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【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―他国への「不信」ではなく「信頼」を出発点とする関係構築は可能か?、他
【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―「知識を知識に適用する」とはどういうことか?、他
【ドラッカー書評(再)】『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』―ドラッカーのチェンジ・リーダー論に日本人は勇気づけられる、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2017年08月29日

【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―他国への「不信」ではなく「信頼」を出発点とする関係構築は可能か?、他


ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか
P.F. ドラッカー P.F. Drucker

ダイヤモンド社 1993-07

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 前回の続き。

 Q6.部下がいない組織、全員が同僚である組織は可能か?
 これまでの組織では、部下の行うことは、既に上司が知っていた。上司自身、数年前には部下と同じ仕事をしていたからである。しかし、知識組織では、上司は部下の仕事を知らない。上司が知っている知識は古すぎて、今の仕事には適用することができない。それでも上司は部下をマネジメントしなければならない。ドラッカーはここでオーケストラの例を出す。オーケストラの指揮者には、オーボエの演奏はできない。しかし指揮者は、オーケストラに対してオーボエがどのような貢献をしなければならないかを知っている。

 オーボエにあたる人、つまり知識労働者は、自らの目標と貢献について徹底的に考え、責任を負わなければならない。その結果、組織には「部下」など存在せず、「同僚」が存在するだけだとドラッカーは主張する。組織はフラット化する。だが、ドラッカーは元々、組織が分権化することはあっても、フラット化することはないと述べていた(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『企業とは何か―その社会的な使命』―GMの分権化の特徴、他」を参照)。まず、最終的な成果に対して責任を持つ人間が必要であるとして、上下関係を肯定していた。それから、組織をフラット化すると、知識労働者がいきなり大きな責任を負わされることになるため、分権化によってトップマネジメントへと上り詰めるための練習場を与えるべきだとしていた。この初期の主張が、どうしてこのような形に変わったのか、明確な説明はなされていない。

 ドラッカーは現代社会を組織多元社会としているが、その社会とは、政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などがネットワーク化、システム化された社会である。ただし、相互依存関係にあることは、必ずしもフラットな関係を意味しない。相互依存関係にあるからこそ、ある組織が別の組織に対して命ずるという関係が生じる。確かに、従来の軍隊のような、絶対服従の形で命令が下されることはないだろう。また、命令した組織が命令された組織を支援しなければならないような局面も生じる。つまり、柔軟な指揮命令関係にあると言える。しかし、命令は命令であり、その限りにおいて上下関係が消えることは絶対にないと思う。

 ちなみに日本はと言うと、情報革命によってミドルマネジメントが一掃されたかと思いきや、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で書いたように、むしろ企業内の階層は増えている。また、前回の記事で触れた「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という日本特有の階層社会は、(絶対にお1人しかいらっしゃらない天皇を除いて)ますます多重化している。

 前回の記事でも書いたように、多神教文化に生きる日本人は自分を不完全な存在と見なしている。不完全であるがゆえに、自分1人では何もできない。だから、自分にできないことを他者に依頼する。アメリカの自動車メーカーが自前主義を採用したのに対し、日本の自動車メーカーは自社だけで全ての部品を製造することができなかったため、系列という特殊な上下関係を構築したのはその一例である。昨今は、我々の能力レベルに対して、我々がなすべきことがより大きく、より重要になったので、組織や社会の多重階層化に拍車がかかっていると考えられる。

 Q7.知識労働者とは実は人間の道具化ではないか?
 ドラッカーによれば、組織が1つの目的に集中しなければならないのと同様、知識労働者も1つの領域・知識に特化しなければならないとされる。一方、知識労働者が働くにはチームが必要であり、そのチームには3つのタイプがあると言う。野球型、サッカー型、テニスのダブルス型の3つである。野球型とサッカー型では、プレイヤーの役割が固定されている。これに対して、テニスのダブルス型では、状況に応じて各プレイヤーの役割が柔軟に変更される。経営幹部のチームでは、テニスのダブルス型が上手く機能するケースが増えているとドラッカーは指摘する。しかしこれは、知識労働者の性質に反しているのではないだろうか?

 これはやや過激な発言になるが、ドラッカーの知識労働者観は、人間を道具化しているのではないかという疑念が私の中にはある。そもそも西洋では伝統的に、神の下で正しい政治を行うことが世界の全てであり、政治に関与する者だけが理性を発揮できるとされてきた。だが現代は、政治に代わって企業が世界の中心となった。神とつながった企業経営者のみが事業の全てを知っており、理性を発揮できる。ところが、これでは理性を発揮する人間が限定される。

 人間に理性を発揮できる機会をもっと与えるべきだという運動の結果として生まれたのが、ドラッカーが発明したと自分でよく言っている「分権化」である。分権化によって各事業のトップに就いた者は、経営トップほどではないが、大きな権限と責任を与えられ、事業の全体を見渡すことができる。すなわち、理性を発揮することが可能となる。その各事業のトップの下に、知識労働者が配置される。彼らは特定の領域に関する知識を持ち、特定の強みを持って、事業トップに貢献する。事業トップにとって、知識労働者は道具である。使うも捨てるも自由である。道具であるから、用途ははっきりしていた方がよい。はさみは紙しか切れないから使い道が明確になる。何にでも使える道具ほど、使い手にとって勝手が悪いものはない。

 実は、アメリカにおいて、非営利組織でボランティアとして働く知識労働者が増えているのは、自身が道具化されることに対する知識労働者側の反発の表れなのではないかと感じる。知識労働者は、自分はもっと世界に対してインパクトを与える仕事がしたい、そういう仕事ができるはずだと思っている。ということは、知識労働者が普段所属する組織では道具としての扱いしか受けられず、根源的な欲求が抑圧されていると言える。ちなみに、日本の場合は、前回の記事で書いたように、「下剋上」、「下問」、「コラボレーション」によって、多重階層社会の中を上下左右へとはみ出していく。日本人は不完全な存在ではあるが、自己の中に多様性を取り込む自由を持っている。よって、ドラッカーの言う知識労働者よりも人間らしく生きることができる。

 Q8.日本だけが福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家の例外か?
 Q7でも述べたように、西洋では伝統的に政治が世界の全てであった。ということは、政府は万能でなければならなかった。その結果生じたのが、福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家であるとドラッカーは言う。福祉国家、産業の国家独占については説明するまでもないだろう。租税国家とは、国家が際限なく歳出を行い、その歳出を補うために税を徴収するが、不足分については際限なく借金をする国家のことである。冷戦国家とは、軍備を拡大することによって力の均衡を図ろうとする国家を意味する。しかし、4つとも現代では破綻しているとドラッカーは喝破する。しかし、ドラッカーによれば、唯一の例外が日本だとされている。

 ただ、これは何となくドラッカーの買い被りであるように感じた(これ以外にも、本書にはドラッカーが日本を過大評価しているのではないかと思える箇所がいくつかあった)。福祉国家に関して言えば、日本には国民皆保険制度があり、国民の医療の面倒を国家が見ることになっている。産業の国家独占については、日本にも国有化企業は存在したし、国有化はされていないものの、いわゆる護送船団方式によって、国家が企業、いや業界全体をコントロールするような動きが見られた。租税国家に関しては、日本は際限なく国債を発行しており、GDPに占める国債発行額の割合は先進国の中でダントツに高い。冷戦国家については、国防の担い手がアメリカであるというだけであって、世界第8位の防衛費を使って巨大な力を有している。

 Q9.結局のところ、国家とは何か?
 第2次世界大戦後、国の数は激増しており、特に近年設立された国家は人口が数百万人という小国ばかりである。ところで、国家とは結局のところ何であろうか?

 カール・ドイッチュは、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物だと主張した。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するもの、第2に、情報に関するものである。資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼んだ。同時に、言語と文化(行動・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。だが、どうやら最近は文化情報共同体だけで国民や国家が成立しているように見える。SNSによるローカルなコミュニケーションの活性化もこの動きを加速化させている。

 経済社会はと言えば、必ずしも国家単位で完結している必要はない。ドラッカーが述べているように、通貨がグローバル化しているからである。また、自由貿易によって、自国に不足しているものは海外から購入すればよい。ただし、購入のための原資は必要であって、小国はたいてい天然資源に乏しいから、知識経済を発達させる必要がある。そしてその知識経済は、ドラッカーが言うように、最初からグローバル化を目指さなければならない。すると、ドイッチュが言う経済社会と文化情報共同体は分離してしまい、国家の存立基盤が脅かされているように感じる。

 ここからは、「国家とは結局何なのか?」という難題に対する、今の私のぼんやりとした見解を述べたいと思う。伝統的な理解に従えば、人間は放置しておくと闘争状態になる。そこで、お互いの財産を預けて、財産を守ってくれる機構=国家を設立する。国家は財産を守るためのルールである法律を制定する。そして、その法律を確実に執行する高度な官僚機構を作る。さらに、国民の財産を内外の脅威から保護するために、警察と軍隊を保持する。国民は自国の中ではお互いに信頼しているが、他国に対しては、いつ何時自国の財産を狙ってくるか解らないという不信感を抱いている。よって、他国と貿易を行う際には関税をかけるし、他国からの侵略に備えて自衛権を主張する。ただし、自衛権が軍拡競争につながることは以前の記事「『死の商人国家になりたいか(『世界』2016年6月号)』―変わらない大国と変わり続ける小国、他」で書いた。

 従来の国家観は、人々の財産を中心に組み立てられている。これに対して、私の理解はこうである(今まで私が本ブログで書いてきたことと大きく矛盾するかもしれないことを承知の上で書く)。人間は本質的に、「『自分は他人とは違う』と思いたい」という欲求を持っている。しかし同時に、人間は臆病であるから、「『自分は他人とは違う』という思いを誰かと共有したい」という矛盾した感情も持っている。この感情を共有できる集団こそが国民である。感情を共有するところに信頼が生まれる。財産はおろか、人種、民族、文化、言語は関係ない。この点で、私の国家観は非常に曖昧である。実際、国境というものは柔軟であってもよいとさえ思っている。

 この場合、他国とは、「自分は他人とは違う」=相違点が際立つ人々が集まる機構である。従来の国家観では、他国に対しては不信がベースになっていると書いた。しかし、私の国家観では、国内において、自分が他人と違っていても他の国民から信頼してもらっているのだから、国外においても、相手が自分と異なっているからと言って相手に不信感を抱くことは許されない。国家間の関係もやはり、信頼が基礎とされる。そうすれば、知識経済は国境を越えて容易に広がるであろうし、国家が軍拡競争に巻き込まれるリスクも小さくなる。孔子はある時、弟子の子貢に、国家を構成する「信・食・兵」という3大要素のうち、何か大変なことが起こってどれかを犠牲にしなければならないとしたら何を犠牲にするかと聞かれた。「まず兵を捨て、次に食を捨て、最後に信を残す。信頼がなければ国家は成り立たない」。これが孔子の答えである。

 新しい国家観の下では、ナショナリズムは相対化される。ドラッカーが述べたように、現代社会は政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などが並存し、いずれもが絶対的な力を持たない組織多元社会である。よって、我々は「○○国の人間だ」と言うだけでなく、ある時は「△△という組織の人間だ」と言い、またある時は「□□という組織の人間だ」と言う。このように、我々のアイデンティティはナショナリズムへの一極集中から多極化していく。

 Q10.グローバル化された世界とは西洋化された世界なのか?
 本書の最後は「教育ある人間」の重要性について述べられている。だが、その人間像は、西洋の伝統を中核に置かなければならないと言う。ドラッカーによれば、未来の文明は西洋を基盤とする。すなわち、科学、道具、技術、生産、経済、通貨、金融、銀行である。これらはいずれも、西洋の思想や伝統を理解し受け入れなければ機能しないと述べられている。結局、グローバル化とは西洋化のことなのかと、少々がっかりした。厳密には西洋化というかアメリカ化のことなのだが、アメリカは自国の普遍的価値、すなわち資本主義、自由、平等、民主主義、基本的人権を世界に広めることを使命としており、ドラッカーもその片棒を担いでいるのかという気がした。

 以前の記事「植村和秀『ナショナリズム入門』―西欧のナショナリズムが前提としていることに対する素朴な疑問」でも書いたが、アラブにはアラブに適した国家のあり方があるはずである。同様に、アジアにはアジアに、アフリカにはアフリカに適した国家の形が存在するに違いない。生態学者の今西錦司は、ダーウィンの進化論を読んで、「西洋には西洋の進化論があるが、東洋には東洋の進化論があってもおかしくないはずだ」と述べ、東洋なりの進化論の構築に力を注いだ。この作業を国家レベルでやろうというわけだ。Q9でも述べたように、これからの国家は信頼を基盤に柔軟に設計される。そして、各国は相互の違いを尊重することが要求される。これこそが、ドラッカーの言う多元主義の本質ではないだろうか?


2017年08月28日

【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―「知識を知識に適用する」とはどういうことか?、他


ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか
P.F. ドラッカー P.F. Drucker

ダイヤモンド社 1993-07

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 ドラッカーの半世紀以上の研究成果が凝縮された1冊。10年ぐらい前に初めて読んだ時は、ドラッカーの政治学、経済学、社会学、経営学のエッセンスが解りやすくまとまっていると感じたのを記憶している。改めて読み返してみると、確かに個々のパーツは文筆家ドラッカーらしく、非常に理解しやすい。世界中の歴史や現在世界で起きている出来事ををこれだけ幅広く記述するさまは圧巻である。ところが、全体を俯瞰してみると、辻褄が合わなかったり、結局何が言いたいのかが伝わりにくいと感じたりする箇所がいくつかあった。

 Q1.「知識を知識に適用する」とはどういうことか?
 ドラッカーによると、「資本主義」は「産業革命」よりも以前から存在したそうだ。しかし、資本主義が「資本主義」として世界の文化となったのは、「産業革命」が契機である。「産業革命」の特徴は、「知識を行為に適用した」ことである。これによって、様々な機械や道具が登場した。また、従来は形式知化できないテクネー(技能)にすぎなかったものが、体系を持ったテクノロジー(技術)に生まれ変わった。機械を効率的に稼働させるためには、機械を個々の家庭内作業所に散在させるのではなく、工場の中に集中させなければならない。こうして「資本主義」が生まれた。

 しかし、ここで新たな問題が生じた。機械は効率的に生産を続けたのに対し、機械を使う人間の作業が非効率であったため、全体の生産性が阻害されていた。ここに登場したのが、フレデリック・テイラーの科学的管理法である。ドラッカーに言わせると、テイラーは「知識を仕事に適用した」。ドラッカーは、テイラーの業績を「生産性革命」と呼ぶ。科学的管理法により、生産性が大幅に向上し、労働者は賃金上昇の恩恵を受けることができた。生産性の向上は、社会の貧富の差を縮小した。パレートの法則で知られるヴィルフレド・パレートは、社会を平等にするのは政府による再分配ではなく、ただ1つ、生産性の向上以外にないと説いたそうである。

 ドラッカーは、現在の知識社会は3つ目の革命の段階を迎えていると言う。それが「マネジメント革命」であり、その特徴は「知識を知識に適用する」ことにある。この「知識を知識に適用する」とは一体何を指しているのかが解りにくい。私なりに解釈すると、「既存の知識から新たな知識を創造する知識を、既存の知識に適用する」ということではないかと思う。その結果生まれるのがイノベーションである。ただ、この「既存の知識から新たな知識を創造する知識」は未だ全く体系化されておらず、個人の独創性に委ねられている。以前の記事「『知性を問う(DHBR2017年5月号)』―AI(人工知能)にできないことは「意識」/マーケティングとイノベーションの二項混合?」で、①否定、②空白地帯の発見、③組み合わせの3つを挙げたが、これはほんのさわりにすぎない。この知識の体系化が、第3の革命の成否を握っていると言えるだろう。

 Q2.組織の文化はコミュニティを超越するのか?
 ドラッカーは組織とコミュニティを分けて考えている。コミュニティは存在することに意義がある「維持機関」であるのに対し、組織は外部に成果が存在する「変革機関」であると言う。組織は、コミュニティと社会への貢献を自らの信念として機能しなければならない。逆に言えば、コミュニティや社会は、組織からの貢献に依存する。しかしここで、ドラッカーは「組織の『文化』はコミュニティを超越しなければならない」と主張する。これがまた非常に解りにくい。

 ドラッカーは決してコミュニティを軽視してはいない。社会は家族以外のコミュニティを必要としている。アメリカでは、多くの知識労働者が非営利組織でボランティアとして働くことでコミュニティに貢献している。彼らは、「世の中を変える」ことのできるところで何かをしたいという欲求を有する。今や、非営利組織がサービスの受け手に何を提供できるかよりも、ボランティアに何をすることができるかの方が、はるかに重要な意味を持つかもしれないとドラッカーは指摘する。

 この辺りから議論がもうごちゃごちゃしてきているのだが、仮に非営利組織が顧客ではなくボランティアのために存在することがあるならば、組織の文化がコミュニティを超越することもあるだろう。しかし、ドラッカーも言っていたではないか?非営利組織でも、成果は内部ではなく外部にある、と。私はいくつかの非営利組織に属しているが、非営利組織の顧客ではなく、組織に所属する会員の満足度を優先する組織は、例外なく大した成果を上げることができていない。

 ドラッカーが組織と社会やコミュニティの関係をどのようにとらえているのかは不明なのだが、私が本ブログでよく用いている日本社会の階層構造「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」(これはかなりラフなスケッチである点はご容赦いただきたい)に従うと、企業は市場の経済的ニーズに、NPOは社会(やコミュニティ)の社会的ニーズに応えるという関係になる。企業が市場に従属する、つまり顧客の利益を優先するのは自明であるし、NPOも社会やコミュニティに従属するのであって、社会やコミュニティの利益を優先しなければならない。したがって、組織の文化がコミュニティを超越するとは言いがたい。もし、組織の文化がコミュニティを超越するのであれば、いわゆるプロダクトアウト的な発想に陥ってしまう。

 Q3.知識労働者は自己実現の機会で動機づけするのか?
 ドラッカは、知識労働者から忠誠心を引き出す方法について述べている。給与はその手段としてもはや重要ではない。知識労働者に対しては、業績と自己実現のための卓越した機会を提供することが必要になると述べている。ただ、私は以前の記事「【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点」で述べたように、企業が社員の動機づけをしなければならないということに対して、あまり肯定的な考えを持っていない。顧客と企業の関係において、お金を支払う側の顧客が企業の動機づけを行うことがないのと同様に、企業の内部において、給与を支払う側の経営陣が社員の動機づけを行うのはおかしいというのがその理由である。

 それでも経営陣が社員を動機づけなければならないのは、社員は簡単に入れ替えられないからである。顧客は企業の製品や態度が気に食わなければ、別の企業に乗り換えればよい。しかし、企業は社員が気に食わないという理由で簡単に社員の首をすげ替えることができない。解雇規制があるからではなく、要件を満たす人材を調達するのにコストがかかるためである。だから、企業は今いる社員を動機づけし、教育訓練も行って、リテンションに努めなければならない。

 ただ、この考え方も、ドラッカーの言う知識労働者の概念に照らし合わせると崩れてしまうように思える。ドラッカーが言う知識労働者とは、特定の目的と専門特化した知識を持ち、仕事に関する重要な意思決定を下し、自らを規律する存在である。ドラッカーは知識労働者のことを「経営管理者(エグゼクティブ)」と呼ぶ。つまり、知識労働者は経営者なのである。さらに、知識労働者は、確かに自らが成果を上げるために組織を必要とするが、自身の専門性ゆえに、簡単に組織を移動することができる。流動性が高い経営者を企業側が果たして動機づけする必要があるのか、個人的にはやや疑問である。動機の管理は、知識労働者本人の責任ではないか?

 これに対して日本の場合は、長期雇用の慣行がかなり崩れてきているとはいえ、1つの組織で一生とまではいかなくとも、長く働くことがまだまだ前提となっている。よって、企業は社員を動機づけしなければならない。その際、日本人の特性を踏まえると、「外発的×利他的」な動機づけが有効なのではないかと以前の記事「『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?」で書いた。端的に言うと、「困っている人がいるから助ける」というのが日本人の動機の源泉である。この話には続きがあって、最初は「外発的×利他的」に動機づけられる日本人は、時間が経つにつれて「外発的×利己的」に動機づけられるようになると思う。つまり、社会が付与する地位や名誉によって動機づけられる。社会的に承認されることを日本人は強く欲している。

 一方、自分で自分の動機を管理しなければならないアメリカ人の場合は、「内発的×利己的」からスタートする。自己実現の欲求はまさにこれに該当する。しかし、自分中心で動いていたアメリカ人も、時間が経つと考え方が変わる。つまり、「内発×利他的」に変化する。今までは自分のために仕事をしてきたが、これからは社会のため、もっと言えば世界のために仕事をしようと思うようになる。アメリカからは多数の世界的なイノベーターが輩出されているが、彼らの動機を分析するとこのパターンに該当するのではないかというのが私の考えである。

 Q4.専門経営者の役割は利害関係者の利益の均衡を図ることなのか?
 ドラッカーの主張は、企業の社会的責任をめぐっても錯綜しているように見える。1950年代には、大企業の経営管理者は、株主、社員、供給業者、地域社会といった利害関係者の間で最も均衡ある利益を実現する者と定義された。ドラッカーは著書『現代の経営』の中で、こうした博愛専制に対して批判を行った。その後、経営者の責任は「株主の利益を最大化すること」という考えが現れたがすぐさま消滅し、結局は、多様な利害関係者における最も均衡ある利益を実現することであるという考えに落ち着いた。実は、ドラッカーはこの結論を支持している。しかし、ドラッカーは、「均衡ある利益」とは何かを明確にしていない。それに、この見解に従うと、「組織は1つの目的に集中しなければならない」というドラッカーの別の主張と衝突してしまう。

 唯一絶対の神を戴く一神教文化のアメリカでは、組織が自らの使命を明確に定め、それを果たすことを神と契約する。組織にはその契約を履行する能力が完璧に備わっているとされる。一方、多神教文化に生きる日本では、あらゆる存在が多様であると同時に不完全である。自己が何者であるかは、アメリカ人のように教会で神に祈るだけでは悟ることができない。自分のアイデンティティを探るために最も有効なのは、自分とは異なる点を有する他者と交わることである。月並みな言葉であるが、学習は異質との出会いから始まる。だから私は、日本の企業に対して、水平方向には「コラボレーション」を、垂直方向には「下剋上」や「下問」を期待している(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『断絶の時代―いま起こっていることの本質』―「にじみ絵型」の日本、「モザイク画型」のアメリカ」を参照)。

 「コラボレーション」、「下剋上」、「下問」によって、企業は競合他社や協力企業およびその顧客、非営利組織およびその顧客である社会やコミュニティ、政府、行政、仕入先、学校、家庭、金融機関、株主と幅広く関わる。そして、彼らの目的の達成を支援する。ただし、こうした支援はあくまでも、自社が何者であるかを知るための活動であり、支援自体が目的と化してはならない。企業の本質は、自社の顧客に仕えることに他ならない。この優先順位を見誤ってはいけない。企業の社会的責任とは、自社の顧客の利益を最優先する範囲で果たされるものである。前述の「均衡ある利益」という考えに従うと、ある局面では自社の顧客ではなく、別の利害関係者の利益が最優先される可能性がある。しかし、日本の場合はそういうことがあっては絶対にならない。

 Q5.企業は政治権力を求めてはならないのか?
 ドラッカーは、組織には政治を扱う能力や正当性はないと言う。組織が政治権力を求めることほど、害をもたらすことはないと警告している。ただ、このくだりは注意して読む必要があると感じた。一般に、企業は政治から距離をとっていた方がクリーンなイメージがある。市場における自由競争の枠内で正々堂々と勝負している印象を与える。しかし、これからの知識社会、知識経済においては、企業はますます政治と関わる局面が増えると思う。

 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で用いたマトリクス図に従うと、アメリカ企業は左上の【象限③】に強い。【象限③】はイノベーションの領域であり、既存の製品・サービスを前提として作られた既存の規制や法律と真っ向から対立することがある(UberやAirbnbの例が解りやすい)。イノベーターは新しい顧客価値のために、規制や法律と対決しなければならない。ただし、闇雲に対決するだけでは進歩がないから、イノベーターは新しい規制や法律を創造するべく、政治や行政と歩調を合わせ、建設的な議論をする必要性も生じる。

 日本が強い右下の【象限②】は、製品・サービスの欠陥が顧客の生命や事業に与える影響が大きいため、様々な法律や規制で顧客を保護する措置が取られている。この領域において新たな製品・サービスを作る場合には、それが法律や規制にのっとっているかどうかを行政とともにチェックしなければならない。そして、技術革新が既存の法律や規制を陳腐化する場合には、政治に働きかけて新しい法律や規制を作ってもらう必要がある。

 このように、企業は政治や行政とは無縁ではいられなくなる。ただし、誤解してはならないのは、企業が政治や行政に接近するのは、自社の利益を保護するためではなく、顧客の利益を優先するためだということである(森友学園や加計学園の問題は論外である)。興味深いことに、20世紀には戦略策定の分野において様々なフレームワークが登場したが、政治を正面から扱っているフレームワークはほとんど皆無である。唯一挙げられるとすればPEST分析があるが、PEST分析もP=政治の動きに対して受動的に反応することを前提としている。しかし、これからの時代は、政治に対しても能動的に働きかけることが企業活動の重要な一部となる。政治と戦略的に関わる方法論を持ち、政治との関係を構築する専門部署の設立が必須となるはずだ。


2017年05月03日

【ドラッカー書評(再)】『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』―ドラッカーのチェンジ・リーダー論に日本人は勇気づけられる、他


明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker

ダイヤモンド社 1999-03

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 前回の記事「【ドラッカー書評(再)】『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』―非営利組織のマネジメントは本当に難しい」の続き。

 (1)
 第一に、製品、サービス、プロセス、市場の寿命が、まだあと数年はあるといわれるようになった状況では、廃棄が正しい行動である。そのような製品、サービス、プロセス、市場は膨大な人手を奪う。生産的な人材を縛りつける。しかも、製品、サービス、プロセス、市場の寿命は過大評価しがちである。それらのものは、死につつあるのではなく、すでに死んでいる。昔から、死体の保存ほど難しく、金がかかり、無駄なものはない。
 ドラッカーは様々な著書で、組織は定期的に「体系的廃棄」を行い、マネジメントを見直すべきだと主張していた。組織が現在行っているあらゆる活動について、「もしそれを今行っておらず、これから始めなければならないと仮定した場合に、それを始めるか」と問い、その答えがノーであればその活動を廃棄せよというのがドラッカーのアドバイスである。

 上記の引用文も体系的廃棄に関するものである。凡庸な例だが、マイクロソフトなどはこうした体系的廃棄が上手く、それによって事業を拡大してきた。だが、企業が環境への負荷を考慮して事業を行わなければならないなど、企業の社会的責任が重視される現代においては、上記の引用文は修正する必要があるかもしれない。市場の寿命がまだあと数年ある段階でその事業を廃棄するのではなく、最初から製品・サービスの寿命が長くなるように設計しなければならない。そして、製品・サービスの寿命が近づいてきたら、事業を段階的に縮小しつつも、残りの市場から上手に収益を上げる方法を習得しなければならない。

 製品・サービスの寿命を延ばすことに最も積極的な企業がアウトドア・アパレル会社のパタゴニアである。パタゴニアは2011年にCTI(Common Threads Initiative)というプログラムを立ち上げた。その時点で同社は既に、中古衣料品をリサイクルする企業であった。ところが、大量の中古衣料を回収するうちに、製品をより長く使ってもらうことの方が、汚染と廃棄を減らす上でははるかに効果的であると気づいた。こうした状況を受けて、本当に必要となるまでパタゴニア製品を買い替えないでほしいと顧客に訴えるCTIが実施された。

 パタゴニアは、自社の製品が長く使われるようにデザインされていること、必要ないものあるいは使わないものは顧客に買わないでほしいことを強調していた。パタゴニアで最も売れているジャケット写真の上に、"Don't Buy This Jacket."という宣伝文を載せた。さらに、パタゴニアは顧客に対して、「私は、私が必要なもの(かつ、長持ちするもの)しか購入しないことに同意します」という宣誓文に署名することまで求めた。

 製品・サービスの寿命を延ばすためのもう1つの取り組みは、自社のビジネスモデルをリサイクルモデルからサービスモデルへと変えることである。別の言い方をすれば、製品の「所有」から「使用」に転換することである。例えば、高価格の食器洗浄機は、製品寿命を延ばすことで環境への影響を低減するとともに、改修とリサイクルを容易にし、製造業者と顧客の双方に大きなメリットをもたらす。ある研究によれば、こうした機械が販売ではなくリースされれば、ほとんどの家庭で使用可能となり、顧客にとっては1回の食器洗いにつき3分の1ほどの支出が節約でき、製造業者も収入を33%増加させることができるという(ジョエル・ベーカー・マレン「循環型経済のためのイノベーション」〔『一橋ビジネスレビュー』2017年SPR.64巻4号〕より)。

一橋ビジネスレビュー 2017年SPR.64巻4号一橋ビジネスレビュー 2017年SPR.64巻4号
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2017-03-10

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 (2)
 チェンジ・リーダーたるための第2の条件が、組織的改善、日本語でいうところのカイゼンである。あらゆる組織が、自らの製品、サービス、プロセス、マーケティング、アフターサービス、技術、教育訓練、情報のすべてについて、体系的かつ継続的な改善をはかっていかなければならない。しかも、あらかじめ改善の目標を定めておく必要がある。日本企業にみるように、年率3パーセント程度の目標が現実的である。
 チェンジ・リーダーたるための第4の条件がイノベーションである。これこそ今日最も注目されている分野である。しかしこれは、チェンジ・リーダーたるための条件としては、最も重要なものではない。体系的廃棄、組織的改善、成功の追求の仕組みのほうが、意味のある場合が多い。
 人口減少による国内市場の縮小に伴い、各社とも憑りつかれたようにイノベーションに注力し、リーダーは新しい需要を創造しようと躍起になっている。ところがドラッカーは、イノベーションはチェンジ・リーダーたるための条件としては最も重要度が低いと述べている。それよりも、日本企業が強みとするカイゼンの方が効果的であると言う。リーダーにとっては少し肩の力が抜ける言葉ではないだろうか?ただし、年率3%の成長はややハードルが低いかもしれない。政府が2020年までにGDPを600兆円にすると宣言しているが、そのためには年率3.45%の成長が必要である。それよりも低い目標ではまずいだろう。せめて5%ぐらいの成長はどの企業も目指すべきだし、野心的な企業は年10%の成長を掲げるぐらいでちょうどよいだろう。

 ここで重要なのは、利益をしっかりと確保するということである。日本企業は売上高を重視する傾向があり、逆に言うと利益率をあまり見ていない。そのため、欧米企業に比べると収益率が見劣りすると言われる。ドラッカーは事あるごとに、「利益は将来のためのコストである」と口酸っぱく言っていた。利益があるから将来の事業や設備に投資することができる。だから、企業が十分な利益を確保することは必須である。稲盛和夫氏は「どんな業種でも経常利益率10%以上を上げなければいけない。そうでなければ経営をやっているとは言えない」と述べている。

 利益は、その企業が借り入れ可能な金額を示唆する。一般的に、支払利息が営業利益の20%以下、借入金返済額が経常利益の10%以下の企業は財務的に優良であると言われる。ただ、昨今は金利が異常なほどに低いため、営業利益の20%を支払い可能な利息として計算し、そこから借り入れ可能な金額を求めると、非常に大きな金額になってしまう。そこで、経常利益の額を基準にするのが適切であると考える。毎年の借入金返済額が経常利益の10%以下、標準的な債務償還年数が10年であることを踏まえると、経常利益の額がそのまま借り入れ可能な金額を表すことになる。借入金を上手に活用して事業を拡大することが肝要である。

 中小企業の場合、意図的に決算書を粉飾していることが少なくない。赤字企業が、売上の前倒し計上、過剰在庫による粗利率の底上げ、費用の未払金計上、役員報酬の操作、引当金の未計上などによって、何とか経常利益を出していることがある。売上高対経常利益率が何期にもわたって0.0X%のような微々たる数字にしかならない企業は、ほぼ例外なく決算書の数字をいじっていると言ってよい。こういう中小企業に限って、設備投資に対する国からの補助金が出ると、いの一番に飛びつく。将来の設備投資に必要な利益を慢性的に稼げない中小企業に対してすべきことは、救済ではない。市場からの退出を願い出ることである。

 ドラッカーはチェンジ・リーダーに対してイノベーションをあまり期待していないが、イノベーションが不要だとは言っていない。ドラッカーは「事業に必要なのはマーケティングとイノベーションの2つである」という有名な言葉を残している。イノベーションと言うと、アメリカ企業がそうであるように、一部のカリスマ的リーダーが市場のニーズを先取りして、画期的な製品・サービスを作り出す、つまり、リーダー自身が変化を創造するという印象がある。だが、ドラッカーのイノベーション論は、変化を作り出すことに主眼を置いていない。既に起こった変化を利用すればよいと説く。これも、日本人にとっては朗報である。というのも、日本人は主体的に変化を生み出すことが苦手であり、外部環境の変化に反応して動く民族だからだ(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(上)』―変化を活かすのか?変化を創るのか?」を参照)。

 先進国の中で未曾有の少子高齢社会に突入する日本は、これからは課題先進国になるべきだという主張を耳にする。少子高齢社会が直面する様々な経済的・社会的課題に対して、日本が率先して解決策を提示し、それを今後日本と同じように少子高齢化に直面する周辺の国々に展開すべきだというわけだ。だが、個人的にはあまりこの動きに期待していない。日本はいつの時代も、どこかの国を手本にしなければ生きていけない辺境の小国にすぎない(以前の記事「山本七平『危機の日本人』―「日本は課題先進国になる」は幻想だと思う、他」を参照)。

 21世紀に日本が手本とするべき国は、やはり中国であろう。中国も一人っ子政策の影響で少子化しており、かつ今後は急速に高齢化が進む。現在の中国は、先進国をコピーするだけのならず者のように見られているが、アメリカがイノベーション大国であった以前は、中国がイノベーション大国であったことを忘れてはいけない。中国の底力は侮れない。中国は今後、欧米諸国とは異なる発想、アプローチで少子高齢化に関するイノベーションを生み出すと予想される。日本はそれを見て、中国以上に安く、早く、小さく、安全に製造・提供できるように真似をすればよい。格好悪いかもしれないが、これが辺境の小国の生き方なのである。ドラッカーも、日本のこうしたやり方を「起業家的柔道」と呼んで称賛している(『イノベーションと企業家精神』)(ブログ別館の記事「『負けない知財戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年SPR.63巻4号)』」を参照)。

 (3)
 今度は、仕事の質を顧客満足ではかることにした。これは、電話工自身に仕事の質を管理させるということだった。こうしてAT&Tは、電話工自身が工事の1週間後、10日後に客のところへ行き、満足しているか、さらに何かしてほしいことはないかを聞くことにした。
 ブログ別館の記事「諸富祥彦『あなたのその苦しみには意味がある』―他者貢献から得られる「承認」は日本人にとって重要な比較不可能な報酬」でも書いたが、他者から承認・評価されることは、本人にとって非常に大きなモチベーションとなる。ところが、以前の記事「中小企業診断士として独立してよかった2つのことと、よくなかった5つのこと」で書いたように、独立すると他者から承認される機会がガクンと減る。企業勤めをしていれば、よくも悪くも上司が何かしらのフィードバックをしてくれる。また、同僚が自分の働きぶりを見ている。しかし、独立すると、そういう社会的つながりを一気に失う。よって、自分のモチベーションを管理するのに苦労する。

 だが、それは単なる私の言い訳であり、引用文を読んで、承認がほしければ自分から相手に聞きに行けばいいと思い知らされた。ドラッカーは大学での教え子に対して、卒業後も定期的に電話をかけて近況を尋ねるということを何十年もやっているという話を何かの著書で読んだことがある。教育の成果は中長期的にしか現れないから、ドラッカー自身が卒業生を長期にわたってトレースし、自分の教育の質に対する評価を得ていたのだろう。また、ある日本のコンサルティング会社では、顧客企業がプロジェクトの成果をどのように評価しているかを知るために、プロジェクトメンバーとは無関係のコンサルタントが顧客企業を訪問して関係者にヒアリングを行い、その結果をプロジェクトメンバーにフィードバックしているという話も思い出した。

 与えられたければ、こちらから積極的に働きかけることである。何も難しいことはしなくてよい。人間として当然のことをすればよい。本書には、ドラッカーにしては珍しい文章があった。
 物体が接して動けば摩擦を生じることは、自然の法則である。2人の人間が接して動いても、摩擦が生じる。そのとき、人への対し方が摩擦を減らす潤滑油の役割を果たす。「お願いします」や「ありがとう」の言葉を口にすること、名前や誕生日を覚えていること、家族について尋ねることなど簡単なことである。もし素晴らしい仕事が、人の協力を必要とした段階でつねに失敗するようであれば、1つの原因として、人への対し方、すなわち礼儀に欠けるところがあるのかもしれない。
 (4)
 そもそも、先進国とくに民主主義の先進国というものは、指導層を不可欠とする。何らかの指導層が存在しないことには、社会と政治が混乱に陥る。その結果、民主主義が危うくされる。

 そのような観念にとらわれていない国は、アメリカと若干の英語圏の国だけである。アメリカは、19世紀の初め以降、指導層なるものをもったことがない。まさにアメリカ社会の特質は、トクヴィルをはじめとするアメリカ研究者が指摘したように、あらゆる層が、正当に評価されず、十分な敬意を払われていないと感じているところに、その強みがあることにある。
 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたが、アメリカは元々ヨーロッパの啓蒙主義の影響を受けて設立された国家である。一般的に、啓蒙主義においては、宗教が前近代的、因習的、非理性的なものとして批判され、理性の前に神が後退し、理性至上主義が生まれたと説明される。だが、実際には人間の理性と神の絶対性が統合されたのが啓蒙主義であり、この点で汎神論である。汎神論では、神と人間が直接的に結ばれることが理想とされる。アメリカは特にこの点を重視しているため、神と人間との間に何らかの組織や階層が介入することを極端に嫌う。アメリカの調査会社ギャラップは、政府や大企業に対する国民の信頼度を毎年調査しているが、こういう調査が行われているという事実こそが、引用文にある通り、アメリカにおいてあらゆる層が正当に評価されず、十分な敬意を払われていないことを表している。

 ただし、以前の記事でも書いたように、啓蒙主義によって唯一絶対の神と人間の理性が固く結びつくと、全体主義に転じる恐れがある。アメリカは自由の国どころか全体主義の国になる可能性があったのだが、啓蒙主義に3つの修正を加えることで、全体主義に陥らずに済んだ。

 ①全体主義においては、一見、神のように万能に考える自由があるように見える。しかし、実際にはどの人の考えも唯一絶対の神に等しいから、思考に自由がない。また、神が考えることは常に正しく、不変であるため、時間の流れが存在しない。あるのは現在だけである。だが、アメリカ人はこの時間軸に未来という概念を導入した。そして、未来に向かって自由に考える意思を認めた。未来に対して自由に設定した目標に向かって変革を起こすことがアメリカ人の特質である。この点で、アメリカ人の理性は、神の唯一絶対性から決別している。

 ②全体主義では「1」が全てである。よって、自己と他者という区別はない。これに対して、アメリカ人は「二項対立」の概念を導入した。つまり、ある考えに対しては、必ず反対の考え方があると認めることにした。二項対立的な発想によって、アメリカ人は他者の存在を肯定することができるようになった。二項対立は、一方が他方を打ち負かすことを目的としていない。弁証法で有名なヘーゲルの言う止揚は期待されていない。常に対立することで、お互いの存在を承認する。もちろん、全体として1つの結論を導き出さなければならないケースは多々ある。ただし、その場合でも、採用された意見とは別に、それに対する反対意見を併記するのが普通である。

 ③全体主義においては、神と人間は直線的に結ばれている。いや、正確に言えば、神と人間は対等、もしくは神と人間は同一である。しかし、アメリカ人は、引用文にある通り、階層に対する反発はありながらも、分権化というコンセプトによって、神と人間の間にいくつかの階層を挿入することにした。①で、アメリカ人は自由意思によって未来の目標を設定すると書いた。これは別の言い方をすれば、神と全体感を持った契約を結ぶことである。だが、決して完全ではない理性が導き出した契約であるから、その契約が正しいかどうかはアメリカ人には解らない。契約の正しさは神のみぞ知る。そして、神と正しい契約を結んだ者だけが自己実現に成功する。

 しかし、これではごく一部の人しか自己実現ができない。そこで、分権化の登場である。分権化は、神と正しい契約を結んだ者と、彼らから権限移譲された者の双方にとってメリットがある。まず、神と正しい契約を結んだ者にとっては、彼らの壮大な目標の実現を手伝ってくれる自分の分身が増えることを意味する。分権化により、彼らの自己実現は大きく後押しされる。次に、彼らから権限移譲された者にとっては、彼らと同様の全体感を持って仕事ができる。その結果、権限移譲された者もまた、神と正しい契約を結んだ者ほどではないが、自己実現に成功する。

 一方で、神と正しい契約を結べず、自己実現がかなわない人々にとっては、過酷な現実が待っている。こうした人々は、神と正しい契約を結んだ者、および彼らから権限移譲された者の道具にならざるを得ない。道具は特定の目的に特化しており、全体感を知ることがない。だから、アメリカ企業の職務定義書は、下位層になればなるほど、記述が具体的かつ狭くなる。また、道具は奴隷的に使われる。よって、アメリカは神の下の平等を理想としながら、奴隷制を採用してきたという過去がある。神の下で平等なのは、神のように全体感を持って仕事をする者だけである。

 話は戻るが、引用文にある指導層とは、日本の場合、官僚機構を指している。本書の最後には、「日本の官僚制を理解するならば」という興味深い付章があり、日本の官僚制は巨大な権力を持っていながら、意思決定をしない、あるいは先延ばしにするといった特徴があり、その特徴ゆえに日本の強みが保たれている、といった内容が書かれている。本ブログでも何度か書いているように、日本は「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層構造をほとんど無批判的に受け入れてきた社会である。そして、なぜだかよく解らないが、その方が社会全体が安定する。その理由を探ることは引き続き私の課題である。



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