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『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京から実家のある岐阜市にUターンした中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。双極性障害Ⅱ型を公表しながら仕事をしているのは、「双極性障害(精神障害)の人=仕事ができない、そのくせ扱いが難しい」という世間の印象を覆したいため。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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2018年10月12日

『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる


致知2018年11月号自己を丹誠する 致知2018年11月号

致知出版社 2018-10


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools

 双極性障害とは、簡単に言えば躁状態(睡眠時間が極端に短い日が続いても平気、派手に散財をする、周囲の人を大声で罵倒する、「私は王様だ」といった誇大な妄想をするなど、極端にハイテンションな状態)とうつ状態が交互に訪れる精神疾患であり(※)、うつ状態では「死にたい」、「自殺したい」という気持ちが強くなることがある。これを希死念慮と呼ぶ。

 (※)もう少し詳しく言うと、躁状態とうつ状態が明確に交互に現れるⅠ型と、軽躁状態が現れるのみで大半の期間はうつ状態が続くⅡ型という2種類がある。私の場合は一応Ⅱ型に該当すると診断されているのだが、はっきりとした軽躁状態がなく、常に抑うつ状態でかつ強いイライラを感じていながらも仕事はこなせる反面、疲れやすく仕事が終わると死んだように寝ているという状態で、医師は混合状態と呼んでいる。しかし、インターネットで調べてみると、混合状態が見られる場合はⅠ型と診断すると書かれているページが多く、私にはどう判断すればよいかよく解らない。また、私以外にも、双極性障害の定義に当てはまらない症状の患者が増えているそうで、最近では「双極スペクトラム」という言葉が使われ始めている。

 私も闘病生活10年間の間に、何度も希死念慮に悩まされてきた。朝起きて「今日は遺書を書こうかな」と思うことはしょっちゅうあった。だが、私が弾劾したい人物の名前を1人ずつ遺書に列記したところで、私が死んだ後に彼らの反応を確かめることはできない。また、私が弾劾したい人物というのはたいてい神経が図太い人間たちであって、図太いがゆえに平気で他人を傷つけることができるのだと思うと、遺書を書いたところで大した効き目もないに違いないという結論に至り、遺書を書くのを断念するのであった。遺書を書かずにさっさと死のうと、地下鉄のホームで列車が最初に突入してくる箇所に長時間立って自殺のタイミングを計っていたこともあるし、近所をうろついては飛び降り自殺に適したマンションがないか物色したこともあった。

 ネットで自殺の方法を調べたこともある。だが、100%完璧に自殺できる方法を紹介しているページなどない。なぜなら、当たり前のことだが、自殺に成功した人はネットに情報を上げることができないからだ。自殺について調べれば調べるほど、目につくのは自殺に失敗して、以前にも増して惨めな人生を送ることになってしまった人たちであった。オーバードーズしたが、病院で無理やり胃洗浄をさせられた上、薬の副作用で長期間苦しんだ人、マンションから飛び降りたが死ぬことができず、半身不随になって働けなくなったのに、運悪く不随になった箇所が障害年金の対象外であり、生活が破綻してしまった人、賃貸住宅で自殺未遂をした結果、事故物件扱いされて家主から多額の損害賠償請求をされ、自己破産に追い込まれた人などである。結局、誰にも迷惑をかけることなく、100%の確率で死ぬことができる自殺というのはない。

 だから私は、「寿命は神々が設定したものであり、人によってバラバラであるが、寿命を全うすることが神々との約束を守ることである。神々の世界には日本民族の集合意識があって、人間が生まれる時は神々が肉体を貸し与えると同時に、集合意識の一部を魂として肉体に授ける。逆に、人間が死ぬ時とは、神々があらかじめ設定した寿命が訪れた時であり、その時に神々はお迎えにやって来て肉体と精神を回収し、その人が一生涯をかけて磨き上げてきた精神を集合意識に統合する。こうして、日本民族の精神は全体として徐々に発展していく。

 ところが、人間が勝手に自殺してしまうと、神々はその人の精神を回収する機会を失う。ということは、その人は日本民族の集合意識の向上に何ら寄与しないことになる。だから、自殺は悪である」などといったことを以前の記事「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」や「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」で書いた。これらの記事の内容はまだまだ稚拙でお恥ずかしい限りなのだが、私自身が自殺しないように一生懸命に予防線を張っているという側面もあるとご理解いただければありがたい。

 自殺する人は、もうこれ以上の苦しみを味わいたくないと思っていることが多いだろう。では、死ねば苦しみは本当に消えるのだろうか。本号には、14歳の時から20年以上原因不明の体調不良に悩まされるも、発酵食品に出会ったことで病を完治したという発酵生活研究家・栗生隆子氏の体験が紹介されていた。やや長いが引用する。
 生きるのにもエネルギーが必要ですが、死もまた生と同じくらいのエネルギーであると感じました。生と死は現れが違うだけで同じエネルギーだと思った時、どちらの選択もできないと感じ、今までの価値観、思考が崩れました。そして、いまでも理由は分かりませんが、生と死という両極端の方向から途轍もない力で引っ張られ、その瞬間、意識だけがポンッと時空間に飛んでしまった感覚になりました。

 それは臨死体験とは少し異なり、意識だけが鮮明にある奇妙な空間でした。自分の姿も景色も光も闇も何も見えません。しかし、思考は鮮明にあるので、「これが死んだ後の世界だ」と感じたのを覚えています。そこで私は”苦しみ”の塊のようなものを持っていました。それまで「死んだら楽になれる」と考えていたのに、意識だけの状態になっても、苦しみはしっかりとあったのです。

 その空間ではなぜか時間軸を変更でき、意識だけが飛んでいける設定になっていました。私は苦しみを軽減したい一心で、試しに1年後に飛んでみました。しかし、苦しみはそのまま。3年、5年、10年と未来に行ってもその苦しみは変わらず、100年後に飛んでもなくなりませんでした。「100年も経てば人の一生は終わるのに、それでも苦しみが取れないというのはどういうこと?」と衝撃を受け、私はやけになって、痛みが取れるまで未来に進んでみることにしたのです。

 200年後、1000年後、1万年後へ行き、最後に2万5千年後まで行ったところでようやく気づきました。「時間という概念はなく、よって苦しみはなくならない。この病気の肉体で喜怒哀楽を体験することに意味があるのだ。五感は肉体がある時にしか知ることはできない」と。そして「帰ろう」と鮮明に思ったのです。
(栗生隆子「発酵食品に生かされたこの命」)
 死んでも苦しみは消えない。これは寿命を迎えて死んだ場合でも同様である。多くの人は、ガンなどの大病を患って死んでいく。「人生の最後になぜこんな苦しみを味わわなければならないのか?」と憤る人もいるだろう。だが、人々は大病に直面して人生の残りが少ないことを思い知らされた時に、自分の人生とは一体何だったのか?力の限り生きてきたか?周りの人たちにどのような貢献をしてきたか?彼らをないがしろにしてはこなかったか?と振り返り、力の限り生きてきたとは言えないならば、あるいは彼らをないがしろにしたことがあったかもしれないならば、せめて残りの人生は後悔のないものにしようと決意することだろう。そして、その人が人生の最後を精神の鍛錬の総決算にあてることを神々は期待しているのである。

 その人が寿命を迎えた時、神々はその人の精神と苦しみを一緒に持ち帰り、集合意識に統合する。だから、苦しみは死んでも消えないのである。さらに言えば、その集合意識から新たな生命が誕生する時、苦しみも一緒に分け与えられるから、人間というのは初めから、一生のうちで大なり小なり、何らかの苦しみに直面する運命を背負わされていることになる。新たに生まれてくる人間にとっては、自分の意思とは無関係に苦しみを運命づけられているわけだから、迷惑な話かもしれない。だが、ここで次のように見方を変えてはどうだろうか?

 京セラの創業者である稲盛和夫氏は、人工関節が事業化した頃、ある病院から特殊形状の人工関節を作ってほしいと懇願された。その形の人工関節を製造するには厚生省(当時)の許認可が必要だったのだが、病院側は一刻も早くその人工関節がほしいと言う。病院の熱意にほだされた稲盛氏は、顧客のニーズを優先するという経営方針もあり、厚生省の許認可なしに人工関節を製造して病院に納品した。患者からも非常に喜ばれた。しかし、これに黙っていなかったのがマスコミである。週刊誌は、「京セラは、厚生省の許認可も取らずに人工関節を作ってぼろ儲けしている劣悪な企業だ」とこぞって書き立てた。これに心を痛めた稲盛氏は指導を受けていた京都・円福寺の西片擔雪老大師を訪れた。すると、老大師は次のように話した。
 前世か現世か知らないけれども、それは過去にあなたが積んできた業が、今結果となって出てきたものです。たしかに今は災難に遭われ、たいへんかもしれません。しかし、あなたがつくった業が結果となって出てきたということは、その業が消えたことになります。業が消えたのだから、考えようによっては嬉しいことではありませんか。命がなくなるようなことであれば困りますが、新聞雑誌に悪く書かれた程度で済むなら、嬉しいことではありませんか。むしろお祝いすべきです。
考え方~人生・仕事の結果が変わる考え方―人生・仕事の結果が変わる
稲盛 和夫

大和書房 2017-03-23

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 苦しみに直面するとは、前世の業が発露したということであり、その時点でその業は消えるというわけである。ブログ別館の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」ではここで話が終わっているのだが、よくよく考えてみると、過去の人が生涯をかけて格闘した結果残った業が、新しい人に引き継がれた途端に、それが発露すれば自然と消えるというのはちょっと都合がよすぎる気がしてきた。過去の業が消えるのではなく、「過去の業を消すチャンスがめぐってきた」ととらえるのが適切であるように思える。そして、過去の業を消す=苦しみを緩和するには、「絶対他力」が必要になる。

 絶対他力とは、阿弥陀如来の本願に拠るという方法以外には極楽往生を果たすことはできないという仏教思想のことである。本号には以下のような記述があった。
 奥野:確かに、自分が愚かだと自覚すれば、もう阿弥陀様にお任せするしかないでしょうね。
 伊藤:浄土教では往生する時に「参る」という言葉を使います。弥陀の本願に支えられて弥陀の国土へと参らせてもらうのだと。自分の力で往くという自力の心を捨て、他力、すなわち弥陀の本願に乗って往生する。
(伊藤唯眞、奥野滋子「この生をいかに全うするか」)
 通常、絶対他力と言えば、念仏を一心に唱えさえすれば、阿弥陀如来が極楽浄土へと導いてくれることを意味する。だが、私は次のように解釈している。仏教は死後の世界を扱う仏教であり、本来は人間が死んだら仏になるとされる。しかし、実際には、生身の人間1人1人の心の中にも仏はいらっしゃる。そして、全ての仏の頂点に立つのが阿弥陀如来である。仏教を開き、自ら仏になった釈迦にとっても、阿弥陀如来は師匠にあたる。通常の仏教の解釈では、阿弥陀如来はこの世とは異なる極楽浄土にいらっしゃるとされるが、私は、1人1人の心に宿る仏の背後に阿弥陀如来がおわしますのではないかと考える。阿弥陀如来は時間的にも空間的にも無限な存在であるから、多くの人々の心の中に、時間の枠を超えて存在することが可能である。

 だから、過去の業が発露した人、苦しみに直面している人は、他者、とりわけ自分に近い他者のためになお一層奉仕する。南無阿弥陀仏は自分のためではなく、他者のために唱える。すると、その他者の心の深層に鎮座されている阿弥陀如来から救いを受けられるかもしれない。阿弥陀如来に導かれる時、過去の業、苦しみは1つ消える。他者の心の根底に存在する阿弥陀如来を頼む。これが絶対他力だと私は考える。絶対他力は、他力本願と誤解されることがある。しかし、実際には他者と深く強く交わるという厳しい実践が要求される(なお、苦しみを受けている当の本人の心にも仏がいらっしゃり、その背後に阿弥陀如来がおわしますわけだから、自分に尽くすことで阿弥陀如来の救いを引き出すことも可能ではないかという意見もあるだろう。しかし、それは自分の苦しみを自己愛で償うことになるから、救いにはならない)。

 仏教は因果の宗教とも言われる。「私が今苦しんでいるのは、前世が悪人であったからだ」などが典型的な因果の発想である。しかし、絶対他力に従えば、因果を変えることも可能である。作家の五木寛之氏もそのようなことを述べている。
 立松(和平)さんは言っていた。仏教は因果を説く宗教ではない。明日は良くなる、と信じて今日を生きる道だ、と。(中略)今日の行動や生き方は、明日を変える。諦めるのではなく、より良い明日のために今日を精一杯生きよう、というのが正しい因果の思想ではあるまいか。
(五木寛之「【第11回】忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉 ”仏教は因果を変える宗教である。”―立松和平」)
 因果と言うと思い出すのが、随分前の記事「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―『陰隲録』の「袁了凡の教え」」、「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―私は、社会が私を発見してくれるのを待っている」で取り上げた「袁了凡の教え」である。詳細はリンク先に譲るが、簡単に言うと次の通りである。袁了凡が孔某という老人から、自分の人生を予言された。老人の予言は恐ろしいほどにぴたりと的中した。ある時、南京付近の寺に滞在していたところ、雲谷という禅師から、「あなたは年齢以上に落ち着いて見えるがどういうわけか?」と尋ねられた。そこで、昔、老人から人生を予言された後、あまりにもその後の人生が予言通りになるので、波風を立てないように生きていると答えた。すると、禅師は「自分の人生を他人の予言に委ねるとは何と薄弱な人間だ」と激怒した。それ以来、自分の意思をはっきりと持つようになったら、子どもは産まれないと言われたのに子どもに恵まれたり、何歳までしか生きられないと言われたのにそれ以上に生き延びたりと、予言とは異なることが次々と起こるようになった、という話である。

 この「袁了凡の教え」の解釈は難しくて、4年前に前掲の記事を書いた時は、人間とは他者のために生きるのだから、他者の意見に素直に従えばよいのではないかと袁了凡を擁護した。とりわけ、日本は多重階層社会であり(この多重階層社会の内部がどんな構造になっており、どのようにして形成されたのかを明らかにすることは私の人生における大仕事の1つである)、出自に応じて社会の中での役割がある程度決まる。いくら現代は自由・平等が普遍的価値観とされる時代であると言っても、生まれた環境、具体的には出身地、両親の学歴、年収、職業、離婚歴の有無、兄弟関係などの要因がその人の地位を決定する割合は他国よりも高いと思われる(多分、この手のデータは格差社会などの研究から容易に見つけ出せると思う)。そして、一旦多重階層社会に埋め込まれると、上の階層、つまり他者のために尽くすことが求められる。

 これは一言で言えば「滅私」の心である。だが、あれから5年経って、滅私の心だけでは不十分だと思い知らされた。今年7月の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」で書いた通り、「滅私」だけでは他者に搾取されるばかりである。極悪人は見た目で解るから避けることができる。本当に恐ろしいのは、善人面した普通の人によって、何の悪意もなく搾取されることである。滅私は利他心とはイコールではない。滅私には文字通り私が存在しないが、利他心は利己心とセットでなければならない。ここで言う利己心とは、「あなたをこれだけ助けてあげたのだから、私にはこれだけの儲けをくれ」といった世俗的なものではない。利己心とは意思である。自分が真に助けたいのはどのような人なのか、自分が真にこの社会に生きてほしいと思うのはどのような人なのかに関する信念である。袁了凡が人生を変えたのは、こうした利己心を手に入れたからだと考える。

 この信念は、マーケティングにおけるターゲティングとは異なる。ターゲティングとは、市場をセグメンテーションし、どのセグメントの顧客を狙うかを決めることである。ターゲティングが有効であるための第一条件は、そのターゲットによって自社が十分な利益を得られることである。つまり、典型的な利己心に基づいている。しかし、私がここで言う信念や意思に基づく利己心を貫くには、逆説的だが倫理、道徳、社会、公共に通じていなければならない。「人間とはかくあれかし」、「その人間が集まる社会とはかくあれかし」という希望である。だから、適当な名前が思いつかないが、ひとまず”利他的”利己心とでも呼ぶのが適切かもしれない。

 前述の通り、人間は神々によって過去の業を負ったまま生まれてくる。さらに言えば、唯一絶対、完全無欠の神ではない不完全な神々が創造した日本人は何かしらの欠陥を持っている。それが原因で、人は生きている間に新たな問題を生み出してしまう。だから、誰しも必ず人生の中で何らかの苦難に直面する。そうした業や問題と対峙しない人は、不幸な人生を送るだけだろう。他方、信念と意思に支えられた利己心と、それとセットになった利他心によって他者貢献をする人は、その苦しみを1つずつ乗り越えることができる。

 今年の3月に閉鎖病棟に入院していた時、月間PHPに萩本欽一氏が「喜びと苦しみは半分ずつ」といった内容の文章を寄稿していた。だが、私は、苦しみを乗り越えた人は苦しみ以上の喜びを手にすることができると思う。喜びと苦しみが常に等しければ、誰も人生において大きな仕事をしようとはしなくなるだろう。苦しみ以上の喜びが得られるからこそ、人は困難に挑戦しようと思うものである。そういう人であっても、前世からの業や、自分が現世で新たに生み出した問題の全てを一生のうちに解決することはできない。その人が死亡すれば、精神は集合意識に回収されて、残された業や問題は次世代に先送りされる。だが、その人が成し遂げた偉業が集合意識の質的充実に大きく貢献し、総合的に見て集合意識を大きく前進させる。


2018年10月08日

【激怒】岐阜市の自立支援医療の手続きがあまりにお粗末だったので晒しておく


役所の手続き

 本ブログでも告白しているように、私は双極性障害Ⅱ型という精神疾患を10年患っている。双極性障害に限らず、一般に精神疾患は完治(または寛解)するまでに通常の疾病よりも長い時間がかかる。また、精神疾患の治療に用いられる薬の薬価は、一般の薬よりも高いことが多い。精神疾患は他の疾病に比べると原因がはっきりしておらず、製薬会社が「これが原因だろう」、「あれが原因だろう」とあれこれ仮説を立てて次々に新薬を開発・販売するためである。

 精神疾患の患者は、だいたい月1回のペースでかかりつけ医に行き、薬局で1か月分の薬を処方してもらうのだが、薬の種類・数によっては1か月分で3万円ほどになることも珍しくない。通常の医療保険に従って3割負担になるとしても9,000円である。これが毎月、毎年続くとなると、患者の負担は相当重くなる。そこで、患者の負担を軽減するために導入されているのが「自立支援医療(精神通院)」である。自立支援医療の適用を受ければ、患者の負担は原則として3割から1割になる。9,000円の自己負担は3,000円になる。これは患者にとって非常にありがたい。私もこの制度のおかげで随分助かっており、感謝している。

 《自立支援医療(精神通院)について詳しく知りたい方はこちらを参照》
 自立支援医療 |厚生労働省
 自立支援医療(精神通院医療)|Wikipedia
 自立支援医療って何?

 ただ、厄介なのは、厚生労働省のHPにも書かれているように、実施主体が「都道府県・指定都市」となっていることである。そのため、自治体によって申請プロセスや制度運用の方法が微妙に異なることがある。私は最初、神奈川県川崎市高津区で自立支援医療の適用を受けた。自立支援医療の適用を受けようとする人は、通院する医療機関、薬を処方してもらう薬局をあらかじめ自治体に登録しておく必要がある。その後、その医療機関・薬局を何らかの事情で変更したい場合には、自治体に対して変更申請を提出しなければならない。

 高津区はこの変更申請の処理が早く、即日で新しい受給者証を発行してくれた。ところが、その後東京都豊島区に引っ越して同じように変更申請を行ったところ、新しい受給者証ができるまで3か月かかると言われた。同じ事務処理なのに、川崎市は即日、豊島区は3か月というのは不思議な話である。システム上で医療機関・薬局名を書き換えて、新しい受給者証を印刷すれば済む話なのではないかと思ってしまう。ちなみに、高津区の人口は約20万人、豊島区の人口は約30万人であるから、事務処理のスピードの差を人口の差に求めることはできない。変更申請の処理プロセスが高津区と豊島区で大きく異なっているとしか考えられない。

 私は、諸事情があって、9月最後の週末に実家のある岐阜県岐阜市にUターンしてきた。当然、自立支援医療の受給者証の変更申請をしなければならない。ただ、その時の岐阜市側(中市民健康センター)の応対があまりにもお粗末だったので、関係者に猛省を促すために敢えて本記事を書いておきたいと思う。岐阜市に戻ってきて最初の記事がこんな内容になってしまったのは、私としても悲しいことだ。以前の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」でも書いたが、双極性障害の症状の1つとして、私は日頃からイライラしやすい傾向にある。だが、本当にブチ切れるのは数年に1回であり、むしろ病気になってからの方が頻度は少ない。その数年に1度のケースとは、「相手が頭を使わずに惰性で仕事をして、こちらに多大な迷惑をかける」場合である。

 私は10月1日に手続きをするにあたって、岐阜市のHPで必要な書類を確認しようとした。だが、自立支援医療の「申請」に関するページはあっても、「他都道府県からの転入」に関するページがない。そこで私は、岐阜市役所の地域保健課に電話してみた。すると、①東京都の自立支援医療の受給者証、②国民健康保険証または健康保険証、③マイナンバーカードまたはマイナンバー通知カードがあればよいとの回答であった。しかし、実際に岐阜市役所近くの中市民健康センターに行ったところ、これでは書類が足りないと言われた。振り返ってみると、地域保健課で電話に出た担当者は、私が単身で岐阜市に転入するものだと思い込んでいたのだろう。単身者であれば、この3点があれば確かに手続きができるからだ。しかし、実際には、私は豊島区の国民健康保険を抜けて、父親と同じ岐阜市の国民健康保険に再加入することになっていた。こういう状況を確認せずに、不十分な回答をした地域保健課にまずは猛省を促したい。

 中市民健康センターに行ったら、対応したのがAという職員であった。Aからはまず、「申請者(私)と同じ保険に加入している者全員分の保険証が必要だ」と言われた。私の家族は4人暮らしで、皆岐阜市の国民健康保険に加入しているから、4人全員分の保険証の原本を持ってこいというわけである。私は、「電話で確認した時にはそんなことは一言も言われなかった」と反論したが、Aは「手続き上必要なので持ってきてほしい」の一点張りであった。さらに言うと、私は翌2日の10時30分から、既にある病院の精神科の診察予約を入れていた。7月にお世話になったその病院の医師が、私の病状が重いことに配慮して、担当の曜日外であるにもかかわらず、早めに診察するとおっしゃってくれたからだ。だから、どうしても1日の間に手続きを完了させる必要があった。そのことをAに伝えると、「こちらは8時45分から開いているので、病院に行く前に手続きに来たらどうですか」と、私の神経を逆なでしてきた。

 それから、Aからは「同意書」もないと指摘された。自立支援医療では、支給認定世帯(同じ医療保険に入っている者から構成される世帯であって、住民票上の世帯とは異なる)が前年度に支払った所得税総額に応じて、自己負担額の毎月の上限額が決まる仕組みになっている。支給認定世帯の各構成員の所得税額を自治体側で調査することに同意する旨のサインを全員からもらってほしいというわけだ。これについても私は「電話では聞いてない」と言ったものの、Aは「手続き上必要なので」と繰り返すばかりであった。

 最悪だったのは、私が書類を記入している時、マイナンバーを記入する段階になって、Aは周囲に一般人がいるにもかかわらず、私のマイナンバーを読み上げたことである。マイナンバーとは、「税、社会保障、災害などの行政手続きにおける特定の個人を識別するための番号」であり、言うまでもなく極めて機密性の高い情報である。万が一、周りの人が私のマイナンバーをメモ書きしていたらどうするつもりだったのか?確かに、現時点では、12桁の番号のみが漏洩しても、それだけで悪用につながる確率は低い。実際には、マイナンバーカードやマイナンバー通知カードを紛失すると、それを悪用されて勝手に住民票が書き換えられるといった犯罪が起きる。しかし、法律と犯罪はいつの時代もいたちごっこである。将来的に、マイナンバーだけで不正を働くことを考える犯罪者が現れる可能性は否定できない。だから、マイナンバー法は、他人のマイナンバーを不正に取得しただけで処罰の対象になると定めているのである。

 翌日8時45分、中市民健康センターに全員分の国民健康保険証と同意書を持って再度手続きに行った。Aは9時から出勤するというので、代わりに職員BとCが対応した。ただ、このCはほとんど黙っているだけで何の役にも立たなかった。メインで応対したのはBであった。まず、「なぜ国民健康保険証の原本が必要なのか?」と改めて確認した。するとBは、「実は原本でなくても、コピーでも大丈夫である」と回答した。どうして職員によって言うことがバラバラなのか?しかも、原本とコピーでは大きな違いである。実はこの日、私の母が別の病院に行くことになっていたのだが、私が自立支援医療の手続きをするために国民健康保険証を持ってきてしまったがゆえに、母は受診日の変更を余儀なくされていた。そういう実害が発生するのである。

 私は、職員によって業務プロセスが統一されていない理由を質すため、BとCの上司を呼び出した。すると、上司Mが出てきた。岐阜市では、職員は必ずネームプレートを首から下げて職務にあたるようにルール化されていると聞いていたが、Mはネームプレートを下げていなかった。私がそのことを指摘すると、「すみません、別の部屋で別の作業をしていたもので」などと、小学生並みの言い訳をしてきた。別の部屋に行こうが、別の部屋で作業しようが、まず出勤したらネームプレートを首から下げる。これが常識である。岐阜市の服務規程の具体的な中身は知らないもののの、民間企業において就業規則の中でネームプレートの着用を義務づけているところであれば、服務規程違反で処分されるに違いない。

 ネームプレートの話が終わった後、私はMに対して業務プロセスの件を聞いた。しかし、このMという上司は「さあ」とか「うーん」などと繰り返すばかりで、まるで自分の頭で考えるという所作が見られなかった。「現場の業務プロセスがバラバラになっていたら、それを標準化するのが上司の役目ではないのか?」ときつく迫っても、暖簾に腕押し状態である。

 そうこうしているうちに、Aが出社する予定の9時をとっくにすぎてしまった。しかし、Aは出社しない。私はMに対して「Aはどうしたのか?今どこにいるのか?」と聞くものの、Mは相変わらず「さあ」ととぼけるばかりである。部下の出勤状況を把握していない上司などあり得るだろうか?私が、「Aの携帯電話は知っているでしょう?携帯に電話してくださいよ」と言っても、Mは右往左往するだけで電話しない。「Aの電話番号を知らないのか?この組織の緊急連絡網はどうなっているのか?有事が発生した場合、この組織ではどうやって連絡を取り合っているのか?」と散々詰め寄ったにもかかわらず、Mはだんまりを決め込んでいる。こんな人間は上司失格である。また、Aは無断で遅刻したのだから、岐阜市の規定に従って処罰を受けるべきである。

 私は、そもそもなぜ国民健康保険証のコピーが必要なのかをBに尋ねた。すると、「支給認定世帯の構成員を確認するため」という回答であった。百歩譲って、支給認定世帯の構成員が健康保険に加入しているならば、自治体が情報を持っていない可能性もあるから、保険証のコピーの提出を求めることもあるだろう。しかし、私が加入しているのは岐阜市が保険者となっている国民健康保険である。つまり、市は必ず、加入者情報をシステムで保管している。そのシステムで情報を確認すればよいのではないかと尋ねると、Bは、「現場の担当者レベルではシステムの情報を見ることができないので、保険証のコピーを提出してもらっている」と答えた。システムはあるのに肝心の担当者はアクセスできないなどというのは愚の骨頂である。業務プロセスの設計担当者とシステムの調達担当者を呼びつけてやろうかと思ったぐらいだ。

 もし、現場の担当者がシステムで情報を確認できないならば、次のようなことができてしまう。父・母・姉・妹からなる4人家族がいて、全員が国民健康保険に加入しており、妹が自立支援医療の申請をするとしよう。姉は自営業で大成功しており、課税対象所得が1,000万円以上ある。ここで妹は、姉を構成員に入れると支給認定世帯の所得税額が増え、自己負担の上限額が上がってしまうと考え、姉の存在を隠して、父・母・妹の3人が支給認定世帯の構成員であると言って申請する。ところが、現場の担当者レベルではこのウソを見破れないことになる。

 だが、実際には、このウソは通用しないと思われる。自立支援医療の申請を提出してから受給者証が届くまでには、大体どの自治体でも3か月かかる。その間に、現場から上げられた申請書を自治体の上層部が細かくチェックしているはずだ(もししていなかったら、3か月間一体何をしていたのかという話になる)。上層部では、申請書の内容に誤りがないかどうか、1つ1つの項目について入念に確認する。その段階で、システムにアクセスする権限を有する者が、保険証のコピーもチェックしているのは間違いない。だとすると、結局、業務プロセスのどこかの段階で誰かがシステム上の情報を確認するのだから、申請者に保険証のコピーを提出させるのは無駄である。これは岐阜市だけの問題ではなく、各自治体で検討してもらいたい問題である。

 「同意書」についても、その必要性をBに質問してみた。そもそも、自立支援医療では、所得税額に応じて申請者のランクが決まり、ランクに応じて自己負担の上限額が決まることになっている。ということは、申請者は申請する段階で、自分が属する支給認定世帯の所得税を自治体に調査されることは織り込み済みであり、今さら調査に同意するか否かは問題にならないはずである。Bは、「この同意書がないと我々は国税庁に対して税額の照会ができない」と言っていたが、それは行政内部の事情にすぎないのであって、申請者には関係のないことである。

 それでも同意書は必要なのかと尋ねたところ、M、B、Cは誰も回答できなかった。職員の誰もその必要性を理解していない書類を住民に作成させるのは、行政サービスとしていかがなものかと思う。この点も、岐阜市に限らず、また自立支援医療に限らず、あらゆる自治体で、あらゆる行政サービスに関して点検してもらいたいところである。保険証のコピーは、仮に家族が遠方にいても写メで何とか送ってもらうことができる。しかし、同意書に関してはそれができない。もしも、私の弟がこの時1週間どこかに出張に行っていたら、2日の受診には間に合わなかった。こういうことがあるから、住民に余計な書類は作らせないでほしいのである。

 もし、同意書を作成しなければならない理由があるとしたら、支給認定世帯の構成員の中で、勝手に自分の所得税を調査されることを嫌がる人がいるかもしれない、ということだろう。だが、所得税の調査の結果、申請者に通知されるのは所得税額に応じたランクであり、所得税額ではない。まして、各構成員の所得税が他の構成員に伝わることもない。よって、所得税から所得を推定されることもあり得ない。他の構成員に対して所得が明らかになってしまうという点では、国民健康保険の保険料決定通知書や、住民税決定通知書の方がよっぽど危ない。これらの書類には、個人の所得が包み隠さず記載されている。子どもが故意または過失によってこれらの書類を開けてしまったら、両親の所得はバレバレである。

 同意書について説明を求めていたところ、Bが「実は、支給認定世帯の構成員全員の保険証のコピーがあれば同意書は必要ではない」と言い出した。私は意味が解らずさらに説明を求めると、Bは、「保険証のコピーがあればマイナンバーを特定できるので、そのマイナンバーを基に所得税額を調査することができる」と述べた。この話が本当であれば、なおさら同意書の存在理由が解らなくなる。自治体は、マイナンバーさえあれば、結局は支給認定世帯の構成員の同意があろうとなかろうと、勝手に所得税額を調べていると言っているに等しいからだ。

 1時間ほど、説明を求めれば求めるほどボロが出てくるので、私は一番上の責任者を出せと言った。すると、Mが事情を説明して局長Kを連れてきた。しかし、ここまで読んでお解りのように、Mは何にも考えていない上司なので、私が何に怒っていて、何を改善してほしいと要望しているのか全く伝わっていない様子であった。だから、Kは「このたびは当方の不手際で申し訳ありません。二度とこのようなことがないように注意します」という薄っぺらな定型文を繰り返すだけであった。ちなみに、Kもネームプレートをつけていなかった。私がそれを指摘しすると、「すみません、バタバタしていたもので」などとみっともない言い訳をしていた。組織のトップがこんな感じだから、組織全体が腐るのだろう。私も経営コンサルタントとして曲がりなりにも300社ぐらいの企業・組織を見てきたが、ここまで腐敗した組織は初めてであった。

 10時30分の診察が近づいてきたので、私が手続きを終わらせて中市民健康センターを後にしようとしたところ、ようやくAがやってきた。1時間以上の遅刻である。Aは自分のせいで大変なことになっていることが理解できていないようであった。なぜこんなに遅れたのか、どこへ行っていったのかについての説明もなかったし、昨日の不手際についての謝罪もなかった。マイナンバーに関しては、野田聖子総務相が岐阜市出身であるため、彼女の事務所に連絡を入れておくと告げておいた(ただ、ちょうど2日午後に内閣改造があって、石田真敏氏が新しい総務相になったため、野田聖子事務所への連絡は見送ることとした)。


2018年09月10日

『致知』2018年10月号『人生の法則』―「夢や希望」がある人と「志がある人」では「八観六験」の結果がこんなに違う


致知2018年10月号人生の法則 致知2018年10月号

致知出版社 2018-09


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 私が前職の組織・人事コンサルティング&教育研修サービスを提供するベンチャー企業に勤めていた頃、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第1回)】経営ビジョンのない思い入れなき経営」で書いたように、当時の経営陣(皆、大手コンサルティングファームでパートナー〔共同経営者〕にまで上り詰めた人である)は、あろうことか自社のビジョンの策定を外部のコンサル会社に丸投げしていた。でき上がった成果物はコンサル会社らしく、何十ページにも及ぶ細かいレポートであったものの、ビジョンがそんな長ったらしいものでは社員に浸透するはずもなく、外部のコンサル会社に支払った大金は無駄金になってしまった。

 さすがにこのままでは社員が皆バラバラになってしまうと感じた一部の社員は、自力でビジョンの策定に乗り出し、私もメンバーの一員に入らせてもらった。だが、マネジャーからは、「ビジョンがあったところで何になるのか?」、「今のところ仕事がそれなりに回っているのだから(実際には回っていなかったのだが)、ビジョンなど必要ない」などと猛反発を食らってしまった。

 確かに、私は以前、「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)」という記事を書いたことがある。ただ、これは、内発的に創造されたイノベーションを全世界に普及させて莫大な富を生み出そうとする自己実現的な考え方に染まった一部のアメリカ人イノベーターには明確なビジョンが必要だと言ったまでのことであって、日本企業はビジョンを掲げなくても全く問題ないなどとは一言も言っていない。

 ビジョンとは、事業の将来イメージである。顧客は自社の製品・サービスをどのような気持ちで使用し、どんな幸福を手に入れるのか、顧客に奉仕する社員はどのような働きぶりをしているのか、自社と協業するパートナーや取引先とはどんな関係を構築しているのか、こうした点について、おぼろげながらも言葉にしておくことが重要である。考え方も価値観もバラバラな社員が同じ方向性に向かって大きな仕事をやり遂げる際に、ビジョンはそのよりどころとなる。現に、ビジョンがある企業は、ビジョンがない企業よりも平均で4倍業績が高いというデータもある。

 仮にも組織・人事コンサルティングのサービスを手がけている企業でありながら、こういった点に対して上層部が全くの無理解であることには驚きを隠せなかった。それでも何とかマネジャーたちを説得して、オフィスの一角に大きなホワイトボードを設置し、そこに経営陣や社員が思い描くそれぞれのビジョンを書き出してみようということで話がまとまった。我々の活動に賛同してくれた社員がポツポツとビジョンを書いてくれたのだが、ある時、グループ会社の社長が「1,000億円の寄付をする」というビジョン(?)を書き込んだ瞬間、その内容に他の社員が引いてしまったのか、書き込みがパタリと止まってしまった。

 この社長は、前職の大手コンサルティングファームに所属していた時にストックオプションを付与されており、同社の上場に伴ってそれなりの資産を手にしたらしい。噂によると10億円単位の収入があったという。それを元手にして自社のビジネスを大きくし、1,000億円の寄付をするというアイデアを思いついたのかもしれない。だが、これはその社長の個人的な夢であって、先ほど述べたビジョンとは性質が全く異なる。結局、この一件があってから、自社のビジョンをまとめるという我々の作業は頓挫してしまった。この会社はどこまで行っても皆がまとまらず、個人事業主の集まりのようなものなのだとひどく落胆したものである。

 そういえば、前職の企業の経営企画部長は、実は社員ではなく、個人事業主であった。彼だけ他の社員と違って出勤時間も休日の取り方も異なるので、私は不可解に思っていた。ある時、彼の名前をネットで調べたところ、実は既に個人事業主として独立しており、前職の企業とは業務委託契約ベースで仕事をしていたことが判明した。経営企画という、戦略の中枢ですら外部に丸投げしてしまうのだから、会社が1つにまとまるなどというのは夢のまた夢であった。

 以前の記事「【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因」でも書いたように、本号には「夢や目標はあるけれど、志はあるのか」(河村京子「言い続け、思い続け、やり続ければ、夢は必ず実現する」)という言葉があった。夢や目標というのは、例えば「高級な家に住みたい」、「ベンツに乗りたい」などといった利己的なものである。他方、志とは、人々を幸せにしたい、この世界をもっと住みよい場所にしたいといった利他的なものである。

 先ほどのグループ会社の社長の「1,000億円の寄付をする」という宣言は、どのような利他的な事業を行って1,000億円以上の利益を獲得し、社会に還元するのかという観点がすっぽりと抜けており、単に自分が1,000億円寄付したいという願望を表したものにすぎないから、利己的な夢や目標である。ただし、そう批判する私も、前掲の記事で書いたように、前職の企業にいた頃は「30歳でマネジャーになって年収1,000万円を稼ぎたい」と思い、それが叶わずに独立した時には「35歳には年収1,000万円を達成する」と思っていたのだから、利己的な夢や目標を掲げていたという点では同じである。むしろ、グループ会社の社長に比べると夢や目標がしょぼすぎて、スケールが小さい人間だと逆に非難されてもおかしくない。だから、今度私が独立診断士に再挑戦する時は、利他的な志を真剣に、慎重に設定しなければならないと思っている。

 本号では、陽明学者の安岡正篤が好んで引用していた「八観六験」が紹介されていた(安岡正泰、荒井桂「後世に語り継ぎたい」)。元々は中国の戦国時代に編集された『呂氏春秋』に記されているものであり、人間を八つの面から観察し、六種の方法で試し、その品格を見極める方法である。私は、「夢や目標がある人」と「志がある人」では、「八観六験」のそれぞれの方法に対する答えが次のように異なるのではないかと考える。

 【八観】
 ①通ずれば其の礼する所を観る。
 (順調に物事が進んでいる時、何を礼するかを観察する)

 【夢や目標がある人】結果ばかりに気を取られているため、プロセスを気にしない。多少プロセスから外れていても、結果が出ているのだからいいではないかと開き直る。
 【志がある人】その成果が適切なプロセスにのっとったものであるかどうかを厳しく検証する。組織として守るべき手順が守られていない場合には成果を評価しない。まして、組織の価値観から外れたやり方で成果を上げた場合には、絶対にそれを認めない。

 ②貴(たか)ければ其の進むる所を観る。
 (出世して、どういう人間を尊ぶかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分と同じように、自分の努力で、腕一本で成功したことを自慢する人たちを尊敬する。派手好きで、高い社交性を持った人と交わる。
 【志がある人】自分の成功は、自分よりも優秀な人材を活用することでもたらされたことに感謝する人たちを尊敬する。素朴で、謙虚な人と交わる。

 ③富めば其の養ふ所を観る。
 (金ができ、何を養うかを観察する)

 【夢や目標がある人】まずは自分自身を養う。余りが出れば、慈善活動にお金を回す。
 【志がある人】まずは顧客に還元し、顧客に感謝する。次に社員に還元し、社員の豊かな生活を支援する。次に取引先に還元し、取引先の努力に報いる。次に株主に還元し、株主の元手のおかげで事業を大きくできたことに謝意を示す。自分に還元するのは最後である。

 ④聴けば其の行ふ所を観る。
 (よいことを聞いて、それを実行するかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分にとって都合のいいことを取捨選択する(選択バイアス)。
 【志がある人】自分にとって耳が痛いことであっても、その意味するところを深く考え、自分の今までの考えが誤っていなかったかどうかを反省し、改めるべきところは改める。

 ⑤止(いた)むれば其の好む所を観る。
 (仕事が板についた時、何を好むかを観察する)

 【夢や目標がある人】業務を効率化し、どうすればもっと楽に儲けられるかを考える。
 【志がある人】顧客価値を見直し、どうすればもっと顧客に満足してもらえるかを考える。

 ⑥習へば其の言ふ所を観る。
 (習熟すれば、その人物の言うところを観察する)

 【夢や目標がある人】他人から学んだことを、さも自分の考えであるかのように語る。
 【志がある人】他人から学んだことを自分なりに咀嚼し、自分自身の言葉で語る。

 ⑦窮すれば其の受けざる所を観る。
 (困った時、何を受けないかを観察する)

 【夢や目標がある人】困っている以上、手段を選ばずに何でも仕事を引き受ける。
 【志がある人】価値観や倫理に反すること、人間として正しくないことには手を出さない。

 ⑧賎なれば其の為さざる所を観る。
 (落ちぶれた時、何を為さないかを観察する)

 【夢や目標がある人】落ちぶれた原因を周りの環境のせいにし、自分では反省しない。
 【志がある人】落ちぶれた原因を自分自身に求め、周りの環境のせいにしない。

 【六験】
 ①之を喜ばしめて以て其の守(外してはならない大事なことを守れるか)を験す。
 【夢や目標がある人】お金になるなら何でもよいと言ってどんな仕事にも飛びつく。
 【志がある人】たとえお金になるとしても、価値観や倫理に反する仕事は断る。

 ②之を楽しましめて以て其の僻(人間的かたより)を験す。
 【夢や目標がある人】すぐに浪費、享楽に走る。酒による失敗をしでかしやすい。
 【志がある人】趣味、娯楽はほどほどにする。人づき合いやお酒も節度を守る。

 ③之を怒らしめて以て其の節(節度)を験す。
 【夢や目標がある人】過度に感情的になり、相手の人格を否定するほど激しく攻撃する。
 【志がある人】相手の怒りの根を分析し、対立の原因を探って、対話のテーブルにつく。

 ④之を懼れしめて以て其の持(独立性、自主性)を験す。
 【夢や目標がある人】恐怖にうろたえて、普段は社員などのことを大してあてにしていないくせに、困った時だけは社員に問題の解決を丸投げする。
 【志がある人】普段は社員の能力を活用するよう努力しているが、大きな問題が起きた時は社員任せにせず、自分自身の軸をしっかりと持って、問題解決を先導する。

 ⑤之を哀しましめて以て其の人(人柄)を験す。
 【夢や目標がある人】自分の能力に対する自信が強いが、所詮空元気であり、失敗や悲しみに対しては脆く、自分の利己的な目標が達成できないと解ると自暴自棄になる。
 【志がある人】たとえ失敗や悲しいことがあっても、自分には奉仕すべき他者がいるという強い使命感があり、レジリエンス(再起力)を発揮する。

 ⑥之を苦しましめて以て其の志を験す。
 【夢や目標がある人】(⑤と似ているが、)利己的な目標を持つ人には周囲からのサポートがないため、苦境に陥ると目標が遠のいてしまい、挫折する。
 【志がある人】(⑤と似ているが、)利他的な目標を持つ人のことをちゃんと見てくれている人がおり、彼らが支援を差し伸べてくれる。彼らの力を借り、彼らに感謝しながら苦境を脱する。



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