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研修で受講者満足度を上げる細々とした方法をまとめておいた
高橋史朗『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』―戦後の日本人に「自由」を教えるため米ソは共謀した
『少年老い易く学成り難し(致知2014年4月号)』―「詰め込み知識」と「考える力」についての一考

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2016年05月20日

研修で受講者満足度を上げる細々とした方法をまとめておいた


研修・セミナー

 一応、私は経営コンサルタントということになっているのだが、前職のベンチャー企業はコンサルティング&教育研修の企業であり、在籍期間の半分弱は教育研修プログラムの企画・開発や研修の運営に携わった。また、独立後も何だかんだで研修やセミナーをやらせていただく機会が多い。そんな中で、研修などの受講者の満足度は、意外と小さなことで上下するのだと気づかされた(受講者満足度は、研修を継続受注できるか否かを大きく左右するので、我々にとっては大問題である)。今回は、満足度に影響を与える様々な工夫をつらつらと書いてみたいと思う。中には「こんなことで満足度が変わるのか?」と思われるような、意外なこともあるかもしれない。

 1.講義は1~1.5時間ごとに休憩を挟む
 人間の集中力はそれほど長く持たない。大学の講義は1コマ80分だが、授業が長いと感じたことがある方はたくさんいらっしゃるだろう。他人の話を聞き続けるのは、だいたい90分が限界である。だから、最低でも1.5時間ごとに休憩を入れないと、受講者アンケートで「もっと休憩がほしい」と書かれてしまう。理想は、1時間ごとにこまめに休憩をとることである。

 2.3~4人1グループによるグループワークを多用する
 1日中講義ばかりの研修よりも、グループワークがある研修の方が総じて満足度が高い。そして、ペアワークよりもグループワークの方がよい。これは、受講者が他のメンバーの様々な意見を聞くことができるからであろう。ただし、1グループの人数は4人が限度である。それ以上になると、ワークをさぼる人が出てくる。私が前職で担当した研修の中には、講義:グループワーク=2:8という極端な割合のものがあった。それでも受講者には十分満足していただくことができた。

 3.グループワーク時には講師が積極的に介入する
 グループワークの際には、講師がそれぞれのグループの中に入って、議論のファシリテーションをするとよい。ただし、答えを誘導するような行為は慎むべきである。グループワークは解のない演習であるから、それぞれのグループの意向を尊重し、グループオリジナルの見解が導かれるようにする。すると、講師が想定していた解答とは違う考え方をするグループも出てきて、講師側としても非常に勉強になる。一番やってはいけないのは、グループワークの時間になると講師が後ろの席に戻って、自分のパソコンで別の仕事をすることである。

 4.テキストは穴埋めを作るなど、受講者が書き込めるようにする
 私が研修の運営をしていて気づいたのは、大人になるとメモを取る習慣が激減するということだ。もちろん、熱心に講師の話を書き取っている受講者もいるが、大半は聞いているだけである。そして、残念ながら、聞いただけの話はまず記憶に残らない。そこで、初等教育のような手法だが、テキストに穴埋めの箇所を設けて、半ば強制的に講義内容をメモさせるよう促すとよい。手を動かすと、受講者は勉強した気持ちになって、満足度が上がるようである。

 5.講師のプレゼン資料を配布テキストにしない
 講師の中には、重要なことを視覚的に訴えるため、情報量を極力減らし、アニメーションを多用したパワーポイントをプレゼンで使用する方がいる。ここで問題となるのは、そのプレゼン資料をそのまま印刷して、配布テキストにしてしまうことである。配布資料は、受講者が研修後に持ち帰って、必要に応じて読み返すための資料である。ところが、プレゼン資料をそのまま印刷した配布資料は、情報がスカスカで受講者が中身を思い出すことができない。上記4で書いたように、大半の受講者は講師の話をメモしないのだからなおさらである。

 私の考えでは、受講者が後から読み返しても理解できる内容の配布資料を作り、それをプレゼンでも使用するべきである。ただし、上記4の繰り返しになるが、ところどころに穴埋め箇所を設ける必要がある。よって、配布用テキストとしては穴埋め用の空欄があるものを、プレゼン用資料としては穴埋めをアニメーションで埋めたものを用意するとよい。

 6.昼食には十分配慮する
 遠方からの参加者で、研修会場周辺の地理に詳しくない方がいらっしゃる場合には、昼食時に会場周辺の飲食店マップを渡してあげると非常に喜ばれる。会場近くに飲食店がたくさんある場合は問題ないのだが、会場によっては周辺に飲食店がほとんどないことがある(これは地方に限った話ではなく、東京でもありうる。例えば、神谷町の近辺には飲食店が思いの外少ない)。その場合は、必ず業者から弁当を調達するべきだ。しかも、その弁当代をケチってはならない。昼食がおいしくないと、午後は受講者のモチベーションが下がってしまうからだ。

 7.複数日研修では、1日目の終わりに懇親会を行う
 研修が複数日にわたる研修では、1日目の終わりに懇親会を行うとよい。当然、講師も参加する。講師と受講者、そして受講者同士の心理的距離がぐっと縮まる。すると、2日目以降のグループワークの雰囲気ががらりと変わる。受講者同士が打ち解けるために、初日の最初にアイスブレイクを行うことが多いが、懇親会の方がアイスブレイクよりもはるかに効果的である。逆に、研修最終日に懇親会を行うのは最悪だ。「もっと早く仲良くなっていればグループワークもやりやすかったのに」と言われるのがオチである。第一、最終日は受講者も早く帰りたがっている。

 8.遠方からの参加者がいる研修は金曜日に実施する
 研修を企画する段階で、東京での研修であっても、群馬、山梨、静岡といった遠方からの参加者を想定することがある。この場合は、実施日を金曜日にした方がよい(複数日研修の場合は、最終日を金曜日にする)。なぜならば、遠方から参加した人が金曜日は東京に泊まって、翌日ゆっくり東京観光をした後に、地元に帰ることができるからだ。たとえ金曜日の宿泊代が会社から支給されなくても、である。逆に、金曜日以外の平日に設定してしまうと、遠方からの参加者はその日のうちに帰らなければならず、それだけでも研修に参加するのがためらわれるそうだ。

 9.会場の室温に注意する
 会場が暑すぎても寒すぎても、受講者からクレームが出ることがある。グループワークが熱気を帯びてくると室温が上がる。よって、講師はファシリテーションと同時に室温にも気を配らなければならない。冬は寒すぎると受講者の集中力が切れてしまうため、どうしても室温を高めに設定しがちだが、あまりに高くすると今度は受講者が寝てしまう。この点も要注意である。

 10.アンケートは簡素なものにする
 研修終了後には、受講者満足度を把握するためにアンケートを取るのが一般的である。ただし、受講者は早く帰りたがっているので、アンケートはできるだけすぐに書き終わるものにしなければならない。個人的には、①研修には満足だったか?(5段階評価)、②よかった点・改善すべき点は何か?(自由記述)、③今後取り上げてほしいテーマは何か?(自由記述)の3つだけを尋ねれば十分であると思う。そうすれば、アンケート用紙はA5(A4ではない)1枚に収まる。

 以前、私がある公的機関の研修を受講した時、アンケート用紙がA3両面2枚、つまりA4換算すると8ページもあってげんなりした記憶がある。お役所らしく、受講者の属性情報や研修の各パートに対する満足度、講師の評価、研修が今後の仕事に役立つかどうかなどをこと細かく質問してくるのである。受講者の満足度を把握するためにアンケートを取っているのに、アンケートが原因で満足度が下がるというのではないかとこちらが心配になってしまったぐらいだ。

 最後に、アンケートを匿名式にするか記名式にするかという問題がある。私の経験上、匿名式にすると回収率が下がる。ただ、アンケートを書いてくださった方は、本当に書きたいことがあって書いているわけだから、より突っ込んだ内容の記述(その多くは批判)をしてくださる。逆に、記名式の場合はほぼ100%回収できる。しかし、研修や講師のことを悪く書くと、誰がそれを書いたかすぐにバレることに遠慮してしまうせいか、当たり障りのない感想が中心となる。


2014年06月27日

高橋史朗『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』―戦後の日本人に「自由」を教えるため米ソは共謀した


日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
高橋史朗

致知出版社 2014-01-29

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 著者は、戦後教育が自虐史観で塗りつぶされる原因を作った4人の”戦犯”を断罪している。

 (1)ルーズ・ベネディクト
 『菊と刀』の著者。乳幼児期の厳しい用便の躾が「菊の優美と刀の殺伐」に象徴されるような日本文化の型、日本人の性格構造の「二面性」の原因であり、さらに階層秩序に異常に執着する日本人の「病的特性」や「伝統的攻撃性」の文化的土壌であり、侵略戦争の原因だと指摘した。

 (2)ジェフリー・ゴーラー
 イギリスの社会人類学者。ベネディクトの土台になった2つの論文『日本人の性格構造とプロパガンダ』と『日本文化におけるいくつかのテーマ』を著した。後者の論文は前者の論文の要約であるが、その中でゴーラーは、日本人の国民性には矛盾する二面性があるとし、その根底に乳幼児期の厳しい用便の躾(トイレット・トレーニング)があると結論づけた。また、ゴーラーは、日本人の国民性の定義として、(ⅰ)原始的、(ⅱ)幼稚および未熟で不良少年の構造に類似、(ⅲ)精神的・感情的に不安定という3つを挙げ、日本人は「集団的神経症」であると主張した。

 (3)ハロルド・ラスウェル
 アメリカの政治学者。ゴーラーが論文を書くにあたって情報を提供した人物の1人。ラスウェルは、「日本人の子どもの躾に関する件」というタイトルのついた報告書の中で、「日本人は儀式化された無表情な公の顔を持つ一方で、めそめそした酔っ払いという2つの相反する顔を持つ」と書いた。また、著書『権力と人間』では、政治家は幼少期に権力に関する嫌な出来事を経験した記憶の反動として権力を志向するようになると述べた。

 (4)D・C・ホルトム
 アメリカの神道学者で、ゴーラーとベネディクトに影響。神道と軍国主義・超国家主義を混同し、間違った日本文化論と宗教論によって、日本人の「精神的武装解除」を推進するきっかけを作った。戦後の教育改革に特に大きな影響を与えた「4大指令」というものがあり、その中には、学校における神道行事と神道や皇室についての教育を禁止した「神道指令」が含まれるが、その契機となったのは、ホルトムが出した国家神道に対する占領政策についての勧告であった。

 日本社会は階層社会であり、下の階層の者は絶えず上の階層の権力から虐げられている。その反動として、自分が上の階層に上った時には、先人が持っていたような権力を志向するようになり、自分が受けたのと同様の暴力を下の階層に及ぼすようになる。さらに、その暴力性が下の階層だけでなく外部に向けられるようになると、侵略戦争につながる。そして、階層社会の象徴こそ、神を頂点としてあらゆる者を序列化する「神道」であり、日本人が皆共通して受ける権力からの最初の被害こそ「トイレット・トレーニング」である。4人の主張をまとめると、こういうことなのだろう。よって、戦後教育の方向性は、階層の否定と子どもに対する自由の付与となる。

 最近、戦後の歴史教育について学んでいる中で不思議だったのは、どうやら戦後教育は米ソ両国の影響を受けているという点であった。例えば、坂本多加雄氏の『歴史教育を考える―日本人は歴史を取り戻せるか』には、次のように書かれている。
 現在の歴史教科書は、戦後的価値を絶対視するという観点から記述されているため、日本の他の時代および他の国の歴史への理解を著しく阻害している。すなわち、戦後に獲得されたとされる民主主義と平和主義によって、現在という時代がもっとも良い時代であるといった印象を与えるような記述になっている。(中略)

 また、現在の教科書に反映されている学問的水準は、ひとことで言って昭和20年代から30年代の、講座派マルクス主義のものと言ってよいだろう。(中略)そのため、歴史を社会主義の実現の過程と考え、階級闘争史観により抑圧者と被抑圧者の闘争として描くことが多く、たとえば江戸時代の記述において、農民は重税に苦しめられ収奪されているといった面が過度に強調されている。
歴史教育を考える―日本人は歴史を取り戻せるか (PHP新書)歴史教育を考える―日本人は歴史を取り戻せるか (PHP新書)
坂本 多加雄

PHP研究所 1998-02

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 前半はアメリカの影響を、後半はソ連の影響を示唆している。なぜ、イデオロギーが全く異なる両国が関与しているのか不可解だったのだが、本書を読んでその理由が少し解った気がする。
 共産主義者はソ連に国益のあるコミンテルン史観を信奉しています。コミンテルン史観によると、明治維新以来、日本の対外戦争はすべて天皇制絶対主義国家の侵略戦争であると見なしています。(中略)一方、アメリカの歴史観は、満州事変以降の十五年戦争(日中戦争)を侵略戦争と書いています。

 そういう意味では、両者の歴史観には根本的な違いがあるのですが、不思議なことに、異質な米国史観とコミンテルン史観が合体することになりました。なぜそれが可能だったかというと、日本が対外戦争を起こした軍国主義や超国家主義の根底に天皇制・天皇信仰を中心とする日本文化や神道があり、それらに根差した日本人の国民性があるという共通理解があったからです。
 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの最後の段階では映画が重視されました。そこに映画会社が協力したというのは、共産主義の組合が関係していたからです。戦時中に戦争映画を多く製作することで政府に協力して戦意高揚に努めた東宝が、戦後一貫して最も過激な組合員を生み出し、占領軍に協力して民主主義映画の数々を製作したのは、占領軍と共産主義者の癒着を象徴するものでした。

 とくに、日本人の伝統的価値観の1つである「忠義」や「復讐」に対して、占領軍の検閲官は強く反発し、映画から追放しなければならないと考えました。一方、労働運動は日本の民主的再建に必要であると考えて推奨しました。占領軍は、日本人の伝統的価値観、軍国主義、超国家主義を排除するために、これらに最も否定的な共産主義者、労働組合員を積極的に利用したのです。
 私の不勉強のせいで十分な記述にならず恐縮なのだが、資本主義も社会主義も「自由」を志向するという根っこの部分ではつながっているのかもしれない。そして、その自由を起点として民主主義を希求するところまでは共通しているのかもしれない。では、何をきっかけに資本主義と社会主義は分化していくのだろうか?また、どうして社会主義よりも資本主義の方が世界で優勢となったのだろうか?私の次の疑問はこの辺りにある。

 それと同時に、日本は果たして資本主義や社会主義というイデオロギーで語れる国家・社会なのかも考えなければならないだろう。資本主義や社会主義は、アメリカやソ連という比較的若い国家が採用したイデオロギーである。しかし、日本はそういうイデオロギーよりもはるか以前から存在していたのであり、資本主義や社会主義は「日本的な何か」に接ぎ木された思想に他ならない。では、日本の本質とは何なのか?その本質から歴史を見つめ直した時、何が見えてくるか?これらの問いに答えることが、日本が「歴史を取り戻す」上で重要になるはずである。


2014年04月07日

『少年老い易く学成り難し(致知2014年4月号)』―「詰め込み知識」と「考える力」についての一考


致知2014年4月号少年老い易く学成り難し 致知2014年4月号

致知出版社 2014-04


致知出版社HPで詳しく見る by G-Tools
 どういう演奏をしたいのか。その意思を確固として持つ。その上で自分の意思を楽員にどうやって伝えるかという技術を徹底的に教わりました。その一つが指揮法である、もう一つは具体性。つまり、『ここは愛の場面ですからもっと愛を感じて』といった抽象的な表現ではなく、『ここは長く、ここは短く』あるいは『ここは強く、ここは弱く』といったように徹頭徹尾、具体的な指示を出すべきだと教わりました。
(指揮者・飯守泰次郎「作曲家の求めたる音楽を限りなく追い求める」)
 この部分にはちょっと違和感を覚えた。オーケストラの世界については全くの無知なので見当外れな指摘かもしれないが、指揮者がここまで具体的な指示を出してしまうと、演奏者の考える力が奪われてしまうように思える。

 指揮者と演奏者は短期間のうちに作品を仕上げなければならないから、演奏者にいちいち考える時間を与えるゆとりはないのかもしれない。飯守氏のやり方は、暗黙知を形式知に変換して、知をすばやく伝播させることをよしとする欧米流のやり方(ステレオタイプだが)のようにも感じる。しかし、これでは演奏者は指揮者のプログラムに従うだけの機械になってしまうのではないか?そして、誰が指揮者であっても同じ演奏になってしまうのではないか?

 それよりも、「この箇所で愛を表現するにはどうすればよいか?」ということを演奏者に徹底的に考えさせ、演奏者と議論し、ともに試行錯誤することが、深慮に立脚した味わい深い演奏につながるはずだ。その知的探索の厚みが、いかにもその指揮者とその演奏者らしい演奏を創り出す。そして、何よりも演奏者自身の成長が促される。

 もちろん、この方法は時間がかかる。演奏者全員が指揮者の思い通りに考え抜き、成長するとは限らない。別のインタビュー記事で、落語家の桂歌丸師匠が次のように述べている。
 噺を教えることはできるんです。ただ、(落語にとって最も重要な)間を教えることはできない。私たちの商売は、早く自分の間を拵えた人間が勝ちです。いつまで経っても間のできない噺家がいる。もっと極端に言うと、生涯間のできない噺家がいる。間抜けって言葉があるじゃないですか。それと同じですよ。
(落語芸術協会会長・桂歌丸「落語の道に終わりなし。目を瞑る時まで磨き続ける」)
 間に関しては、師匠が明確に教えることがない。弟子はああでもない、こうでもないと繰り返し、師匠はちょっとよくなった、ちょっと違うと評価する。ここで師匠が、「ここの間では○○秒間を空けよ」などと教えたら、その間は台無しになる。間とは定量的な時間を超えた概念であるがゆえに、簡単には教えられないのである。

 だから、考える力がある弟子とそうでない弟子の間には歴然とした差が生じる。考える力がある弟子は、一生かかっても間を習得することがない。一方で、考える力がある弟子は、苦労の末に体得した絶妙な間で、大きな笑いを生み出すことができる。目と耳の肥えた聴衆は、「あの噺家の話には、独特の味がある」と評することだろう。それがその噺家の評価となり、ブランドとなり、他の噺家と一線を画するポイントとなる。

《追記》
 今日の記事は、詰め込み教育を是とした以前の記事「『塾&予備校 徹底比較(『週刊ダイヤモンド』2014年3月1日号)』―詰め込み教育こそ考える力の源泉」の内容とやや矛盾しているように感じられるかもしれないので補足。オーケストラの演奏者が考える力を発揮するためには、演者に一定の知識がなければならない。それは、演奏する楽器に関する技術的な知識もさることながら、作曲者の音楽に対する考え方やメンタルモデル、そしてそれらを生み出した時代的背景などに関する知識であろう。飯守泰次郎氏は別の箇所で次のように述べている。
 作曲家の脳裏に描かれたものは音符に描かれています。その音符を機械的に再現するのではなく、音符の背後にある作曲家のイメージを100%理解することはできなくても、少しでも肉薄する。そのためにはどんな努力も惜しまないことです。

 私が最も影響を受けた指揮者の1人が巨匠・フルトヴェングラーですが、彼はこう言っています。「本当の音楽を体験するには当時の作曲家の意思、意図したこと、そしてそれを受け継いで演奏してきた時代を知ることだ」と。フルトヴェングラーは音符の背後にあるものを読む人でした。
 作曲者が愛についてどう考えていたのか?それを知るには、作曲者の生涯をたどり、作曲者が遺した文章なども読み込まなければならないだろう。また、愛についての当世の時代意識に迫るには、その時代の文学作品なども重要なリソースとなる。さらに、作曲者が生きた時代や、そのような文学作品を生み出した社会的・歴史的文脈についても理解を深める必要があるに違いない。演奏者は、こうした複合的な知識を”詰め込んだ”上で、作曲者が表現したかった愛とは何かに思いをめぐらせ、その愛の表現方法を演奏に関する技術的知識と結合させるわけである。



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