プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)

Next:
next 【化学】センター試験(2018年)オリジナル解説
Prev:
prev 【世界史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
2018年01月16日

【日本史B】センター試験(2018年)オリジナル解説


日本史

 【2018年センター試験シリーズ】
 【世界史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【日本史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【化学】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【数学ⅠA】センター試験(2018年)を解いてみた(7年連続)
 【数学ⅡB】センター試験(2018年)を解いてみた(7年連続)
 問題、解答は「センター試験2018|解答速報2018|予備校の東進」を参照。解説にあたっては、全国歴史教育研究協議会 『日本史用語集』(山川出版社、2014年)を参照した。

日本史用語集―A・B共用日本史用語集―A・B共用
全国歴史教育研究協議会

山川出版社 2014-12-09

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 【1=①】
 X.現代語訳は「その子の名前はオワケの臣である。先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として今に至るまでお仕えしてぎた。ワカタケル大王の朝廷(住まい)が、シキの宮に置かれている時に、私は大王が天下を治めるのを助けた。何回も叩いて鍛え上げたよく切れる刀を作らせて、私と一族のこれまでの大王にお仕えした由緒を書き残しておくものである」となる。
 Y.熊本県出土の江田船山古墳出土鉄刀には「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」という75字がある。銘文にある「獲□□□鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇=多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが解った。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【2=③】
 ①条坊制は、日本古代の都城で、碁盤目状に土地を区画する制度。京内は東西南北とも4町(約530メートル)ごとの大路で区画された。4町四方の1区画は坊と呼ばれ、左京(右京)何条何坊の形で表示された。さらに、坊は東西南北3本ずつの小路によって16区分され、その1区分を坪(町)と呼んだ。平城京、平安京などに見られる。
 ②下地中分とは、地頭の荘園侵略に対し、下地(収益権のある田畑、山林などの土地)を領家分と地頭分に分けて、相互の支配を確認し、以後侵略しないことを約束する解決法である。
 ③検地は、大名が領国内の土地、農民に対する支配権を確立するために実施した土地の調査法。戦国大名の検地は、領主側から土地台帳を提出させる指出検地であった。正しい。
 ④地券は1872年に発行された土地所有者の確認証。土地の所在、所有者、地目、段別、地価を記載。1872年発行の地券は壬申地券と呼ばれる。1886年、登記法の実施で廃止。

 【3=③】
 a.平安時代の男子の正装は束帯やそれを簡略にした衣冠、女子の正装は唐衣や裳をつけた十二単と呼ばれる女房装束であった。
 b.小袖は、袖のつまった小形の袖の衣装。貴族は下着としたが、本来は庶民の衣服。女性はこの上に短い腰布を巻く。男性は上衣、小袴を着用した。正しい。
 c.友禅染は、宮崎友禅の創始とされる染物。京友禅の他、加賀友禅も起こる。華やかな花鳥山水を描いた友禅模様を絵画のように染め出し、一世を風靡。元禄期に起きた。正しい。
 d.モボはモダンボーイの略で、昭和期初期に流行。洋服を着て繁華街を歩く男性のこと。
 ⇒b、cが正しく、③が正解。

 【4=①】
 富国強兵=明治初期の国家目標。欧米列強に肩を並べるため、経済発展と軍事力の強化による近代国家の形成を目標とし、スローガン化した。
 民力休養=第1次山県内閣が主張したもので、冗官冗費の削減と行政整理が目的である。予算案圧縮によって浮く財源を、民力を養うための地租軽減、地価修正などの減税に回そうとした。民力休養は、議会の多数を占める地主層の要望を反映させるものでもあった。
 熊野詣=紀伊熊野三山への参詣。院政期に院・貴族が盛んに行い、100回近くを数えた。
 伊勢詣=室町後期から庶民の間で流行し、御師が集団参詣の便宜を図った。
 ⇒ア=富国強兵、イ=熊野詣となり、①が正解。

 【5=③】
 ①平安時代には遣唐使が中止されたが、平家が台頭してくると日宋貿易が盛んになり、中国からの輸入品が唐物(唐時代の物という意味ではない)として重宝された。
 ②問丸とは、港湾や都市を拠点に荘園年貢や商品の保管・輸送にあたった総合的運送業者。鎌倉末期には年貢の輸送だけでなく、徴収や委託販売を請け負う者も現れた。
 ③見世棚(店棚)は、軒端に棚を設け商品を並べて販売する方式。「見世棚」の語は鎌倉末期より見られ、室町時代には「店」の字があてられるようになった。室町中期から、商品の拡大、流通経済の発達に伴い、市の開催頻度は増加した(三斎市⇒六斎市)。誤り。
 ④江戸時代、肥前では唐津藩、佐賀藩をはじめ、大村藩、平戸藩で磁器が生産され、海外へ輸出された。唐津藩のものは「唐津焼」、佐賀藩のものは「伊万里焼」と呼ばれる。

 【6=②】
 X.日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約では、ロシアは日本の韓国指導権を認め、旅順・大連の租借権とロシアの経営する東清鉄道の長春以南と附属権利を譲渡、樺太南半分分割、沿海州・カムチャッカ半島の漁業権などを認めた。賠償金は放棄した。写真の石碑は樺太の日露境界線上に建っているものである。
 Y.関東州の管轄と南満州鉄道株式会社の保護・監督にあたる機関とは、関東都督府である。1906年遼陽に設置した関東総督府を旅順に移し、関東都督府とした。
 ⇒X=a、Y=bとなり、②が正解。

 【7=③】
 ア=銅矛・銅戈は九州地方、平形銅剣は瀬戸内海中部、銅鐸は近畿地方を中心に分布。
 イ=古事記は、稗田阿礼の誦習した神代から推古天皇までの天皇系譜や天皇家の伝承を太安万侶が筆録して、712年に元明天皇へ献上したものである。
 なお、淡海三船は大友皇子の曽孫で、漢詩文に優れ、大学頭、文章博士を務めた。現存する最古の日本漢詩集である『懐風藻』の撰者であるとの説もあるが疑問視されている。
 ⇒ア=近畿地方、イ=稗田阿礼となり、③が正解。

 【8=③】
 ①古墳は豪族の墳墓であり、政治連合に参加しても前方後円墳の築造が禁止されたわけではない。ヤマト政権は3世紀頃に成立したが、古墳時代は3世紀中頃~7世紀まで続いた。
 ②屯倉は、収穫物を納める倉庫(御宅)から転じ、広く朝廷の直轄地を言う。田部と呼ばれる農民にその地を耕作させた。なお、豪族の私有地は田荘、私有民は部曲である。
 ③豪族は、氏と呼ばれる血縁的結びつきを基にした組織で、それぞれ固有の氏の名を持ち、首長(氏上)に率いられてヤマト政権内部で特定の職務を分担した。正しい。
 ④公奴婢は官有の奴隷である。私有の奴隷は私奴婢と言う。

 【9=⑥】
 Ⅰ.磐井の乱(527)は、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫国造磐井が新羅と結んで阻み、528年に物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。
 Ⅱ.421~502年に5人の倭王(讃、珍、斉、興、武)が宋などの南朝に13回朝貢した記事が『宋書』などにある。讃は仁徳か応神または履中、珍は反正か仁徳、斉は允恭、興は安康、武は雄略の諸天皇に比定されている。
 Ⅲ.高句麗好太王(在391~412)の功業を記念する碑には、朝鮮半島に渡った倭の兵が好太王に率いられた高句麗の軍隊と戦った旨が記載されている。ただし、解釈には諸説ある。
 ⇒古い順にⅢ⇒Ⅱ⇒Ⅰとなり、⑥が正解。

 【10=②】
 ①律令制においては、神祇官、太政官、弾正台などが置かれた。太政官の下には太政大臣、左大臣、右大臣が置かれ、さらにその下には大納言が置かれた。
 ②大学は、律令では式部省に置かれ、貴族や東西史部(ふひとべ)の子弟を学生とした。儒教中心の学業を修了し、大学の試験を通ると太政官に推薦される。誤り。
 ③官位相当の制のことである。官は官職、位は品位を含めた位階を意味する。律令制下で、官吏がその位階に相当する官職に任命される(例:正三位⇒大納言)。
 ④合わせて四等官と呼ぶ。業務を統括する長官、補佐役の次官、官司内の非違の検察と文書の審査を行う判官、文書の作成を行う主典で、四等官の文字は各役所で異なっていた。

 【11=①】
 X.「天皇、親から文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ」の部分が該当する。
 Y.「既にして雅楽寮と諸寺との種々の音楽、並に咸く来り集る。復、王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏(※日本古来の歌舞)、踏歌、袍袴(※外来の歌舞)等の歌舞有り」が該当する。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【12=④】
 a.検田使=輸租田に対し、国司が土地を検査し、徴税の負担量の成否を調査するために派遣した役人のこと。検田使の立ち入りを拒否する権利を不入の権と言う。
 b.負名=従来、庸・調など人頭税が中心だった律令国家の租税は、10世紀に入ると、各国内に新設された名(名田)という課税単位に改められた。名の耕作者を負名(田堵)と呼ぶ。
 c.預所とは荘園の管理者である荘官の中で上級に相当する者。現地に赴き、預所代、田所や下司、公文、荘司などの下級荘官を指揮して経営にあたる。
 d.院政期になると、知行国の制度が広まった。これは、上級貴族を知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度である。知行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地に目代を派遣して行政・支配を行った。当時、受領の地位が利権化する一方で、貴族の俸禄支給が有名無実化していたため、貴族の経済的収益を確保させる目的もあった。
 ⇒X=負名、Y=知行国主となり、④が正解。

 【13=④】
 平頼綱=北条得宗家の内管領。北条貞時の乳母の夫。霜月騒動で安達氏を滅ぼしたが、1293年、息子を将軍に就けようとしていると密告され、執権貞時に滅ぼされた。
 足利直義=足利尊氏の弟。建武政府では成良親王を奉じて鎌倉将軍府を担っていたが、中先代の乱を機に兄とともに幕府創設に尽力。初期の室町幕府は尊氏と直義による二頭政治で運営された。兄弟の対立から始まった観応の擾乱では高師直と対立し、始め優勢であったものの、最終的に鎌倉で毒殺された。
 三浦泰村=評定衆を務めた鎌倉幕府の有力御家人。前将軍藤原頼経、北条氏支族の名越光時らの謀反に弟が加担していたのを機に北条時頼と対立し、宝治合戦で敗死した。
 ⇒ア=平頼綱、イ=足利直義となり、④が正解。

 【14=①】
 ①六勝寺とは、院政期に京都白河の地に造立された法勝寺(白河天皇)、尊勝寺(堀川天皇)、最勝寺(鳥羽天皇)、円勝寺(待賢門院)、成勝寺(崇徳天皇)、延勝寺(近衛天皇)という勝の字がつく6つの御願寺の総称である。正しい。
 ②特権的な座商人であった「町人」は、やがてその社会的な信用から、地区の「町」にあっては世話人的な役割を期待され、幕府や朝廷からは「町」における公的な権限を委託されるようになった。こうして個々の「町」地区では、「町人」を中心に自治的な町の運営と秩序が維持された。ところが室町時代末期になると、個々の町の組織化が進み、より上級の自治的な共同体を作るようになる。すなわち、複数の町が集まっていくつかの組町を作り、さらにその組町が惣町を構成した。これを「町組」と言う。
 ③『十六夜日記』は阿仏尼の著。1279年、実子冷泉為相と継子二条為氏の播磨国細川荘をめぐる所領論争の解決のため鎌倉に赴いた時の紀行文である。
 ④酒屋に対する幕府の課税は室町時代から始まった。京都で高利貸しを営む土倉や酒屋に倉役・酒屋役を課し、交通の要所に関所を設けて関銭・津料を徴収した。

 【15=②】
 Ⅰ.六波羅探題は、1221年の承久の乱の後、従来の京都守護に代わり、京都六波羅に置かれた幕府の出先機関。朝廷の監視と尾張国(のち三河国)以西の御家人の統括が任務。
 Ⅱ.両統迭立とは、鎌倉末期に持明院統・大覚寺統の両統が交代で皇位に就いたこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇統が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。1317年、幕府が文保の和談を提議し、翌年に後醍醐天皇が即位したが、両統の対立は解消しなかった。
 Ⅲ.1252年、北条時頼が摂家将軍の5代頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を迎えて6代将軍とした。これを皇族将軍と呼び、以後幕府滅亡まで続いた。

 【16=②】
 a、b=竜骨車が使用されるようになったのは江戸時代に入ってからである。竜骨車は中国伝来の揚水機。蛇腹のように小さな水槽を重ね、上部へ水を送る仕組みであった。
 c=踊念仏とは、念仏を唱えながら鉦や太鼓に合わせて踊ることで、極楽浄土の恍惚感に浸るもの。市屋道場(踊屋)を作って興行する様子が『一遍上人絵伝』に描かれている。
 d=田楽とは、平安中期以降に流行した祭礼神事芸能である。公家にも流した。田植えの時に田の神を祀り、豊作を祈願する。
 ⇒a、dが正しく、②が正解。

 【17=③】
 X.和泉国の堺、筑前国の博多などは15世紀以降も勘合貿易で栄えた。
 Y.富田林は河内国にある。1560年頃、興正寺を中心に、一向宗門徒による寺内町が発達。
 ⇒X=誤、Y=正となり、③が正解。

 【18=④】
 ①人形浄瑠璃とは、浄瑠璃に合わせて人形遣いが人形を操る芸能。慶長(1596~1615)期以降に盛行した。現在の文楽に継承されている。
 ②濃絵とは、桃山時代に隆盛を見た障壁画。地や画面内の雲形に金銀箔を用い、花鳥などを極彩色で描いた装飾性の強いものである。狩野派に代表される。
 ③隆達節とは、近世初期の歌謡である。文禄・慶長(1592~1615)頃、堺の高三隆達が創始。扇拍子や一節切(ひとよぎり)などの伴奏で流行した。近世小歌の祖とされる。
 ④千利休によって完成された侘茶は、豪華さよりも簡素さをたっとぶのが特徴。誤り。

 【19=③】
 藤原惺窩=播磨出身の儒学者。相国寺の僧となり朱子学を学び、京学派を形成。近世朱子学の祖。家康に請われて進講したが、林羅山を推薦して仕官しなかった。姜沆は朝鮮の官人・儒学者。慶長の役の時に連行される。藤原惺窩らの日本の儒学者に大きな影響を与えた。
 対馬藩=徳川家康は朝鮮との講和を希望し、1609年己酉条約を結んだ。これは近世の日本と朝鮮との関係の基本となった条約で、釜山に倭館が設置されることや、対馬藩宗氏の朝鮮外交上の特権的な地位が両国によって認められた。
 熊沢蕃山=17世紀の陽明学者。中江藤樹に学ぶ。岡山藩池田光政に仕え、治績を挙げた。『大学或問』で社会を批判し、幕府に咎められ、下総古河に幽閉された。
 ⇒ア=藤原惺窩、イ=対馬藩となり、③が正解。

 【20=①】
 Ⅰ.天草版(キリシタン版)とは、1590年、ヴァリニャーニが活字印刷術を伝え、宗教書や辞典、文典、通俗文字、日本古典などを主にポルトガル系のローマ字体で刊行した。
 Ⅱ.亜欧堂田善(1748~1822)は、本名を永田善吉と言う。白河藩主松平定信に仕え、谷文晁に学ぶが、西洋画や銅版画に転向した。
 Ⅲ.高島秋帆は、長崎町年寄兼鉄砲方の家に生まれる。オランダ人に砲術を学び、高島流砲術を確立。江川太郎左衛門に砲術を伝える。1841年、幕府に招かれ、江戸郊外徳丸が原で練兵を行う。1857年、講武所砲術師範となる。
 ⇒古い順にⅠ⇒Ⅱ⇒Ⅲとなり、①が正解。

 【21=③】
 ①1609年の己酉条約で日朝貿易を独占したのは、対馬藩の宗氏である。
 ②朝鮮から日本へ送られた使節は通信使と呼ばれた。なお、琉球王国は、将軍代替りの時には慶賀使を、新国王即位の時には謝恩使を派遣した。
 ③19の解説の通り、釜山に倭館が置かれた。正しい。
 ④「日本国王」は、江戸幕府が外交文書において将軍を表す語として用いた「日本国大君」の略称。3代将軍徳川家光の時、朝鮮との国交修復に際し、対馬藩主の宗氏が将軍の号を「日本国王」と改作した事件が起きた。これを機に幕府は、朝鮮に対して、1636年来日の朝鮮通信使から「日本国大君」の称号を使用させた。以後6代将軍家宣の時、新井白石の建議で一時「日本国王」に変更されたが、8代将軍吉宗は大君を復活させた。幕末の日米和親条約以降欧米諸国との往復文書にも用いられ、1868年天皇が外交権を接収するまで続いた。

 【22=①】
 寺請制度=寺院に一般民衆を檀家として所属させ、キリシタンでないことを証明させる制度である。寺請証文を発行した。
 諸社禰宜神主法度=神社神職の統制法令で、1665年に寺院法度とともに発令された。位階、神事、神領、修理などの規定で、従来の白川・吉田家のうち、吉田家の支配が強まった。
 本末制度=本山という宗派の中心寺院と、その統制下の一般寺院からなる制度。幕府は寺院間に本末関係を作らせて統制した。なお、各地で一揆を起こして抵抗した一向宗(浄土真宗)の本山である本願寺は、東西の2つに分け、その勢力を弱めた。
 禁中並公家諸法度=1615年に幕府が出した朝廷・公家の統制法。金地院崇伝が起草。天皇の学問専念や公家の席次、官位、紫衣、上人号の授与などを規定した。
 ⇒ウ=寺請、エ=諸社禰宜神主法度となり、①が正解。

 【23=①】
 現代語訳は「1700年9月19日の晩、念仏寺へ庄屋・年寄(※村役人)が集まり、山の窃盗の取り調べがありました。盗んだと申す者たちを呼び出し、(中略)合計7人は立木を切ったと申したため、2里(※約8km)四方外へ追放にすると申し上げました」
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【24=②】
 ①関東取締出役とは、1805年、幕府が設置した関東の治安維持強化を担う役職である。関八州を月1回ぐらい巡察するため、俗に八州廻りとも言う。所領の入り組んだ関東で無宿人や博打が横行していたため、警察機能を強化するのが狙いであった。
 ②村方騒動とは、村役人や富裕層の不正を追及する運動である。貧農が村政への参加、村入用(村費)の公開や村役人の交代を要求。田沼時代頃から増大した。誤り。
 ③マニュファクチュアとは、労働者が1か所に集まって分業に基づく協業組織で、手工業生産を行う形態であり、資本主義生産の初期的段階である。17世紀に既に摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業で見られた。19世紀には大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利の絹織物業、川口の鋳物業などに見られた。
 ④二宮尊徳は、没落した実家を勤勉に働いて再興し、後に幕府・諸藩に迎えられて農村復興に努めた。勤労・倹約を中心とする事業法が報徳仕法である。

 【25=②】
 政治総裁職=大老に相当する役職。文久の改革により設置され、松平慶永が任じられた。
 廃藩置県=1871年、幕藩体制の旧態を解体し、全国を政府の直轄地とする改革。木戸孝允、大久保利通らが提唱。薩長土3藩から御親兵を集めて武力を強化し、廃藩を断行した。旧藩の債務は新政府が引き継いだ。
 議定=王政復古の大号令により、総裁、参与とともに創設された。皇族、公卿、諸侯約10名が任命された。1869年の太政官制の再興により廃官となる。
 版籍奉還=1869年、諸藩主が土地(版図)と人民(戸籍)を返上した改革。大久保、木戸
らが建議。薩長土肥4藩主が奉還を出願し、他藩主も倣った。旧藩領には知藩事を置いた。
 ⇒ア=政治総裁職、イ=廃藩置県となり、②が正解。

 【26=④】
 ①阿部正弘は、1853年のペリー来航後、従来の方針を変えて朝廷に報告し、諸大名や幕府にも意見を述べさせて、挙国的に対策を立てようとした。しかし、この措置は朝廷の権威を高めるとともに、諸大名に幕府に対する発言の機会を与え、幕政を転換させる契機となった。
 ②老中・安藤信正は公武合体運動を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。この政略結婚は尊皇攘夷論者から非難され、安藤は1862年坂下門外で水戸脱藩士らに傷つけられて失脚した(坂下門外の変)。
 ③②で述べた通り、坂下門外で襲撃されたのは安藤信正である。井伊直弼は勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印したが、開港を好まない孝明天皇の怒りを買い、朝廷と幕府が対立。井伊は強硬な態度をとって朝廷や反対派の公家・大名を抑え、その家臣たち多数を処罰した(安政の大獄)。この厳しい弾圧に憤激した水戸脱藩の志士たちは、1860年、井伊を桜田門外で暗殺した(桜田門外の変)。
 ④長州藩は政局の主導権を握って、公武合体策をとる薩摩藩を抑えて朝廷を動かし、攘夷の決行を幕府に迫った。幕府はやむなく、1863年5月10日を期して攘夷を決行するよう諸藩に命じた。長州藩はその日、下関海峡を通過する諸外国船を攻撃し、攘夷を実行した。正しい。

 【27=④】
 Ⅰ.志賀潔(1870~1957)は、伝染病研究所に入り、1897年に赤痢菌を発見した。
 Ⅱ.緒方洪庵(1810~1863)は、大坂、江戸、長崎で学び、大坂で開業した蘭医。適塾を開き、多くの俊才を出す。1862年、幕命で江戸に出て、奥医師・医学所頭取となる。
 Ⅲ.お雇い外国人は、明治初期、西洋の学問・技術の導入のため、政府機関や学校に雇われた外国人である。ピークの1874年には英・米・仏・独・伊人など858人。
 ⇒古い順にⅡ⇒Ⅲ⇒Ⅰとなり、④が正解。

 【28=①】
 X.徴兵令とは、1873年1月に発布されたもので、徴兵告諭と全国徴兵の詔に基づき、国民皆兵の方針により、満20歳以上の男性を兵籍に編入し、兵役につかせる法令である。大村益次郎が発案し、山形有朋が継承して実現した。
 Y.血税一揆とは、1873~1874年、徴兵令に反抗して起きた農民の一揆。徴兵告諭文中の血税の語を取り上げて、いわゆる血税反対を叫んだことでこの名がある。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【29=①】
 吉野作造=1916年、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、民本主義を主張した。黎明会・新人会で啓蒙・学生運動を指導、友愛会などの労働運動も支援した。また、朝鮮や中国の民族運動にも理解を示した。
 中央公論=1887年に京都で刊行した『反省会雑誌』(浄土真宗系)が東京に移り、1899年『中央公論』と改題。宗門から独立した総合雑誌として、社会評論、学術、思想、文芸などを充実させる。大正初期、編集長滝田樗陰が基礎を確立し、大正デモクラシーの論壇の中心となる。
 河上肇=初め古典派経済学を研究。渡欧の後、京大教授時代に『貧乏物語』を『朝日新聞』に連載し、奢侈の根絶による貧乏廃絶を説く。次いで『社会問題研究』を創刊してマルクス主義経済学へ進み、その最高権威となる。1928年京大を追われ、無産運動にも参加した。
 明六雑誌=1874~1875年。啓蒙的思想集団である明六社の機関誌。啓蒙思想の紹介と宣伝に貢献。新聞紙条例・讒謗律発布により、43号で廃刊となった。
 ⇒ア=吉野作造、イ=中央公論となり、①が正解。

 【30=③】
 a.赤瀾会=1921年に結成された女性社会主義者の団体。山川菊栄、伊藤野枝らが中心となった少数の女性の集まり。同年末に解散。「赤瀾」とは赤い波の意。
 b.新婦人協会=1920年、平塚らいてう、市川房枝らが設立。1890年に交付された集会及政社法を引き継いだ、治安警察法第5条の「女子の政治結社・政治集会禁止」条項の撤廃運動を行ったが、1922年、女性の集会参加のみが議会で認められ、同年解散した。
 c.工場法=1911年公布。工場労働者保護のため、事業主に義務を課す法律。最低年齢12歳、労働時間12時間、女性・年少者の深夜業禁止など。だが、15人未満の工場には適用されず、期限付きで14時間労働を認めるなど不備が多い。1947年、労働基準法公布で廃止。
 d.商法=1890年公布、ロエスレルの起草。外国法を模倣した傾向が強く、法典調査会で修正し、1899年に新商法を施行した。
 ⇒X=b、Y=cとなり、③が正解。

 【31=①】
 ①1919年に三・一独立運動が起きた。正しい。
 ②伊藤博文が韓国の義兵運動・独立運動家である安重根に暗殺されたのは1909年10月。
 ③北伐(1926年7月~1928年12月)は、蒋介石の率いる国民革命軍(北伐軍)によるもの。北方の諸軍閥を打倒して1928年6月北京に入城、12月に国民政府と合体して統一が完成。
 ④西安事件とは、1936年12月、中国共産党討伐の督励に西安に赴いた蒋介石を張学良が監禁し、内戦停止と抗日を要求した事件である。周恩来の仲介と蒋の屈服で国共停戦が成立し、抗日民族統一戦線が結成された。

 【32=④】
 Ⅰ.河合栄治郎は自由主義経済学者。1938年、『社会政策原理』、『ファシズム批判』、『時局と自由主義』などの4著書が発禁処分となった。
 Ⅱ.日本初の社会民主党は1901年に結成された。資本公有、軍備全廃、普選実施、貴族院廃止などの宣言・綱領を掲げたが、2日後に結社を禁止された。
 Ⅲ.1928年に行われた第1回男子普通選挙では無産政党勢力が8名の当選者を出した。この時、日本共産党が公然と活動を開始したので、衝撃を受けた田中義一内閣は選挙直後の3月15日に共産党員の大検挙を行い、日本労働組合評議会など関係団体を解散させた(三・一五事件)。また、治安維持法を改正して死刑を加え、さらに道府県に特別高等警察を置くこととし、翌年には再び大規模な検挙を行い(四・一六事件)、その結果、日本共産党は大打撃を受けた。
 ⇒古い順にⅡ⇒Ⅲ⇒Ⅰとなり、④が正解。

 【33=③】
 ①日本文学報国会とは、1942年に設置され、徳富蘇峰を会長とする政府の外郭団体。戦争協力に動員する官製機関。軍部の報道班員として、多くの小説家が従軍文士やペン部隊の名で戦地へ赴き、戦争を美化するために動員された。
 ②石川達三は『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞した(1935)。『生きてゐる兵隊』(1938)は、日本軍の残虐行為の描写で発禁となった。社会性と市民的倫理観に立つ作風が特徴。
 ③文化財保護法は1950年5月に公布。1949年の法隆寺金堂壁画焼損を機に、従来の国宝保存法などの保護関係法律をまとめ、内容を充実させた。誤り。
 ④黒澤明は1943年「姿三四郎」でデビューし、戦後の1951年「羅生門」でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞。1980年には「影武者」がカンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 【34=②】
 第2次山県内閣の1900年に公布された軍部大臣現役武官制では、陸軍・海軍大臣は現役の大将・中将に限るとしたが、第1次山本権兵衛内閣(※第3次桂太郎内閣を打倒した大正政変後の内閣)は現役規定を削除し、予備役、後備役まで就任を拡大した。しかし、実際に就任した例はない。二・二六事件後、1936年の広田弘毅内閣で現役規定が復活した。
 ⇒X=正、Y=誤となり、②が正解。

 【35=③】
 ①自由民主党は、1955年に自由党と日本民主党の保守合同によって成立した政党で、初代総裁は鳩山一郎である。
 ②日本社会党を中心とする連立内閣の首相となったのは片山哲である。片山内閣(1947年5月~1948年3月)は日本社会党、民主党、国民協同党の3党連立で、中道内閣として歓迎された。1947年、国家公務員法を定め、内務省を廃止。だが、3党連立のためもあって積極的な社会主義政策を実行できず、炭鉱国家管理法案などの問題で左派に攻撃されて退陣した。
 ③講和条約をめぐっては、平和条約をソ連・中国を含む全連合軍と締結せよという全面講和論(日本共産党、日本社会党などが主張)と、米ソの妥協ができない情勢では一部の国と平和条約を締結するのもやむなしとする単独講和論(政府、保守党が主張)があったが、吉田茂は単独講和論に従ってサンフランシスコ講和条約を締結した。
 ④降伏文書=ポツダム宣言に署名したのは、鈴木貫太郎である。

 【36=①】
 石橋湛山=経済評論家・政治家で、『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮下で、「代議政治の論理」で国民主権を主張。朝鮮・満州などの植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策は小日本主義と呼ばれた。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の大蔵大臣を務めた。1956年に首相となる。日中、日ソ国交回復に尽力した。

 「全人類の四分の一にも達する隣の大国が、今ちょうど日本の明治維新のような勢いで建設の途上にある。それをやがて破綻するだろうと期待したり、また向こうから頭を下げてくるまで待とうとするような態度が、はたして健康な外交であろうか」と、政府の外交姿勢に疑問を呈している。当時、日本と中国の間には国交がなく(国交を回復したのは1972年の日中共同宣言による)、日本は中華民国(現在の台湾)と国交を結んでいた。
 ⇒以上より、正しいのはaとcであり、①が正解。

  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like