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金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?
『青雲の志(『致知』2017年1月号)』―人間は利己的であるべきか、利他的であるべきか?、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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こぼれ落ちたピース
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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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(監事を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2017年03月22日

熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる

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メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2005-09

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 哲学には大きく分けると2つの立場があると理解している。1つは、客観的な知を探求する立場で、彼らは厳密な言葉で世界を還元しようとする。もう1つの立場は、「私」の「身体性」を重視し、身体や身体による行為を通じて表象される知とは何かを考察する。メルロ=ポンティは後者に属する哲学者である。後者の哲学者は、「私」が見たまま、感じたままの世界に直接触れ、言葉を紡ぎ出す。この点で哲学者は詩人と同じなのではないか?というのが本書の問題提起である。

 メルロ=ポンティは、身体を通じた意味の生成について、次のように論じている。我々が普段動かしているのは客観的身体ではなく、「現象的身体」である。現象的身体は、客観的身体ではとらえられないような感覚をつかむことがある。その一例が「幻影肢」と呼ばれる事象である。不慮の事故などによって手足を切断された人は、手足の先に痛みやかゆみを感じることがあるそうだ。客観的身体は失われているのに、意識が働く。これが現象的身体の特徴である。

 意識とは、「私は○○と考える」ではなく、「私はできる」という意味であるとメルロ=ポンティは言う。幻影肢の例で言えば、意識は、手足が欠けているにもかかわらず、手足の痛みをかばったり、手足のかゆみを解消したりしようとする。この時、現象的身体は自らを表象する必要はない。換言すれば、自分には手足が欠けているとか、手足に痛みやかゆみが生じているといったことをいちいち考える前に、手足の痛みやかゆみをカバーする。現象的身体は、身体の物理的な限界を超えて、直ちに意味を生成する。だから、我々は身振り手振りによって、身体の物理的な運動以上の意味を表現することが可能である。

 身体が表象を必要とせずに意味を発するという点は、言葉に関しても同じである。我々が日常生活の中で何かしらの言葉を発する時、わざわざ単語や文節に分解して表象するわけではない。言葉が口に出されたその瞬間に、我々は既に何かを語ってしまっている。つまり、意味が生成されている。現象的身体が内部に意味を有し、それを発露するのと同様に、言葉もまた内部に意味を有し、それを発露する。ここまでは私も何とか理解できる。問題はここからである。

 メルロ=ポンティによれば、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。本書で紹介されている例を単純化して説明すると次のようになる。ある時、私は森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。ところが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木なのだろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、私にとって枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常であれば、私が最初難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、それと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている。

 以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」の最後で、対象に向かって知覚の志向性が伸びていると書いた後、実は門脇氏が「私が知覚から命題・推論の表現がなされると述べるとき、知覚という内面から命題・推論が真理を取りだして外面へともたらすという、内から外への関係を考えているのではない。知覚はすでに世界へとコミットする信念として、十分に世界という外部のもとにある」と述べていることに触れた。信念が外部の世界の下にあるという同時性は、外の世界が既に意味を内包しているというメルロ=ポンティの主張に通じるところがあるような気がする。ただ、依然として、外の世界があらかじめ意味を内包しているとはどういうことか?しかも、その意味は決して客観的ではなく、知覚する1人1人の人間によって異なるとはどういうことなのか?という疑問は残る。

 特に、外の世界が全体としてあらかじめ意味を内包しており、それを部分に再配分するという点は、通常の我々の理解からは遠く離れているように感じる。ところが、そういう意味が存在することを示唆する事例があることをメルロ=ポンティは紹介している。それが「シュナイダー症例」というものである。シュナイダーは視覚の障害を持っており、色や形態、文字の認識に問題を抱えていた。だが、シュナイダーにはそれ以上に注目すべき徴候があった。

 シュナイダーは、鼻の先に蚊が止まれば手で払いのけることができたし、鼻をかむときにはポケットからハンカチを取り出すこともできた。ところが、目を閉じたまま鼻を指すように命じられてもそれができない。また、コップの水を飲むことは自然にできるのに、空のコップで水を飲む真似をすることは、シュナイダーにとって非常に難しい課題であった。つまり、シュナイダーは生活の中で具体的な意味を持つ身体行動は難なく遂行できる一方で、生活にとって意味を持たない抽象的な振る舞いをすることができないのである。シュナイダーには現象的身体が発する意味はあっても、外界が持つ意味を理解する能力が欠けている。

 シュナイダーにとって世界は単なる「もの」でしかない。だから、シュナイダーが世界を理解するには、世界を構成する断片的な意味をつなぎ合わせるしかない。シュナイダーは実際、物語のメロディー的な統一をとらえ、物語のリズムやテンポを理解すること、つまり物語を物語として理解することに困難を示した。このことから、健全な人間は、外界を構成する要素を分解し、それぞれに人間の側から意味を与え連合させるのではなく、外界そのものが既に有している全体的な意味、時に応じて部分に対し再配分される意味を受け取るのが通常なのだということが言える。

 以上をまとめると、意味には2種類ある。まずは、現象的身体が発する意味である。もう1つは、外界が包摂している意味である。そして、両者の交流によって新たな意味が創造される。「感覚する者」と「感覚されるもの」の相互的な交換によって意味が生じる。

 さて、本書の問題提起は、「哲学者は詩人でありうるか?」というものであった。詩人は現在を永遠のものとして語る。詩人が知覚している世界を、ありのままに言葉で表現する。ところが、哲学者にはそれができない。というのも、哲学者は反省する存在であるからだ。しかも、反省に先立つものに立ち戻って反省をしなければならないという矛盾を抱えている。哲学者は何とか現在をつかまえて、現在を反省しようとする。ところが、時間の流れが現在の拿捕を困難にする限り、哲学者は現在を考察することができない。よって、哲学者は詩人たることができないというのがメルロ=ポンティの答えである。それでもなお彼は、世界とその経験を現在において言いあてる語を探しあぐねる、詩人の辛苦を引き受けようとしていたのであった。

2017年01月31日

金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?

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ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンスベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
金森修

NHK出版 2003-09-25

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 著者が「正直いって、そうとうに難しいよ」というベルクソンについて、彼の代表作である『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』のいずれも読まずに、本書だけを読んでレビューを書こうというあまりにも無謀な試み。ベルクソンは、近代科学が様々な物質や事象を機械的・空間的に把握してきたことに対し、それでは説明から逃れてしまうものに注目した哲学者である。同時に、その説明から逃れてしまうものが、あたかも機械的・空間的に説明し尽くされたかのように扱われることに対して警告を発している。

 本書では「ウェーバー=フェヒナーの法則」が挙げられている。「感覚量は、刺激量の対数に比例する」というものである。例えば、今10本のロウソクが光っているとする。それに1本のロウソクを足して、その微妙な光り具合の変化を感じさせる。そして、次にロウソクを100本に増やす。この場合、先ほどと同じように1本のロウソクを足して101本にしても、光り具合の変化は感じられない。同じような変化を感じさせるためには、10本増やして110本にしなければならない、ということである。ウェーバー=フェヒナーの法則は、我々の感覚を数学的にシンプルに表現している。ところが、ベルクソンはこれに異を唱える。ロウソクが10本から11本になる時の質的な変化と、100本から110本になる時の質的な変化との間には、数値に還元できない何かがあると言う。

 このように、機械的・空間的に把握できないものの代表例として、ベルクソンは「時間」を挙げている。ベルクソンは、我々は時間を忘れているとまで言う。そんなことを言っても、私は今朝8時から銀座で行われるクライアントとのミーティングに合わせて、いつもより早い5時半に起床し、1時間かけてミーティングの資料に目を通しながら朝の準備をし、余裕を持って電車に乗って、銀座まで残り5駅だからあと10分ぐらいで到着するだろう、といった具合に時間を駆使している。だが、この24時間という時間、そして1日、1か月、1年というそれぞれの単位は、地球の自転や公転などの周期的な運動を基準にして決められたものである。人間が作為的に設定した単位という意味で、機械的・空間的である。ベルクソンはそのことを批判している。

 ベルクソンは、空間的時間とは異なる時間があると主張する。これを「純粋持続」と呼ぶ。
 それは空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である。
 機械的・空間的な思考に慣れきっている私には、この純粋接続を理解することは難しい。強いて別の表現をするならば、宇宙という全体性のことではないかと思う。ベルクソンは、我々は誰もが自分の中に純粋接続を持っており、何かしらの方法によってその純粋接続に触れることができると言う。言い換えれば、我々の中にある宇宙にアクセスできる。このように書くと、安直な私などは、私という個と宇宙という全体を一体化してとらえるのは「U理論」や「マインドフルネス」と共通する考え方であり、ひいては全体主義につながるのではないかと警戒してしまう(詳しくは「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照)。

 だが、ベルクソンは「自分だけのものとしての純粋接続」という表現を使っている。全体性でありながら、そこから個別具体的な何かが流れ出しているというのが純粋接続である。そう考えると、全体性が個性と同一化し、全ての人が一様に扱われ、人々が皆同じという点であたかも連帯しているかのように錯覚させる全体主義とは一線を画しているように思える。

 ベルクソンは、純粋持続と知覚、身体、記憶、自由との関係について論じている。その議論の特徴は、二項対立の中庸を取るという点にあると感じる。例えば、ベルクソンは「事物」と「表象」の間に「イマージュ」という概念を導入する。事物とは我々の外部にあって、機械化・空間化されたものである。一方の表象とは、我々の意識の内部に結ばれる像である。ベルクソンは両者の間にイマージュという言葉を挿入することで、実在論も観念論もともに問題があると指摘した。

 同様に、我々の外部にある「知覚」(知覚が我々の外部にあるというベルクソンの主張は我々にとって驚きである。しかしベルクソンは、知覚とは身体性とは関係のないところ、当の知覚対象がある場所に存在すると述べている)と、我々の内部にある「記憶」の間に「記憶心像」という概念を導入した。さらに、我々の外部にある「自然」と内部にある「意思」との間に「習慣」という概念を挿入する。自然という事物だけでは習慣は成立しない。我々は、外部にある自然を自分の意思によって我がものとし、それを反復的に扱うことで、習慣とすることができる。ベルクソンのように、二項対立の間を取るという発想は、本ブログで何度か述べた日本の「二項混合」的発想と何か共通点があるのではないかと思う。この辺りはさらに掘り下げてみたいテーマである。

 先ほど、記憶は我々の中にあると書いたが、実はベルクソンは、真の記憶は我々の中にないと主張している。記憶の背後には「純粋記憶」と呼ばれるものが存在している。そして、この純粋記憶は、我々の脳の中にはない。本書の著者は「まだ青臭い学生」だった頃にこの主張を読んで、「生意気盛りの若者らしく、『そんな馬鹿な』と思って、本を投げ捨ててしまった」という。
 要するに、君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心像が物質化しつつあるものに他ならない。
 我々が何か外部の事象を見る時、我々の背後に控えている膨大な純粋記憶がその事象に関する情報を与え、記憶心像を形成する。しかも、驚くべきことに、我々がその事象を初めて見る場合であっても、純粋記憶は記憶心像を結び、知覚を圧倒するのだという。

 この純粋記憶の性質について、著者はある仮説を提示している。
 どうやら、先の純粋記憶の存在の仕方は、必ずしも個人個人の人格内部に限定されているものではない、とベルクソンは考えていたらしい。つまり僕の純粋記憶は、僕の過去約50年の知覚の総体であり、君の純粋記憶は、君の全人生の知覚の総体だ、というように、それぞれの純粋記憶が人格ごとに弁別されているのでは、必ずしもなさそうなのだ。

 いわば、複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、とういような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。(中略)もしそうであるなら、それぞれの記憶が個人の脳に限定されている必要がなくなるのは、論理的にも当然のことだ。
 これまで生きた人間の記憶が、この宇宙のどこかに純粋記憶という形でデータベース化されており、我々が何か事物を見ると、そのデータベースから必要な情報が関連づけられ、知覚が形成されるということなのだろう。ただし、著者の考えには2つ問題があると思う。1つは、最初に生まれた人間にとっての純粋記憶は空っぽで、知覚を形成することができないということ。もう1つは、我々が純粋記憶に頼る限り、我々は過去の奴隷にすぎないのではないかという点である。

 1つ目の問題に対しては、純粋記憶とは今までに生きた人間の記憶の蓄積ではなく、宇宙という全体性を指していると解釈することで解決できるような気がする。2つ目の問題に対しては、純粋接続の考え方と共通するが、純粋記憶とは「空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である」という性質のものなのではないかと考える。

 全体主義のように全体性を一方的に個人に押しつけるのではなく、純粋記憶は全体性でありながら、そこからそれぞれの個人に向けて個別具体的な何かを絶えず生成するという点に意味がある。純粋持続や純粋記憶を探求すれば、我々は多様性を保つことができる。そして、それこそが人間にとっての自由である。ベルクソンが言いたかったのは、こういうことなのだろう。

2017年01月11日

『青雲の志(『致知』2017年1月号)』―人間は利己的であるべきか、利他的であるべきか?、他

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致知2017年1月号青雲の志 致知2017年1月号

致知出版社 2017-01


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 (1)
 一言で言うと「利他」ですね。人のために何ができるか。人のためにやったことを自分の喜びとする。これがものすごく大事だと思います。みんなが利他に目覚めて、利他に生きたら、世界は一遍に平和になりますよ。私の考えるリーダーの条件って、「寛容と忍耐」なんですけど、自分の都合だけ考えている人は忍耐力がない。人のために何かをやろうとした時に、忍耐力はついてくるんです。そして、その忍耐力を持つことによって、寛容さも自然と養われる。
(近藤典彦「利他に生きることで魂は磨かれていく」)
 《参考記事》
 最初の動機は不純だって構わないんじゃないか?(旧ブログ)
 人間は利他的だとしても、純粋な利他的動機だけで富は生まれぬ―『自分を鍛える 人材を育てる(DHBR2012年2月号)』(旧ブログ)
 山本七平『人間集団における人望の研究』―「先憂後楽」の日本、「先楽後憂」のアメリカ

 経済を成長させるのは利己的動機と利他的動機のどちらかという議論がある。アダム・スミスは、完全市場においては、市場参加者が利己的動機に基づいて行動すれば、神の見えざる手に導かれて財の最適配分が実現されると説いた(ただし、スミスが説いたのはあくまでも「均衡」であり、「成長」ではない)。私の考えは振り返ってみるとかなりブレブレで、最初の頃は利己的動機をかなり強調していたのだが、最近は利他的動機を重視するようになっている。何となく、利他的動機を重視した方が経済が成長するような気がするものの、いかんせん私に経済学の知識が欠落しているために、この点を上手に説明することができない。

 経済の成長という観点を離れて、もう少し広く「幸福」について考えてみたい(こちらの方が難題なのだが)。アリストテレスは、幸福を「アレテー(卓越性)に従った生命の活動」と定義した。アレテーとは、「体力、知力、徳力などの全てを含めて人間の持つ優秀な能力」とも「倫理的な優秀性」とも言い換えられるが、いずれにしても優秀性であることに変わりはない。

 また、アリストテレスは、「人間は理性を持つ動物である」とも言っている。ポリス(国家)においては、理性を持つ「市民」がアレテーを発揮して(アレテーのために)政治に参加する。支配層の「エンドクサ(多くの人々による合意)」によってポリスを動かしていくことがデモクラシーである。ただし、ポリスの人間が一度に全員支配層になることはできない。そこで、支配層を順番に交代させる政体が理想であるとされる。ここに、現代の民主主義的政治の原型を見ることができる。

 ただし、アリストテレスの政治理論には問題がある。全ての人間には理性があると言いながら(この点で、人間の中には理性が弱い者もいると述べたプラトンよりは進歩しているのだが)、実際にポリスを運営するためには、人々の間で能力に応じて役割分担が生じる。一部の人は支配層に就く一方で、ポリスの基本的な経済・社会的機能を担うために、農民、商人、職人などの職業が必要となる。農民、商人、職人などは本業が忙しく、政治に必要なアレテーを獲得する道が閉ざされている。すると、彼らは永久に支配層になることができない。アレテー=優秀性という概念を導入すると、どうしても競争が生じ、勝者と敗者を分ける結果になる。

 そこで、人間の幸福に関する発想を180度転換させる必要がある。アレテー=優秀性という利己的な発想に立つのではなく、理性の限界を認め、人間を「他者と交わる存在」、「他者を求める存在」という利他的な位置づけに改める。理性は長年に渡って世界のあらゆる概念を取り込み、肥大化し、世界を整然と説明しようしてきた。しかし、それが全体主義につながったことは、本ブログでも何度か述べた通りである。この世界には、理性を超えた存在がある。それが「他者」である。他者は常に私の知を超え、私の把握をすり抜け、私の期待を裏切り、私を否定する。

 他者は私よりも絶対的な高みにいて、無限の存在である。その高みにいる他者に対して私ができることと言えば、他者に何も要求せずに、ただひたすら仕えるだけである。常により高いところにいる者に対しては、私は常により低い方へ降りて行って、低いところから善意を捧げるしかない。私は決して、他者よりも上に立って、他者を支配し、他者を道具化してはならない。

 同時に、他者は限りなく弱い者として、私に助けを求めるという二重性を持つ。死にさらされた者として、「孤独のうちに見捨てるな」、「死の中に置き去りにするな」と命令している。私という者があらかじめ存在していて、それが他者の叫びを受け取るのではなく、他者の叫びを受け取るべく傷口を開けたままの私が知らず知らずのうちに投げ込まれている。人間の根源的状態は、既に他者に巻き込まれている自己の傷口である。こうして、他者に直面して、私が他者を構成するのではなく、他者が私の内部から私を動かす。他者は既に私の中にいたのである(この辺りについては、以前の記事「小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』―”他者”の顔は見えるようになったが、”人間”が何のために生きるのか解らなくなった?」を参照)。

 社会には大きく分けると2つのタイプがあると考える。1つは、生まれながらの出自がその人の人生全てを規定する決定論的な社会であり、もう一方は能力・実力がある者が勝利を収める競争的な社会である。前者の代表がかつてのイギリスの階級社会やインドのカースト制であり、後者の代表がアメリカである。私は、日本社会は両者の中間に該当すると考える。以前の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1)(2)」でも書いた通り、日本社会は垂直・水平方向に細かく区切られた多重階層構造である。

 日本人の役割は、ある程度までは外部要因、社会からの要請によって定まると考えられる。能力主義者はこの点を批判するだろうが、実はメリットもある。というのも、アメリカ人のように自分探しをする必要がなく、与えられた役割に最初から没頭することができるからだ。そういう意味で、日本人は自分探しから自由である。ただし、私も能力主義を完全否定はしない。日本人は自分の能力を高めることによって、階層社会を多少は移動できる。これが2つ目の自由である。とはいえ、日本人は欧米人のように万能ではないから、それぞれの日本人が移動できる範囲は限定される。その限定された範囲内で、できるだけ適材適所を実現していく。

 このように、日本社会では、不完全な能力主義による人材の配置が行われるから、どうしても不公平が生じる。能力のない者が経済的成功を収めたり、逆に、能力があるにもかかわらず報われない者がいたりする。能力を尺度にして成功の大小を測ると、社会全体が不幸になる。だから、それとは別の尺度を用いなければならない。前掲の記事で書いた通り、日本人は自分が位置するポジションにおいて、垂直方向に「下剋上」や「下問」をしたり、水平方向に「コラボレーション」したりすることで、他者を支援する自由を有する(3つ目の自由)。この自由は、階層社会のどの位置にいても有する平等な自由である。この自由を追求し、それぞれの日本人がそれぞれのやり方で他者に仕えることが、1人1人にとってかけがえのない幸福になると考える。

 《参考文献》
 岩田靖夫『ギリシア哲学入門』(筑摩書房、2011年)

ギリシア哲学入門 (ちくま新書)ギリシア哲学入門 (ちくま新書)
岩田 靖夫

筑摩書房 2011-04-07

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 《補足》
 ジョージ・S・エヴァリーJr.、ダグラス・A・ストラウス、デニス・K・マコーマック『STRONGER「超一流のメンタル」を手に入れる』(かんき出版、2016年)では、チャールズ・ダーウィンの著書『人間の進化と性淘汰』から次の言葉が紹介されている。「メンバーの多くが助け合いの精神を持ち、共通の利益のために自分を犠牲にすることができるような集団は、他のあらゆる集団よりも生き残る確率が高くなる。これもまた自然淘汰といえるだろう」。

 また、エヴァリーJr.らは、心身医学を研究するJ・P・ヘンリーとP・M・スティーブンスが1977年に発表した興味深い研究結果にも触れている。メンバー同士の結束が固く、信念や価値観を共有し、利他的で、助け合いの精神があるグループは、外側からどんな脅威が襲ってきても跳ね返すことができ、ストレスへの耐性も高いという。

STRONGER「超一流のメンタル」を手に入れるSTRONGER「超一流のメンタル」を手に入れる
ジョージ・S・エヴァリーJr. 博士 ダグラス・A・ストラウス博士 デニス・K・マコーマック博士 桜田直美

かんき出版 2016-11-03

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 (2)
 シュシャン:ヘリゲル自身が日本で弓道修業をした体験を綴っていて、特に印象に残っているのは、ヘリゲルに弓道を教えた阿波研造という名人の言葉です。「的を狙ってはいけない。的に当てることはもちろん、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」
(菅原義正、ジェローム・シュシャン「果てなき挑戦心を抱いて」)
 シュシャン:ゴディバ ジャパンはこうして5年間で売り上げが2倍になったんですけど、そもそも私は5年間で売り上げを2倍にすると目標を掲げたことは一度もありません。全社員が正しいことをするよう心掛けてきた結果として、15%ずつ前年増になり、5年間で2倍になったんです。(中略)

 目標はプレッシャーにならないように、5%増の予算を立てる。けれど、新商品は何にするか、どこに出店するか、どんな社員研修をやるか、といった毎日毎日やることは一所懸命ベストを尽くす。(中略)結果を狙うのではなく、プロセスを求めるというのは弓道の教えに基づいていまして、弓道には「正射必中」という言葉があります。(同上)
 ジェローム・シュシャン氏はゴディバ・ジャパンの代表取締役であるが、長年弓道の修業を積んでいる。そのこともあってか、非常に日本人らしい思考をお持ちであるとの印象を受けた。通常、欧米人は将来のある時点までに達成すべき明確な目標を設定し、そこからバックキャスティング的に将来への道筋をプランニングする。その際、緻密な計画を立てるというよりも、目標を達成するために真にエネルギーを集中すべきいくつかの要素に焦点を当てる。それがCSF(Critical Success Factor:重要成功要因)やKPI(Key Performance Indicator:重要業績指標)といった考え方に表れている。統計的な手法を用いてCSFやKPIを特定することにも長けている。欧米の経営者は、最終目標との因果関係が強いCSFやKPIを実現することに全力を注ぐ。

 一方、日本企業の場合は、まず将来の明確な目標というものを設定しない。目標は曖昧なままにしておく。そして、「今、なすべきこと」を毎日着実に実行すれば、自ずと望ましい結果が得られると信じている。1つ1つは達成が容易だが、達成すべき目標の数は多い。これが日本の目標管理の特徴だ。もちろん、上司と部下の間で作成される「目標設定シート」には、多くてもせいぜい5つ程度の目標しか記述しない。だが、その5つの目標さえ達成すれば昇給・昇進するかというと必ずしもそうではない。評価者側は、目標設定シートに書かれていない評価の視点を多数持っており、それらを達成した人に初めて昇給・昇進を認める(人事部による評価の調整という、評価される側からすると極めて曖昧なプロセスの中で行われているのはこのことである)。

 欧米(特にアメリカ)と日本の目標設定の考え方の違いは、両者の歴史教育の方法にも表れている。アメリカの歴史の授業では、出来事と出来事の間の因果関係を重視する。例えば、教師は「リンカーン大統領が南北戦争で勝利することができたのはなぜか?」と生徒に問う。言い換えれば、Whyを重視する授業である。これに対して日本の歴史の授業は、様々な出来事が重なった結果として、次の出来事が生じるという考え方をベースにしている。例えば、室町幕府が成立する過程を追っていき、その間に何が起きたかを多角的な視点から見ていく(だから、たくさんの歴史用語を覚えなければならない)。つまり、日本の歴史授業はHowを重視する。

 日本の場合、「今、なすべきこと」と将来の目標との因果関係は極めて弱い。だから、その因果関係を少しでも強くするために、たくさんの目標を追求する。重回帰分析において、説明変数の数が増えれば増えるほど、結果をより正確に説明できるようになるのと同じである。

 ただし、その目標は何でもよいというわけではない。まず、「顧客のためになること」である必要がある。とはいえ、顧客のためであれば何でも正当化されるとは限らない。顧客のためであっても、それ以外の人のためにならないことはある。つまり、その行為は「社会に迷惑をかけないこと」でなければならない。端的に言えば、「人として当然のこと」を追求する。他者の思いに寄り添うこと、他者の思いを汲み取ること、他者に共感すること、これが重要である。そうすれば、「毎日、満員電車の中で営業マニュアルを大声で暗唱させる」といった目標を新人営業担当者に課すような愚を犯すことはない(これは、私が昔ある中堅企業から聞いた実話である)。


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