このカテゴリの記事
『一橋ビジネスレビュー』2018年WIN.66巻3号『「新しい営業」の科学』―KGIは売上高でも利益でもなく顧客満足度ではないか?(2/2)
『一橋ビジネスレビュー』2018年WIN.66巻3号『「新しい営業」の科学』―KGIは売上高でも利益でもなく顧客満足度ではないか?(1/2)
和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』(再読)―全体主義と古代日本の人倫思想の違い

お問い合わせ
お問い合わせ
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。双極性障害Ⅱ型を抱えながら頑張っています。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
Facebookページ

Top > 読書 アーカイブ
2019年02月16日

『一橋ビジネスレビュー』2018年WIN.66巻3号『「新しい営業」の科学』―KGIは売上高でも利益でもなく顧客満足度ではないか?(2/2)


一橋ビジネスレビュー 2018年WIN.66巻3号: 「新しい営業」の科学一橋ビジネスレビュー 2018年WIN.66巻3号: 「新しい営業」の科学
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2018-12-14

Amazonで詳しく見る

 (前回の続き)

20190215_営業プロセスと顧客満足度

 【契約】
 価格交渉が長くなるにつれ、顧客企業の担当者も営業担当者も、購入金額と製品導入による最終成果ばかりに目を奪われて、そもそもなぜこの製品を導入するつもりだったのかを見失うことがある。この段階に至って、競合他社と単なる金額勝負にならないようにするため、製品導入の目的を振り返り、自社製品がその目的を達成するストーリーを改めてダメ押しする。また、今回の提案が担当者、影響者、決裁者の個人的なニーズにも応えると訴求しなければならない。最終提案の場には決裁者が出席するだろうが、そのタイミングで決裁者の個人的ニーズに触れることは困難である。まして、影響者は最終提案の場に出席するとは限らない。そのため、公式な最終提案よりも前に、影響者や決裁者に対して非公式に根回しをする。

 【アフターフォロー】
 顧客企業の次のニーズを探るためにも、営業担当者は顧客企業と接点を持ち続けることが重要である。有償の保守契約を結んでいれば、契約に従って定期的に顧客企業を訪問しなければならない。しかし、たとえそのような契約がなくても、タイミングを見計らってアプローチをかけた方がよい。保守や点検は製品トラブルを防止し、製品寿命を伸ばすためであるとはいえ、顧客企業がその価値を理解することはほとんどない。それでもなお、保守や点検の必要性を訴求しようとするわけだから、かなりの工夫がいることになる。

 単純に定期的な保守や点検をしようとすれば、顧客企業は自社が機械的に扱われていると感じ、たいてい「今は忙しい」と断ってくるだろう。顧客企業と接点を持ちたい一心で頻繁に保守や点検を提案すれば、顧客企業からは「そんなに壊れる可能性が高い製品を我が社に導入したのか?」と思われてしまう。顧客企業のビジネス特性を踏まえ、導入した製品のどの部分がどのくらいの期間で消耗しやすいのか見通しを立てた上で保守や点検の話を持ちかけるとようやく、顧客企業の担当者は「面倒見のよい営業担当者だ」と思ってくれるかもしれない。

 優秀な営業担当者は保守や点検を行うだけでなく、顧客企業の担当者が所属する部門の別の潜在的課題やニーズに関する情報を収集し、次の商談の機会をうかがう。また、人間関係が熟してくると、顧客企業の担当者に対し、「私を御社の別の部門の担当者に紹介していただけませんか?」などとお願いして、顧客企業内の人脈を広げていく。

 どんなに保守や点検を入念に行ったとしても、製品が故障してクレームは発生するものである。クレームに誠実に応対するのは営業担当者として当然の責務であるし、営業担当者が誠実であればクレームの後でむしろ顧客満足度が上がることもある。ただし、営業担当者がクレームに誠実に応対したかどうかを測定する指標の設定は難しい。クレームの内容は多種多様であり、またクレーム応対の手順も個別特殊性が高い。だから、「クレーム応対に要した時間」や「クレーム応対の品質」というのは、あまり指標に向いていない。

 クレーム応対という修羅場であっても、簡単に取得可能で、かつ顧客満足度と関連性がある指標の1つが、「顧客企業から要求される前に修理報告書・顛末書を提出した回数」ではないかと考える。顧客企業から、「今回の件に関して顛末書を提出せよ」と言われてからでは遅い。先回りして顛末書を提出した回数をカウントする。外部企業からの調達に慣れている企業は、営業担当者によるクレーム応対が完了した時点で、社内報告用にほぼ間違いなく顛末書を求めてくる。営業担当者はそれから慌てて顛末書を作成するのではなく、クレーム応対と並行して顛末書を作成し、応対完了後の謝罪の言葉と同時に顛末書を提出する。そこまで誠実な姿勢を見せれば、少なくとも顧客満足度の大幅な下落は避けられると思う。

 営業担当者にとってのKGIは顧客満足度である。ただし、単純に顧客満足度を尋ねると、製品に対する評価や自社ブランドへの印象などと混同される。測定したいのは、「その営業担当者の営業活動に対する顧客満足度」である。顧客企業に対して、「次回もこの営業担当者から購入したいと思うか?」と聞くのが、顧客企業と自社の双方にとって最も簡便である。とはいえ、この質問だけをするために顧客企業に調査票を配布するのは現実的ではない。

 多くの企業では、既に製品に対する顧客満足度の調査を行っているだろう。そこで、その調査票に、営業担当者に対する評価を尋ねる設問を加える。上記の事例では、顧客企業が製品を購入して一定期間使用した後に評価が定まり、さらに購入後の営業担当者の行動も満足度に影響を与える。よって、製品購入後半年を経過したタイミングで調査票を配布する、といった運用にする。年度中に一度も製品購入がない既存顧客についても、営業担当者による継続的なフォローへの満足度を確認するために、少なくとも年に1回は調査票を送付する。

 以前、あるコンサルティングプロジェクトで、営業担当者に対する顧客企業の満足度を人事評価項目に入れようとし、顧客満足度の調査方法を議論したことがあった。クライアント側のメンバーは、営業担当者自身が顧客企業に直接出向いて、調査票に記入してもらうという案を提示した。満足度が高い顧客企業は積極的に調査票に記入してくれるはずであり、逆に顧客企業が記入しなければ、営業担当者と顧客企業の関係性はその程度だと解るというのが理由であった。私は、確かにそういう考え方もあると納得した。

 とはいえ、現実的には、営業担当者が顧客企業を選り好みする恐れがある。20社の顧客企業を担当している営業担当者が、1社にだけ調査票の記入をお願いして最高点を獲得したとしても、その営業担当者のことを高く評価してよいのかという問題が生じる。そこで、最終的には、営業部門から独立したマーケティング部門が一括で調査票の送付と回収を実施し、満足度と回収率の両方を考慮して評価を決定することになった。

 営業活動に対する顧客満足度を追求すると、本当に売上高や利益がついてくるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるだろう。アスクル株式会社の創業者である岩田彰一郎社長は、「利益とは顧客満足度の積み重ねである」と語ったことある。企業側が意図的に利益を操作する場合は論外としても、岩田氏の言葉にはかなりの真実味があると感じる。顧客満足度の向上を目指せば、緩やかに顧客単価は上がっていき、顧客応対の複雑化に伴うコスト増はあっても、それを十分にカバーできるだけの利益を確保しやすくなる。

 個人的な話で恐縮だが、コーヒー好きの私が仮にマクドナルドと椿屋珈琲店から顧客満足度の調査票をもらったら、椿屋珈琲店の方だけ真面目に記入して返送すると思う。マクドナルドの1杯100円のコーヒーのために調査票を記入するのは面倒だし、時間的余裕があっても「満足度=3」などと適当に記入するに違いない(実際、私はKODOを利用したことがない)。単価が低い製品は、高い満足を感じてもらうことがあまりないどころか、そこそこ不満が出る。私がやっている研修・セミナーの仕事でも、受講料が無料や低額の場合には、受講者から高い評価をいただくことは非常に難しい。アンケート結果はだいたい「普通」に集中し、研修も長続きしない。一方、受講料を上げた方が、受講者から高い評価をいただきやすくなる。もちろん、中には厳しい意見もある。だが、その意見に誠実に応対すると、研修の継続開催につながる。

 営業担当者が全社で数百人ほどいれば、営業担当者の持つ情報と本社が独自に収集した情報とを統計的に分析することで、各製品の売上高と利益についてある程度の目標値を導くことができる。他方、個々の営業担当者の担当顧客は数が少ない上、属性に偏りがあるから、無理に目標売上高を設定しなくてもよいと思う。現場の営業担当者は、顧客満足度を追求すればよい。人事評価の際は、顧客満足度の平均が高い営業担当者を高く評価する。極端な話をすれば、半年間全ての既存顧客に対してフォロー活動だけを行っており、新規受注がゼロであっても、顧客満足度調査の結果が優れているなら人事評価も高くする。

 ただし、満足度の平均が5という完全無欠の人と、満足度が1の顧客が数名いるために平均が4になっている人がいたら、後者の最終考課を上にする。ピーター・ドラッカーは、「人事における最大の失敗は、失敗したことのない人を昇進させることだ」と述べた。完璧すぎる人をマネジャーにすると、部下が失敗した理由が解らず、適切な教育ができない。マネジャーはミスを許さない硬直的な組織を作ってしまい、部下のリスク回避性向が強くなる。

 単純に考えると、価格の低い製品を扱うビジネスの方が参入しやすいように見える。だが、本当のところは、顧客満足度を追求して高い顧客単価と高い利益率を目指す方が、仕組みを構築しやすいのではないかと思う。低価格路線のビジネスでは、満足してもらっているのかどうか解りにくい顧客に頻繁にリピート購入してもらう仕掛けが必要となる。大勢の顧客を相手にするため、インターネットで情報がオープンになりやすい。すると、企業側ではコントロールしようがない一部のネガティブな口コミが一気に拡散して、ビジネスがダメになる可能性もある。人件費を抑えようとアルバイトを増やせば、バイトテロのリスクも考慮しなければならない。こういう条件の下で事業を継続させる方法を実現することは、実は相当ハードルが高い。

 KGIとしての顧客満足度や、これまで述べてきたようなプロセスKPIは、受注金額や利益といった客観的に測定可能な数値に比べると、主観性が強く極めて曖昧である。しかし、営業活動とは本来創造的な活動に他ならない。研究開発のような創造的業務においては、中長期的な目標をぼんやりと掲げ、主客問わずにマイルストーンを多角的に設定して進捗をモニタリングしていく。今回の私案では、このやり方を営業活動に適用した。

 プロセスKPIは設定するものの、KPIの値を上げるために具体的にどのような行動を取るのかは、営業担当者の主体性に任せる。例えば、商談の「事前に顧客企業の情報を分析して商談に臨んだ回数」というKPIに関しては、顧客情報の分析を営業担当者自らが実施してもよいし、誰かの支援を受けてもよい。顧客の特性や営業担当者の置かれている状況などに応じて、本人に方法を考えさせる。だから、営業現場に対してどの程度の支援が必要なのかは明確には解らない。支援部門が各地に点在する営業拠点に隣接していればいるほど、支援内容も個別特殊性を帯びてくるため、支援部門の適正規模を決めることは難しくなる。

 マネジャーの仕事は、部門全体の顧客満足度を上げることである。そして、KGIとしての顧客満足度とプロセスKPIがどのように関連しているのかを明らかにする。とりわけ、顧客満足度に強く影響するプロセスKPIを特定する。そのKPIの値が高いのに顧客満足度につながっていない営業担当者がいれば、その原因を分析する。前述のように、プロセスKPIは主観に左右されやすいので、本人はできたと思って回数にカウントしたのに、マネジャーから見るとできていないということもある。マネジャーは対話を通じて本人との認識のずれを是正する。マネジャーにとっての重要な業績評価指標は、部門全体の顧客満足度の改善度合いである。

 本号には、「価値共創型営業への道筋」(小菅竜介)という論文がある。近年、顧客との協業による価値創造が重要視されている。ただ、ややもすると、顧客が自らのニーズを一から十まで事細かに企業に伝えて、その全てを企業に実現してもらうことを協業や価値共創と呼んでいるケースが少なからず存在するように見受けられる。

 どんな特注品でも、顧客のニーズを完全に充足するのは無理である。トヨタでは「カタログエンジニアになるな」と言われる。トヨタは、外部から購入した機械を付属のカタログやマニュアル通りに動かしても、工場の要求には合致しないことを初めから知っている。だから、製造プロセスにフィットするように、いかにしてその機械を使いこなすか知恵を絞る。ITシステムも同じである。IT導入プロジェクトの成否を握るのは、システムの機能や品質ではない。導入企業がどの程度業務のことを深く理解し、業務とITを上手にリンクできるかにかかっている。こうした力を、ハードやソフトのような資産に対して、インタンジブル・アセット(見えない資産)と呼ぶ。
 顧客は、自らの資源と、サービス交換を通じて他のアクターから取り入れた資源を独自に組み合わせて価値の創造、すなわち状況の改善を行う。なお、ここでいう価値とは、あくまで主観的なものである。顧客は自らの特有の文脈において資源統合を行い、価値を経験するわけである。
(小菅竜介「価値共創型営業への道筋」)
 経営コンサルタントの端くれとして仕事をしていると、同業者からは「コンサルタントは全体最適を目指せ」と言われることがある。周りからは、「コンサルタントは何でもできるのではないか?」と聞かれることもある。何でもできて全体最適が可能であれば、コンサルティングフィーに満足せず、資金調達してクライアントを買収するか、自分でビジネスを立ち上げた方が早い。コンサルタントだからと言って経営の能力があるわけではないことは前職のベンチャー企業で経験したし(「【シリーズ】ベンチャー失敗の教訓」を参照)、私自身も恥ずかしいことに失敗を犯している(以前の記事「【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因」を参照)。コンサルタントと言えども、所詮は部分最適を実現する程度の力しかない。

 前回、今回と、顧客満足度の重要性について書いた。確かに、企業に何から何まで面倒を見てもらうことができれば、顧客は十分に満足するだろう。しかし、それは顧客と企業のコストや時間を全て度外視してようやく成り立つ満足である。一時的に顧客価値が高まったとしても、長い目で見れば顧客と企業双方の価値を毀損している。つまり、まやかしの顧客満足にすぎない。企業は限られたリソースの限界まで尽力して最善の製品を提供し、顧客はその性能や効能を最大限に活用して自らの文脈に埋め込む。これこそが価値共創であり、その先に真の顧客満足があることを、顧客側も承知することが大切ではないかと考える。


2019年02月15日

『一橋ビジネスレビュー』2018年WIN.66巻3号『「新しい営業」の科学』―KGIは売上高でも利益でもなく顧客満足度ではないか?(1/2)


一橋ビジネスレビュー 2018年WIN.66巻3号: 「新しい営業」の科学一橋ビジネスレビュー 2018年WIN.66巻3号: 「新しい営業」の科学
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2018-12-14

Amazonで詳しく見る

 本号では、営業コンサルティングや営業研修サービスを提供しているソフトブレーン・サービス株式会社が2本の論文を寄稿している。同社に限ったことではないが、コンサルティング会社も競争社会に生きているため、そうそう簡単には手の内を明かさない。同社が論文で紹介しているコンサルティング技法は、至ってシンプルなものである。

 まず、営業プロセスを標準化する。例えば、「①初回面談⇒②提案(プレゼンテーション)⇒③見積もり提出⇒④受注」(野部剛、小松弘明、生稲史彦「現場から見た日本企業の営業」)といった具合だ(同社の論文ではないものの、山城慶晃「営業活動における組織能力向上」では、「案件⇒商談⇒デモ⇒見積もり⇒受注」という標準プロセスが提示されている)。もちろん、これは読者にとって解りやすくするための例であり、実際には顧客企業の実態に合わせる。

 そして、①から②へ、②から③へ、③から④へ至る件数の割合の理想値を設定すれば、目標とする受注額(売上高)と平均受注単価から逆算して、受注件数、見積もり提出件数、提案件数、初回面談件数の理想値を決定できる。実績値が理想値と乖離している場合には、その原因を分析するか、そもそも理想値が誤っているのかを検討する。同じような考え方は、旧ブログの記事「プロセスKPIを設定するための5つの視点」で示したことがある。

 ただし、同社の論文を読んだり昔の私の記事を読み返したりしてみると、フォーカスが営業担当者のみに当てられている印象がある。
 日本の「営業」に相当する英語は存在しない。あえていえば"sales"や"selling"ということになるだろうが、これらは「販売」を意味するにすぎない。木下・佐藤(2016)によれば、「営業」は、販売活動に限られるものではなく、マーケティング活動、さらには、所属企業内と顧客企業内の関係部署およびその先の顧客との調整を通じて、多くの顧客価値を共創し、その価値を社内外で共有するといったことまで含むのだという。
(稲水伸行、佐藤秀典「セールス研究の現状と営業研究の課題」)
 営業担当者は企業と顧客の結節点で、企業の代表として、また、顧客の代理人として資源統合の指揮をとる。顧客は内生的な存在であり、さらにいえば協働のパートナーである。営業担当者の基本的な目標は、社内ネットワークを中心とする供給ネットワーク内の資源と顧客ネットワーク内の資源、あるいは公的な資源(公共財など)を特定、動員、転換することで、顧客がそうした資源にスムーズにアクセスし、自らの文脈のなかでうまく統合できるよう導くことである。とりわけ社内ネットワークにおけるアクター(社内アクター)は、こうしたプロセスで重要な役割を果たす。
(小菅竜介「価値共創型営業への道筋」)
 営業活動は営業担当者が単独で進められるものではない。社内外の様々な利害関係者が関与する。引用文の最後で強調されているように、特に社内アクターとの協業がカギであって、社内協業を通じて顧客内の多様なアクターとも擦り合わせを行い、価値を共創するのが望ましい。最も身近な社内アクターは、営業担当者の上司である。上司には、部下が作成した提案書をチェックする、見積書を承認する、クロージングに同席して決裁者と交渉するなどの役割が期待される。それ以外の社内アクターとしては、マーケティング部門、開発部門、技術部門、製造部門などが挙げられる。製品・サービスのコンセプトや機能・効果を説明する、納期・在庫や製造ラインの調整をするといった局面で、これらの部門との協業が欠かせない。

 営業担当者には、いわゆるコミュニケーション能力やプレゼンテーション能力、交渉力以外に、社内調整力とでも呼ぶべき能力が求められる。私は昔、ある企業の法人営業部門から、「新しい営業スタイルを浸透させ、営業担当者が新たに習得すべき能力のレベルを評価する方法を考えてほしい」という依頼を受けたことがある。クライアントが考案した新しい営業スタイルは、従来の営業スタイルとはかなり異なるものであり、本社や技術部門の支援なしには完遂することが難しそうであった。クライアントと色々と議論を重ねた結果、いくつかの営業スキルに加えて、「コーディネート力」という評価項目を強調することになった。

 クライアントは、トップ営業担当者から順番に新しい営業スタイルの浸透を試みた。同社のトップ営業担当者は非常に素晴らしい方々だったので、新しい営業スタイルをすぐに理解して柔軟に社内資源を活用することができた。それ以外の営業担当者に関しては、新しい営業スタイルを体得してもらうため、最初は自分で一通りのプロセスを実施してもらった。しかし、将来的に新しい営業スタイルで多くの商談を進めるならば、どうしても一定のサポート体制が必要になる。そのため、本来は営業担当者の上司や本社、技術部門なども巻き込んで、現場を支える組織のあり方を検討すべきだったのだが、当時の私はそこまで踏み込めなかった。

 別のあるクライアントでは、製品の売上高もさることながら、販売後のアフターサービスが重要な収益源となっていた。アフターサービスでは、納入先からの要望に応じて保守や修理を行う場合と、納入先の製品の稼働状況をモニタリングし(と言っても、その頃はまだIoTがなかったため、営業担当者が納入先を訪問して稼働状況をヒアリングしていた)、保守が必要なタイミングを見計らって営業担当者側から納入先に働きかける場合とがある。保守や修理がいつ発生するか予測することは難しく、その時が来たらすぐさま営業担当者はサポート部門の要員やパーツ在庫を抱える工場と調整をしなければならない。だが、私がプロジェクトにいた頃は、私を含むメンバーが製品の販売プロセスの改善に注力しており、アフターサービスの組織体制の検討はおろか、アフターサービスの標準プロセスの確立すら後回しになっていた。

 ただし、ここまで書いておいて思うことは、果たして営業プロセスを標準化し、さらに組織を体系立てることにどれほどの意味があるのかということである。本号は、ややもすると現場の経験と勘に頼りがちな営業活動を科学的に可視化することを目的としている。ところが、稲水伸行、佐藤秀典「セールス研究の現状と営業研究の課題」は、優れた営業担当者は「適応型販売行動(adaptive selling behaviors)」を取っていると指摘する。つまり、営業活動の形式知化を目指す一方で、依然として暗黙知の領域を黙認しているのである。

 本号でソフトブレーン・サービス株式会社が紹介している手法や私の旧ブログ記事の視点は、営業担当者が皆同じ価格の同じ製品を担当するケースを念頭に置いている。同一価格の同一製品を販売していれば、標準的な営業プロセスを想定し、目標受注額から逆算してプロセスKPIを設定することが可能である。また、営業プロセスが標準化されていれば、目標を達成するための活動量を算出することができ、そのうち支援を要する部分を切り出して、サポート体制を明確に固められる。しかし、製品数が極度に限定されたベンチャー企業ならばともかく、多くの企業では同じ営業担当者が価格帯の異なる複数の製品を担当しているだろう。

 この場合、目標(KGI:Key Goal Indicator)を売上高に設定すると、当然のことではあるが営業担当者は価格が高い製品を優先的に販売しようとする。しかし、顧客はその高い製品を本当に求めているとは限らない。小菅竜介「価値共創型営業への道筋」では、自動車ディーラーの営業担当者の事例が紹介されている。当該ディーラーでは、顧客が車検を依頼してきた時に、顧客の言う通りに車検に回しており、新車乗り換えの潜在ニーズを取り逃していたと指摘されている。ということは、逆に言えば、新車乗り換えを検討して来店した顧客が、本当は車検で済んだ方がありがたいと思っていることもあり得る。顧客の潜在ニーズはまさしくケースバイケースであり、営業担当者の役割はそのケースバイケースを的確にとらえることにある。

 私は、営業担当者が多種多様な製品を取り扱う場合には、売上高や利益ではなく、顧客満足度をKGIとして設定した方がよいのではないかと考える。稲水伸行、佐藤秀典「セールス研究の現状と営業研究の課題」では、顧客志向が強い営業担当者はパフォーマンスが高いとされている。顧客志向が高ければパフォーマンスは自ずとついてくるわけだから、KGIとしては、顧客志向の強さの表れとしての顧客満足度を用いるのが適切であるように感じる。顧客満足度をKGIにすると、KPIは顧客満足度につながる営業担当者の行動を測定するものとなる。以下はその一例である。営業担当者が多種多様な製品を担当し、さらに顧客へのフォローが次の商談につながり得る重要性を持っているような法人営業を想定している。

20190215_営業プロセスと顧客満足度

 【検討の段階】
 顧客企業がある製品の導入を検討している時、営業担当者から検討に役立つ情報を提供してもらえると、「この営業担当者は我が社のことをよく解っている」と感じる。既存顧客の場合は、前回購入後の継続的なフォローを通じて収集した情報に基づいて、製品の切り替えニーズや新たな課題を発見し、能動的に提案を持ちかける。もちろん、顧客企業からの引合に適切に対応しても顧客満足度は上がる。しかし、顧客企業から「これがほしい」と言われる前に営業担当者が顧客企業の心を読むことができれば、顧客満足度はより高くなるに違いない。

 新規顧客に関しては、上記の例では、ある製品の導入セミナーを開催し、参加者に対して後日フォローの電話を差し上げるケースを想定している。「もう少し製品のことを詳しく説明したいのですが?」といった紋切り型のアプローチでは、アポイントの獲得は難しい。早く電話でフォローしても、電話の内容が浅ければ拙速としか見なされない。様々な業界の企業が参加したセミナーであれば、電話をかける前に簡単でもよいから各企業を取り巻く市場の状況を把握し、「市場の変化に伴って御社にはこのような課題が現れる可能性があります」などと切り込むと、相手は「我が社のことを考えてくれている営業担当者だ」と感じるだろう。

 【商談の段階】
 今時、自社製品の説明だけで乗り切ろうとする営業担当者はあまりいないはずだ。取っかかりとして製品説明から入るとしても、それをフックに顧客企業の事情を詳しく聞き出し、顧客企業のニーズと自社製品の効果を結びつけていく。何回にも及ぶ商談の中で、前もって顧客企業の情報を分析して商談に臨む回数を増やし、ニーズと効果の組み合わせの精度を上げていく。すると、顧客企業は「その製品は我が社にとってメリットがありそうだ」と期待を抱く。

 顧客企業は、自社のビジネス上のニーズを満たすことを最優先する。しかし、時には担当者、さらにはその案件に対して影響力を持つ人、そして最終的に決裁を下す人の個人的なニーズが案件の行方を左右することもある。担当者は、もっと気軽に様々なことを相談できる外部の関係者を探しているかもしれない。影響者は、担当者の都合で新製品を購入した結果、自分の責任がかえって重たくなることを恐れているかもしれない。決裁者は、今回の製品導入を成功させることで、役員に対するアピール材料にしたいと目論んでいるかもしれない。

 担当者の個人的ニーズは商談の中でつかめる可能性があるものの、影響者や決裁者の個人的ニーズはその人たちに直接会わないと理解できない。商談の早い段階で影響者や決裁者を見定めて関係を構築しておくと(私が知っているある企業では、この行為を「顧客企業の金的をつかむ」と表現していた)、営業担当者はその後の商談が進めやすくなるし、顧客企業の関係者たちは「我が社の表も裏も理解してくれている」と評価してくれる。

 【デモ】
 通り一遍の機能説明では顧客企業が満足しないのは明らかである。商談の段階で顧客企業の個別ニーズをつぶさに把握しているならば、この段階での画一的なデモは顧客企業の失望を買う。製品に様々な機能、性能、効果があるとしても、その顧客企業に対してはどの機能、性能、効果を強調し、さらに聞き手の心に突き刺さるようにどんな説明をするべきか、事前に入念な作戦を練らなければならない。営業担当者自身がデモを行う場合は説明の仕方を柔軟に変更しやすい。一方、製品開発担当者や技術担当者などがデモを行うケースでは、顧客企業のニーズを把握しないまま単調な説明をする恐れがあるため、注意が必要となる。

 自社製品の説明をするだけでなく、他社製品に対する優位性を強調することも大切である。自社が競合だと考えている企業ではなく、顧客企業から見て自社と競合する企業と比較しなければならない。例えば、自社がITベンダーで、顧客企業が工場の生産性向上を目的としてITを導入しようとしている場合、顧客企業が新しい機械設備の導入という選択肢も同時に持っているならば、その商談における競合とは他のITベンダーと機械設備メーカーになる。

 【価格交渉】
 営業担当者が価格を簡単に下げれば顧客企業は満足すると思われがちだが、話はそれほど単純ではない。アメリカの自動車ディーラをめぐる実験では、営業担当者が2万ドルの新車をすぐに1万7千ドルに値下げした場合よりも、顧客が営業担当者と交渉して1万8千ドルで購入した方が顧客満足度が高かったという。交渉のプロセスで顧客企業が営業担当者とキャッチボールを繰り返し、費用対効果がありそうだと十分に理解できれば満足してもらえる。

 顧客企業は予算内で製品を購入したいと考えているものの、往々にして見積額は予算をオーバーするものである。予算オーバーでも費用対効果がもっと高ければ購入してくれるとは限らない。顧客企業の担当者は、予算超過という一点をもって、社内で稟議を通せないのではないかと不安になる。営業担当者は、金銭的な価値だけではなく、例えば社員満足度が上がる、仕入先に対する信用が強まる、ビジネスリスクが抑えられるなど、金額以外の定量的・定性的効果を訴求すると、顧客企業内で稟議書を回してもらえる確率が上がる。

 ここで、予算内に抑えようと安易に価格を下げるのは禁じ手である。顧客企業は「この会社は我が社の言う通りに値下げしてくれる」と思い、次回以降も「もっと安くせよ」と要求してくる。そして、その要求に応えられなければ、製品がどんなに優れていても、ただちに満足度が下がる。厄介なことに、満足度は低いのに安く買えるというだけの理由で、顧客企業は取引を継続しようとする。こうなると、顧客企業と一緒に泥船に乗っているようなものだ。

 (続く)


2018年10月19日

和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』(再読)―全体主義と古代日本の人倫思想の違い


日本倫理思想史(一) (岩波文庫)日本倫理思想史(一) (岩波文庫)
和辻 哲郎

岩波書店 2011-04-16

Amazonで詳しく見る

 全体主義については、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などを参照していただきたい。本書を読むと、古代日本の人倫思想は全体主義と紙一重のようにも感じる(だから、前回「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」という記事を書いた)。だが、本書を改めて読んでみて、両者の違いを4点指摘してみたいと思う。

 (1)全体主義のルーツをたどっていくと、啓蒙主義に行き着く。そして、啓蒙主義の時代には理神論が生まれた。これは、唯一絶対、完全無欠の神が人間を創造するところまでは神が関与するが、それ以降は人間の営みに委ねられるという立場である。この理神論を杓子定規に解釈すると、唯一絶対、完全無欠の神の特徴を人間が受け継いだという考え方が生じる。つまり、人間は皆、唯一絶対、完全無欠の理性を有している。だから、人間は絶対的に正しい。

 これに対して、古代日本は八百万の神の世界である。しかも、神の世界には階層があるという。和辻は、神々には①祀る神、②祀られると同時に祀る神、③祀られるのみの神、④祀りを要求する祟りの神、という4種類のタイプがあると指摘する。祀る神とは天皇、祀られると同時に祀る神とは天つ神のことである。天つ神には、天照大御神、日本武尊、月読、素戔嗚、大国主命など、神話に登場する多数の神が含まれる。興味深いのは、天つ神が天皇に命令を下す場合、最初からその正体がはっきりとしているわけではないということである。本書では新羅征伐の物語が紹介されているが、特定の天つ神が天皇に対して命令を下すのではなく、まずは不定の神が命令を下す。そこで天皇が神を祀ると、初めて神の名が顕れる。

 祀られると同時に祀る神は、自らも祀るわけだから、対象としての祀られる神が存在する。その神がまた祀られると同時に祀る神であれば、さらに祀りを行う。これを突き詰めると、最終的には祀られるのみの神に行き着くはずであり、この神こそが神々の源泉であるに違いない。ところが、和辻は尊貴性という点では、祀られると同時に祀る神の方が、祀られるのみの神よりも上であると主張する。祀られるのみの神と祀りを要求する祟りの神は、神話の世界ではどちらかというと傍流であり、主役はあくまでも祀る神と、祀られると同時に祀る神である。だとすると、究極的に祀られる対象とは何なのか?和辻の答えは、「特定できない」。それは全ての神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。すなわち、神聖なる「無」である。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームのように、絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することである。他方、絶対者を無限定にとどめたところに、古代日本人の天真の大きさがあると和辻は言う。私は、究極の根源を「よく解らない」と曖昧にすることで、日本人は自分が完全無欠である錯覚に陥るのを防ぐことができたと考える。一方で、絶対的存在がないということは、そこに向かっていくところの対象となるもの、つまり目的がないということである。現代、日本の企業や組織が往々にしてその本来の目的を見失い、既存の秩序を維持することだけに走る保守性の一因はここにあるのかもしれない。また、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」でも書いたように、イノベーションには明確な目的が必要だが、目的意識が低い日本人はイノベーションがどうしても苦手である。

 (2)全体主義においては、人々は誰もが神と同等の存在として創造される。よって、人々は皆平等である。この平等な人々がパワーを発揮することで集団全体を動かす。そのパワーの正統性の源泉となっているのは、人間の完全なる理性である。

 一方、古代日本の場合は、まず(1)で述べたように、神々の世界に階層性がある。この神々の世界の血縁的関係を現実世界にも適用することで、祭祀的・団体的統一を達成した。具体的には、一団の集団が自らの本当の祖先を祀るのではなく、祀られる神を自らの祖先として信じた(つまり、事実としての血縁関係は重要視されなかった)。天孫降臨の際の五伴緒(いつとものお)がそれぞれ中臣連忌部首等(なかとみのむらじいんべのおびと)の祖となり、天照大御神の玉より化生した天のホヒの命(みこと)の子、天津日子根の命が、多くの国造、連、県主、稲寸などの祖となった。さらに、部民という一般庶民もこの秩序に組み込んでいった。例えば、阿曇の連が海神の神を祖神として祀ったとすれば、部民と無関係に少数の貴族だけが祀っていたのではなく、阿曇の部民が団体的にこの祭祀を行っていたことを意味する。

 こうした階層的秩序において、上の階層の者が下の階層の者に命令を下すその正統性は、「全体性の権威」にあると和辻は述べている。絶対的な神を特定することができず、かといって個々の個人もパワーを持っているわけではないから、祭祀を通じて神々から部民までがつながった大掛かりな階層社会という仕組みの全体性そのものが正統性の源泉となるいうのは妥当であろう。和辻の分析によれば、祭祀的統一の時代は5世紀までであり、その後は政治的統一の時代に移行する。しかし、奈良時代に入っても天皇の権威、ひいては神々の権威に依拠する局面が多いことを踏まえると、祭祀的統一と政治的統一は連続性を持っており、「全体性の権威」が正統性の源泉であり続ける点は変わらない。

 ここで、「権力」と「権威」の違いを明確にしておきたい。権威とは地位に基づくパワーを指す。社会や組織において、それぞれの地位はそのポストに就いた人に対し、特定の役割を果たすことを要請する。その要請に従って人が発揮するパワーが権威である。だから、社会や組織の構造が変わらない限り、人が入れ替わっても権威は存続する。これに対して、権力とは地位に基づくパワーと個人の特性に依存するパワーが合体したものである。だから、「あの国王は強大な権力を発揮している」、「国王の交代で権力が減退した」という表現は正しい。ところで、全体主義の場合は、完全な平等主義が貫かれているから、そもそも地位という考え方がない。だから私は先ほど、「平等な”人々”がパワーを発揮する」と書いたわけである。

 全体主義における究極な平等とは異なり、階層社会である限り、必ず不平等は生じる。これは現代でも同じであって、人種、国籍、性別、年齢、出身地、宗教、価値観、親の地位、学歴、職業、婚姻状況などに違いがあるのには、それなりの理由があると考える。違いがあるのだから、階層社会における役割分担も異なる。大化の改新後に孝徳天皇が発した詔には、次のように書かれている。「聖の君が天に則って統治するというのは、天が万物を育成するように人民を育成すること、すなわち仁政に他ならなない。言い換えれば、仁政の理想は、人々が各々そのところを獲ること、つまり、各人がその本来のあり方を実現し得ることである」。要するに、様々な違いを持つ人々に十分な教育を施し能力を開発した上で、人々の違いに応じた適切な配置を実現すること、人々をその違いに応じた本分に集中させることこそが公正である。

 (3)全体主義とは、究極の個人主義である。個人の理性が絶対的に正しいのだから、個人が私的な利益を追求すれば、それはすなわち全体の利益を追求することに等しくなる。つまり、私が前面に出て公を名乗る。ただし、その正体はあくまでも私である。

 これに対して、古代日本ではどこまでも公の精神が追求された。天皇は国家のために、私を捨てて神々に仕える。私を捨てた天皇のために、貴族が私を捨てて天皇に仕える。私を捨てた貴族のために、部民が私を捨てて貴族に仕える。誰もが「他者のために」、「上の階層のために」と思って行動することで、社会全体を機能せしめる。この時の心構えが「清明心」であり、和辻が古代日本における人倫思想の3本柱の1つとしているものである。

 他者のために行動するには、自分の心の中に私的な利害を求めるやましさがないことを証明しなければならない。よって、清明心は正直を要求する。正直とは、他者に対して自らの透明度を上げることである。そして、私を捨てて自らに仕える者には、上の者は慈愛で応える。これが3本柱の2つ目である。慈愛とは、人々を等しく大切に思う気持ちである。単なる愛は、愛の対象を取捨選択するため偏頗的である。ここで、私を捨てた部民は空虚なままだと思われるかもしれない。だが、天皇が神々に仕えると同時に、部民に対して仁政を施すため問題はない。

 だが、既に古代日本において、公を貫徹させることは困難であった。大化の改新は公地公民制を敷き、その後律令国家が整備される過程で実施された班田収授法は公の精神を前面に打ち出したものであったが、平安時代に入ると私的な土地である荘園が生まれた。この荘園を基盤として台頭してきたのが藤原氏である。ところが、藤原氏の私は、朝廷の公を遂に食いつぶすことはなかった。藤原氏が本当に権力を握りたければ天皇を廃すればよいのに、実際には外戚関係によって天皇家に入り込んだにすぎなかった。仁政の理想の規範が、私利を是認するイデオロギーの出現を阻止したと和辻は述べている。

 (4)全体主義においては、私の理性は他者の理性に等しく、さらに全体の意思に等しいため、民主主義と独裁が両立するという現象が起きる。いや、私の意見が全体の意思に等しいのであれば、他者の意見との調整を行うという高コストな民主主義はもはや必要ではない。よって、全体主義はコストが低い独裁を選択することになる。

 古代日本の場合、「全体性の権威」に正統性の源泉を持つ階層社会が成立し、人々は差異に応じて本分を与えられたわけだが、決して下の階層の人間は上の階層からの命令に唯々諾々と従い、天皇の命令がストレートに階層社会の末端にまで伝わったわけではない。仮にそうだとすれば、正統性の源泉は天皇にあると言わなければおかしい。そうならなかったのは、人々に自由意思が認められていたからだと考えるのが適切であろう。

 本書を読んで初めて知ったのだが、十七条の憲法は果たして聖徳太子が策定したものなのかと疑問を呈する人たちがいるようだ。というのも、十七条の憲法の中身をよく読むと、例えば国司の制度のように、大化の改新とその後に実現された様々な政策のことを知っていなければ書けないことが含まれているからだという。和辻はこの説を否定して、十七条の憲法は大化の改新に先立って聖徳太子が策定したものだという立場をとる。さらに、十七条の憲法の精神が大化の改新に受け継がれ、一見すると壬申の乱で大化の改新が頓挫したかのようであるが、実は天武天皇は大化の改新の熱心な支持者であったと見る。そして、大化の改新は、続く持統天皇、文武天皇によってさらに推進され、記紀編纂の時期に完成したと分析する。

 その十七条の憲法の最後は、「独断は不可である。衆と論じ合わなくてはならぬ。衆と論弁することによってのみ理を得ることができる」とされている。これは、盛んに議論して事理を通ぜしめようという第1条の考えと同じである。十七条の憲法は官吏の心構えを説いたものであるが、その精神は大化の改新にも受け継がれており、改新後の詔勅では、「不可独制(独り制〔おさ〕むべからず)」と君主の独断を牽制している。ちなみに、現実世界だけでなく、神々の世界でも、例えば処罰を決める際には会議を開いていたと和辻は指摘している。

 一般化すれば、下の階層にいる者は、上の階層から命令を受け取った場合、それが上の階層の独断とならないように、自ら発言し、ともに議論する。もちろん、この議論は公の精神に基づいていなければならない。これにより、上の階層は、単に地位が要求する職務の遂行にとどまることなく、より自律的になり、自らの考えを充実させることが推奨されている。これが、和辻の言う3本柱の最後の柱である「社会的正義」である。「全体性の権威」に支えられた階層社会は不平等である。しかし、それぞれの地位に就いた人々には、自分なりの意思を持ち、それを表明する自由がある。私はこれを「権威の中の自由」と呼ぶことにしよう。

 (※)今まで、本ブログやブログ別館で「権力の中の自由」という言葉を用いてきたが、権力と権威の違いを踏まえると、「権威の中の自由」の方が適切であると思い直した。

 私は、政治学における「権威主義」という言葉にやや疑問を感じている。開発独裁国家の政治形態が権威主義であると言う場合、トップの座にある特定の個人の強力なパワーによって開発が進められているので、「権威主義」ではなく「権力主義」と呼ぶべきである。また、日本は権威主義的だと言われることがあるが、純粋な権威主義においては、階層社会を構成する個々の地位が要請する役割を、その地位に就く人が粛々と遂行するものである。だが、実際の日本では、今見たように上下の自由な議論がよしとされ、下の階層の意見が上の階層の命令を高度化する。よって、私は日本の政治は「穏健な権威主義」と呼ぶのがふさわしいと考える。

 ここからは、本書を読んで私が今後答えなければならないと感じた論点の整理である。

 第一に、和辻が挙げた古代日本の人倫思想の3本柱は清明心、慈愛、社会的正義であった。実は、平等という倫理も重視されており、概念的には慈悲が無差別平等を説き、現実的には班田収授法が土地という生産手段の平等を実現した。だが、既に見たように、日本が階層社会である限り、完全な平等は実現できない。この問題は現在にまで持ち越されている。自由・平等を普遍的価値と信じる人は不平等を是正すべきだと主張するものの、私はどんな手を尽くしても解決不能だと考える。では、不平等を完全に放置してよいのか?「この措置を施せば結果的に不平等が生じても容認できる」と言える措置とは何か?を考えなければならない。(2)で触れた仁政の理想を踏まえると、教育に関しては平等を貫かなければならない気がする。

 第二に、本書ではタテの関係は出てくるが、ヨコの関係は皆無に等しい。タテの関係を簡略的に示すと、「絶対的な無⇒祀られると同時に祀る神⇒祀る神(天皇)⇒貴族⇒部民」となる。そして、(4)で見たように、上下の階層間で公の精神に基づいた議論を行い、上の階層が下の階層の意見を踏まえ考えを洗練させることが正義だとされた。では、ヨコの関係はどうであったか?本書では、記紀に登場する征服戦争において、日本人は異民族に勝利しても西洋人のように虐殺せず、融和を図ったと書かれているのみである。『日本倫理思想史』は全4巻で、実は私は既に全巻を読んでおり、第2巻でヨコの関係が出てくるようなので、第2巻に関する記事で整理を試みたいと思う。社会人類学者の中根千枝氏が言うように、日本はタテ社会が強いと言われる。だが、私はヨコの関係も強いという仮説を持っており、その検証が必要である。

 現代に限った話だが、企業内ではジョブローテーションという日本特有の人事慣行があり、これが部門間の協業に役立っているという側面がある。また、企業間の関係に目を向けると、業界団体を通じて同業他社同士が競合関係を超えて協業することも多い。

 第三に、第二と関連するが、日本のヨコ関係が裏目に出ることもある。企業内のヨコ関係が強すぎるがゆえに部門間の壁や派閥争いが生じる場合がある。企業間のヨコ関係が強すぎると内輪グループになってしまい、新規参入者、外資系企業、異業種企業を排除してしまう。ここで問うべきは次の2つである。1つ目は、ヨコ関係に問題が生じた場合、関係を修復するためにどんな倫理を持つべきか?また、どれほど関係修復を試みても解り合えない人・組織というのはあるわけで、関係修復を諦めてもよい/諦めるべき場合とはどういう場合か?という問いである。もう1つは、反目し合っている人や組織の上に立つ者はどんな倫理を持って彼らに接するべきか?現世界の頂点に立つ天皇は様々な反目の上に立っている存在と言えるが、いかにして十七条の憲法にあるような和の精神を保っていらっしゃるのか?という問いである。

 第四に、本書では、古代から形成されてきた公の精神が、政治に私の精神を持ち込もうとした藤原氏を跳ね返したという話が出てきたが、日本の歴史全体を見ると、私の領域が徐々に広がっていった歴史と言える。社会が現状維持を目指しているならば、公に徹していれば十分である。(3)で見たように、それぞれの階層が完全なる公の精神を発揮し、相互に補完関係にあれば、社会は安定する。だが、社会が成長を目指すならば、私が必要になってくる。

 ただし、私の精神だけでは相手の利益をお互いに奪い合うだけだから、公の精神を貫いた場合と同様に、社会は成長しない。私と公がセットになって初めて社会は成長する。「公の精神で社会全体の価値をこれだけ拡大させた。そのうち、自分は私の精神でこれだけいただいていく」といった具合に人々が行動する時、社会は成長する。この公と私のバランスは非常に繊細である。私が少しでも公に先行する、すなわち「私が先にこれだけいただだく。それを投資して社会全体の価値をこれだけ創出する」という場合、社会は価値をリスクにさらす。また、公が私に先行した場合でも、私の取り分が不当に大きければ、社会を害する。この公と私のせめぎ合いが日本の歴史の中でどのように繰り広げられてきたのか、その謎を解いてみたい。

 第五に、日本も戦前にファシズムを経験している。既に見たように、全体主義と古代日本の人倫思想には相違点があるが、仮に天皇を絶対視し、既存の階層社会を破壊して国民を総動員すれば、全体主義に近くなる。「近くなる」と書いたのは、(3)で述べたように、本来の全体主義では、私が前面に出て公を名乗るものである。ところが、日本の場合は、国体思想という、戦時中も戦後も、右派も左派もそれが一体何だったのかをほとんど誰一人として説明できなかった思想を基盤とし、公が私を完全に放逐することによってファシズムが成立した。全体主義と日本のファシズムの違いとは何か、また日本のファシズムが生まれた過程とは一体どのようなものであったのかを考察することも今後の私の課題である。





  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like