このカテゴリの記事
頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう
熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

お問い合わせ
お問い合わせ
アンケート
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」資格スクエア
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
アクセスカウンター(PV)
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:


Top > 人生 アーカイブ
2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した

このエントリーをはてなブックマークに追加
道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

Amazonで詳しく見る by G-Tools
 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。

2017年05月19日

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう

このエントリーをはてなブックマークに追加
イスラーム哲学の原像 (岩波新書)イスラーム哲学の原像 (岩波新書)
井筒 俊彦

岩波書店 1980-05-20

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 イスラームの神秘主義と哲学の接点を探った1冊。元々、神秘主義は哲学としての新プラトン主義と接触していた。また、イスラームで哲学といえばアリストテレス哲学のことであるが、イスラームにおけるアリストテレス哲学は神秘主義としての新プラトン主義と接触していた。両者を統合したのがイブン・アラビーであり、彼の考えは「イルファーン(神秘主義的哲学)」と呼ばれる。

 まず、神秘主義についてだが、イスラームでは魂を5段階の逆さピラミッドでとらえる。一番上、すなわち意識の表面は、心の感性的、感覚的機能の場である。この層は自我に対してやたらと勝手な命令を下す暴力的な部分である。その次の層は、非難がましい魂である。非難がましいと言っても単に口うるさいわけではなく、物事の善悪、美醜を判断し、自らや他人の悪を批判、非難、糾弾する倫理的、理性的な働きをする。ここまでは、魂が激しく動揺している層である。

 第3層になると、感性、理性の動揺がすっかり収まり、心が浄化されて、この世のものならぬ静けさのうちに安らいだ状態となる。さらに第4層に進むと、魂は完全に聖なる領域、神的世界に入る。最後の第5層は、日常的意識にとっては全く閉ざされた不可思議な世界、闇のまた闇、玄のまた玄の世界である。神秘主義の立場からすれば、直前の第4層の光よりもっと純粋で強烈な光なのだが、この光が日常的認識の目には限りなく深い、恐ろしい暗黒として映る。

 意識の最深部においては、神と人間が同じレベルに立つ。しかも、神に人間が従うという上下関係ではなく、神と人間は対等の立場に立って対話を行う。この時の人間は「神顕的われ」と呼ばれる。さらに意識が深いレベルに到達すると、人間の自我意識は完全に払拭され、神と人間の境界線は消滅する。代わりに、「我こそは神」、「我こそは絶対者」であると宣言する。「神顕的われ」は「神的われ」へと変化する。「われ」という名前はついているが、実際には我も世界もなく、主体、客体を含めて全存在界が無化される。その無が逆にそのまま全存在界の有の源として、すなわち、全存在界出発のゼロ・ポイントとして新たに自覚される。こうして、絶対的無を経た後で、有の究極的充実として新たに「われ」が成立する。

 人間と神の境界が消滅し、人間が絶対無であると同時に絶対有となると聞くと、私はどうしても全体主義を想起して戦慄せざるを得ない。詳しくは以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたが、全体主義の前提は、人間の理性と神の唯一絶対性を同一視することにある。全ての人間は唯一絶対の神に等しく創造されたわけだから、生まれながらにして皆同一であり、既に完成している。皆同一であるため、財産の私有という概念は生じず、全ての財産は共有となる。また、全員の意見や考えが等しく正しいという点で、究極の民主主義が成立すると同時に、独裁とも両立する。ナチスは私有財産を禁止し、ヒトラーという独裁者を生み出した。

 人間は生まれながらにして完成しているから、人間が後から手を加えることは不浄である。よって、教育が否定される。ただし、現実問題として、生まれてからそれほど年数が経っていない人間にできることは、農業のようなプリミティブな生産活動に限定される。そこで、独裁的な共産主義者は、知識層を放逐し、人々を参集的な農業活動に投入する。ここに、原始共産制、農業共産制が成立する。ソ連のコルホーズ、中国の大躍進政策が目指したのはまさにこれである。

 唯一絶対の神は生まれた瞬間に絶対有となるので、その寿命は永遠であると同時に、時間の流れを否定する。神が生まれた現在という一瞬の点が、全ての時間を支配する。一方で、人間がいくら神と同じ絶対性を有すると言っても、現実の人間には寿命がある。つまり、時間の流れを肯定してしまう。よって、人間は早く死ぬことが奨励される。そして、無に帰した人間は、再び有を生み出す源泉となる。人間は、有という1点の周りに無という円周を持っており、無から有を生み出し、わずかな期間だけ生きた後に無となり、円周をぐるりと回って再び有を生み出す。一瞬だけ有となる人間は、現在という1点において永遠に革命を目指す。こうして、人間も神と同じく、絶対無であると同時に絶対有となる。ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である。

 続いて、イブン・アラビーの哲学に話を移そう。イブン・アラビーの哲学は存在に関する哲学である。彼はここでも、ピラミッドを持ち出す。ただし、神秘主義の時に描いた逆さまのピラミッドとは異なり、今度は普通の形をした3階層のピラミッドである。最下層は、我々が現実世界の様々なものを認識する層である。その上の層では神が現れる。そして、次の点が非常に特徴的なのだが、一番上の層には、神以前の世界があると言う。我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くというのが、イブン・アラビーの主張である。

 我々は、表層意識においては「花が存在する」、「石が存在する」などといった表現をする。これが深層意識になると、「存在が存在する」という命題に変化する。存在が存在するのであって、他の何かが存在するのではない。別の言い方をすると、他の何物も、本当の意味では存在しない。こうして、存在界の一切が無に帰して、その無の暗闇の底から形而上的普遍者としての存在リアリティの光が輝きだす。そして今度は、その形而上的存在の照り映える光の中で、一旦無に帰したものが、改めてそれぞれのものとして存在的によみがえってくる。具体的には、「存在が花する」、「存在が石する」という形で認識される。これが、我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くという言葉の意味である。
 
 先ほどのピラミッドにあてはめてみると、第1層においては存在界の一切が無に帰している。どんな言葉でも表現できない「秘密」の領域である。第2層に下りてくると神が出現する。つまり、無がこれから有に向かって展開し始めようとする。ただし、まだ未発、無分節であるから、それ自体は依然として無である。これを「絶対一者」と呼ぶ。ここから最下層に下りると、絶対一者の無の中から多様な存在が出現する。この時、「絶対一者」は「統合的一者」となる。これから万物となって四方八方に拡散していく直前の一、逆に見れば、ありとあらゆるものを渾然と一つにまとめた一という意味である。イブン・アラビーは、この統合的一者がアッラーであると指摘する。

 アッラーは絶対的に一でありながら、その中に多様性を包摂している。そして、その多様性が、現実世界の様々な事物に転写される。こういう意味だろう。ただ、繰り返しになるが、唯一絶対の神に根源を求める考え方は、私の中でどうしても全体主義につながってしまう。それに、多様性と言いつつ、実際には神の唯一絶対性を宿した、つまり神と全く同一の事物が多数存在していることに他ならない。そして、それらはバラバラに存在しているようで、同時に一である。

 丸山眞男は『日本の思想』の中で、欧米の思想を「ササラ型」、日本の思想を「タコツボ型」と表現した。ササラとは、竹や細い木などを束ねて作製される道具のことである。欧米の思想は、専門分野が事細かく分かれている。専門分野が異なれば、隣接する分野であってもその内容を理解することは難しい。ところが、それぞれの専門分野の元をたどると、ある共通点に行き着く。欧米の多くの研究の出発点は、キリスト教とギリシア哲学である。そこから多種多様な研究が発展した様子が、ちょうどササラの形に似ていることから、丸山はササラ型という名前をつけた。

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
丸山 真男

岩波書店 1961-11-20

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 ササラの末端において、局所的に何かしらの変化が起きると、それがササラの元へと吸い上げられ、そこから他のササラの末端に波及していく。こうして、欧米では専門分野がバラバラでありながら、ある分野で新しい発見があると、それが欧米の研究全体に影響を及ぼし、総合的に研究が進歩する仕組みができ上がっているというのが丸山の指摘である。全体主義は究極のササラ型であろう。竹を束ねている部分と、ササラの末端が全く同じであるのが全体主義である。

 一方、日本の研究は「タコツボ型」であると丸山は言う。日本は欧米や中国から様々な研究を輸入して独自に加工した結果、それぞれの分野がめいめい勝手に研究を発展させ、タコツボ化している。ある分野で何か新しい発見があっても、ササラ型のようにそれを他の分野に波及させる仕組みを持たない。よって、ある分野での発見の影響は、その分野の内部にとどまってしまう。こうして、さらにタコツボ化が進むという悪循環に陥る。日本人の研究者は、他の研究分野の中身を理解する努力が足りないとも丸山は述べている。

 ただ、私は丸山の主張は極端であると感じる。確かに、ササラ型には上記のような利点がある。だが、逆に言えば、ササラ型の最大の弱点は、ササラの末端の一部が攻撃されると、その影響が全体にも及ぶことである。特に、竹を束ねている部分を攻められたら一巻の終わりである。全体主義においては、竹を束ねる部分もササラの末端も等しいから、どこを攻撃されてもその影響がすぐさま全体に波及する。全体主義は意外と外部からの圧力に弱い。

 一方、タコツボ型は見方を変えればメリットが見えてくる。タコツボ型と言う場合、たくさんのタコツボの中に1匹ずつタコが入っている様子をイメージするが、ここでは1つのタコツボの中にたくさんの縄が入っている様子を思い浮かべていただきたい。1つのタコツボがそのまま日本の社会を表しているとする。本ブログで何度も書いている、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層社会である。タコツボの首の部分が天皇に該当する。首から上に向かって口が開いている部分は神を表す。和辻哲郎が指摘したように、日本では神の世界も多重化しており、究極の原点が見えない。タコツボの首から下の部分が、世俗的な世界にあたる。ある特定の縄が攻撃されても、ダメージを受けるのはその縄だけであり、他の縄には影響しない。つまり、多様性を確保することができる。これが日本社会の長所である。

ササラ型とタコツボ型
 (図にするとこんな感じ。雑な図で申し訳ない)

 もちろん、前述の比喩でも、天皇が攻撃されたら日本の多様性が死滅するのではないかという疑問は生じる。また、右派は天皇が日本社会の多様性を担保していると主張するが、天皇はお一人しかいらっしゃらないにもかかわらず、なぜ多様性が保たれるのかという問題もある。こうした点に対する答えを探究することが、今後の私の課題である。

2017年03月22日

熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

このエントリーをはてなブックマークに追加
メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2005-09

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 哲学には大きく分けると2つの立場があると理解している。1つは、客観的な知を探求する立場で、彼らは厳密な言葉で世界を還元しようとする。もう1つの立場は、「私」の「身体性」を重視し、身体や身体による行為を通じて表象される知とは何かを考察する。メルロ=ポンティは後者に属する哲学者である。後者の哲学者は、「私」が見たまま、感じたままの世界に直接触れ、言葉を紡ぎ出す。この点で哲学者は詩人と同じなのではないか?というのが本書の問題提起である。

 メルロ=ポンティは、身体を通じた意味の生成について、次のように論じている。我々が普段動かしているのは客観的身体ではなく、「現象的身体」である。現象的身体は、客観的身体ではとらえられないような感覚をつかむことがある。その一例が「幻影肢」と呼ばれる事象である。不慮の事故などによって手足を切断された人は、手足の先に痛みやかゆみを感じることがあるそうだ。客観的身体は失われているのに、意識が働く。これが現象的身体の特徴である。

 意識とは、「私は○○と考える」ではなく、「私はできる」という意味であるとメルロ=ポンティは言う。幻影肢の例で言えば、意識は、手足が欠けているにもかかわらず、手足の痛みをかばったり、手足のかゆみを解消したりしようとする。この時、現象的身体は自らを表象する必要はない。換言すれば、自分には手足が欠けているとか、手足に痛みやかゆみが生じているといったことをいちいち考える前に、手足の痛みやかゆみをカバーする。現象的身体は、身体の物理的な限界を超えて、直ちに意味を生成する。だから、我々は身振り手振りによって、身体の物理的な運動以上の意味を表現することが可能である。

 身体が表象を必要とせずに意味を発するという点は、言葉に関しても同じである。我々が日常生活の中で何かしらの言葉を発する時、わざわざ単語や文節に分解して表象するわけではない。言葉が口に出されたその瞬間に、我々は既に何かを語ってしまっている。つまり、意味が生成されている。現象的身体が内部に意味を有し、それを発露するのと同様に、言葉もまた内部に意味を有し、それを発露する。ここまでは私も何とか理解できる。問題はここからである。

 メルロ=ポンティによれば、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。本書で紹介されている例を単純化して説明すると次のようになる。ある時、私は森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。ところが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木なのだろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、私にとって枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常であれば、私が最初難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、それと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている。

 以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」の最後で、対象に向かって知覚の志向性が伸びていると書いた後、実は門脇氏が「私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある」と述べていることに触れた。信念が外部の世界の下にあるという同時性は、外の世界が既に意味を内包しているというメルロ=ポンティの主張に通じるところがあるような気がする。ただ、依然として、外の世界があらかじめ意味を内包しているとはどういうことか?しかも、その意味は決して客観的ではなく、知覚する1人1人の人間によって異なるとはどういうことなのか?という疑問は残る。

 特に、外の世界が全体としてあらかじめ意味を内包しており、それを部分に再配分するという点は、通常の我々の理解からは遠く離れているように感じる。ところが、そういう意味が存在することを示唆する事例があることをメルロ=ポンティは紹介している。それが「シュナイダー症例」というものである。シュナイダーは視覚の障害を持っており、色や形態、文字の認識に問題を抱えていた。だが、シュナイダーにはそれ以上に注目すべき徴候があった。

 シュナイダーは、鼻の先に蚊が止まれば手で払いのけることができたし、鼻をかむときにはポケットからハンカチを取り出すこともできた。ところが、目を閉じたまま鼻を指すように命じられてもそれができない。また、コップの水を飲むことは自然にできるのに、空のコップで水を飲む真似をすることは、シュナイダーにとって非常に難しい課題であった。つまり、シュナイダーは生活の中で具体的な意味を持つ身体行動は難なく遂行できる一方で、生活にとって意味を持たない抽象的な振る舞いをすることができないのである。シュナイダーには現象的身体が発する意味はあっても、外界が持つ意味を理解する能力が欠けている。

 シュナイダーにとって世界は単なる「もの」でしかない。だから、シュナイダーが世界を理解するには、世界を構成する断片的な意味をつなぎ合わせるしかない。シュナイダーは実際、物語のメロディー的な統一をとらえ、物語のリズムやテンポを理解すること、つまり物語を物語として理解することに困難を示した。このことから、健全な人間は、外界を構成する要素を分解し、それぞれに人間の側から意味を与え連合させるのではなく、外界そのものが既に有している全体的な意味、時に応じて部分に対し再配分される意味を受け取るのが通常なのだということが言える。

 以上をまとめると、意味には2種類ある。まずは、現象的身体が発する意味である。もう1つは、外界が包摂している意味である。そして、両者の交流によって新たな意味が創造される。「感覚する者」と「感覚されるもの」の相互的な交換によって意味が生じる。

 さて、本書の問題提起は、「哲学者は詩人でありうるか?」というものであった。詩人は現在を永遠のものとして語る。詩人が知覚している世界を、ありのままに言葉で表現する。ところが、哲学者にはそれができない。というのも、哲学者は反省する存在であるからだ。しかも、反省に先立つものに立ち戻って反省をしなければならないという矛盾を抱えている。哲学者は何とか現在をつかまえて、現在を反省しようとする。ところが、時間の流れが現在の拿捕を困難にする限り、哲学者は現在を考察することができない。よって、哲学者は詩人たることができないというのがメルロ=ポンティの答えである。それでもなお彼は、世界とその経験を現在において言いあてる語を探しあぐねる、詩人の辛苦を引き受けようとしていたのであった。


  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like