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DHBR2018年10月号『競争戦略より大切なこと』―当たり前だが戦略もオペレーションもどちらも重要
『致知』2018年10月号『人生の法則』―「夢や希望」がある人と「志がある人」では「八観六験」の結果がこんなに違う
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)


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2018年09月14日

DHBR2018年10月号『競争戦略より大切なこと』―当たり前だが戦略もオペレーションもどちらも重要


DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年10月号 [雑誌] DIAMONDハーバード・ビジネス・レビューDIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年10月号 [雑誌] DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2018-09-10

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 「競争戦略より大切なこと」という特集でありながら、競争戦略論の大家であるマイケル・ポーターの論文「『何をすべきか』、そして『何をすべきでないか』 戦略の本質」という論文を再掲し、それに対して、「いやいや、競争戦略やポジショニングよりも業務効果(オペレーショナル・エクセレンス)が重要だ」と主張する論文「1万2000社超の大規模調査が明かす 競争戦略より大切なこと」(ラファエラ・サドゥン、ニコラス・ブルーム、ジョン・ヴァン・リーネン)を載せて、結局は「戦略もオペレーションもどちらも大事である」という、至極まっとうなことを述べた「強い会社が持つ4つの要因 『学習優位』の競争戦略」(名和高司)という論文から構成される特集である。

 そもそも、ポーターが競争戦略論を提唱したのは、次の理由による。縦軸に「買い手に提供された価格以外の価値」、横軸に「相対的に見たコストポジション」を取ってグラフを描くと、生産性の限界線ができるのだが、この曲線の内部に位置する間は、品質と低コストの両方を同時に追求することが可能であった。1980年代に日本の自動車業界が競争力を持ったのはこのためである。ところが、生産性が向上し、生産性の限界線上に位置するようになると、品質と低コストの二兎追いが難しくなる。両者はトレードオフの関係になる。だからポーターは、品質を追求する差別化戦略か、低コストを追求する価格戦略のどちらかしか企業は採用できないと主張したわけである(もう1つのニッチ戦略と合わせて、ポーターの3つの基本戦略と呼ばれる)。

 だが、私が思うに、生産性の限界線は固定的ではない。企業が成長し、多様な顧客を取り込み、様々な製品・サービスを取り扱うようになると、企業活動は複雑性を増す。その分、生産性を向上させる余地が生まれる。つまり、生産性の限界線は右上へとシフトする。もちろん、企業も生産性向上の努力をするものの、それ以上のスピードで生産性の限界性は右上へと移動していく。その結果、企業は未だに生産性の限界性の内側に取り残される。だから、品質と低コストの両方を追求することは可能である。いやむしろ、昨今の競争環境の厳しさを考えれば、両方を徹底的に追求し、遠ざかる生産性の限界線に追いつかなければならない。この点で、オペレーション重視の伝統は死んでいない(むしろ、ますます重要になっている)と言える。

 とはいえ、企業はオペレーションだけを一生懸命磨いていればよいというわけではない。ブログ別館の記事「ゲイリー・ハメル『リーディング・ザ・レボリューション』―イノベーション=自己否定ができない人間をトップに据えてはいけない」で書いたように、イノベーションの脅威があるからだ。私はアンゾフの成長ベクトルを拡張して、①非顧客に着目して既存製品・サービスの新しい使い道を発掘する「新市場開拓戦略」、②全く新しい市場に全く新しい製品・サービスを供給する「完全なるイノベーション戦略」、③代替品や破壊的イノベーションなど、既存の産業・市場構造を抜本的に刷新する「代替品戦略」という3種類のイノベーションを想定している。

 このうち、「新市場開拓戦略」と「完全なるイノベーション戦略」は、新しい市場を追加するものであるから、既存事業にとっての脅威は(ないとは言わないが)それほど大きくない。怖いのは「代替品戦略」である。というのも、代替品は既存事業を完全に吹き飛ばす威力を持っているからだ。そして、これだけ社会が成熟してくると、完全に新しい需要を一から生み出すことは非常に難しく、イノベーションの大部分は代替品戦略になると予測される。経営陣は自社の既存事業を潰さないように、代替品戦略というイノベーションを先取りしなければならない。これは、ブログ別館の記事「河合忠彦『戦略的組織革新―シャープ・ソニー・松下電器の比較』―3社のその後の命運を分けた要因に関する一考察」で書いた「包括的戦略」に該当する。

 経営陣は包括的戦略を主導する。現在の経営陣は、既存事業で成功したから現在の地位があるわけであって、過去の成功を自ら否定することには後ろ向きになる。だが、イノベーションの脅威に目をつぶった結果自社を苦境に陥れて経営責任を取るはめになるならば、裏を返せば、イノベーションを先取りして自社の事業を革新することも経営責任だと言えるはずだ。

 経営陣はまず、新しいミッション、ビジョン、価値観を掲げる。そして、それらに基づく新しい製品・サービスコンセプトを構想する。その上で、その製品・サービスを顧客に提供するためのビジネスエコシステム(生態系)を設計する。近年は、自社の利益を中心に据えたビジネスモデルという言葉よりも、多様なパートナーと一体となって顧客価値を提供するという点を重視して、ビジネスエコシステムという言葉が使われる。ビジネスエコシステムは、複雑な顧客価値を企業が単独で提供することが難しく、他社との協業が不可欠であるという前提に立っている。とりわけ今後重要になるのが、異業種との連携である。過去の代替品によるイノベーションを見ると解るように、代替品は予期せぬ異業種からやってくる。据え置きゲーム機、CD、DVD、メール、デジカメ、書籍、漫画、雑誌、クレジットカードなどは、スマートフォンという異業種によって破壊された。だから、異業種からの参入には、異業種との連携で対抗するのが効果的である。

 また、ビジネスエコシステムでもう1つ重要になるのが、競合他社との連携である。ポーターの競争戦略論は、競合他社を叩くことを主眼に置いている。本号に収録されている論文はポジショニングに関するものであったため、競合他社叩きは影を潜めていたものの、ポーターの大著『競争の戦略』は、有名なファイブ・フォーシズ・モデルを用いて、いかにして業界内で自社のパワーを保ち、競合他社を排撃するかについて多くのページを割いている。しかし、そのようなやり方はもう時代に合わなくなってきているということであろう。

競争の戦略競争の戦略
M.E. ポーター 土岐 坤

ダイヤモンド社 1995-03-16

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 ブログ本館の記事「岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』―現代マネジメントへの挑戦状」で、アドラーは垂直的な競争を否定し、各々がそれぞれのやり方で前に向かっていくような水平関係を構築しなければならないと主張していることを書いた。私はこの意味をまだ十分に咀嚼できていないのだが、1つの解釈として次のような見方が成立すると考える。以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」で書いたように、日本企業が強いのは、右下の「必需品である&製品・サービスの欠陥が顧客の生命(BtoC)・事業(BtoB)に与えるリスクが大きい」という<象限②>である。

 この象限は必需品であるから、何としてでも全ての顧客のニーズを満たさなければならない。しかも、顧客のニーズは多様化かつ高度化している。すると、どの企業も単独では個別の顧客のニーズに完全には対応できない恐れがある。一方で、各企業には、長年にわたって獲得された精緻で微細かつ多彩な組織能力が蓄積されている。自社のターゲット顧客でありながら自社の組織能力では十分に対応できない場合は、競合他社の組織能力の一部を借りる。逆に、他社のターゲット顧客でありながらその企業の組織能力では十分に対応できない場合は、自社の組織能力の一部を提供する。こうして、競合他社間で細かく組織能力を調整し、市場の全顧客のニーズに応える。これが競合他社との連携の1つのあり方ではないかと考える。

 ビジネスエコシステムの設計の後には、研究開発・製品開発チームの編成、ビジネスプロセス・組織体制の見直し、人材育成の実施、評価制度の再構築などが続く。(外部のコンサルタントである私が言うことではないが、)外部のコンサルタントにこうした一連の経営改革の支援を依頼すると、論理的には筋の通った案を作成してくれる。ただ、注意しなければならないのは、製品・サービスコンセプト、ビジネスエコシステム、研究開発・製品開発チーム、ビジネスプロセス、組織体制、人材育成、評価制度に、自社の新しい価値観を丁寧に織り込んでいくという情理面の作業が欠かせないということである。これを怠ると、頭では理解できるが気持ちがついていかないという改革になって、最悪の場合改革が計画倒れになってしまう。

 イノベーションに関してよく問題になるのが、「イノベーションの組織を既存事業と分けるべきか?」という点である。イノベーションはすぐに成果が出ない。それに、既存事業とは異なる仕事のやり方が求められる。よって、既存事業と同じマネジメントを適用したり、同じ業績指標で評価したりするとすぐに潰れてしまう。だから、イノベーションの組織は既存事業から分けるべきだというのが一般論である。古くはピーター・ドラッカーがそのように主張していたし、破壊的イノベーションを提唱したクレイトン・クリステンセンもドラッカーを支持していた。

 この点に関しては、以前の記事「『イノベーションのジレンマ(DHBR2016年9月号)』―イノベーションの組織は既存組織と分けるべきか否か?」で論じたことがある。先ほど挙げた3つのイノベーションの類型のうち、①新市場開拓戦略は、既存事業の延長線上に新市場を創造するから組織を分けない方がよい、②完全なるイノベーション戦略は、既存事業とは全く異なることを行うから組織を分けた方がよい、③代替品戦略は、既存事業にとって脅威となり、既存事業から妨害を受ける恐れがあるから組織を分けた方がよい、というのが当時の結論であった。今、この記事で中心的に取り上げているのは代替品戦略であるから、それに絞って話を進めると、果たして組織を分けた方がよいのかどうか、最近は私の中で考えが揺れている。

 というのも、仮に代替品戦略が成功して既存事業がお払い箱になった場合、既存事業の社員を簡単に捨て去ってよいのかという疑問が生じるからである。よく考えてみると、既存事業と代替品は完全なる対立関係にあるとは限らない。既存事業の社員は、顧客が代替品へとシフトすることを支援することもできる。よって、両方の組織を分けずに、代替品の浸透に伴って、徐々に既存事業の社員を代替品事業へと移行するという手もあるのではないかと思うようになった。もっとも、代替品の普及スピードなど様々な要因に左右されるため、代替品戦略だからといって既存事業と組織を分ける/分けないと杓子定規に決められる問題でもないのが難しい。

 もう1つ、イノベーションに関する論点としてよく挙がるのが、「イノベーションはアジャイルで完成できるのか?」というものである(本号には、アジャイルに関する論文もあった)。個人的には、イノベーションにアジャイルを適用することには懐疑的である。とりわけ、日本企業が強い<象限②>は、モジュール化が進んだとはいえ、未だに擦り合わせがものを言う。だから、部分的なアジャイルの導入はできても、完全なるアジャイルは難しいと考える。そもそも、アジャイルは、製品・サービスを完結したモジュールやコンポーネントに分解し、開発者は自分が担当するコンポーネントの完成に集中すればよいという考え方である。その意味で自己実現的であり、誤解を恐れずに言えば自己満足的、利己的である。しかし、日本人の強みは利他的であることとチームワーク重視である。アジャイルの原則は日本人の精神と相容れないように感じる。

 話は変わるが、現在経済産業省は、日本企業の競争力を回復・強化するために、あらゆる産業で合併・経営統合を進めている。だが、私はあまり好ましい傾向だとは思わない。経産省は、企業が合併すれば経営が合理化されてコスト減につながると安易に考えている節がある。しかし、マーク・L・シロワー『シナジー・トラップ―なぜM&Aゲームに勝てないのか』(プレンティスホール出版、1998年)を読めば解るように、シナジー効果というのはそう簡単には表れない。まして日本の場合、企業同士が大きすぎて合併することが難しく、持ち株会社を作って経営だけを統合し、傘下の企業には独立運営を認めるというパターンが多い。この場合、コスト減などのシナジー効果はかなり限定されてしまうと考えた方がよい。

シナジー・トラップ―なぜM&Aゲームに勝てないのか (トッパンのビジネス経営書シリーズ)シナジー・トラップ―なぜM&Aゲームに勝てないのか (トッパンのビジネス経営書シリーズ)
マーク・L. シロワー Mark L. Sirower

プレンティスホール出版 1998-06

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 最も危険なのは、産業の川上に位置する企業を合併・経営統合することである。川上の企業は川下の企業に比べて取り扱っている製品が少ないから、合併・経営統合すればスケールメリットが得られると思われがちである。だが、川上の企業が合併・経営統合されると、実は、川下の企業の戦略が同質化する。解りやすい例で言うと、近年食品メーカーが季節ごとに発表する新製品が似たり寄ったりになっている。ある年はどのメーカーもイチゴを使った製品を出し、ある年はどのメーカーも梨を使った製品を出す。これは、食品産業における川上の企業が集約化されているためである。市場の多様なニーズに対応し、川下の企業が幅広い戦略的ポジショニングを取れるようにするためには、川上の企業こそバラエティに富んでいなければならない。川下の企業は、川上の企業の独自性あふれる製品を活かして、競合他社と差別化された製品を作る。だから、川上の企業を集約するなどというのは禁じ手である。

 経産省は、縮小する国内市場を埋め合わせる形で、合併や経営統合によって海外の需要を取り込もうと息巻いている。しかし、海外の需要を獲得するということは、その分だけ現地国企業の売上を奪うことでもある。私は経済音痴なのでまたおかしなことを言っていると思われるかもしれないが、これは新しい経済植民主義とでも呼ぶべき現象である。日本は世界各国から評価されているから、日本企業の進出は海外で諸手を挙げて歓迎されると思ったら大間違いである。どの国も、最初に考えるのは自国民の雇用を確保することである。よって、新興国をはじめ、外資企業の参入を規制している国は決して少なくない。

 日本の人口が減少するということは、需要も減るが供給も減る。経産省がなすべきことは、いつまでも成長神話にとらわれて企業を合併・経営統合し、企業を巨大化させることではなく、逆に、減少する需要に合わせて供給力を調整することである。とはいえ、その過程で余剰の人員はどうしても発生する。しかし、幸いにも新しい産業が生まれているし、人手不足の産業も存在する。余剰人員をこれらの産業にシフトさせるよう、職業訓練を施したり、セーフティーネットを整備したりすることこそ、経産省に求められる仕事である。

 最後に、経産省の仕事についてもう1つ注文をつけておく。経産省の仕事は、産業・企業に介入することだと思われている。だが、私が本ブログで何度か示している日本社会の多重構造「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」という図式に従えば、行政府の一部である経産省がまず介入するべきは市場/社会である。つまり、有限の資源を上手に分け合って国民が物質的・精神的に恵まれた生活を送るために、よき消費者/市民として振る舞うよう導かなければならない。先ほどの構図は、階層構造の上に行けば行くほど利他的でなければならず責任が伴い、下に行けば行くほど利己心が許され自由が認められることも示している。「市場/社会」は階層構造のちょうど中間に位置し、利己心/自由とともに利他心/責任も要求される。顧客は神様だから、また自由市場経済だから、消費者は自由に振る舞ってよいとは私は考えない。消費者/市民には一定の社会性が要求される。

 かつて経産省は、大型スーパーの台頭に伴って、「安く、早く、高品質のものを購入するのが賢い消費者」というイメージを国民に吹き込んだ。その結果、企業は過度な価格競争に巻き込まれ、高品質への対応に苦慮し、モンスターペアレントに手を焼くことになった。消費者が勝手気ままに企業に要求を突きつける⇒業績が悪化した企業は社員の給与を下げる⇒社員が消費者側の立場になった時に苦しい生活を強いられ、暴走する⇒企業はさらに社員の給与を引き下げる⇒社員は消費者となった時にもっと暴徒化する―現在起きているのはこうした悪循環である。経産省はこの悪循環を断ち切る新しい消費者/市民像を提示しなければならない。例えば、製品・サービスの価値を正しく評価する、価値に見合う価格を支払う、1人の人間として道徳的・倫理的に行動する、企業のCSRを意識する、ほしい製品・サービスがない時は我慢するなどといった像である。経済産業省は、市場経済省などと名前を改めた方がよいと思う。


2018年09月10日

『致知』2018年10月号『人生の法則』―「夢や希望」がある人と「志がある人」では「八観六験」の結果がこんなに違う


致知2018年10月号人生の法則 致知2018年10月号

致知出版社 2018-09


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 私が前職の組織・人事コンサルティング&教育研修サービスを提供するベンチャー企業に勤めていた頃、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第1回)】経営ビジョンのない思い入れなき経営」で書いたように、当時の経営陣(皆、大手コンサルティングファームでパートナー〔共同経営者〕にまで上り詰めた人である)は、あろうことか自社のビジョンの策定を外部のコンサル会社に丸投げしていた。でき上がった成果物はコンサル会社らしく、何十ページにも及ぶ細かいレポートであったものの、ビジョンがそんな長ったらしいものでは社員に浸透するはずもなく、外部のコンサル会社に支払った大金は無駄金になってしまった。

 さすがにこのままでは社員が皆バラバラになってしまうと感じた一部の社員は、自力でビジョンの策定に乗り出し、私もメンバーの一員に入らせてもらった。だが、マネジャーからは、「ビジョンがあったところで何になるのか?」、「今のところ仕事がそれなりに回っているのだから(実際には回っていなかったのだが)、ビジョンなど必要ない」などと猛反発を食らってしまった。

 確かに、私は以前、「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)」という記事を書いたことがある。ただ、これは、内発的に創造されたイノベーションを全世界に普及させて莫大な富を生み出そうとする自己実現的な考え方に染まった一部のアメリカ人イノベーターには明確なビジョンが必要だと言ったまでのことであって、日本企業はビジョンを掲げなくても全く問題ないなどとは一言も言っていない。

 ビジョンとは、事業の将来イメージである。顧客は自社の製品・サービスをどのような気持ちで使用し、どんな幸福を手に入れるのか、顧客に奉仕する社員はどのような働きぶりをしているのか、自社と協業するパートナーや取引先とはどんな関係を構築しているのか、こうした点について、おぼろげながらも言葉にしておくことが重要である。考え方も価値観もバラバラな社員が同じ方向性に向かって大きな仕事をやり遂げる際に、ビジョンはそのよりどころとなる。現に、ビジョンがある企業は、ビジョンがない企業よりも平均で4倍業績が高いというデータもある。

 仮にも組織・人事コンサルティングのサービスを手がけている企業でありながら、こういった点に対して上層部が全くの無理解であることには驚きを隠せなかった。それでも何とかマネジャーたちを説得して、オフィスの一角に大きなホワイトボードを設置し、そこに経営陣や社員が思い描くそれぞれのビジョンを書き出してみようということで話がまとまった。我々の活動に賛同してくれた社員がポツポツとビジョンを書いてくれたのだが、ある時、グループ会社の社長が「1,000億円の寄付をする」というビジョン(?)を書き込んだ瞬間、その内容に他の社員が引いてしまったのか、書き込みがパタリと止まってしまった。

 この社長は、前職の大手コンサルティングファームに所属していた時にストックオプションを付与されており、同社の上場に伴ってそれなりの資産を手にしたらしい。噂によると10億円単位の収入があったという。それを元手にして自社のビジネスを大きくし、1,000億円の寄付をするというアイデアを思いついたのかもしれない。だが、これはその社長の個人的な夢であって、先ほど述べたビジョンとは性質が全く異なる。結局、この一件があってから、自社のビジョンをまとめるという我々の作業は頓挫してしまった。この会社はどこまで行っても皆がまとまらず、個人事業主の集まりのようなものなのだとひどく落胆したものである。

 そういえば、前職の企業の経営企画部長は、実は社員ではなく、個人事業主であった。彼だけ他の社員と違って出勤時間も休日の取り方も異なるので、私は不可解に思っていた。ある時、彼の名前をネットで調べたところ、実は既に個人事業主として独立しており、前職の企業とは業務委託契約ベースで仕事をしていたことが判明した。経営企画という、戦略の中枢ですら外部に丸投げしてしまうのだから、会社が1つにまとまるなどというのは夢のまた夢であった。

 以前の記事「【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因」でも書いたように、本号には「夢や目標はあるけれど、志はあるのか」(河村京子「言い続け、思い続け、やり続ければ、夢は必ず実現する」)という言葉があった。夢や目標というのは、例えば「高級な家に住みたい」、「ベンツに乗りたい」などといった利己的なものである。他方、志とは、人々を幸せにしたい、この世界をもっと住みよい場所にしたいといった利他的なものである。

 先ほどのグループ会社の社長の「1,000億円の寄付をする」という宣言は、どのような利他的な事業を行って1,000億円以上の利益を獲得し、社会に還元するのかという観点がすっぽりと抜けており、単に自分が1,000億円寄付したいという願望を表したものにすぎないから、利己的な夢や目標である。ただし、そう批判する私も、前掲の記事で書いたように、前職の企業にいた頃は「30歳でマネジャーになって年収1,000万円を稼ぎたい」と思い、それが叶わずに独立した時には「35歳には年収1,000万円を達成する」と思っていたのだから、利己的な夢や目標を掲げていたという点では同じである。むしろ、グループ会社の社長に比べると夢や目標がしょぼすぎて、スケールが小さい人間だと逆に非難されてもおかしくない。だから、今度私が独立診断士に再挑戦する時は、利他的な志を真剣に、慎重に設定しなければならないと思っている。

 本号では、陽明学者の安岡正篤が好んで引用していた「八観六験」が紹介されていた(安岡正泰、荒井桂「後世に語り継ぎたい」)。元々は中国の戦国時代に編集された『呂氏春秋』に記されているものであり、人間を八つの面から観察し、六種の方法で試し、その品格を見極める方法である。私は、「夢や目標がある人」と「志がある人」では、「八観六験」のそれぞれの方法に対する答えが次のように異なるのではないかと考える。

 【八観】
 ①通ずれば其の礼する所を観る。
 (順調に物事が進んでいる時、何を礼するかを観察する)

 【夢や目標がある人】結果ばかりに気を取られているため、プロセスを気にしない。多少プロセスから外れていても、結果が出ているのだからいいではないかと開き直る。
 【志がある人】その成果が適切なプロセスにのっとったものであるかどうかを厳しく検証する。組織として守るべき手順が守られていない場合には成果を評価しない。まして、組織の価値観から外れたやり方で成果を上げた場合には、絶対にそれを認めない。

 ②貴(たか)ければ其の進むる所を観る。
 (出世して、どういう人間を尊ぶかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分と同じように、自分の努力で、腕一本で成功したことを自慢する人たちを尊敬する。派手好きで、高い社交性を持った人と交わる。
 【志がある人】自分の成功は、自分よりも優秀な人材を活用することでもたらされたことに感謝する人たちを尊敬する。素朴で、謙虚な人と交わる。

 ③富めば其の養ふ所を観る。
 (金ができ、何を養うかを観察する)

 【夢や目標がある人】まずは自分自身を養う。余りが出れば、慈善活動にお金を回す。
 【志がある人】まずは顧客に還元し、顧客に感謝する。次に社員に還元し、社員の豊かな生活を支援する。次に取引先に還元し、取引先の努力に報いる。次に株主に還元し、株主の元手のおかげで事業を大きくできたことに謝意を示す。自分に還元するのは最後である。

 ④聴けば其の行ふ所を観る。
 (よいことを聞いて、それを実行するかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分にとって都合のいいことを取捨選択する(選択バイアス)。
 【志がある人】自分にとって耳が痛いことであっても、その意味するところを深く考え、自分の今までの考えが誤っていなかったかどうかを反省し、改めるべきところは改める。

 ⑤止(いた)むれば其の好む所を観る。
 (仕事が板についた時、何を好むかを観察する)

 【夢や目標がある人】業務を効率化し、どうすればもっと楽に儲けられるかを考える。
 【志がある人】顧客価値を見直し、どうすればもっと顧客に満足してもらえるかを考える。

 ⑥習へば其の言ふ所を観る。
 (習熟すれば、その人物の言うところを観察する)

 【夢や目標がある人】他人から学んだことを、さも自分の考えであるかのように語る。
 【志がある人】他人から学んだことを自分なりに咀嚼し、自分自身の言葉で語る。

 ⑦窮すれば其の受けざる所を観る。
 (困った時、何を受けないかを観察する)

 【夢や目標がある人】困っている以上、手段を選ばずに何でも仕事を引き受ける。
 【志がある人】価値観や倫理に反すること、人間として正しくないことには手を出さない。

 ⑧賎なれば其の為さざる所を観る。
 (落ちぶれた時、何を為さないかを観察する)

 【夢や目標がある人】落ちぶれた原因を周りの環境のせいにし、自分では反省しない。
 【志がある人】落ちぶれた原因を自分自身に求め、周りの環境のせいにしない。

 【六験】
 ①之を喜ばしめて以て其の守(外してはならない大事なことを守れるか)を験す。
 【夢や目標がある人】お金になるなら何でもよいと言ってどんな仕事にも飛びつく。
 【志がある人】たとえお金になるとしても、価値観や倫理に反する仕事は断る。

 ②之を楽しましめて以て其の僻(人間的かたより)を験す。
 【夢や目標がある人】すぐに浪費、享楽に走る。酒による失敗をしでかしやすい。
 【志がある人】趣味、娯楽はほどほどにする。人づき合いやお酒も節度を守る。

 ③之を怒らしめて以て其の節(節度)を験す。
 【夢や目標がある人】過度に感情的になり、相手の人格を否定するほど激しく攻撃する。
 【志がある人】相手の怒りの根を分析し、対立の原因を探って、対話のテーブルにつく。

 ④之を懼れしめて以て其の持(独立性、自主性)を験す。
 【夢や目標がある人】恐怖にうろたえて、普段は社員などのことを大してあてにしていないくせに、困った時だけは社員に問題の解決を丸投げする。
 【志がある人】普段は社員の能力を活用するよう努力しているが、大きな問題が起きた時は社員任せにせず、自分自身の軸をしっかりと持って、問題解決を先導する。

 ⑤之を哀しましめて以て其の人(人柄)を験す。
 【夢や目標がある人】自分の能力に対する自信が強いが、所詮空元気であり、失敗や悲しみに対しては脆く、自分の利己的な目標が達成できないと解ると自暴自棄になる。
 【志がある人】たとえ失敗や悲しいことがあっても、自分には奉仕すべき他者がいるという強い使命感があり、レジリエンス(再起力)を発揮する。

 ⑥之を苦しましめて以て其の志を験す。
 【夢や目標がある人】(⑤と似ているが、)利己的な目標を持つ人には周囲からのサポートがないため、苦境に陥ると目標が遠のいてしまい、挫折する。
 【志がある人】(⑤と似ているが、)利他的な目標を持つ人のことをちゃんと見てくれている人がおり、彼らが支援を差し伸べてくれる。彼らの力を借り、彼らに感謝しながら苦境を脱する。


2018年08月24日

『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)


月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-08-01

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 本号の後半に「私が選ぶ戦後リベラル砦の『三悪人』」という特集があり、武田邦彦氏、西尾幹二氏、屋山太郎氏ら10人が3人ずつ戦後のリベラルを挙げて、その主張を批判していた。

 ただ、この「リベラル」という言葉は曲者である。八木秀次氏が解説しているように、欧州においては、伝統的にはリベラルと言えば自由主義のことであり、実は保守主義と親和性が高い。無制限な自由ではなく、秩序や伝統に裏づけられた自由を意味する。一方、アメリカのリベラルは、大きな政府を求め、自由よりも平等や多様性を重視する。いわゆる左派の主張である。日本のリベラルはアメリカの考えに近いが、元々の社会主義・共産主義を引きずった変種である。

 稚拙ながら、私なりにリベラルの概念を、私の大好きな(苦笑)マトリクス図で整理してみた。「大きな政府を重視するか、小さな政府を重視するか?」と「自由を重視するか、平等を重視するか?」という2軸でマトリクスを作成すると、4つのタイプに分けられる。

リベラリズム

 まず、右上は「小さな政府と平等を重視する」社会主義・全体主義である(私は両者を同一視している)。正確に言えば、社会主義は究極的には世界共同体の実現を目指すから、政府すら不要とする。本ブログで何度も書いてきたが、その起源は啓蒙主義に求められる。啓蒙主義時代には理神論という考え方が登場した。唯一絶対の神は世界の創造には携わる反面、その後のことは人間の理性に任せるというものである。中世までは、普遍的なものというと神の世界、つまりあちら側の世界にあったのに対し、近代の理神論によって、普遍的なものはこちら側の世界に移行した。これは、人間が神と同じく完全無欠な理性を持つことを意味する。

 誰もが神と同じ理性を持つのだから、人々は皆同じ、平等である。1人が全体に等しい。よって、私有財産は否定され、財産は全人類の共有となる。また、政治的な意思決定に関しても、全世界中の人が完全な理性に従って同じ考えを持っているわけであり、民主主義であっても独裁であっても同じ結果になる。人間の理性は生まれながらにして完成していると考えられるため、その理性に立脚する社会も既に完成しているものとされる。したがって、人間が自由を発揮して社会を改変するという余地はほとんどない。この点で、自由よりも平等の方が重視されていると言える。これが、私の考える社会主義・全体主義である。

 生まれた時点で理性が完成しているという立場は、教育による知性の進展を否定する。だから、社会主義国家ではしばしば知識人・教育層が迫害・虐殺される。生まれた時点での理性を完成形と見る場合、一番劣っている理性であっても完成していると認めなければならない。そして、そういう理性を持つ人間にできる仕事と言えば、原始的で素朴な農業である。だから、武者小路実篤は「新しき村」という農業共産社会を作ったし、ソ連ではソフホーズ(国営農場)とコルホーズ(集団農場)が設置され、戦後の中国では毛沢東が大躍進政策を展開した。しかし、新しき村の構想は結局ユートピアに終わり、ソ連の政策は多数の農民を生活苦に陥れ、中国の大躍進政策では3,000万~4,000万人もの餓死者を出した。

 ソ連や中国の共産主義者を焦らせたのは、自国が人間の理性の絶対性を信じ、社会主義の理想を実現しているはずなのに、アメリカなどならず者の資本主義国が技術で自国を追い抜いているという現実であった。だから、ソ連や中国は、多くの国民を農業に張りつけておいて、彼らを搾取し、得られた利益を科学技術に投資するという矛盾した行動を取るようになった。こうした矛盾は、社会主義の発展段階説でより正当化されたように思える。発展段階説によれば、社会は原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒封建制社会⇒絶対主義⇒ブルジョア革命⇒近代資本主義社会⇒プロレタリア革命⇒共産主義社会⇒社会主義社会へと順番に発展する。社会主義と言えば、既に見たように本質的には原始共産社会であるものの、途中から科学技術の発展を含めて真の社会主義国家を樹立しようという方針に転換されたと考えられる。

 もう1つ、社会主義者を悩ませた矛盾が、寿命という問題である。創造主の神には寿命はないが、実際の人間には寿命がある。だが、元々、人間が生まれた時点で理性も社会も完成しているという立場に立てば、時間の流れというものはあり得ないことになる。過去も未来も存在しない。あるのは現在だけである。そして、現在というのは一瞬にすぎないから、人間は早く死ぬべきという歪な結論が導かれる。ただし、生と死は連環していて、死んだ後直ちに再び生を受けてこの世に誕生する。そして、発展段階説に沿った理想的な社会主義社会を実現するために、永遠に革命を繰り返す。これが、ニーチェの言う永遠回帰である。

 右下は「大きな政府と平等を重視する」福祉国家であり、北欧に多く見られる。社会主義・全体主義においては、最も能力が劣る者に他の人間を合わせるという形で平等が実現されるのに対し、福祉国家では、持てる者から持たざる者へと富の再配分が行われることで平等が実現されるという違いがある。富の再配分は非常に複雑なプロセスであるため、その営みを担う政府は必然的に大きくなる。また、せっかく自由に働いて多くの富を得ても、再配分によってその富の大半を政府に取られてしまうことを考えると、自由は平等よりも劣位に置かれていると言える。

 本号の特集で興味深かったのは、山口真由氏と屋山太郎氏がともに田中角栄をリベラルの悪人として挙げていることである(山口氏はさらに、田中角栄をモデルとして公共事業を展開した竹下登をリベラルの悪人としている。また、八幡和郎氏は、田中角栄の弟子である小沢一郎氏をリベラルの悪人に挙げている)。つまり、自民党と言えども、リベラルとは無縁ではないのだ。田中角栄は、自身がまとめた「日本列島改造計画」に従って、日本全土に金をばらまき、各地で大規模な公共工事を行った。これも一種の再配分政策であると言える。だが、金の集まる権力は必ず腐敗するというのが古代からの政治の鉄則である。田中角栄も例外ではなかった。

 この点、巨額の資金の再配分を行っている北欧諸国が、いずれも「腐敗認識指数ランキング」で上位に入っているのは不思議である。2015年のランキングを見ると、デンマークが1位、フィンランドが2位、スウェーデンが3位、ノルウェーが5位である(ちなみに、日本は18位である)。なぜ、田中角栄は腐敗したのに、北欧諸国は腐敗しないのだろうか?人間の理性は不完全であり、失敗もするし私欲にも溺れると考える日本人と、啓蒙主義を経験したヨーロッパ人との違いで説明するのはあまりに粗雑であろう。なぜなら、同じように啓蒙主義にルーツを持つ社会主義国家では、中国やベトナムを見れば解るように、権力がひどく腐敗しているからである。

 左上は「小さな政府と自由を重視する」という象限であり、アメリカでは1990年代から、日本では2000年代に入ってから有力となったネオリベラリズムを指す。企業はグローバル化を進め、世界中で利益を上げる。それが可能な大企業と、それができないドメスティックな中小企業の間では、業績に大きな格差が生じる。その結果、国民の間の貧富の差が拡大する。グローバル企業は、国家に対して企業活動を邪魔しないでくれと言う。工場は人件費が安い国に移す。税金も、税率が安い国で納める。ここにおいて、グローバリズムとナショナリズムは対立する。

 ただ、私は最近この流れに変化を感じている。グローバリゼーションと言っても、カントが描いたような世界平和の実現を目指しているわけではない。ある国に本社を置く企業が、自社の事業や製品・サービスを全世界で受け入れてもらえるようにすることがグローバリゼーションである。よって、グローバル企業は、本社を置く国家による支援を必要とするようになっている。政府に対しては過度な機能を期待していないものの、自社の世界展開を後押しする政治力は要求している。つまり、グローバリズムとナショナリズムは手を結ぶようになった。

 最後に、左下の「大きな政府と自由を重視する」のが伝統的な(欧州的な)リベラリズムである。日本が理想とするべきも、右下ではなくこの象限である。この象限では、人々の自由な発想による多様性が尊重される。これは、自然の生態系に最もよくかなった形態である。自然の生態系は多様であるから、環境変化が起きても、生物が全滅することはない。一部の生物が生き残り、そこから新たな進化によって枝分かれが生じ、再び多様性が確保される。こうして、地球全体として見れば、生物の種が保存される。右上の社会主義・全体主義のように、誰もが皆同じ理性に従って同じ考え方をしていると、外圧によって全滅するリスクがある。社会主義・全体主義は理論としては美しいのかもしれないが、生存可能性という点では落第である。

 多様な価値観は時に衝突する。その時は、まずは話し合う。「話し合い」と言うと、左派の人はすぐに「対話」という言葉を持ち出す。対話という言葉は、自分の怒りを抑えて冷静になり、相手の立場を慮って相手の考えを汲み取り、自分の考えと相手の考えを十分に擦り合わせてお互いの利益ができるだけ最大になるような道を探るべきだというソフトな印象を与える。もちろん、それができるに越したことはない。だが、現実の世界はそんなに甘くない。時には権謀術数を駆使しなければならない。誘惑、媚び諂い、あるいは威嚇、恫喝、脅迫、取引など、人間の醜い面も出る。それも含めて話し合いなのである。多様な利害が衝突する政治の世界では、こうしたことが常態化している。だから、一般人も伝統的なリベラリズムに生きるならば、こうした精神的ストレスのかかる方法に対する耐性を身につける必要がある。

 それでも考え方が合わなければ、その相手とはすっぱり縁を切ればよい。自分は認めることができないけれども、そういう考えもあるのだなという程度で収めておけばよい。右上の社会主義・全体主義では、1人が全体に等しいから、他者との関係を切ることは絶対にできない。しかし、左下の伝統的なリベラリズムでは縁切りが認められる(実際、日本には縁切り神社や縁切り寺がある)。相容れない主張も全部ひっくるめて、社会全体としては多様性を許容するのが伝統的なリベラリズムである。こうしたリベラリズムは共和制でも実現可能である。日本の場合は、「和」を象徴とする天皇を国家の戴に置くことで、伝統的なリベラリズムを表現している。

 もちろん、相手と縁を切ろうとしているのに、相手が物理的に自分を攻撃しようとしてくることもあるだろう。これは社会の安定を保つために何としてでも防がなければならない。そこで、法が必要となる。左下の象限で政府が大きくなるのは、こうした種々の法律を制定・運用する機構(立法府や行政府)を持たなければならないからである。

 一般的に左派と言えば、人々の格差を敬遠し平等を重視するか、国家権力を嫌い小さな政府を重視するかのどちらか、あるいはその両方である。よって、上記のマトリクス図のうち、左下を除く3つの象限が左派にあたる。昔、小泉純一郎政権は左派だと指摘した知り合いの中小企業診断士がいたが、彼の主張は今になって理解することができる。最近、小泉氏が突然脱原発派に転じたのは、小泉氏が本来的には左派であり、環境問題という外部不経済を再配分によって解決しようとする福祉国家とも親和性が高いと考えれば納得がいく。右派はわずかに左下に残るだけであり、政治思想的に見るとかなり分が悪い。

 ただし、右派は左派と完全に対立するべきでもない。右上の社会主義・全体主義は破壊的な思想なので除外するとしても、福祉国家とネオリベラリズムからは学ぶことができることもある。福祉国家は、強者から弱者へと富を再配分するために、膨大な法を策定している。伝統的なリベラリズムも法を策定するものの、元々人間の理性は不完全であるという前提に立っているため、法律も不完全である可能性がある。つまり、弱者を強者から守る法が不十分であるかもしれない。その時には、福祉国家が望ましい法律のあり方を教えてくれる。

 とはいえ、福祉国家に倣って法律を無制限に増やしていくと、政府の役割があまりにも大きくなりすぎる恐れがある。また、福祉国家の法律は平等を原則としているため、杓子定規に平等原則を貫けば、伝統的なリベラリズムにおける自由が制約されてしまう。そこで、ネオリベラリズムの出番である。ネオリベラリズムは小さな政府を志向しており、不要な法律は規制改革の名の下に葬り去る。伝統的なリベラリズムが抱えている法律について、自由に干渉しすぎる法律はどれなのか、ネオリベラリズムに指摘してもらうとよい。このようにして、右派=伝統的なリベラリズムは、左派(ただし、社会主義・全体主義を除く)と協調関係を築くことができるだろう。



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