材適所が実現される社会である。だから、能力の発揮が阻害される構造的な要因(家庭の事情で志望校への進学を諦めた、女性や中高年社員が子育てや介護のために離職しなければならない、など)は取り除くべきであると考える。


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