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『正論』2018年6月号『安倍”悪玉”論のいかがわしさ/シリア攻撃 揺れる世界』―政治家やメディアが国民に迎合したら民主主義は終わる

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年06月26日

『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう


正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)

日本工業新聞社 2018-06-01

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 以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」、「『北朝鮮”炎上”/日本国憲法施行70年/憲法、このままなら、どうなる?(『正論』2017年6月号)』―日本はアメリカへの過度の依存を改める時期に来ている」の内容を改めてまとめると、国家間の相互不信を原則とする国際政治の舞台においては、どの国も他国から侵略されるのではないかと恐れを抱いて自衛権を拡張する。だが、A国が他国からの侵略を過度に警戒する場合、A国の自衛権は過剰になる。専守防衛にとどまらず、いざとなれば他国を攻撃する能力を装備する。A国の動きを見た他の国は、A国の脅威から自国を守るために軍備を拡張する。他国の動きを警戒するA国は、さらに軍拡へと進む。こうして、各国は軍拡競争へと突入する。そして、A国と他国とが、このままでは本当に軍事衝突をしてしまうかもしれないというほどに軍事的緊張が高まった時、A国と他国との間で軍縮に向けた交渉が始まる。

 6月12日に史上初の米朝首脳会談が開催されたが、北朝鮮がそれまでの強硬な姿勢からアメリカとの対話路線に転換したのは、アメリカを中心とする国際社会からの「最大限の圧力」が功を奏したからだと言われる。だが、これは北朝鮮をどうしてもやっつけたい右派に特有の論理であり、実のところは、北朝鮮が「火星15」の完成によりアメリカ大陸の東海岸まで射程圏に収めたことで、アメリカ国内に現実的な恐怖が生じたからだと説明した方がしっくりくる。

 その米朝首脳会談をめぐっては、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、段階的な非核化を求める北朝鮮との間には相当の開きがあった。北朝鮮は約60の核弾頭と、約150の核兵器関連施設を有していると言われる。アメリカは当初これを半年ほどで全廃棄させると言っていたものの、それは土台無理な注文であり、国際的な交渉に特有の”ふっかけ”である。最初に無理な注文を突きつけておいて、それが無理ならではどうするのかと相手に迫るのがアメリカ(というか世界の普通の国全般)のやり方である。そもそも、完全なる非核化となると、核弾頭や核兵器関連施設を廃棄すれば済むわけではなく、核実験のデータの消去や、核兵器開発のノウハウを持った人材の封じ込めなど、難題が山積している。これらを踏まえれば、完全なる非核化には10年単位の時間がかかるのが当然であり、北朝鮮が求める段階的な非核化に落ち着くのは自然なことであると思われた。

 だが、誤算だったのは、非核化に向けた具体的な方法や工程表に一切踏み込むことなく、トランプ大統領が金正恩委員長に「体制の保証」を与えてしまったことである。さらに、米朝は急速に仲良くなっており、朝鮮戦争の終結も近いと言う。本来であれば、北朝鮮がアメリカの要求する形で非核化を段階的に進め、それに伴って徐々に経済制裁を緩めていき、北朝鮮の非核化が完全に実現した段階で体制の保証を与え、朝鮮戦争を終結させるべきである。ところが、体制の保証を先に与えてしまった以上、北朝鮮は優先度の低い核兵器関連施設をパフォーマンス的に爆破して非核化を進めていることをアピールしながら、体制を脅かすもの、すなわち在韓米軍の撤退を求めるに違いない。そのために、朝鮮戦争の終結を急ぐだろう。

 この状態を隣国の韓国はどう見ているのか?以前の記事「『正論』2018年5月号『策略の朝鮮半島/森友”改竄”の激震/新たなる皇帝の誕生・・・』―南北統一で「金氏朝鮮」が成立する可能性、他」では、北朝鮮主導による朝鮮半島統一の可能性について書いた。現在の文在寅大統領はウルトラ左派であり、韓国では全体主義化が進んでいるという。
 西岡:北と戦ってきた国家情報院の歴代院長が逮捕され、国情院のスパイ摘発部門を警察に移すといい、かつ国情院の過去の「積弊」を調査する集団のトップには民間人の左翼知識人を据えています。そのトップが国情院に乗り込んで秘密データベースにアクセスしています。文大統領の参謀たちの約半数は1980年代に地下活動をしたり、激しい学生運動のリーダーだったりした人たちです。
(古森義久、西岡力「トランプVS金正恩最終決戦」)
 文政権の成立後、韓国で全体主義独裁の狂風が吹きまくっている。「積弊清算」という名の人民裁判や魔女狩り式の右派静粛は、従来の権力闘争とは根本的に違い、階級闘争の形で進行している。近代国民国家形成のために主要先進国はすでに経験した混乱だが、韓国は21世紀にとんでもない混乱を経験している。文在寅政権の目的は体制変革、つまり自由民主主義体制と自由市場経済体制の破壊。この「ロウソク・主思派政権」が金正恩体制と共助して推進する左翼民衆革命は、中国が主導する現状変更戦略と共鳴している。
(洪熒「文在寅 自由の破壊 いよいよ韓国の赤化が始まった」)
 だから、韓国は北朝鮮による朝鮮半島統一を喜んで受け入れる。当然のことながら、米韓同盟は破棄され、朝鮮半島統一国家は中国寄りになる。この段階では、北朝鮮の非核化は完全に完了していない可能性がある。この危険な国家と日本は向き合っていかなければならないのである。日本と朝鮮半島統一国家の関係を、軍事評論家の兵頭二十八氏は「日本がイラクになって、朝鮮半島がイスラエルになるという構造だ」と指摘したそうだ(西尾幹二「政府に今、クギを刺す トランプに代わって、日本が自由と人権を語れ」)。唯一違うのは、イラクが反米、日本が親米であり、イスラエルが親米、朝鮮半島統一国家が反米であるという点である。

 私は、アメリカがこのようなシナリオを予想していないとは到底思えない。むしろ、韓国のことは諦めたのではないかと感じる。だから、米韓合同演習をあっさりと休止してしまった。アメリカとしては、朝鮮半島のいざこざに労力を費やすよりも、中東や中国との問題にエネルギーを注ぎたいというのが本音なのだろう。そして、朝鮮半島のことは日本に任せてしまう。これが、トランプ大統領による「体制の保証」の裏に隠されたメッセージではないかと思う。

 だが、「ネイション(民族)の境界線が国家の境界線であるべきである」という政治学者アーネスト・ゲルナーの言説に従えば、南北朝鮮が統一されるのはむしろ歓迎されるべきこととも言える。本来であれば、太平洋戦争で日本が敗戦した段階で、日本もドイツと同様に連合国によって分断統治される可能性があった。ところが、日本の敗戦によって空白地帯となった朝鮮半島にアメリカとソ連が侵攻して南北が分断され、朝鮮戦争へと発展した。

 なぜ朝鮮半島に空白地帯が生じたかと言えば、他ならぬ日韓併合のせいである。日本では、安重根は朝鮮総督府統監の伊藤博文を暗殺した”犯罪者”だと扱われているが、韓国人にとっては、テロリスト以下の扱いをされることが我慢ならないのだという。安重根は『東洋平和論』を著して、日本が東アジアを西洋列強の帝国主義から救ってくれると本気で信じていた。だから、日清戦争の時も、日露戦争の時も、朝鮮半島を戦場として提供した。ところが、両戦争に勝利した日本は、結局西洋列強と同じ統治を行った。それに憤った安重根は、伊藤博文暗殺という、政治的意図を持った”テロ行為”に出たというわけである。
 南北分断は、日本にはまったく責任はない。ソ連に条約を干渉しての対日参戦を促すために米国や中国など連合国がソ連に38度線以北を占領させたことから起きた問題であって、たとえば、日本敗戦から数年のうちに独立させるということであれば、南北分断も、朝鮮戦争も、とげとげしい日韓関係もなかったはずである。
(八幡和郎「南北朝鮮との新たなる歴史戦に備えろ!」)
 本号にはこのように南北分断に関する日本の責任を否定する記事もある。しかし、個人的には、日韓併合がもっと別のスマートな形で行われていれば、あるいは別の選択肢がとられていれば、現在にまで続く南北分断の悲劇は回避できたかもしれないと思う。その意味で、日本人は南北分断による民族の痛みに敏感にならなければならないし、仮に北朝鮮主導で朝鮮半島が統一されても、その統一国家と真正面から真摯に向き合う必要があると考える。

 朝鮮半島に誕生する新たな統一国家は、独裁政治を行う危険な国家でる。しかも、前述のように核兵器を保有しているかもしれないし、仮に核兵器を保有していなくても、いつでも核兵器を開発する能力を残している可能性のある国家である。このような国を目の前にして、国家間の相互不信を原則とするならば、日本は軍拡し、場合によっては核兵器の保有も辞さない覚悟が必要になるだろう。だがここで、私は敢えて違うアプローチを提案してみたい。

 私は、国内では相互信頼を原則とし、見返りを求めない利他的な精神が重要であるとしがら、国際政治の舞台では相互不信を原則とし、国家が利己的に振る舞うべきだというダブルスタンダードに長年苦しんできた(このような二重基準は、私が定期購読している『致知』にも見られる)。冒頭でも書いたように、相互不信に基づくアプローチは双方の国にとって負担が重い。こんなことを書くと私が左派に転向したのではないかと思われそうだが、朝鮮半島統一国家に対しても、信頼を原則としたアプローチを試してはどうか?具体的には、日本が新しい統一国家の経済的・社会的インフラに投資し、教育基盤を構築し、社会的な各種制度の整備を支援するというものである。見返りを求めずに、ただ朝鮮半島統一国家の発展を信じてこれらを実行する。

 これは、戦後の日本が東南アジア諸国に対して行ってきたことと同じである。右派はよく、日本は太平洋戦争で東南アジアを植民地支配から解放したと主張し、その結果として現在の東南アジア諸国には親日国が多いと言うが、これは正確ではない。日本軍は伝統的に兵站を軽視する傾向があり、物資を現地調達していた。地元民は食糧を日本軍に奪われ、また働き手として基地建設などにかり出された。さらに、日本軍が軍票(日本が作った現地通貨)を乱発したことで超インフレが起こり、約束されていた独立も一向に実現しない。地元民は、これなら欧米の支配の方がよかったと思い、反日運動に転じた。それを憲兵が弾圧すると、急進派が抗日武装して蜂起し、それが全国規模にまで広がって連合国軍と連携した。フィリピン、インドネシア、ビルマなどで見られたのはおおよそこのようなストーリーである。戦後、補償の一環としてODAを中心とした開発援助などを行うことで、東南アジア諸国は徐々に親日になっていった。

 もちろん、今度の相手は半世紀以上も日本への憎悪を膨らませてきた国であるから、一筋縄ではいかないだろう。左派は「対話」が重要だと言うが、私は対話という言葉につきまとうソフトなイメージが受け入れられない。対話は「議論」のアンチテーゼとして持ち出されることが多い。議論が論理的、線形的、算術的、合理的に行われるものであるとすれば、その反対に位置する対話は感情的、飛躍的、策略的、権力的に行われるものである。拉致問題、慰安婦問題などをめぐっては、今後もけんか腰の対話が続く。重要なのは、その間も継続して経済的・社会的支援を止めないということである。経済的・社会的支援を政治の駆け引きの道具にはしない。日本人のソフト・パワーは「勤勉に働く姿」である。それを朝鮮半島統一国家の人々に見てもらうことで、労働に価値を置く社会主義者である彼らの心を動かすものがあるかもしれない。

 これは言うなれば、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。実は、これこそ小国同士の理想的な外交である。大国(私が本ブログで大国と言う場合、米独中ロの4か国を指す)は二項対立的な発想をし、敵味方をはっきりと分ける。ところが、国内も二項対立で対立している。例えば米ロ関係を見ると、両国は表面的には明確に対立している。しかし、アメリカ国内は反ロ派と親ロ派に、ロシア国内は反米派と親米派に分かれており、反ロ派と反米派が表で対立している裏で、親ロ派と親米派が手を握っている。例えるならば、ボクサーがリング上で殴り合っている裏で、両者のコーチがツーカーの仲になっているようなものである。こうすることによって、大国同士の決定的で破滅的な対決を防ぎ、両国の均衡を保っている。

 表面的に対立する大国は、国内のガス抜きをするために、同盟国である小国に代理戦争をさせる。中東が解りやすい例である。小国はリング上で殴り合うボクサーであるから、相手が倒れるまで徹底的に叩き潰す。一方で、自分が受けるダメージも相当なものになる。だから私は、小国は同盟国である大国にどっぷりと依存することに対して警告を発してきた。そうではなく、大国的な流儀を身につける必要がある。と言っても、大国のように資源が豊富にあるわけではないから、リング上ではボクサーに戦わせて、リングの下ではコーチが手を結ぶという真似はできない。小国はボクサーとコーチの役割を同時に担う必要がある。その結果生まれる外交スタイルが、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。

 朝鮮半島統一国家への経済的・社会的支援であれば、日韓併合時代にも行ってきたではないかという批判もあるに違いない。確かに、警察制度は日本が作ったし、漢文をハングルで読めるようにしたのも日本人である。だが、当時の日本軍のやり方が、現地の人々のニーズに合っていたかどうかが問題である。山本七平は『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で、日本軍は植民地のニーズを汲み取っておらず、そのために現地の反発を招いたと指摘している。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08-01

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 だから、今度は朝鮮半島統一国家のニーズに合った形で支援を行う。言うなれば、明治40年代~昭和10年代をもう一度やり直すということである。新保祐司氏は、昭和10年代=明治70年代と位置づけた上で、次のように述べている。
 戦前の復活ではない。明治70年代の文明の復活なのです。このように、明治70年代の文明を否定していた戦後七十余年の日本文明は、本来の日本文明と言えるようなものではなかった。
(新保祐司「日本人は日本文明を保持する意思があるか」)
 そして、明治70年代の文明の特徴の1つとして、「美より義を優先する精神」を挙げている。この精神こそ、朝鮮半島統一国家に対して日本が発揮すべき精神である。松山藩の財政を立て直し、わずか8年で10万両(約300億円)の借財を10万両の蓄財に変えた山田方谷も、「義を明らかにして利を計らず」と述べている。朝鮮半島統一国家を支援すれば、積年の禍根は全て解消されてしかるべきだと期待してはならない。それは利己心の表れである。大半の支援は日本の徒労に終わるだけかもしれない。それを覚悟の上で支援し続ける。そして、仮に中国が朝鮮半島統一国家をけしかけて日本を攻撃せよと命じた場合、朝鮮半島統一国家がそれまでの日本の支援を思い返して攻撃をちょっとためらうようなことがあれば、それで十分である。

 私は、究極のウルトラCとして、アメリカが北朝鮮との国交を回復した後に、直ちに日本も北朝鮮と国交を回復するのもありだと考える。国交が回復すれば、北朝鮮に日本の大使館を置くことができる。すると、今まで入手が困難であった拉致被害者に関する情報が入手しやすくなる。政府は「拉致被害者全員の帰国」を目標としているが、実は「拉致被害者全員」とは誰のことを指すのか、誰も解っていないのだという(荒木和博「特定失踪者をウヤムヤにしてはならない」)。日本大使館の設置は、このような状況の改善の一歩につながる。また、日本政府としては、「拉致被害者全員の一括帰国」ばかりにこだわって交渉をするべきではない。交渉には幅を持たせるのが鉄則である。もちろん、表向きは「拉致被害者全員の一括帰国」を強弁するのは構わないが、その裏で複数の腹案を抱えていないのであれば、それは愚策である。


2018年05月29日

『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない


世界 2018年 06 月号 [雑誌]世界 2018年 06 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-05-08

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 安倍首相の発言や自民党憲法改正案を見れば、憲法とは「国の形を決めるもの」であり、国家や家族に指針を与え、義務を課し、「縛るもの」と考えられています。憲法とは「市民社会と国家の間の統治契約書」ではなく、つまり統治機構としての国家がその統治においてしてはならないことをあらかじめ定めて国家を「縛る」契約書ではなく、国家が「国民に与える書」であり、国家の意思を国民に伝える書なのです。近代以前の認識だと言わなければなりません。
(花田達朗「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」)
 私は、安倍首相や自民党憲法改正案が想定している国家像や憲法のあり方を本当に前近代的なものだと切り捨ててよいものかと疑問に感じる。ジョン・ロックのように、自然状態においては自然法が貫徹されて人は自由で平等であったと仮定し、その状態に何らかの理由で様々が不都合が生じたことで、人々が自然発生的に一部の自然権を放棄し、社会契約を締結することによって国家が成立したと見るのであれば、国家は国民に従属するのであって、憲法は国家の権力を国民が制限する意思の表れととらえることもできるだろう。だから、国家が国民の自然権を侵害するような専制を行う場合には、国民による抵抗権も正当化され得る。

 ジャン・ジャック・ルソーにおいても大体同じである。ルソーは、諸個人が自由と平等を享受していたが、より自由で平等な状態、共通善を最大化するために、自然発生的ではなく、積極的に社会契約を締結したことによって国家が成立すると見る。契約当事者である市民のみならず、その集合体である人民こそが主権者であり、個々人の特殊意思を超えた、一般意思によって作り出された主権によって国家が誕生した。ここでも、国家は主権者である市民に従属する。

 つまり、西洋においては、人々の自由や平等を守るために人為的に国家が創造された。国民と国家の間の関係はかなりフラットに近い。これに対して、日本の場合は自然発生的に国家が成立しており、国家は1つの有機体として、その機能を発揮せしめるために、内部の役割を多様化・階層化し、人々をそれぞれの役割に就ける。様々な役割に就いた人々は各々固有の欲求を持つが、個人の欲求は全体の秩序に調和させることが求められる。この点で、国民が国家に従属するという、西洋とは逆の関係が成立する。陽明学の泰斗・安岡正篤が1927(昭和2)年に著わした『東洋倫理概論』の中には、次のように書かれている(以下は、『東洋倫理概論』を現代語訳した武石章訳『「人間」としての生き方』〔PHP文庫、2008年〕による)。
 蒼生とは、蒼々然たる(青々とした)万物の生育に因んで、天地の恵みを受けて生活する自然な人々(生民)に対してつけた名(1つの具体的あるいは創造的概念)であって、その実在は雑然とした動物的群居―単なる民衆ではなく、心理的生理的に影響しあう本来の自然のままの姿、本来の生活関係にある人間の集団―本然社会、社稷(社は土地の神、稷は五穀の神)、一種の有機的な体系である。だからこれを組織する各人、各階級は、万物を支配する天の道理、自然の道理に従って自然に各自の欲求のままに活きるけれども、一面その欲求を自ら縦にすることはできない。ほしいままにすれば直ちに全体生活を傷ってしまう。そこで、生理の欲求としてそういう部分的欲求(民衆的欲求、私利)に即して全体的欲求(社会的欲求、天理)がなければならない。

 (中略)(※全体的欲求の実体である)官司の本質はほしいままな私欲に走り社会生活を乱れさせることがないように民を正し、治めることにある。そういう作用からして、これを特に政治(政は正である)と言いその最高の政治組織体を国家と言うのであって、それは蒼生の自然的生活から進歩するにつれて実現し、発達してきた本来の自然のままの規範的存在である。
「人間」としての生き方 (PHP文庫)「人間」としての生き方 (PHP文庫)
安岡 正篤 安岡 正泰

PHP研究所 2008-03-03

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 国家は道、天理に従って国民を統治するが、国家の頂点に立つのは天皇である。天皇は国民によって選ばれたのではなく、国家が自然発生的に成立した時から天皇であった。そして、国家の持続可能性を担保するために世襲制を選択した。つまり、その時々に応じて、天皇にふさわしい能力・資質を持った人を国民が選出するという方法はとらなかった。これにより、適材をめぐって国民の議論が紛糾し、そのために国家統治が断絶するというリスクを回避することができた。もちろん、世襲制でも後継者不足に陥るという恐れはあるが、適材探しに伴う統治の空白リスクよりは小さいだろう。天皇は天皇に「なる」のではなく、天皇は天皇で「ある」わけだ。
 同時に我々の国家にもまた、このような至尊がなければならない。あるいはこれを国旗に表徴し、あるいはこれを法律に掲げ示し、あるいはこれを信仰または信念として心の中に観る。我々はこれを天皇に拝する。我々に天皇が在すことは我々の胸の奥に神在するに侔しい。天皇を軽んじ、ないがしろにする者は神を軽んじ、ないがしろにする者である。道を知らない者である。
 ここで近代的な西洋人なら、「天皇が暴君であった場合はどうするのか?民衆は革命を起こすのか?」と質問するだろう。だが、安岡正篤はこの問いを一蹴する。
 そういう前提は国家における道の生活のまだ確立していない国体では有り得ることであるが、日本のように歴史的体験によって道の確立している国では、法に外れた天皇の意思などある筈がなく、天皇は真に道Sollenの権現(実現する神仏)とならざるを得ない。この長い間に打成された(できあがってきた)道力を踏みにじるような暴力は、いかなる悪魔も持ち合わすことができない。まして皇位の簒奪(帝王の位をうばい取ること)など夢想することもできない。
 要するに、日本は自然発生的に成立した国家であり、その頂点に立つ天皇が最も道を体現している存在として、日本国民を統治する。天皇が道を体現していることは、天皇が万世一系によって途切れなく続いていることからも明らかである。よって、日本の歴史に照らし合わせれば、憲法が国家(天皇)から国民に与えられた書であるというのは全くもって正しいのである。これを否定して、憲法は国民が国家を束縛する書だと主張したければ、天皇を廃止するしかない。

 道や天理に従い、天皇が神として国家を統治するのは全体主義的ではないかという批判もあるだろう。確かに、日本の歴史を振り返ればそのような時期もあったことは否定できない。ただし、大半の時代において、天皇は国家の最上位に位置するものの、その意思を絶対的な力で下位の人々に強要するようなことはしなかった。日本では議論が推奨される。十七条の憲法には「和を以て貴しとなす」とあり、五箇条の御誓文には「広く会議を興し万機公論に決すべし」とある。社会人類学者の中根千枝氏の著書『タテ社会の人間関係』の内容を拡張するならば、日本は多重階層社会であり、天皇の意思はいくつもの階層を下って、それぞれの階層を構成する国民に届けられる。その際、天皇から国民への伝達は一方通行ではない点に着目する。

 天皇は臣下に対して「あなたは国家のためにこの仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、臣下は天皇に対し、「天皇がご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。これが一般化されると、上の階層は下の階層に対して、「あなたは私が上の階層から命じられた仕事を実行するために、この仕事をせよ」と命ずるとともに、「あなたがその仕事を成し遂げるために私は何をすればよいか?」と「下問」する。他方、下の階層は上の階層に対し、「あなたがご自身の仕事をよりよく成し遂げるには、これをなさった方がよい」と「下剋上」する。ここでの「下問」、「下剋上」の用法は、日本学者である山本七平に依拠している(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」、「『熱と誠(『致知』2017年2月号)』―顧客が「下問」してくれる企業こそ真の顧客志向を体現している」を参照)。

 とりわけ特徴的なのは、下剋上は上の階層に取って代わるためになされるわけではないという点である。上の階層に取って代わる下剋上が起きたのは、歴史の一時代だけである。多くの場合、下の階層は、上の階層がよりよくなるためにと願って、下の階層にとどまったまま「下剋上」をした。こうした重層的な議論を通じて、天皇の威命が徐々に下の階層へと伝わっていく。

 前述のように、自然発生的に成立した日本という国家は、1つの有機体として、天皇を頂点としながら、その内部に多様な役割を分化させ、多重階層的な社会を形成している。それぞれの人は社会を機能せしめるために、上の階層からの命令を受け取ってその職責を果たす。このような社会において、人々に自由はあるのかと西洋人は問うだろう。確かに、自然権としての自由は存在しない。よって、自然権を守るための権力からの自由も存在しない。ただし、社会から役割を与えられた人々は、上の階層から「下問」という支援を受けて自分の仕事の幅を広げ、上の階層に対して「下剋上」することによって彼らの仕事の幅を広げることを通じて、上の階層のために、ひいては全体的秩序のために創意工夫を凝らして役割を遂行することが期待されている。

 この点で、日本人にも自由はあるのであり、それは「権力からの自由」ではなく、「権力の中での自由」と呼ぶのが適切であろう。日本は決して全体主義ではない。かといって、個人の意思が政治に完全に反映される民主主義でもない(個人の意思は全体の秩序に調和されるため)。日本はその中間の権威主義と呼ぶのが適切であり、権威主義によって極めて長期にわたって国家を維持してきた(以前の記事「加茂利男他『現代政治学(有斐閣アルマ)』―「全体主義」と「民主主義」の間の「権威主義」ももっと評価すべきではないか?」を参照)。『世界』の本号では、アジア諸国が権威主義化していることを危惧する記事があった(柴田直治「東南アジアに広がる権威主義のドミノ」)。だが、これらの国々で進んでいるのは専制主義化であり、一歩間違えれば全体主義に陥る。日本はこれらの国々に対して、権威主義の見本を示す必要があると思う。

 繰り返しになるが、日本は多重階層社会、役割が多様化された社会であり、人々は何らかの理由によってそれぞれの役割に就いている。役割が違うのだから、当然のことながら「差」を「別ける」差別は存在する。だが、どの役割も日本の社会的秩序を維持・発展させるのに不可欠であり、固有の価値を持つ。階層の上下などを理由として、ある特定の役割に就く人々の価値を貶めることは許されない。ここで再び安岡正篤の言葉を借りよう。
 任用する者も任用せられる者も一心同体に、その目的は天下の人民を安んずることにある。その目的の実現のために才能の適不適は論ずるが、地位の高下で人間を軽重したり、労働せねばならぬから悪い、安逸だからよいのというようなことはない。いやしくも自分がその才能に適しい地位職分につけば、終身煩劇に(煩わしく忙しさに追われて)処しても労とせず(苦労と思わず)、下位微官にあっても賤しいとせず、人民もまた皆自分の身分をわきまえて、その業を勤めて、別に高位高官を欲しいと思うわけでもなければ、他の安楽そうな職業を羨むでもなく、すべて人々が相互に親しい心を以て相依り相助けていた。
 左派は差別を敵視し、まるで差がなかったかのように平等に扱おうとするが、それは土台無理な注文である。差は歴然として存在する。その事実を踏まえた上で、階層の上下を問わず、お互いの役割・職務を尊重する姿勢こそが重要である。金額のような単一の指標で各人を単純比較してはならない。歴史上滅亡した大国の特徴を分析した研究によると、滅亡の大きな理由の1つは、金銭で物事を判断するようになったことであるという。本号には、国語辞典で差別用語をどう扱うべきかという記事があり、その中で次のように書かれていた。
 「真の意味で被差別当事者の身になってかんがえることなど原理的にできない」という宿命ゆえに、「まちがいない」ことだけ収録する責任を持つ、という規範主義だ。
(ましこ・ひでのり「差別とことば―国語辞典で差別語はどうあつかうべきか」)
 これではまるで、差別の火が消えるまで国語辞典への掲載を延期すると言っているようなものである。さらに言えば、「被差別当事者の身になって考えること」を原理的に諦めているのだから、差別に対して見て見ぬふりをしている。その結果掲載される差別用語は、もはや差別用語であったことすら忘れ去られた、純化された言葉であろう。左派にとってはその方が都合がよいのかもしれない。しかし、我々は現実問題として、日本的社会の特徴から必然的に差別に直面する。その際に、差を尊重しない差別、間違った差別に対しては当事者が声を上げ、周囲がその差別を行った者を徹底批判する空間を確保することの方が大切である。
 2006年12月、第1次安倍政権の下で教育基本法が改悪された。このとき、政府は、愛国心教育推進の法的根拠とすべく、「教育の目標」条項を新設し「我が国と郷土を愛する」との文言を書き込んだ。学校教育において児童生徒に何か特定のものを無条件に愛するように指導すること、また教師にそのような指導をさせることは、児童生徒及び教師の内心の自由に対する侵害であり、人格の独立に対する脅威をもたらしかねない。
(中嶋哲彦「学びの統制と人格の支配―新設科目「公共」に注目して」)
 最後に「愛国心」について。私は、左派が愛国心教育を極度に嫌っていることが理解できない。左派は「国を愛するな、だが生活に困った時は国(の社会保障)を頼りにすべきだ」と主張しているのであり、全く賛同できない。前述の通り、我々は権力の中での自由を発揮し、国家秩序のために与えられた役割を全うする。「国家秩序のために」と思うその根底には、国を愛する気持ちがなければならない。そして、どうしても困った時には国家に助けてもらう。これであれば筋が通る。それに、愛国心といっても、日本を無条件に愛せよというわけではない。愛とは対象の美点のみを愛でることではない。それでは中国や北朝鮮の教育と同じになってしまう。対象の暗部をも直視して、それでもなお総合的に対象を大切に思う気持ちこそが真の愛である。

 2017年11月に高大連携歴史教育研究会が、高校の日本史・世界史の教科書に出てくる用語を現在の約半分にあたる1,600語程度に減らすべきだという提言を行った。記述を簡略化すると、複数の用語を同時に説明するための概念用語が多用されることになる。例えば、昭和史においては「大日本帝国」という言葉が用いられる。これでは、当時の日本がどのような政治を行っており、大衆はどのような動きを見せ、国家全体がいかにして帝国主義に走っていったのかという実態が見えにくくなってしまう。それよりも問題なのは、「日本」ではなく、「大日本帝国」という用語を使うことで、昭和の日本は日本とは別物であり、いくら批判しても構わない悪玉なのだと子どもに思わせてしまうことである。これでは本当の意味での愛国心は育たない。

 私は「道徳」や「公共」といった科目を設けなくても、「我が国と郷土を愛する」心を育むことは可能であると思う。しばしば、教育内容は価値中立的でなければならないと言われるが、そんなことは絶対にあり得ない。学習の対象が無限に存在しているという状況で、限られた学習時間の中で何を子どもに教えるかを取捨選択する時点で、価値判断が入っている。つまり、「これは日本人として重要なことだから是非知っておいてほしい」という判断から、その素材が選択されているのである。だから、愛国心や郷土愛を醸成するには、なぜその素材を学習するのかという背景に踏み込んだ授業をすればよい。特別に道徳や公共という科目を設けるまでもない。

 道徳や公共は、子どもが大切にするべき価値観のみを抽出して、それについて学習させようとする。だが、価値観だけを単独で学習するのは非常に難しい。これは、企業研修において、自社の価値観や行動規範だけを単独で学習することが難しいことを想像していただければお解りになると思う。価値観は具体的な事象とセットになって初めて理解可能となる。そして、そのようなセットは、既存の科目の中で十分に提供されている。道徳や公共を設けて既存の科目の時間を削るのではなく、既存の科目の内容充実を図った方が絶対に効果的である。

 中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられないと主張し、「連携科目としての道徳」を提案している。例えば、「生命の尊さ」を教えるのであれば、理科における植物などの観察と連携させる。観察の結果をまとめたり発表したりするのを道徳の時間に行う。

 また、国語で『万葉集』の防人の和歌を取り扱うという案も披露している。例えば「時々の花は咲けども何すれぞ母といふ花の咲き出来ずけむ」という和歌は、四季の移り変わりに応じて季節の花は咲くのに、どうして「母」という名前の花は咲かないのだろうかという意味である。こうした哀切の私情を胸に防人は公の任務に就いていく。そこには、昭和前期の「滅私奉公」とは異なる姿がある。公のために私情を捨てよと言われても、簡単に断ち切ることはできない。私情の世界を大切にしながらも、人は公の任務に向かうことがあるのだという厳粛なる人生の事実をこの歌は教えてくれる(占部賢志「連載・第47回 日本の教育を取り戻す 道徳は単独では教えられない―「知徳一体」の流れをつくろう」〔『致知』2017年6月号〕より)。こうして培われる愛国心は、前述した日本の社会的構造が国民に対して要請する精神とも合致する。

致知2017年6月号寧静致遠 致知2017年6月号

致知出版社 2017-06


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2018年05月15日

『正論』2018年6月号『安倍”悪玉”論のいかがわしさ/シリア攻撃 揺れる世界』―政治家やメディアが国民に迎合したら民主主義は終わる


正論2018年6月号正論2018年6月号

日本工業新聞社 2018-05-01

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 森友学園に対する国有地売却をめぐる財務省の決裁文書が改竄された疑いがあると朝日新聞が報じたのが3月2日である。「安倍晋三の葬儀はうちで出す」を”社是”としている朝日新聞が、本気で安倍政権を潰しにかかってきている証拠であった。しかし私は、率直に言うと、語弊があるかもしれないが「朝日新聞が余計なことをしてくれた」と感じていた。

 この問題に関しては、首相や明恵夫人の働きかけの有無が焦点であったが、1年経ってもめぼしい証拠は出てこず、野党が憶測で安倍首相を攻撃しているだけで、正直に言えば「どうでもよい問題」であった(事実、改竄前の文書によって、首相や明恵夫人の関与がないことがより明白になった)。そのどうでもよい問題をめぐるどうでもよい答弁に合わせるために、財務省が余計な忖度をして決裁文書を改竄したわけである。そして今度はこの改竄問題をことさら大きく取り上げて、麻生財務大臣の管理監督責任だの、安倍首相の任命責任だのと言い出した。この朝日新聞の報道によって、しばらくメディアと国会はこの問題一色になると容易に予測できた。

 3月5日に、韓国の文在寅大統領の特使である鄭義溶国家安全保障室長が訪朝して、北朝鮮の金正恩委員長と会談した。その会談では、4月末に南北朝鮮軍事境界線に位置する板門店の韓国側施設「平和の家」において南北首脳会談が行われることが合意された。これを受けて、ソウルへ戻った鄭義溶氏は、文在寅大統領に金正恩委員長との会談結果を報告した後、3月8日に文在寅大統領の特使としてアメリカへ渡航し、トランプ大統領に対して、「金正恩委員長がアメリカ合衆国大統領と会談したい意向がある」という金正恩委員長からのメッセージを伝えた。トランプ大統領は、「金正恩からの要請に応じよう」と答え、史上初の米朝首脳会談が実現することになった。朝鮮半島情勢は急転直下の展開を見せていた。

 北朝鮮が対話に応じる姿勢を見せてきたのは、最大限の経済制裁が効果を表したからである。北朝鮮の窓が少し開いたその隙に、日本はどうやって北朝鮮との対話を探るのか?アメリカ、韓国、それから中国やロシアといった関係諸国とどのように連携を取って北朝鮮の非核化を実現するのか?会談が破談してアメリカが北朝鮮に軍事攻撃を加えるという緊急事態が生じた場合を想定して、日本はいかなる準備をしておくべきか?さらに日本の場合は、積年の課題である拉致問題をこの機会にどう解決へと導くのか?といったことを、超党派的に大いに議論すべきであった。ようやく課題解決のスタートラインに立ち、課題解決の長いマラソンが始まるはずであった。ところが、朝日新聞の余計な横槍のせいで国会は空転し、スタートでいきなりつまずいた。金正恩委員長には、「拉致問題については周辺国があれこれ言ってくるが、肝心の日本がなぜ直接言ってこないのか?」と暴露され、安倍政権と外務省は赤っ恥をかいた。

 朝日新聞が北朝鮮問題という日本国家を揺るがしかねない問題よりも、財務省の決裁文書改竄問題という国民にとって受けがよい問題を優先した結果がこれである。しかも、朝日新聞はこうした事態を自ら招いておきながら、日本が北朝鮮問題で孤立していると呑気に批判する。
 (※朝日新聞の)ツイッターは北朝鮮の労働新聞が安倍政権を「退陣直前の状況」と評したことに触れ、「安倍政権にとって『嘘つき内閣』という非難よりも手痛いのは『退陣直前』という分析だ。国交正常化を見据え、腰を据えて交渉する相手と見なされていないのだ。米中露韓の現政権はしばらく倒れない。日本だけこんな内閣では激動の東アジア外交でますます出遅れる」(3月31日)と書いている。
(石川水穂「朝日新聞”倒閣”記者ツイッターを告発する」)
 販売部数至上主義に陥っている新聞、視聴率至上主義に陥っているテレビは、国家や国民をめぐる数多くの問題の中から、読者や視聴者が理解しやすい簡単な問題を選択する傾向が強い。野党もそういうマスコミを利用して、その簡単な問題の責任は政権にあるとすぐに騒ぎ立て、政権を打倒しようとする。マスコミは立法、司法、行政に次ぐ第4の権力、あるいは権力の監視者であるべきなのに、今や単なる野党の広告塔に成り下がっている。
 分かりやすく「手柄」を引き出そうとするパフォーマンスも、真相を煙に巻く結果をもたらした。野党議員に聞いたことがあるが、国会質疑においては、どれだけマスメディアに取り上げられるかも重要な要素らしい。それによって、党幹部から評価されて、党内での地位が上がる。とすると、翌朝の新聞の見出しを頭に思い浮かべながら「切り取りやすい一言」狙いをするという野党の戦略も出てこよう。共産党の小池晃書記局長は、この手の国会質問が非常に巧みだ。(中略)小池氏は、さしずめ、「国会の一言炎上男」だろう。
(山口真由「ピント外れの国会審議 もう1つのモリカケ問題」)
 小池氏は3月19日の参議院予算委員会で、明恵夫人の名前が決裁文書に記載された点について太田充理財局長に問いかけ、「基本的に総理夫人だからだと思う」という答弁を引き出した。その上で、「重大な発言ですよね。重大な発言ですよ。総理夫人なんですよ。まさに、国会議員以上に配慮しなきゃいけない存在なんですよ。だから決裁文書に登場してきているわけじゃないですか」と返した。そして、マスコミは小池氏のこの「重大な発言ですよ」の部分を切り取って繰り返し報じた(私はこの頃入院しており、日中よくテレビを観ていたのではっきり覚えている)。

 私が言うまでもないが、マスコミは国民にとって解りやすいイシューではなく、国民や国家にとって重要なイシューを扱うべきである。販売部数/視聴率至上主義を捨て去り、もっと大局的な視点に立たねばならない。こうしたマスコミの姿勢は、最初はなかなか国民には受け入れられないだろう。それでもなお、イシューの重要性を地道に説いて回る営業努力が必要である。真のマスコミは、赤貧に耐え、それでもなお国民や国家に奉仕する高邁な志を持った人々によって支えられるべきである。だから、本来マスコミが儲かる職業であるというのはおかしいのである。自由市場が短期的に現世代の経済的ニーズを満たす仕組みであるのに対し、民主主義とは中長期的に次世代の社会的課題を解決する制度である(「私と同じ苦しみを子ども世代に味わわせてはならない」)。マスコミはそういう民主主義の進展を促進するものでなければならない。マスコミの姿勢が変われば、マスコミに迎合して一発芸を狙う安直な政治家も減るだろう。

 それにしても、野党やマスコミは、「モリカケ問題に首相が関与している」ということにどうしてもしておきたいようである。感情に訴えて国民を扇動すると、全体主義を生む危険性がある。
 高井:権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。ナチス・ドイツのゲッベルズ宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルズ」ならば与野党を問わず誕生しかねません。
(高井康行「ジャーナリズムが民主主義を滅ぼす」)
 ただし、個人的には、国民の理性を信じて事実を訴えることが必ずしも正しいとは限らないのではないかとも思っている。仮に事実が1つであるならば、「説得」も「扇動」も1つの事実(「扇動」の場合は虚偽の事実だが)に向かって国民の感情を収斂させることになり、全体主義へとつながりかねない。「説得」の場合は”冷静な”全体主義となり、「扇動」の場合は”熱狂的な”全体主義となるという違いがあるにすぎない。この点に関して、掛谷英紀「大学政治偏向ランキング 学者の政治活動を徹底批判」という興味深い記事があった。これは、2015年の「安全保障関連法に反対する学者の会」に署名した学者の所属大学、専攻分野を分析したものである。

 掛谷氏は、「安保反対の会」に署名するような左派系の学者には理論系が多く、工学系が少ないと述べている。理論系の学者は文字通り理論を組み立てて事実を明らかにする。一方、工学系の学者は実験を繰り返して事実を明らかにする。もし安保法制が間違っているということが動かしがたい事実であるならば、理論系の学者も工学系の学者も「安保反対の会」に署名しそうなものである。ところが、工学系の学者が少ないというのは、彼らは厳密な自然科学の研究のルールに従うものの、事実が1つであるとは限らず、事実が別の実験でひっくり返ったり、事実が複数存在したりすることを認めているからではないだろうか?事実が異なれば解釈、主義主張も異なる。そして、そういう違いがあるところに政治が生まれる。
 それぞれの人々がそれぞれの正義を主張するとき、政治が生ずる。妥協、排除、暴力の行使等々あらゆる手段を講じて、自らの正義を実現しようと試みるのが政治という営みに他ならない。(中略)政治の場においていかなる正義の独占をも許さないとするのがリベラル・デモクラシーの基礎なのである。
(岩田温「あなたもバッシングされる?世にはびこる”悪玉”論の恐怖」)
 「群盲象を評す」というインド発祥の寓話がある。6人の盲人が象に触って、それが何だと思うかと王から問われた。足を触った盲人は「柱のようです」と答え、尾を触った盲人は「綱のようです」と答え、鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答え、耳を触った盲人は「扇のようです」と答え、腹を触った盲人は「壁のようです」と答え、牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は、「皆正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方が象の異なる部分を触っているからだ。象はあなた方の言う特徴を全て備えている」と答えた、という話である(以上はジャイナ教の寓話に拠った)。政治はこれと似ている。ある人はAと言い、別の人はBと言い、また別の人はCと言う。それぞれの主張の長所を斟酌しながら、より高次の包括的な新しい知を創造するのが政治的な営みである。「AはAだ。A以外は認めない」では政治にならない。

 左派は自由を掲げながら、「反体制、親中、親北朝鮮」で凝り固まっていることを私はしばしば本ブログで批判してきた。この考えが行き過ぎると全体主義に陥る。だが、右派は逆に「反中、反韓、反北朝鮮」で凝り固まっており、これも行き過ぎれば全体主義になる。極右と極左は同根異種であると、以前の記事「『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他」でも書いた。極左は、国家という枠組みを取り払い、民族などの表面的な違いを無視して、全世界の人々は本質的に同じであると説く。一方、極右は日本こそが絶対善であり、異質を排除して全世界を日本化しようとする。極左と極右は一見すると正反対であるようだが、どちらも世界をモノトーンで見ている点では実は共通している。右派にも反省すべき点がある。

 3月以降、朝日新聞の全体主義的な「『安倍政権=悪』キャンペーン」が展開されたが、以前に比べると国民は賢明になったと思う。内閣支持率が30%台まで”しか”下がらなかったのがその証左である(内閣支持率は底を打ったとの見方もある)。これが森喜朗首相の時代であれば、一発で内閣支持率が一桁台まで落ち込んでいたことだろう。国民の中には、森友学園問題(と加計学園問題)が大した問題ではないと考える人が増えている。ただ、だからと言って、国民主権を頼りにし、国民の力に完全に依拠して政治を展開するのは難しいと感じる。

 インターネットが普及した時代であるから、例えばネット上に政治空間を作り、国民が自由にイシューを発案して、他の大勢の国民が議論のフィールドに参加しながら必要な法律や施策、規制などを策定していく民主主義も原理的には可能である。だが、発案されるイシューは膨大になり、優先順位をどうつけるかが問題となる。おそらく議論フィールドへのアクセス数、フィールドに参加している国民の数などでランキングが作成されるだろう。だが、ランキングを作成した時点で人気投票と化し、国民は近視眼に陥る。また、たとえ政治空間で実名性が担保されたとしても、炎上、暴言、脅迫が日常茶飯事となり、収拾がつかなくなるに違いない。前述の通り、しばしば政治家は視野狭窄に陥り国会を空転させ、行政は保身に走り余計なことをするが、国民がもっと利己的になり、罵詈雑言の類で議論フィールドを混乱させるよりかは幾分ましである。

 だから、現在の立法府や行政府は最善ではないが最悪でもないのである。その両権力を、中長期的な視点、将来の世代の視点、社会的な善の視点から監視する役割をマスコミには期待したいし、政治家(特に野党)はそういうマスコミを上手に利用して国民を啓発してほしい。



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