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DHBR2018年1月号『テクノロジーは戦略をどう変えるか』―伝統的な戦略立案プロセスを現代的な要請に従って修正する素案(議論の頭出し程度)
『致知』2018年1月号『仕事と人生』―「『固定型』の欧米、『成長型』の日本」が最近は逆になっている気がする
神崎繁『フーコー―他のように考え、そして生きるために』―「疎遠なるもの」に自己を変容させて到達する姿勢を経営学にも適用できるか?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2018年01月11日

DHBR2018年1月号『テクノロジーは戦略をどう変えるか』―伝統的な戦略立案プロセスを現代的な要請に従って修正する素案(議論の頭出し程度)


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 01 月号 [雑誌] (テクノロジーは戦略をどう変えるか)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 01 月号 [雑誌] (テクノロジーは戦略をどう変えるか)

ダイヤモンド社 2017-12-09

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 「テクノロジーは戦略をどう変えるか」というタイトルの特集であるが、取り上げられているのはAR(拡張現実)/VR(仮想現実)、AI(人工知能)、ドローンといったITが中心である。今や経営においてITは欠かせないツールとなったが、ITはあくまでもツールであって目的ではない。この点を勘違いしている経営者や情報システム部門が時々いる。「最新の製品、サービス、パッケージ、システムが登場したから自社にも導入しよう」、「競合他社があの製品、サービス、パッケージ、システムを導入したから我が社も追従しよう」といった具合に意思決定をしてしまう。

 私はビジネスをデザインする際に以下の図を用いることがある。出発点となるのは、自社の経営ビジョンや戦略である。経営ビジョンは経営陣の主観的要素であるのに対し、戦略は外部・内部環境の分析から導かれる客観的要素である。主観的要素と客観的要素をバランスよく考慮した上で、その経営ビジョンや戦略を実現するためのビジネスプロセス(業務プロセス)をデザインする。ただし、この時点ではまだ組織構造や人員配置を考えない。経営ビジョンや戦略が目指している顧客価値を最も効果的・効率的に実現できるビジネスプロセスとは何かとゼロベースで問う。それが明確になった後に、業務の類似性・専門性を踏まえて組織構造を設計し、社員の人数・能力を踏まえてそれぞれの社員に担当させる業務を決定する。

ビジネスのデザイン

 ビジネスプロセスと組織構造、社員の職務範囲を決めた後は、そのビジネスプロセスにヒト・モノ・カネ・情報といった経営資源を投入するための仕組みを構築する。ヒトであれば人事制度、モノであれば購買の仕組み、カネであれば予算配分制度、情報であればITがその仕組みに相当する。ここで初めてITが登場するのであって、意思決定の冒頭でいきなりITの話が出てくるのはおかしい。これは他の仕組みにも言える。欧米で流行っているからという理由で、その仕組みの目的や適用条件、成功要件などをよく考えずに自社に移植するのは誤りである。古い例で言えば、富士通が成果主義で失敗したのは、ビジネスプロセスを定義せずに人事制度だけを先に変えようとしたからである。また、ソニーはEVA(経済的付加価値)に基づく予算配分制度を導入したが、短期的な利益ばかりが追求され、イノベーションが阻害されてしまったと言われる。

 以上が、最もオーソドックスなビジネスデザインの方法である。お解りのように、ITは、「我が社の経営ビジョンや戦略を基礎とするビジネスプロセスを最も効果的・効率的に実現できるITとは何か?」という観点に立って導入を検討しなければならない。単に、その時々の流行を追いかけ回しているだけでは全く不十分である。本号にはコマツの代表取締役社長兼CEOである大橋徹二氏のインタビュー記事が掲載されていたが、次の言葉がこのことをよく表している。
 社会的課題(※建設業界における極度の人手不足に起因する、生産性向上の必要性のこと)は何かを見極め、それを解決するためにどうしたらいいか、そのために必要な技術は何かと、逆算しながら技術を考えることではないでしょうか。進化する技術を、いまのビジネスとどう関係付けるかという既存事業ありきの視点で見ていると、そこでフィルターがかかって情報が入ってこなくなります。(中略)

 これだけ短期間でスマコン(※「スマートコンストラクション」の略。コマツが提供する、ドローンなどを活用した建築土木業向けの総合的ソリューションの名称)が4000以上の現場に導入されたのは、ニーズから逆算して技術を考えていったからだと思います。
(大橋徹二「社会的ニーズを満たすための技術経営 経営者ならば、技術の目利きであれ」)
 私は前職でコンサルティング会社にいたが、こういう話をすると、「ITありきで考えてはならないというのは解る。だが、世の中にはITが戦略を変えてしまうケースもある」と、あるマネジャーが言っていたのを思い出す。確かに、戦略がITと密接不可分になっているケースは存在する。Microsoft、Google、Apple、Amazon、Facebook、VISAなどはその代表例であろう。彼らは世界のイノベーションを牽引する巨大な存在である。どうして日本からはGoogleやAppleが生まれないのかが真剣に議論されることもある。ただ、私に言わせれば、ITによって戦略を変えるイノベーションはアメリカから”しか”生まれていない。だから、日本はそれほど深刻になる必要はない。前述のオーソドックスな方法でITを利活用すれば十分であると思う。ちなみに、ITで戦略を変えてしまうアメリカ人イノベーターの頭の中がどうなっているのかは、私にはまだよく解らない。

 さて、先ほどの引用文で、コマツは「社会的課題」に着目しているとあった。社会的課題の解決と経済的価値の創造を両立させる戦略は、マイケル・ポーターがCSV(Creating Shared Value:共通価値創造)と呼ぶものである。ここで私はさらに論を進めて、「実現する価値が経済価値にとどまるか、社会的価値も含むか?」という軸と、「価値創造の方法が経済的方法にとどまるか、社会的方法も含むか?」という軸でマトリクスを作ってみたいと思う。多くの企業は、「経済的価値を、経済的方法で創造」している。だが、これからの時代で中長期的に高く評価される企業とは、「社会的価値も含む価値を、社会的方法も含む方法で実現する企業」ではないかと思う。例えば、途上国の貧困層向けのリーズナブルな衣料品を、社会的弱者を雇用しダイバーシティを実現しながら製造・販売するといったケースがこれに該当する。

 以前の記事「【戦略的思考】SWOT分析のやり方についての私見」で戦略立案の外部環境アプローチを、「DHBR2017年12月号『GE:変革を続ける経営』―戦略立案の内部環境アプローチ(試案)」で内部環境アプローチを紹介した。どちらのアプローチであれ、社会的価値を創造するためには、抽出した事業機会を以下の「社会的ニーズのテスト」にかけなければならない。具体的には、新しく生み出そうとしている製品・サービスが、

 ①顧客の健康をサポートするものであるか?
 ②顧客の生活の衛生面を保つものであるか?
 ③顧客の安全・安心な生活の実現に資するものであるか?
 ④顧客が貧困から脱却するのを助けるものであるか?
 ⑤顧客の自尊心を支えるものであるか?
 ⑥顧客が他者との人間的な絆を構築するのに役立つか?
 ⑦顧客の人間的・精神的成長を支援するか?
 ⑧顧客に有意義な時間の使い方を提供するものであるか?
 ⑨人的資源・地球資源の節約に貢献するものであるか?
 ⑩顧客の人生を社会的規範・道徳的価値観と合致せしめるものであるか?

などと問う必要がある。もちろん、これら全てを満たすことは難しい。だが、できるだけ多くの項目に該当する社会的ニーズに企業は取り組まなければならない。これは、経済的ニーズが快楽、利便性、効率、利益に焦点を当てているのとは対照的である。最近、鳥貴族などに女子高生が早い時間から集まって夕食を取っているらしい。経済的価値という観点から見れば、居酒屋の空き時間を埋め、回転率を上げてくれるから合格である。しかし、社会的価値という観点から見ると、女子高生は家族との絆を犠牲にしているし、また、1回の夕食に(バイトで稼いだお金ならともかく、)親のお金で1,000円も2,000円も使うのはお金に関する正しい価値観を損なっているから、失格である。また、私はスマートフォンも社会的ニーズには合致しないと考える。というのも、スマホでゲームに熱中する人々はたいてい、浪費した時間を後から後悔するからである。

 社会的ニーズのテストを経た後は、その社会的ニーズを社会的な方法で実現するビジネスを設計しなければならない。以前の記事「【戦略的思考】SWOT分析のやり方についての私見」では、ビジネスプロセスのあるべき姿を描くにあたって、基軸となる考え方をあるべき姿の方向性として定めるべきだと書いた。ここに、社会的な方法に関する方向性も加えていく。1つのヒントとなるのが「SDGs(Sutainable Development Goals)」である。以前の記事「「SDGs(持続可能な開発目標)」を活用した企業支援【城北支部青年部勉強会より】」でも書いたが、SDGsとは国連が地球規模の社会的課題について17の目標と169のサブ目標を設定し、2030年までに解決を目指すというものである。17の目標は、下図の通りである。企業はこの中から、自社で取り組めそうな課題を選択し、あるべき姿の方向性に反映させるとよいだろう。

SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)

 伝統的な戦略立案アプローチでは、ビジネスプロセスを定義した後、それを遂行するための人材要件を定め、その要件を満たす社員を充当する。ただ、このやり方の場合、社員を企業の都合に合わせて算術的に扱い、機械の部品のように酷使するする恐れがある。社会的な方法でビジネスを実現することには、社員に自尊心を持たせることも含まれる。社員が企業で働くことにやりがい、生きがいを感じるようでなければならない。端的に言えば、社員のモチベーションを上げなければならない。私は、社員のモチベーションについては社員本人が第一義的には責任を持つべきだと随分と厳しいことも書いてきたが(例えば以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」を参照)、企業が社員の日々の活動時間の約半分を占めているという事実を踏まえれば、企業は社員の人生を実りあるものにする特別の配慮を払う必要があるだろう。

 ただし、社員のモチベーションを上げることは、社員を甘やかしたり、社員におもねったりすることではない。むしろ、社員に対しては厳しい現実を突きつけることになる。以前の記事「ウィル・シュッツ『自己と組織の創造学』―「モチベーションを上げるにはどうすればよいか?」そして「そもそも、なぜモチベーションを上げる必要があるのか?」」では、社員のモチベーションを上げるための要件として、①顧客からのフィードバックがあること、②一定の裁量を与えられていること、③複数の能力を使わなければならないこと、④能力のストレッチが要求されること、⑤周囲の社員との協業が必要であること、という5つを挙げた。別の記事「『致知』2017年12月号『遊』―「社員満足度がモチベーションを上げる」という理屈にどうも納得できない」ではさらに論を進めて、社員が自分の力ではどうしようもできない職場環境については社員を満足させる必要があるが、社員の力が及ぶ範囲においては逆に不満足を感じさせるべきだと書いた。

 具体的には、職場環境に関しては、①本人に裁量や権限を与える、②仕事を進める上でのマニュアル、ツール、設備などを整える、③十分な研修、トレーニングの機会を与える、④必要に応じて同僚や他部門からの支援を受けられるようにする、⑤福利厚生制度を充実させる、といった措置を講ずる一方で、仕事内容については、①仕事の量を多くして忙しくさせる、②企業が求める能力と自分の現在の能力との間にギャップを感じさせる、③難しい部下や後輩の育成を任せる、④顧客や上司から公正かつネガティブなフィードバックを与える、⑤今の仕事の先にどのようなキャリアがあるのか描くことを難しくさせる、といった状況を作るべきだと書いた。これらの要件を満たすように組織を設計し、それぞれの社員の業務内容、権限・責任の範囲を具体化し、人事制度などの仕組みを構築していくことが、人的資源の社会的活用につながると考える。


2018年01月09日

『致知』2018年1月号『仕事と人生』―「『固定型』の欧米、『成長型』の日本」が最近は逆になっている気がする


致知2018年1月号仕事と人生 致知2018年1月号

致知出版社 2018-01


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 以前、「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」という記事を書いた。アメリカに限らず、欧米諸国の多くは「固定型」である。キリスト教が支配的であった欧米では、神が自分に似せて人間を創造したという考えが元々根づいていたが、神の絶対性とそれに等しい人間の絶対性をことさら強調するようになったのは18世紀の啓蒙主義であると思う。人間が唯一絶対の神と等しいとする思想が全体主義に陥る危険性を大いにはらんでいることは、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などで書いた通りである。

 そこで、アメリカを中心に、この思想に修正が加えられることになった。神はそれぞれの人間の中に、その人が生まれた時点で既に、その人の完成図を埋め込んでいる。この点で、欧米諸国は「固定型」である。一方、人間は自由意思を持ち、自分はどのような人物になりたいのかを人生の早い段階で決定する。キリスト教の言葉を用いれば、人間が神と契約を結ぶ。人間の決断内容が神の埋め込んだ完成図と等しければ、つまり、神と人間との契約が正解であれば、その人は人生において大成功を収める。他方、神と間違った契約を結んでしまった人は、どんなに努力をしても報われることがない。だから、アメリカなどでは貧富の差が非常に大きくなる。

 キャリア研究の分野でよく知られている「計画された偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」を提唱したジョン・D・クランボルツは、クリントン元大統領の娘が大学の卒業式で、「私は○○になりたい。そのためには、△△と□□をする」と将来のキャリアに関する綿密な計画をスピーチで披露したことを批判したことがあった。だが、逆に言えば、そのように将来の目標を明確に設定し(つまり、神と契約を結び)、その目標からバックキャスティング的になすべきアクションを導き計画を立てていくのが普通のアメリカ人と言えるだろう。ドイツでは、幼少の段階で自分が基幹学校に通うのか、実科学校に通うのか、ギムナジウムに通うのかを選択しなければならない。その選択によって、将来の職業がほぼ決まる。これもまた、「固定型」の表れの1つである。

 欧米の「固定型」はリーダーシップにも見て取れる。アメリカの経営者は、明確な経営ビジョンを掲げてそれを社員にくまなく浸透させようとするし、自分がこれだと信じるイノベーションを半ば強制的に世界中の人々に押しつける(この辺りの詳細については、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」を参照)。アメリカのリーダーほど強引ではないが、ドイツのリーダーもなかなか押しつけがましい。ドイツ人のマネジャーに対して部下があれこれ意見すると、マネジャーに「これは私の方針だ。つべこべ言わずに黙ってやれ」と一蹴されたという話を何度か聞いたことがある。欧米のリーダーの思考は固定的である。

 これに対して、日本人は「成長型」である。日本人1人1人には神が宿っているが、その神は決して唯一絶対ではなく、むしろ多様である。自己のアイデンティティを発見すること、つまり、自分に宿った神の正体を突き止めることは、人生における重要な課題である。だが、自分の中の神は不完全な姿でしかないから、内面と対峙するだけでは神の姿を明らかにすることができない。日本の神社は、キリスト教の教会のように、人間と神が直接通信する場ではない。そこで日本人は、他者との交流という旅に出る。というのも、自分とは異なる神を宿しているであろう他者と出会うことで、学習が触発され、内面の神を知る手がかりになるからだ。日本人が様々な人と出会う中で、その人の能力は多方面に開発されていく。これが、日本人が「成長型」たるゆえんである。学習意欲が高い人が多い日本では、欧米のような極端な格差が生まれにくい。

 日本人はほぼ単一民族であるから、思考や価値観が極めて似通っているとよく言われる。確かに、阿吽の呼吸で物事が進むこともある。しかし、私は日本人こそ極めて多様性に満ちた民族ではないかと思っている。それが最も顕著に表れているのが、欧米人にはさっぱり理解できないあの「根回し」という習慣である。仮に、日本人の考えがほとんど同質であるならば、根回しなどは不要である。皆の考えていることが違うがゆえに、根回しによってその違いを浮き彫りにし、合意に向けてどのような努力ができるかという議論をしなければならない。

 日本人の「成長型」は、マーケティングにも表れている。P&Gの"Livin It"、"Workin It"キャンペーンや、文化人類学の手法を活用したエスノグラフィー・マーケティングという手法が欧米から流入するよりもずっと前から、日本企業は顧客の声をよく聞いてきた。顧客が声を発しない場合は、顧客の消費行動をつぶさに観察して、潜在的なニーズを明らかにしてきた(川上智子『顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス』〔有斐閣、2005年〕より)。こうして、顧客の繊細なニーズを汲み取り、それを自社の製品・サービスに丁寧に反映してきたのが日本企業である。日本企業は製品・サービスの改善が得意だと言われるが、欧米のイノベーティブなリーダーが「固定型」で生み出し、世界中に普及させた(押しつけた)製品・サービスに対する顧客の不満を拾い上げて、日本オリジナルの製品・サービスを「成長」させてきたと言えよう。

顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス
川上 智子

有斐閣 2005-08-01

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 もっとも、最近の欧米企業は顧客の声を重視するようになっている。しかも、ITを駆使して、全世界の顧客情報を活用しようとする。だがそれは、欧米企業が「固定型」で創出したイノベーションの空白地帯を見つけ、どうすればその空白地帯を埋めて世界を制覇することができるかという観点で行われているように私には見える。それはちょうど、欧米諸国が植民地支配をする際に、西洋で普遍的とされる価値観、制度、文化を植民地に浸透させるために、植民地の実態を調査し、どうすれば彼らを”洗脳”できるかを明らかにしようとするのに似ている。日本企業の顧客情報の活用方法は、これとは全く異なる。日本の顧客情報活用は、あくまでも顧客のために行われる。これに対して、欧米企業の情報活用は、自社の野心を満たすことが目的となっている。

 ところが、最近は日本が「固定型」で、欧米の方が「成長型」になっているかもしれないと、『致知』2018年1月号を読みながら感じた。例えば、次のような記述に私は動揺する。
 數土:例えば、サッカーでも陸上でも小さい時からそればっかりやらせる日本の指導法では、20歳を過ぎたら大きく伸びないといいます。欧米では逆に、小さい時はいろんな競技をやらせて、少しずつ専門性を高めていくのだそうです。学問も同じで、文系と理系を自由に行き来できる欧米の学生は、日本の学生より大成するそうです。
(數土文夫、松田次泰「一筋の道を極める生き方」)
 確かに、メジャーリーグの選手の中には、高校時代は野球とアメリカンフットボール、野球とバスケットボールの両方をやっていたという選手が結構いる。また、日本の捕鯨を批判した映画『ザ・コーヴ』に対して、反証映画『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』を制作した映画監督・八木景子氏は次のように述べている。
 海外の方はたとえ自分の考えとは違うとしても、相手の意見を聞くことを求めています。まずはこちらの考えを伝え、そこから物事が動き出したり、クリアになっていくことのほうが多いように思います。
(八木景子「捕鯨問題にどう向き合うか 捕鯨問題から見える日本の課題」)
 トップダウン型のリーダーシップをよしとするアメリカ人や、「いいから黙ってやれ」と怒鳴るドイツ人マネジャーとは違う欧米人の像がここにはある。逆に、日本人の方が「固定型」になっていると感じさせる局面に出くわすことが最近は多い。日本人の場合、出発点が不完全であるから、不完全のまま固定化されるということは破滅的な結果を招く。欧米の企業に倣って、市場調査をせずに、顧客の声を聞かずに、新製品開発担当者自身がこれだと信じるイノベーションを作ろうとしても、日本には欧米の神のようにそのイノベーションの正しさを担保してくれる存在がいない。私はここに、日本からイノベーションが生まれない最大の理由があると考える。

 以前、「中小企業診断士が「臨在感的把握」で商店街支援をするとこうなる、という体験記」という記事で、発想が固定化している診断士の例を取り上げたが、先日商店街関係者と中華料理屋で飲んでいたらこんなことがあった。ある商店街の人が、おもむろに自分の鞄からチョコレートがたくさん詰まった袋を取り出して、店員に差し出した。聞けば、この人はいつも何らかのお菓子を持ち歩いていて、飲み屋に行くたびに店員にあげるようにしているのだと言う。

 一見すると好意的な行動にも思えるが、私は大きな落とし穴があると感じた。まず、この店員は、必ずしもチョコレートが好きとは限らない。しかも、店員は中国人であった。中国人の口に日本のチョコレートが合うかは解らない。海外旅行のお土産でもらったチョコレートを食べて、何と不味いチョコレートを外国の人は食べているのだと感じた経験がある人は結構いるだろう。チョコレートは万人受けするものではないのだ。それに、女性に多量のお菓子をあげるという行為が、女性の心理をとらえていない。もしかしたら、その女性はダイエット中かもしれないからだ。

 この商店街の人は、「こうやってお菓子をあげると、相手は絶対に悪い思いはしないんだよ」と自慢げに話していた。それに賛同している商店街関係者も多かった。商店街という、顧客と日常的に密に接触して、顧客のことを一番よく知っていなければならない立場の人が、このような固定化した考え方をしているようでは、日本の商店街の復活は遠いと思ってしまった(もっとも、彼が事前に入念なリサーチをしていて、この中華料理屋のあの店員は日本のチョコレートが大好物だという情報を入手していたならば別の話なのだが、まず間違いなくそんなことはしていないだろう。なぜなら、彼はこの中華料理屋で飲み会があることを当日に知ったからだ)。


2018年01月05日

神崎繁『フーコー―他のように考え、そして生きるために』―「疎遠なるもの」に自己を変容させて到達する姿勢を経営学にも適用できるか?


フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)フーコー―他のように考え、そして生きるために (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2006-03

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 最初にこの本を読んだ時は全く理解できなくて、別のフーコー入門書を2冊読んだ後にもう一度チャレンジしたのだが、やはり十分には理解できなかった。120ページぐらいの薄い本なのに、デカルト、カント、ヒューム、サルトル、ハイデガー、フッサール、ニーチェ、メルロ=ポンティ、デリダなど様々な哲学者が登場するため、予備知識に乏しい私にはハードルが高かった。それでも、私なりに整理できたことを記事にしてみたいと思う。

 《参考記事(ブログ別館)》
 重田園江『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』―近代の「規律」は啓蒙主義を介して全体主義と隣り合わせ
 中山元『フーコー入門』―「生―権力」は<悪い種>だけでなく<よい種>も抹殺してしまう

 我々が外界の事物をどのように認識するかについて、哲学者がどう考えたかについて見ていきたい。まずはデカルトである。デカルトは方法的懐疑という手法を用いて、あらゆる認識を疑った。そして、疑っているという自分が存在することだけは疑いようのない事実であることから、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を導き出した。

 デカルトは啓蒙主義の先駆けである。啓蒙主義とは、端的に言えば理性を絶対視する立場であり、先ほどのデカルトの言葉はこれをよく表している。その理性に対して、外界の事物はストレートに飛び込んでくる。理性が事物を表象する時、理性の中に埋め込まれた観念を組み合わせてイメージを形成する。逆に言えば、あらゆる事物は必ずいくつかの基本的な観念に分解できるということである(要素還元主義)。ここで、あらゆる事物の原因となる基本的な観念はどこから来たのかという問題が生じるが、デカルトはそれは神が仕込んだのだと答える。これがデカルトによる神の存在証明である。神がインプットした観念を組み合わせて表象するのだから、誰が(どの理性が)事物を表象しても、必ず同じようにイメージされる(以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」を参照)。

 デカルトの哲学が経験主義を下地とした唯物論であるのに対し、カントの立場は観念論と呼ばれる。デカルトは理性を絶対視したが、カントは経験や理性の限界を認める。デカルトにおいては、事物の無限な観念を人間の理性が持つことの根拠として神の存在が前提とされた。他方、カントにおいては、一方で理性が自らの経験の限界を設定することで自ら従うべき法則を課す自律性を確保しながら、同時にそうした経験を可能にする根拠を自らのうちに持つ必要が生じた。デカルトは認識の主体である身体や感覚まで方法的懐疑によって退けてしまったが、カントは認識の主体である人間を必要とした。そしてこの人間は、事象を見るのと同時に、自分自身を見ている。ただ、限定された理性が対象を見ていると同時に、自分自身も見られているという時の表象が各人にとってどんなものなのか、私もこの文章を書きながらよく理解できていない(汗)。

 デカルトもカントも、外界の事物が理性に飛び込んでくるという点では共通していたが、フッサールはこれとは異なる見解を示した。フッサールは、理性の方が外界の事物に向かって働きかけるというもう1つの矢印を想定した。フッサールは文の成立過程について考察を行っている。例えば私がペンを見た時、まずは「知覚の志向性」が働く。ペンの一部を見て、おそらくこれはペンであろうという認識を持つ(この段階ではまだ文にはなっていない)。部分的な経験から事物全体へと向かうことを可能にするものを、フッサールは「質料」と呼ぶ。次に、「これはペンである(これはペンであれかし)」という「信念の志向性」が現れる。そして最後に、「これはペンである」という文が発せられる(以前の記事「門脇俊介『フッサール―心は世界にどうつながっているのか』―フレーゲとフッサールの違いを中心に」を参照)。

 外界の事物がストレートに理性に飛び込んでくるという点をもっと深く掘り下げたのがメルロ=ポンティとサルトルである。メルロ=ポンティは、外界の世界も意味を持ち、それを再分配するのだと言う。ある時、私が森の中を通って海岸まで通じる道を歩いていたとする。私の周りの木々はどれも真っ直ぐに伸びている。だが、遠方に1本だけ、幹が斜めになり、葉の色が変色しているように見える木がある。おそらく枯れ木だろうと私は考える。しかし、私が海岸に近づくにつれて、枯れ木のように見えていたものが、実は随分昔に座礁した難破船であることが解った。

 通常は、私が最初に難破船を枯れ木と見間違ったのは、私の記憶の中に、私が今まで見てきた枯れ木の映像があり、私が見たものがそれと合致したからだと考える。その見解を改めたのは、私が海岸に近づくにつれ、船のマストらしきものが見え、幹に見えたものが船の先端であったことに気づいたからである。こうして部分的な情報を総合した結果、枯れ木に見えたものが実は難破船だったと判断することになる。ところが、メルロ=ポンティはここで「ゲシュタルト」の概念を持ち出す。ゲシュタルトにおいては、全体は要素の総和ではなく、むしろ各要素の感覚的な値自体が、全体におけるその機能によって規定されており、また、その機能とともに変化する。

 私が枯れ木から難破船へと認識を改めるのは、部分の知覚が総合へと至るからではない。個々の部分が連合され、全体の意味が再構築されるのではない。風景の全体が変容することで、部分の知覚が意味を変える。全体から部分へと意味が再分配されて、全体の意味とともに部分の意味が共変する。連合ではなく、配分が問題なのであり、ここにおいて「世界の相貌」が一変する。これを私なりに解釈すれば、私が風景に対して意味を与えるのではなく、風景自体が全体として意味を持っており、それが時に応じて部分に対して意味を再分配する、ということである。そして、メルロ=ポンティは、意味が流れ出る現場に立ち会う必要があると述べている(以前の記事「熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』―意味は「感覚されるもの」と「感覚する者」の「交流」によって生まれる」を参照)。

 サルトルは、「眼差し」について考察を行っている。他者への眼差しは、その他者を対象化することによって、本来それ自体も「対自存在」、つまり意識的存在として自由なあり方をしているはずの他者を「即自存在」、すなわち事物と変わらない扱いをすることになる。だが、このことは翻って自己自身にも現に生じていることであり、眺めているということは、眺められているということを意味する。こうして、サルトルは、自己の自由というあり方が、他者の眼差しによって不意打ちを受けて逆転することから生じる疎外感や羞恥心を、自己の本質的構成要件と考える。つまり、自己は本質的に「対他存在」である(サルトルの主張も私はまだよく理解できていない)。

 さて、理性との関係でもう1つ問題になるのが、感情の位置づけである。伝統的なストア派は、理性と感情は対立しないという立場をとった。フーコーは(ここでやっとフーコーが出てきた)、デカルトが理性から狂気を排除していると指摘する。だが、デリダは逆に、デカルトは理性から狂気を排除していないと主張をしており、2人の間で論争が繰り広げられている。デカルトにおける感情の扱いが揺れるのは、『情念論』では理性と感情が両立するかのように書かれているのに対し、『省察』では理性から感情が排除されているかのように記述されているためである。

 フーコーは、死、狂気、逸脱、異常といった限界概念を経験の基点とした。自らに疎遠なものに敢えて挑んで自らのものとする、しかも自らを変えずに疎遠なるものを同化するのではなく、自らの変容を通じて、どこまで到達し得るかという限界を見極めようとした哲学者であった。

 私は、経営学やビジネスの現場で用いられる理論が、近代哲学を後追いしていると感じる時がある。例えば、ロジカルシンキングでお馴染みのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive:漏れなく、ダブりなく)とは、ニュートンやデカルトの言う要素還元主義のことである。カリスマ的な強いリーダーシップによって組織の価値観を統一し、変革を進めるという手法は、唯物論的な世界観を前提としている。また、意思決定の局面においては、まずは考え得る選択肢を全て洗い出し、冷静に時間をかけて検討を行えば必ず最善の解に行き着くと信じられているが、これはまさに啓蒙主義時代の代表的な考え方そのものである。

 しかし、社会は企業活動だけで成立しているわけではない。企業活動の上には政治が乗っている。そして、政治とは権謀術数の世界である。そこでは褒め殺し、誘惑、媚び諂い、威嚇、恫喝、脅迫、取引などが日々行われている。啓蒙主義が理想とした世界からはほど遠く、とても合理的な意思決定が行われているとは思えない。こうした政治の世界については、マーティ・リンスキー、ロナルド・A・ハイフェッツの『最前線のリーダーシップ』(ファーストプレス、2007年)が詳しい。また、以前には、公務員改革をめぐって「長谷川幸洋『官僚との死闘700日』―抵抗勢力の常套手段10(その1~3)(その4~7)(その8~10)」という記事を書いたこともある。

最前線のリーダーシップ最前線のリーダーシップ
マーティ・リンスキー ロナルド・A・ハイフェッツ 竹中 平蔵

ファーストプレス 2007-11-08

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 政治の世界とは、人間精神の異常が前面に出てくる世界である。啓蒙主義者は認めたくないだろうが、政治の世界がこのように混乱していても、国家は何とか回っている。ということは、啓蒙主義者が考える合理的な意思決定よりも、現実の政治的な意思決定の方が本質に近いのかもしれない。そして、こうした政治世界の傾向は、企業活動にも及びつつあると感じる。従来の企業活動は経済的、量的であったため、近代的な算術で処理することができた。だが、これからの企業は社会的ニーズと多様なステークホルダーに対応する質的な経営が求められる。換言すれば、企業活動が政治化する。ということは、フーコーのように異常からアプローチする必要が生じるに違いない。ここにおいて経営学は、現代哲学に追いつく。これは一見受け入れがたいことだが、我々は「イノベーションは辺境から生じる」というあの格言をここで思い出す必要がある。



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