2017年08月29日
【ドラッカー書評(再)】『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』―他国への「不信」ではなく「信頼」を出発点とする関係構築は可能か?、他
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前回の続き。
Q6.部下がいない組織、全員が同僚である組織は可能か?
これまでの組織では、部下の行うことは、既に上司が知っていた。上司自身、数年前には部下と同じ仕事をしていたからである。しかし、知識組織では、上司は部下の仕事を知らない。上司が知っている知識は古すぎて、今の仕事には適用することができない。それでも上司は部下をマネジメントしなければならない。ドラッカーはここでオーケストラの例を出す。オーケストラの指揮者には、オーボエの演奏はできない。しかし指揮者は、オーケストラに対してオーボエがどのような貢献をしなければならないかを知っている。
オーボエにあたる人、つまり知識労働者は、自らの目標と貢献について徹底的に考え、責任を負わなければならない。その結果、組織には「部下」など存在せず、「同僚」が存在するだけだとドラッカーは主張する。組織はフラット化する。だが、ドラッカーは元々、組織が分権化することはあっても、フラット化することはないと述べていた(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『企業とは何か―その社会的な使命』―GMの分権化の特徴、他」を参照)。まず、最終的な成果に対して責任を持つ人間が必要であるとして、上下関係を肯定していた。それから、組織をフラット化すると、知識労働者がいきなり大きな責任を負わされることになるため、分権化によってトップマネジメントへと上り詰めるための練習場を与えるべきだとしていた。この初期の主張が、どうしてこのような形に変わったのか、明確な説明はなされていない。
ドラッカーは現代社会を組織多元社会としているが、その社会とは、政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などがネットワーク化、システム化された社会である。ただし、相互依存関係にあることは、必ずしもフラットな関係を意味しない。相互依存関係にあるからこそ、ある組織が別の組織に対して命ずるという関係が生じる。確かに、従来の軍隊のような、絶対服従の形で命令が下されることはないだろう。また、命令した組織が命令された組織を支援しなければならないような局面も生じる。つまり、柔軟な指揮命令関係にあると言える。しかし、命令は命令であり、その限りにおいて上下関係が消えることは絶対にないと思う。
ちなみに日本はと言うと、情報革命によってミドルマネジメントが一掃されたかと思いきや、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で書いたように、むしろ企業内の階層は増えている。また、前回の記事で触れた「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という日本特有の階層社会は、(絶対にお1人しかいらっしゃらない天皇を除いて)ますます多重化している。
前回の記事でも書いたように、多神教文化に生きる日本人は自分を不完全な存在と見なしている。不完全であるがゆえに、自分1人では何もできない。だから、自分にできないことを他者に依頼する。アメリカの自動車メーカーが自前主義を採用したのに対し、日本の自動車メーカーは自社だけで全ての部品を製造することができなかったため、系列という特殊な上下関係を構築したのはその一例である。昨今は、我々の能力レベルに対して、我々がなすべきことがより大きく、より重要になったので、組織や社会の多重階層化に拍車がかかっていると考えられる。
Q7.知識労働者とは実は人間の道具化ではないか?
ドラッカーによれば、組織が1つの目的に集中しなければならないのと同様、知識労働者も1つの領域・知識に特化しなければならないとされる。一方、知識労働者が働くにはチームが必要であり、そのチームには3つのタイプがあると言う。野球型、サッカー型、テニスのダブルス型の3つである。野球型とサッカー型では、プレイヤーの役割が固定されている。これに対して、テニスのダブルス型では、状況に応じて各プレイヤーの役割が柔軟に変更される。経営幹部のチームでは、テニスのダブルス型が上手く機能するケースが増えているとドラッカーは指摘する。しかしこれは、知識労働者の性質に反しているのではないだろうか?
これはやや過激な発言になるが、ドラッカーの知識労働者観は、人間を道具化しているのではないかという疑念が私の中にはある。そもそも西洋では伝統的に、神の下で正しい政治を行うことが世界の全てであり、政治に関与する者だけが理性を発揮できるとされてきた。だが現代は、政治に代わって企業が世界の中心となった。神とつながった企業経営者のみが事業の全てを知っており、理性を発揮できる。ところが、これでは理性を発揮する人間が限定される。
人間に理性を発揮できる機会をもっと与えるべきだという運動の結果として生まれたのが、ドラッカーが発明したと自分でよく言っている「分権化」である。分権化によって各事業のトップに就いた者は、経営トップほどではないが、大きな権限と責任を与えられ、事業の全体を見渡すことができる。すなわち、理性を発揮することが可能となる。その各事業のトップの下に、知識労働者が配置される。彼らは特定の領域に関する知識を持ち、特定の強みを持って、事業トップに貢献する。事業トップにとって、知識労働者は道具である。使うも捨てるも自由である。道具であるから、用途ははっきりしていた方がよい。はさみは紙しか切れないから使い道が明確になる。何にでも使える道具ほど、使い手にとって勝手が悪いものはない。
実は、アメリカにおいて、非営利組織でボランティアとして働く知識労働者が増えているのは、自身が道具化されることに対する知識労働者側の反発の表れなのではないかと感じる。知識労働者は、自分はもっと世界に対してインパクトを与える仕事がしたい、そういう仕事ができるはずだと思っている。ということは、知識労働者が普段所属する組織では道具としての扱いしか受けられず、根源的な欲求が抑圧されていると言える。ちなみに、日本の場合は、前回の記事で書いたように、「下剋上」、「下問」、「コラボレーション」によって、多重階層社会の中を上下左右へとはみ出していく。日本人は不完全な存在ではあるが、自己の中に多様性を取り込む自由を持っている。よって、ドラッカーの言う知識労働者よりも人間らしく生きることができる。
Q8.日本だけが福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家の例外か?
Q7でも述べたように、西洋では伝統的に政治が世界の全てであった。ということは、政府は万能でなければならなかった。その結果生じたのが、福祉国家、産業の国家独占、租税国家、冷戦国家であるとドラッカーは言う。福祉国家、産業の国家独占については説明するまでもないだろう。租税国家とは、国家が際限なく歳出を行い、その歳出を補うために税を徴収するが、不足分については際限なく借金をする国家のことである。冷戦国家とは、軍備を拡大することによって力の均衡を図ろうとする国家を意味する。しかし、4つとも現代では破綻しているとドラッカーは喝破する。しかし、ドラッカーによれば、唯一の例外が日本だとされている。
ただ、これは何となくドラッカーの買い被りであるように感じた(これ以外にも、本書にはドラッカーが日本を過大評価しているのではないかと思える箇所がいくつかあった)。福祉国家に関して言えば、日本には国民皆保険制度があり、国民の医療の面倒を国家が見ることになっている。産業の国家独占については、日本にも国有化企業は存在したし、国有化はされていないものの、いわゆる護送船団方式によって、国家が企業、いや業界全体をコントロールするような動きが見られた。租税国家に関しては、日本は際限なく国債を発行しており、GDPに占める国債発行額の割合は先進国の中でダントツに高い。冷戦国家については、国防の担い手がアメリカであるというだけであって、世界第8位の防衛費を使って巨大な力を有している。
Q9.結局のところ、国家とは何か?
第2次世界大戦後、国の数は激増しており、特に近年設立された国家は人口が数百万人という小国ばかりである。ところで、国家とは結局のところ何であろうか?
カール・ドイッチュは、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物だと主張した。第1に、財貨・資本・労働の移動に関するもの、第2に、情報に関するものである。資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイッチュはこれを経済社会(society)と呼んだ。同時に、言語と文化(行動・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイッチュはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。だが、どうやら最近は文化情報共同体だけで国民や国家が成立しているように見える。SNSによるローカルなコミュニケーションの活性化もこの動きを加速化させている。
経済社会はと言えば、必ずしも国家単位で完結している必要はない。ドラッカーが述べているように、通貨がグローバル化しているからである。また、自由貿易によって、自国に不足しているものは海外から購入すればよい。ただし、購入のための原資は必要であって、小国はたいてい天然資源に乏しいから、知識経済を発達させる必要がある。そしてその知識経済は、ドラッカーが言うように、最初からグローバル化を目指さなければならない。すると、ドイッチュが言う経済社会と文化情報共同体は分離してしまい、国家の存立基盤が脅かされているように感じる。
ここからは、「国家とは結局何なのか?」という難題に対する、今の私のぼんやりとした見解を述べたいと思う。伝統的な理解に従えば、人間は放置しておくと闘争状態になる。そこで、お互いの財産を預けて、財産を守ってくれる機構=国家を設立する。国家は財産を守るためのルールである法律を制定する。そして、その法律を確実に執行する高度な官僚機構を作る。さらに、国民の財産を内外の脅威から保護するために、警察と軍隊を保持する。国民は自国の中ではお互いに信頼しているが、他国に対しては、いつ何時自国の財産を狙ってくるか解らないという不信感を抱いている。よって、他国と貿易を行う際には関税をかけるし、他国からの侵略に備えて自衛権を主張する。ただし、自衛権が軍拡競争につながることは以前の記事「『死の商人国家になりたいか(『世界』2016年6月号)』―変わらない大国と変わり続ける小国、他」で書いた。
従来の国家観は、人々の財産を中心に組み立てられている。これに対して、私の理解はこうである(今まで私が本ブログで書いてきたことと大きく矛盾するかもしれないことを承知の上で書く)。人間は本質的に、「『自分は他人とは違う』と思いたい」という欲求を持っている。しかし同時に、人間は臆病であるから、「『自分は他人とは違う』という思いを誰かと共有したい」という矛盾した感情も持っている。この感情を共有できる集団こそが国民である。感情を共有するところに信頼が生まれる。財産はおろか、人種、民族、文化、言語は関係ない。この点で、私の国家観は非常に曖昧である。実際、国境というものは柔軟であってもよいとさえ思っている。
この場合、他国とは、「自分は他人とは違う」=相違点が際立つ人々が集まる機構である。従来の国家観では、他国に対しては不信がベースになっていると書いた。しかし、私の国家観では、国内において、自分が他人と違っていても他の国民から信頼してもらっているのだから、国外においても、相手が自分と異なっているからと言って相手に不信感を抱くことは許されない。国家間の関係もやはり、信頼が基礎とされる。そうすれば、知識経済は国境を越えて容易に広がるであろうし、国家が軍拡競争に巻き込まれるリスクも小さくなる。孔子はある時、弟子の子貢に、国家を構成する「信・食・兵」という3大要素のうち、何か大変なことが起こってどれかを犠牲にしなければならないとしたら何を犠牲にするかと聞かれた。「まず兵を捨て、次に食を捨て、最後に信を残す。信頼がなければ国家は成り立たない」。これが孔子の答えである。
新しい国家観の下では、ナショナリズムは相対化される。ドラッカーが述べたように、現代社会は政府、行政、地域社会、企業、NPO、学校、病院、研究機関、軍隊などが並存し、いずれもが絶対的な力を持たない組織多元社会である。よって、我々は「○○国の人間だ」と言うだけでなく、ある時は「△△という組織の人間だ」と言い、またある時は「□□という組織の人間だ」と言う。このように、我々のアイデンティティはナショナリズムへの一極集中から多極化していく。
Q10.グローバル化された世界とは西洋化された世界なのか?
本書の最後は「教育ある人間」の重要性について述べられている。だが、その人間像は、西洋の伝統を中核に置かなければならないと言う。ドラッカーによれば、未来の文明は西洋を基盤とする。すなわち、科学、道具、技術、生産、経済、通貨、金融、銀行である。これらはいずれも、西洋の思想や伝統を理解し受け入れなければ機能しないと述べられている。結局、グローバル化とは西洋化のことなのかと、少々がっかりした。厳密には西洋化というかアメリカ化のことなのだが、アメリカは自国の普遍的価値、すなわち資本主義、自由、平等、民主主義、基本的人権を世界に広めることを使命としており、ドラッカーもその片棒を担いでいるのかという気がした。
以前の記事「植村和秀『ナショナリズム入門』―西欧のナショナリズムが前提としていることに対する素朴な疑問」でも書いたが、アラブにはアラブに適した国家のあり方があるはずである。同様に、アジアにはアジアに、アフリカにはアフリカに適した国家の形が存在するに違いない。生態学者の今西錦司は、ダーウィンの進化論を読んで、「西洋には西洋の進化論があるが、東洋には東洋の進化論があってもおかしくないはずだ」と述べ、東洋なりの進化論の構築に力を注いだ。この作業を国家レベルでやろうというわけだ。Q9でも述べたように、これからの国家は信頼を基盤に柔軟に設計される。そして、各国は相互の違いを尊重することが要求される。これこそが、ドラッカーの言う多元主義の本質ではないだろうか?