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DHBR2017年9月号『燃え尽きない働き方』―バーンアウトでうつになったら日記をつけてみよう
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年10月10日

『致知』2017年10月号『自反尽己』―上の人間が下の人間に対してどれだけ「ありがとう」と言えるか?、他


致知2017年10月号自反尽己 致知2017年10月号

致知出版社 2017-10


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 本号には、山田方谷の「至誠惻怛」(何事にも真心を持って接すれば物事が上手くいく)という言葉をはじめ、他者に尽くし、個人よりも全体を優先させることの重要性が説かれた箇所がいくつか見られる。ただ私は、特に日本において「私」が「公」に完全に吸収されることには危険を感じている。事実、日本人はそれによって全体主義に陥り、太平洋戦争に敗れた痛ましい過去を背負っている。このことは以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」でも書いた。

 アメリカの2年目教員400人超(担当は未入園児から高校生まで)を対象とした興味深い研究がある。教師には幾何学の先生になったつもりという前提で、次の質問に回答してもらった。「ある日あなたは、放課後の時間を使って、アレックスという生徒の習熟度向上を助けることにした。アレックスからは、『友達のジュアンも指導してもらえませんか』と頼まれたが、ジュアンはあなたの担当する生徒ではない。さて、どうするか?

 ①ジュアンが何に困っているかをよりよく把握するために、放課後に個別の補修を行う。
 ②アレックスの補習にジュアンを招く。
 ③『ジュアンの力になろうとするのはよい心がけだが、まずは自分が授業についていけるよう、勉強に専念しなさい』とアレックスを諭す。
 ④アレックスに、ジュアンは担任に助けを求めるべきだと伝える。」

 教師は生徒の力になるのが仕事であるため、「役に立とう」という意識の強い人が多いことは容易に推測される。ところが、教員が①のような選択をすると、生徒の成績は悪化することが判明した。①は、生徒に際限なく手を差し伸べる「滅私」である。このような対応をする教員の場合、自分をいたわる教員と比べ、担当生徒の学年末標準テストの成績が著しく悪かった。一方、②を選択した教員は、滅私タイプの教員とは異なり、成績を悪化させずに済んだ。

 「滅私」と「寛容」の混同はよくある過ちである。寛容の精神を上手く発揮する人は、誰にでもむやみに尽くしたりはしない。他者を助けるための犠牲が過大にならないよう、注意を払っている(アダム・グラント、レブ・リベル「いつ、誰を、どのように支援するかを工夫する 『いい人』の心を消耗させない方法」〔『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年9月号〕より)。

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)

ダイヤモンド社 2017-08-10

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 心を込めて他者に貢献することは重要であるが、自分をすり減らしてはならない。他者貢献をしながら自己の利益もしっかりと確保することが重要である(以前の記事「『闘魂(『致知』2016年11月号)』―「公」と「私」の「二項混合」に関する試論、他」、旧ブログの記事「人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』」を参照)。個人的には、本号の次の言葉がしっくりくる。
 田口:東洋思想では、他者に尽くすことで初めて自分も生きてくる。自利と利他はイコールですが、そういうところから説いていけばよいということですか。
(野口智義、田口佳史「いま、なぜ世界のエリートたちは東洋思想に惹かれるのか」)
 さて、本ブログでは、非常にざっくりとした形ではあるが、日本の重層的な階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/非営利組織⇒学校⇒家庭」と描写してきた。ここで、企業にフォーカスを当てて細かく観察すると、その内部はさらに多重化している。製造過程は「親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形を、流通過程は「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸」という形をしている。両者をつなぐと、「(市場⇒)小売⇒・・・⇒2次卸⇒1次卸⇒親会社⇒子会社⇒孫会社⇒・・・」という形で業界全体のバリューチェーンが形成されていることが解る。

 さらに、1つの企業の内部をとってみても、「経営トップ⇒本部長⇒事業部長⇒部長⇒課長⇒係長⇒リーダー⇒・・・」という多重構造が見られる。20年ほど前、欧米から組織のフラット化の手法が日本にもたらされたが、日本ではミドルマネジャーが減少するどころが増加していることは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」でも書いた。企業だけに注目しても、これだけ多重化しているのが日本の特徴である。他の要素に関しても、おそらく一定の多重化が見られると推測される。その構造がどのようになっているのかを解きほぐすのが、今後の私の課題である(ただし、天皇だけはお一人であり多重化しない。一方で、日本の神々は多重化していることは、冒頭の和辻哲郎に関する記事で書いた)。

 以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」では、「企業において上の階層の者(マネジャー)が下の階層の者(現場社員)を動機づけるのはおかしいのではないか?」ということを書いた。人材マネジメントの分野で、社員のモチベーションは重要な研究テーマであるにもかかわらず、それを真っ向から否定しようという挑発的な問題提起であった。私がそのように書いたのは、お金をもらっている人(現場社員)が、お金を払っている人(マネジャー、企業)から動機づけられることを期待するのは不自然だと感じたからである。例えば、顧客が企業から製品・サービスを購入する時、お金を払う顧客はお金をもらう企業を動機づけようとはしない。

 階層社会においては、上の階層の指揮命令に従うことが下の階層の者の絶対的な役割であり、動機づけは下の階層の者が自分自身の責任において行わなければならない。それでも、企業において社員の動機づけを問題にしなければならないとすれば、顧客と企業の関係においては、顧客がある企業の製品・サービスが気に入らない場合は容易に他社に乗り換えることができるのに対し、企業においては、上司が部下のことを気に入らないからと言って、簡単に部下を切り捨てることができないという事情があるためだと考える。新たに人を採用するにはコストも時間もかかる。上司は、まずは現有戦力で何とかやりくりしなければならない。つまり、今の部下に頑張ってもらわなければならない。よって、部下のモチベーションを上げる必要がある。ここに私は、企業における動機づけ理論の限定的な意義を認める。

 こう書くと、「基本的に、上司は部下のモチベーションのことは考えなくてもいいのだ」と思う方もいらっしゃるかもしれない。誤解してほしくないのだが、私が上記のようなことを書いたのは、昨今の「現場社員の態度」を問題にしているからである。日本企業の社員は、世界的に見ても恵まれている。日本企業の多くの経営者には、「社員を大切にする」というマインドが染みついている。また、欧米に比べると一長一短はあるものの、福利厚生制度もそれなりに整っている。それなのに、国際的な調査によれば、日本人社員のモチベーションは非常に低い。日本人社員はことあるごとに、「会社が自分のモチベーションを上げてくれない」と愚痴をこぼす。私は彼らに対して「甘えるな」と言いたい。前述の通り、モチベーションの管理責任は第一義的には本人にある。

 では、「経営者の態度」や「マネジャーの態度」はどのようなものであるべきだろうか?経営者やマネジャーは、企業組織の階層の上位にあって、下位の社員に指揮命令をする立場にある。だが、指揮命令とは、言い方を変えれば「お願い」である。しかも、昨今は技術進歩が加速しているため、上司自身が過去に経験したことのない仕事を部下に依頼する局面が増加している。非常にプリミティブなことだが、自分がお願いしたことをやってくれた人に対しては、素直に「ありがとう」と感謝の意を伝えるのが人間というものではないだろうか?

 京セラの創業者であり、JALの経営再建にも成功した稲盛和夫氏は、昔から役員の仕事をくそみそにこき下ろすことがあるらしい。それでも自分について来てくれる役員には感謝していた。ある時、稲盛氏は役員に対して、「何でいつも滅茶苦茶に叱っているのに自分について来てくれるのか?」と尋ねた。すると、役員は「どんなに怒られても、最後は稲盛さんが『ありがとう』と言ってくれるからです」と答えたそうである。もちろん、稲盛氏とそりが合わなくて辞めた役員も少なくないだろうが、稲盛氏が人間観を持って人間を大切にしたからこそ、経営チームが機能し、複数の企業で大きな成果を上げられたのだと思う。

 これはある人から聞いた話だが、ある企業が経営不振に陥っており、倒産直前まで追い込まれていた。社長は倒産を回避するために休日を返上して一生懸命働いている。それにもかかわらず業績が一向に回復しないのは、社員が自分のように頑張って働かないからだと社長は考えていた。社長は、今までの様々な失敗を全て社員のせいにしていた。その社長はある時、コンサルタントからこんなことを言われたそうだ。「そんなにガタガタな会社でも、毎日朝になると社員が皆出勤してくれる。まずはそのことに感謝しなければならない。『今日も会社に来てくれてありがとう』と言わなければならない」。社長は最初反発したものの、助言に従って、社員に感謝の意を表明するようにした。すると、徐々に社内の雰囲気が改善され、業績も回復したという。

 現在、グローバル規模での価格競争に打ち勝つため、あるいは飽和した国内市場に代わる市場を探すために海外に進出する日本企業が増えている。私はいろんな経営者の話を聞いてきたが、海外で事業を成功させている経営者は異口同音に、「我が社はこの国でビジネスをさせてもらっている」と言う。進出先の国に対して感謝をしているわけだ。

 近年は新興国に進出する日本企業が多い。日本企業は、ややもするとローカル社員の能力を過小評価し、上から目線で彼らに接しがちである。また、進出目的がコスト削減であれば、彼らを安い賃金で目一杯働かせようとする(中国や韓国の企業はこの傾向が強く、進出先の国から嫌われていることがある)。しかし、こういうことをする企業はたいてい失敗する。確かに、日本企業から見れば、ローカル社員は階層構造の中で下の立場にある人たちである。しかし、彼らに感謝をしながら、進出先の国の長期的な発展を願うことが、海外における成功の秘訣なのである。

 やや話が逸れるが、登山家も、山に感謝しながら登山をしていると本号にあった。
 どんな山に挑戦する時も、その山のことをしっかり頭に入れて、安易な気持ちでいるのではなく、畏れを持つ。山に登るんだという厚かましい態度ではなく、登らせていただくという気持ちで山と向き合ってきました。山には危険が至るところにあって、いつ何が起こるか分かりません。これまで多くの登山家が命を落としてきただけに、そういった心構えが私は大切だと思っています。
(田村聡「少しの勇気が明日をひらく大きな力になる」)
 日本は元々儒教社会であるから、目上の人を尊敬する文化が根づいている。つまり、下の階層の人が上の階層の人に感謝をすることが当然とされており、幼少の頃からそういう教育を受けている。製品・サービスを買ってもらった企業は顧客に感謝をし、給料をもらった社員は会社に感謝をし、学校に子どもを預けた親は先生に感謝をし、家庭で自分の面倒を見てもらっている子どもは両親に感謝をする。しかし、これからは、上の階層の人から下の階層の人への感謝をプラスしなければならないと思う。顧客は自分のニーズを充足してくれた企業に感謝をし、経営トップは毎日会社に来てくれる社員に感謝をし、学校はよくしつけされた子どもを学校に送り込んでくれる家庭に感謝をし、両親は元気に生きてくれる子どもに感謝をする。この「双方向の感謝」を、私が考える日本社会の階層構造を構成する重要な要素の1つとする必要がある。

 ただ、本号では、寺院の修理・新築を手がける鵤工舎の小川三夫氏が、最近は儒教社会の根本である、下の階層から上の階層への感謝が薄らいでいると指摘していた。
 小川:管主のお話を聞きながら感じたことですが、最近の弟子は一昔前に比べて恩を感じるということが少なくなりましたね。何年も一緒に生活をしていながら、独立した途端「いまどこで何をやっています」というような連絡を寄こさないし、そのまま離れてしまう子が多いのは実に残念です。
(小川三夫、村上太胤「人を大成に導くもの」)
 私は小学校から中学校にかけて珠算と書道を習い、そのおかげで現在の知力や精神力があると思っている。しかし、大学生になって実家を離れてからは、一度もその恩師の下を訪れていない。また、学校のOBがよく恩師のところを訪れることがあると言うが、私は小学校、中学校、高校、大学で実に様々な先生にお世話になったにもかかわらず、OB訪問というものを一度もしたことがない。高校の部活の先生からは、毎年新年会の案内をいただいているのに、一度も顔を出したことがない。私は何と恩知らずな人間なのだと顔が真っ赤になった。


2017年09月19日

DHBR2017年9月号『燃え尽きない働き方』―バーンアウトでうつになったら日記をつけてみよう


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 09 月号 [雑誌] (燃え尽きない働き方)

ダイヤモンド社 2017-08-10

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 『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2017年9月号の特集は「燃え尽き症候群」。私は医学的なことは詳しく解らないのだが、燃え尽き症候群には大きく分けて2つのタイプがあると思う。1つは、「野心的な目標を掲げてそれを達成した後、次の目標が見えなくてモチベーションを失ってしまう」というタイプであり、スポーツ選手や企業経営者に多い。もう1つは、「自分では精一杯努力しているつもりなのに、一向に小さな成果さえも出せず、ついには何をやっても無駄だという無力感に襲われる」というタイプである。社会が成熟し、かつてのような高い成長が見込めなくなった現代では、後者のタイプの方が多いのではないかと思う。

 後者の燃え尽き症候群は、「心のエネルギーが枯れ果てて、ガス欠車のようにアクセルを踏んでも動かない状態」であり、うつ病との共通点が多い。燃え尽き症候群もうつ病も、「献身的な人、使命感の強い人、頑固で意思が強く思考や感情の切り替えが柔軟でない人、対人関係に不調和がある人、上昇志向が強く能力が高い人」、あるいは「感受性が強く周囲に気を遣いすぎる人、物事の受け止め方の柔軟性に乏しく、几帳面で神経質な人、責任感は強く何事も完璧にこなそうとするが、不器用で一つの物事に過剰にこだわりやすい人」がかかりやすいと言われる。ただし、うつ病の人は、昔のことをくよくよと思い出しては悔んだり、自分1人が犠牲になっていると感じたりする自責的な傾向が強いのに対し、燃え尽き症候群の場合は、他責感が強く表れ、怒りや嫌悪などの攻撃的な感情が他者に対して表れる。

 以前の記事「双極性障害で入院したところ40日の予定が1週間で退院してしまった事の顛末」でも書いたように、私自身もうつ病⇒非定型うつ病(後で知ったことだが、非定型うつ病という病名は医学的に確立されていない)⇒双極性障害Ⅱ型とコロコロと病名が変わってもう9年も治療を続けている。私の場合、双極性障害と言っても、自責的なうつ病の症状が現れるというよりも、前職のベンチャー企業で経験したひどい事柄を思い出しては「あの会社のせいでこうなった」と思うことが多々あり、他責的になりやすいという燃え尽き症候群の方に合致する。

 ただ、病気が発症した時は確かに長時間労働だったものの、燃え尽きるほどの長時間労働ではなかったから、燃え尽き症候群と言うには無理があると自分でも思っている。最近では、先ほどの記事でも書いたように、自分がどういう病気なのかはどうでもよくなっていて、これは私の性格の一部なのだと受け止めて、上手くつき合っていくしかないのだろうと腹を括っている。

 私は医療の専門家ではないので、燃え尽き症候群に関して何かを書くことはできない。しかし、まがりなりにも9年間、うつ病に関連する治療を受けてきたから、ここからはうつ病に関して私の思うところを書いてみたい(本号の特集からは外れるが・・・)。うつ病は一般的に、「脳のエネルギーが欠乏した状態であり、憂うつな気分や様々な意欲(食欲、睡眠欲、性欲など)の低下といった心理的症状が続くだけでなく、身体的な自覚症状(全身倦怠感、頭痛など)を伴う病気」とされるが、一義的な定義は学術的にも確立されていない。つまり、うつ病の症状は患者によってバラバラである。そのため、製薬会社はありとあらゆる抗うつ薬、抗不安薬、抗精神病薬を販売している。うつ病の患者の中には、複数種類の薬を服用している方も少なくないだろう。

 しかし、これらの薬には問題もある。通常、新薬販売の認可を得るためには、被験者を2つのグループに分け、一方のグループには新薬を、もう一方のグループにはプラセボ(偽薬)を投与し、新薬を投与したグループのみに効果があったことを証明しなければならない。だが、一部の薬については、この試験に問題があったことが告発されている。
 2002年には複数の厳密な調査によって、製薬会社が薬の認可を得るためにFDAに提出したのと同じデータが再検討され、パキシル、プロザック、ゾロフト(※いずれも、現在主流の抗うつ薬)を初めとするSSRIにはプラセボ〔偽薬〕と比べてほんのわずかな効果しかないということがわかった。
(クリストファー・レーン『乱造される心の病』〔河出書房新社、2009年〕)
乱造される心の病乱造される心の病
クリストファー・レーン 寺西 のぶ子

河出書房新社 2009-08-22

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 私は今年に入ってから「光トポグラフィー検査」というものを受けた。これは、脳活動に伴う大脳皮質の血中ヘモグロビン濃度変化を計測することで、うつ病かどうかを判定する検査である。その結果、私は「典型的な双極性障害である」と言われたのだが、それ以上に衝撃を受けたのは、「抗うつ薬の効果があるのは、うつ病患者のうち全体の3割ほどにしかすぎない」という医師の言葉であった。前述の通り、抗うつ薬の中には効果が怪しいものがある。「薬が効かないのだが・・・」という患者の訴えを聞いた精神科医は、患者を放っておくわけにもいかず、何か手を打たねばとの思いから、新たな薬を次々と追加する。こうして、患者は薬漬けになっていく。

 さらに困ったことに、抗うつ薬などの効果は限定的なのに、服用を止める時には「離脱症状」と呼ばれる副作用を伴う。詳しい説明はこちらに譲るが、具体的には頭痛、倦怠感、眠気、めまい、吐き気、ふらつき、ふるえ、冷や汗、血圧低下などの症状が出る。私も今年8月の入院中に、それまで服用していた抗うつ薬を医師から一度に止めさせられた結果、ひどい離脱症状に苦しんだ。以上のことから言える1つ目の教訓は、「薬に頼りすぎてはならない」ということである。

 抗うつ薬などの薬の効果が限定的である場合、次に選択されるのは認知療法である。人は成長するにつれて固定的なスキーマが形成され、それに基づいて歪んだ思考方法や考えが自然に浮かぶ自動思考が起こる。これがうつ病などの精神病の引き金となる。そこで、そうした認知の歪みに焦点を当て、認知を修正することで症状の改善を目指すのが認知療法である。しかし、この認知療法は、薬による治療よりも難しい。というのも、回復プロセスが患者によって実に多様であるからだ。間違った薬を投与しても効果が出なかったで済まされるが、間違った認知療法を施すと、患者の認知の歪みをさらに強化してしまうことになりかねない。患者の多様性に対応できる医師が日本にどれだけいるのか、私には解らない。このことから言えるもう1つの教訓は、残念なことだが「医師に頼りすぎてもいけない」ということである。
 うつ病の治療に当たってきた臨床医は長い間、認知療法(心理学の一般的な治療法)を受けている患者は、回復に至るまで標準的な経路をたどると想定していた。その経路は、多くの患者が回復した経験を平均して確認されたものだ。ところが2013年、平均ではなく個人が回復する結果に注目した研究者チームは、回復までの標準的な経路が患者の30%にしか当てはまらない事実を発見したのだ。
(トッド・ローズ『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』〔早川書房、2017年〕)
平均思考は捨てなさい──出る杭を伸ばす個の科学 (早川書房)平均思考は捨てなさい──出る杭を伸ばす個の科学 (早川書房)
トッド ローズ 小坂 恵理

早川書房 2017-05-25

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 それでも私は一応、7年ほど同じかかりつけの医師にお世話になっている。ただし、これはあくまでも気休めであって、結局のところ、「自分の精神病に責任を持つのは自分しかいない」というのが私の正直な実感である。うつ病と向き合うということは、自分の感情と向き合うということである。そのための有効なツールとして、私は「日記」をお勧めしたい。もちろん、繰り返しになるがうつ病の症状は多様であるから、日記が万能な解決策になるとは私も思っていない。私の場合は日記が役に立ったというだけにすぎない。

 日記には、「自分が何で苦しんだか、悲しんだか、腹が立ったか」ということをつらつらと書いていく。とりとめのない文章でも構わない。うつ病の人は几帳面なのできちんとした文章を書かなければならないと思いがちだが、そういうことは全く気にする必要はない。日記を書くと、自分の中に溜め込んでいた負の感情を外部化することができる。それだけでも、心理的な負担は随分と軽くなる。ちなみに、私が「【シリーズ】ベンチャー失敗の教訓」という記事をわざわざ1年かけて書いたのも同じ理由である。一部の人からは、「前職の企業から訴えられるかもしれない」と批判も受けたものの、私はあくまでも自分の治療の一環として行ったまでである。前職の企業の名誉を守るのと自分の健康を守るのとを比べれば、後者の方がはるかに重要である。

 また、日記をつけるという習慣を持つことにも意義がある。定年退職した人が認知症にならないようにするためには「きょういく」と「きょうよう」を持つことが効果的であると言われる。これは、「今日行くところ」と「今日の用事」を持つことが大切であるという意味である。同じようなことはうつ病の人にもあてはまる。さすがに、うつ病の人は外出するのもおっくうになりがちであるから「きょういく」までは要求できない。しかし、「きょうよう」の一環として日記をつけることは、とかく乱れがちな日常生活にリズムをもたらす効果があると考える。

 私は2012年夏に入院した際、治療期間がまだ長引きそうだと感じたため、途中から「5年日記」に切り替えた。これは、中小企業診断士の大先輩から教えてもらったものである。5年日記では、1ページに5年分の日記をつけることができる。この日記の利点は、例えば2017年9月19日の日記を書く時には、2016年、2015年、2014年、2013年の9月19日の日記を読み返すことができ、そこから新たな気づきが得られるということである。そこには、過去の自分が何で苦しんだか、悲しんだか、腹が立ったかが書かれている。それを読み返すと、意外とちっぽけなことで悩んでいたのだと思うことが多い。つまり、自分の感情を客観的に直視できる。すると、少しずつだが自分の心理的な成長が感じられ、うつ病の改善に効果がある。参考までに、私の5年日記の写真を掲載しておく。赤線が、私が過去の日記を読み返した時に気づきを得た箇所である。

5年日記
 (※)画像はモザイク処理してある点をご了承いただきたい。

デザインフィル 日記帳 ミドリ 日記 5年連用 洋風デザインフィル 日記帳 ミドリ 日記 5年連用 洋風

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 なお、今回の記事を書き始めた時、本当は「バーンアウトでうつになった人には、他者からのフィードバックが効果的である」という内容を書くつもりであった。冒頭で述べた通り、燃え尽き症候群の人々の大半は、自分では精一杯努力しているのに、一向に成果が出ず、ついには何をやっても無駄だという無力感に襲われている。彼らは、何をしても周囲から認めてもらえないと感じている。そこで、周囲の人が積極的なフィードバックを与えることが重要ではないかと考えた。

 しかし、以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」で、企業内の人、特に上司は基本的に部下を動機づける理由がないと書いた。というのも、上司は部下に対して給料を支払う立場である。お金を払う立場の人がお金をもらう人を動機づけることが不自然であることは、企業に対して代金を払う顧客がわざわざ企業のことを動機づけようとはしないことを考えれば自明である。読者の皆さんも、企業で何か製品・サービスを購入した時、形式的に「ありがとうございました」と言うだけでなく、「いやぁ、この製品・サービスは本当に役に立ったよ。特にこの点がとてもよかったね」と踏み込んだフィードバックをする機会が何度あるだろうか?もちろん、こういう評価が企業内でも盛んに行われることに越したことはない。しかし、そういう機運が期待できない以上、うつ病には結局のところ本人が責任を持つしかないという見解に至ったわけである。


2017年09月05日

『致知』2017年9月号『閃き』―大きな声を出す経営で社員を健康に


致知2017年9月号閃き 致知2017年9月号

致知出版社 2017-09


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 やや古い調査レポートになるが、独立行政法人 労働政策研究・研修機構の「職場におけるメンタルヘルスケア対策に関する調査」によると、16%弱の事業所でメンタルヘルスに問題を抱えている社員がおり、その人数は増加傾向にあるという。また、厚生労働省の「平成27年「労働安全衛生調査」(実態調査)」によれば、「メンタルヘルス不調により連続1か月以上休業または退職した労働者の状況」は、休業者が0.4%、退職者が0.2%であった。さらに、「現在の仕事や職業生活に関することで強い不安、悩み、ストレスになっていると感じる事柄がある労働者」の割合は55.7%と、平成25年調査より3.4%増加している。

 メンタルヘルス不調者が増加している要因は様々あるだろうが、個人的にはデスクワークが増えて、1人で黙々と仕事をする時間が長くなっていることが影響しているのではないかと思う。職場で言葉を発する機会が少なくなると、どうしても気分が憂鬱になるものである。よって、メンタルヘルス対策の第一歩としては、非常に凡庸な解決策だが、「職場で大きな声を出す機会を増やす」ことが有効であると考える。実際、「大声健康法」なるものも存在するそうだ。

 大声を出すと、身体に「オフ」の状態を作ることができる。大声によって心がすっきりするだけでなく、血行が良くなり、腹筋が収縮してお腹の働きもよくなる。すると、お腹と反対側の腰にもよい影響を与え、腰痛を和らげる効果もあるという。また、大声を出すと呼吸が深くなり、筋肉への血流も増加する。そして、ストレスホルモンのアンバランスさも低下し、ストレスが溜まりにくい身体になる。さらに、大声を出すと横隔膜の上下運動が激しく促進され、それに伴って胃や腸、肝臓などの内臓にマッサージ効果が起こって動きも血行もよくなり、身体も温まると言われている。

 大声健康法からはやや外れてしまうのだけれども、『致知』2017年9月号には、教育の現場に「速音読」を取り入れている教師の記事があった。
 速音読は、指定された範囲をできるだけ速く読む音読法ですが、速く読もうとする中で、素早く言葉のまとまりを掴むことができるようになり、また読む範囲の少し先を見る力もつきます。速く読めるようになると、普通の速さで読む時に余裕を持って音読できるようになりますし、脳科学的にも速音読は前頭前野を活性化させる度合いが高いそうで、短い時間で集中力や学習意欲を引き出せるのを感じています。
(山田将由「音読で子供たちの未来を開く」)
 大声健康法にも、ひょっとしたら脳を活性化させる効果があるのではないかと思う(そういう研究データをご存知の方がいらっしゃったら是非教えていただきたい)。かつて、日本の多くの企業では、朝礼で社員が皆揃って自社の企業理念を唱和する習慣があった。朝礼は企業理念を社員に浸透させ、社員の結束力を高めるのが主目的であるが、実は朝から全員で大きな声を出すことで、社員の脳や消化器の健康のために役立っていたのではないかと感じる。

 最近は、裁量労働制やフレックスタイム制の導入によって社員の出勤時間がバラバラになったこともあり、朝礼を行う企業が減少している。その影響かどうか解らないが、自社の経営理念を覚えていない人も増えている。先日も、ある研修で「自社の経営理念を覚えていますか?」と質問したら、誰も手が挙がらなかった。これは非常に残念なことである。難しいことかもしれないが、朝礼をもう一度復活させることは検討に値すると思う。朝礼では、経営理念を何度か繰り返し唱和するとよい。最初はゆっくりと読み上げ、経営理念に書かれた言葉の1つ1つの意味をかみしめる。そして、段々と唱和のスピードを上げ、脳の前頭前野を活性化させる。すると、社員は朝から経営理念を意識しながら全開モードで仕事に取り組むことができるだろう。

 朝礼はどちらかと言うと一方通行のコミュニケーションである。社員の健康をより高めるには双方向のコミュニケーションが効果的である。「コミュニケーション活発な人は健康度も高い かんぽ生命調査」によると、日常的な話ができる「知人・友人が11人以上いる」という人の53.5%が「現在、体調はよい状態である」、64.6%が「精神的な癒しやリラックスする時間を持つようにしている」と答えたのに対し、「知人・友人が0人」という人はそれぞれ36.5%、40.4%にとどまっている。知人・友人の数が多いほど、身体の健康だけでなく、心の健康への意識も高い。これは職場の人間関係においてもあてはまることだと思う。
 齋藤:最近、私が感じているのは、笑っている瞬間にアイデアが生まれることが非常に多い、ということです。昔、研究を1人でやっていた時はひたすら本を読んだり、思索に耽ったりしていたわけですが、いま学生と一緒にいる時は、とにかく爆笑できるくらいのものでなくては閃きは生まれないということを強く言うんです。それでニーチェの「祝祭的空間」という言葉にあやかって、それを授業でも実践しています。

 くだらない発言でも拍手をしハイタッチをしようと決めていて、どよめく練習までやるんですね。「おおーっ」って(笑)。誰が何を言っても盛り上がるように安全ネットを張った上で、私自身自分が思いついたことを喋り続け、彼らにもそれをやってもらう。
(川口淳一郎、齋藤孝、石黒浩「閃き脳をどう創るか」)
 こういうコミュニケーションは社員の心身を健康にするとともに、新しいアイデアを生み出すのに有益である。最近は、職場内にオープンスペースを設けて、社員のコミュニケーションの活性化を試みる企業が増えている。私はここで、2つのことに注意するべきだと思う。1つ目は、オープンスペースは誰でも自由に出入りできるものの、プライバシーは保護しなければならないということである。オープンスペースで話している内容が、外部で仕事をしている同僚に筒抜けであっては、突飛な意見を自由に言うのもはばかられる。もう1つは、いくら親しい同僚との間の会話であっても、また上司と部下という上下関係があるとしても、お互いに丁寧な日本語を使うべきだということである。粗雑な言葉遣いは知性を低下させ、ひいては心身の健康をかえって損なう。

 本号では、占部賢志氏が将棋の藤井聡太四段や卓球の張本智和選手などのインタビューに注目して、次のように述べている。
 中学生というと、中途半端な時期で影が薄かった。それが、ここにきて俄然注目されるようになったことは、いいことだと思いますよ。これだけ人気があるのは、彼らが以前のヒーローやヒロインに比べて言葉遣いが正しく、しかも内容も聞かせるものがあるでしょ。その点が際立っているからだと私は見ています。
(占部賢志「天晴れ中学生に拍手 「敬意」と「感恩」の教育」)
 確かに彼らは非凡な才能の持ち主である。だが、大人が中学生に負けているようでは恥ずかしい。何も高尚な言葉を使う必要はない。相手に敬意を払い、相手に対して解りやすい言葉を使って、大きな声ではっきりと語りかけることが重要である。相手のことを慮る気持ちもまた、心身を健康にするのにプラスではないかと考える。

 私は以前、中小企業向けの補助金事業の事務局員をしていたことがある。採択された中小企業について、補助金で何を購入したのか伝票類をチェックし、補助金を適正に支払うのが主な仕事である。事務局員は総勢60名ほどいたが、約6割が私と同じ中小企業診断士であった(残りの4割は大手企業のOBなど)。だが、大半が50~60代であり、私のような30代の人間はほとんどいなかった。50~60代の中小企業診断士には、大手企業出身者の人も多かった。大企業で経験を積んでいるのだからさぞ仕事もできるだろうと思いきや、中には中小企業の経営者に対して大声で乱暴な口を叩く人もいた。「こんな書類で補助金がもらえると思うなよ」、「この書類をこういうふうに直せと何回言ったら解るんだ」といった具合である。彼らはこんな態度で何十年も仕事をしてきたのかと驚くと同時に、彼らはきっと早死にするに違いないと思ったものである。

 社員の心身の健康を高めるために、大きな声で双方向のコミュニケーションをとる機会を設けようと言っても、いきなり実践するのは難しいかもしれない。そこで、取っ掛かりとして、「失敗分析」をお勧めする。どんな企業でも、製品開発や製造、マーケティングや営業で何らかの失敗をするものである。何か失敗が起きれば、関係者の間で原因を分析し、解決策を議論する。青森大学の男子新体操部で監督を務める中田吉光氏は次のように述べている。
 自分から発信する子は強いですね。人工知能が目覚ましい発達をしているような時代ですから、自分というものを持たない人間、それを発信しない人間は必要とされなくなると思うんです。ですから指示待ちも絶対に許さない。練習中に何か失敗をしたら、なぜ失敗したのか、じゃあどうすればいいのか、必ず本人に喋らせるなどして、少しでも発信する機会をつくるようにしているんです。
(中田吉光「男子新体操で人の心を揺さぶりたい」)
 ここでも、決して感情的になって乱暴な言葉を使ってはならない。また、失敗した人の人格を攻撃してもならない(日本人はよくこれをやりがちである)。失敗の原因を人に求めるのではなく、組織の制度や仕組みといったシステムに求めなければならない。こうした前向きなコミュニケーションをとることができれば、失敗からの立ち直りも早いであろう。

 私の前職の人事・組織コンサルティング&教育研修サービスのベンチャー企業は、業績が非常に悪かったのに、営業で失注してもその原因を全く分析していなかった。コンサルティングと自社のマーケティングを兼務していた私は、本来は営業会議に出席する権限を与えられていなかったのだが、社長にお願いして何度か営業会議に出席させてもらったことがある。すると、驚くべきことに、会議では営業担当者が手持ちの案件の進捗を淡々と報告するだけであった(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第28回)】営業で失注しても「敗因分析」をしない」を参照)。

 当時、前職の会社では、Salesforce.comを使って商談管理を行っていた。ITの管理も部分的に任されていた私は、営業担当者に失敗分析の意識を植えつけるために、システムで案件のステータスを失注に変更する際には、失注の理由を入力しなければ更新できないように仕様を変えたことがあった。しかし、今振り返ってみると浅はかな策だったと思う。システムに向かって1人で失敗の分析をすれば、余計に気分が落ち込むばかりである。やはり、会議の場で、まずは失注した営業担当者自身の口から失注の原因を発言させ、それに対して他の営業担当者がどのように考えるか意見を引き出し、参加者の見解を集約して受注確率を上げるための方策を建設的に議論できる方向へ持っていくべきだったと反省している。

 企業によっては、人間関係が非常にギスギスしていて、失敗分析を行おうものならば、失敗した人が周囲からつるし上げられてしまうことがあるかもしれない。社員の心身の健康が極度に損なわれた企業において、それでもなお大きな声でコミュニケーションをとり、社員の健康を取り戻そうとするならば、最後に残された手段は「挨拶」だと思う。出社したら「おはようございます」と言い、それを聞いた他の社員も「おはようございます」と言う。退社する時は「お先に失礼します」と言い、それを聞いた他の社員は「お疲れさまでした」と言う。挨拶は定型化されており、絶対に失敗がない。決められた言葉を元気よく発すれば、それだけでコミュニケーションが成立する。

 もちろん、コミュニケーションが機能不全に陥っている企業では、最初は挨拶すらまともに返ってこないだろう。それでも、企業のトップが率先して挨拶をする。これを最低でも2~3か月は続ける。心理学には「返報性の原理」というものがある。人は、相手から何かをしてもらうと、相手に対して見返りを与えたくなるという心理を説明したものである。社長から毎朝のように大きな声で挨拶をされる社員は、最初はうるさいと感じるかもしれないが、やがては返報性の原理に従って社長に挨拶を返さねばと思うようになる。こうして、社員が皆大きな声で挨拶をするようになれば、心身の健康の回復の糸口が見えてくるに違いない。



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