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『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる
『致知』2018年10月号『人生の法則』―「夢や希望」がある人と「志がある人」では「八観六験」の結果がこんなに違う
『致知』2018年9月号『内発力』―日本人が「外発性」を活用するための「内発力」が弱っている

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年10月12日

『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる


致知2018年11月号自己を丹誠する 致知2018年11月号

致知出版社 2018-10


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 双極性障害とは、簡単に言えば躁状態(睡眠時間が極端に短い日が続いても平気、派手に散財をする、周囲の人を大声で罵倒する、「私は王様だ」といった誇大な妄想をするなど、極端にハイテンションな状態)とうつ状態が交互に訪れる精神疾患であり(※)、うつ状態では「死にたい」、「自殺したい」という気持ちが強くなることがある。これを希死念慮と呼ぶ。

 (※)もう少し詳しく言うと、躁状態とうつ状態が明確に交互に現れるⅠ型と、軽躁状態が現れるのみで大半の期間はうつ状態が続くⅡ型という2種類がある。私の場合は一応Ⅱ型に該当すると診断されているのだが、はっきりとした軽躁状態がなく、常に抑うつ状態でかつ強いイライラを感じていながらも仕事はこなせる反面、疲れやすく仕事が終わると死んだように寝ているという状態で、医師は混合状態と呼んでいる。しかし、インターネットで調べてみると、混合状態が見られる場合はⅠ型と診断すると書かれているページが多く、私にはどう判断すればよいかよく解らない。また、私以外にも、双極性障害の定義に当てはまらない症状の患者が増えているそうで、最近では「双極スペクトラム」という言葉が使われ始めている。

 私も闘病生活10年間の間に、何度も希死念慮に悩まされてきた。朝起きて「今日は遺書を書こうかな」と思うことはしょっちゅうあった。だが、私が弾劾したい人物の名前を1人ずつ遺書に列記したところで、私が死んだ後に彼らの反応を確かめることはできない。また、私が弾劾したい人物というのはたいてい神経が図太い人間たちであって、図太いがゆえに平気で他人を傷つけることができるのだと思うと、遺書を書いたところで大した効き目もないに違いないという結論に至り、遺書を書くのを断念するのであった。遺書を書かずにさっさと死のうと、地下鉄のホームで列車が最初に突入してくる箇所に長時間立って自殺のタイミングを計っていたこともあるし、近所をうろついては飛び降り自殺に適したマンションがないか物色したこともあった。

 ネットで自殺の方法を調べたこともある。だが、100%完璧に自殺できる方法を紹介しているページなどない。なぜなら、当たり前のことだが、自殺に成功した人はネットに情報を上げることができないからだ。自殺について調べれば調べるほど、目につくのは自殺に失敗して、以前にも増して惨めな人生を送ることになってしまった人たちであった。オーバードーズしたが、病院で無理やり胃洗浄をさせられた上、薬の副作用で長期間苦しんだ人、マンションから飛び降りたが死ぬことができず、半身不随になって働けなくなったのに、運悪く不随になった箇所が障害年金の対象外であり、生活が破綻してしまった人、賃貸住宅で自殺未遂をした結果、事故物件扱いされて家主から多額の損害賠償請求をされ、自己破産に追い込まれた人などである。結局、誰にも迷惑をかけることなく、100%の確率で死ぬことができる自殺というのはない。

 だから私は、「寿命は神々が設定したものであり、人によってバラバラであるが、寿命を全うすることが神々との約束を守ることである。神々の世界には日本民族の集合意識があって、人間が生まれる時は神々が肉体を貸し与えると同時に、集合意識の一部を魂として肉体に授ける。逆に、人間が死ぬ時とは、神々があらかじめ設定した寿命が訪れた時であり、その時に神々はお迎えにやって来て肉体と精神を回収し、その人が一生涯をかけて磨き上げてきた精神を集合意識に統合する。こうして、日本民族の精神は全体として徐々に発展していく。

 ところが、人間が勝手に自殺してしまうと、神々はその人の精神を回収する機会を失う。ということは、その人は日本民族の集合意識の向上に何ら寄与しないことになる。だから、自殺は悪である」などといったことを以前の記事「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」や「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」で書いた。これらの記事の内容はまだまだ稚拙でお恥ずかしい限りなのだが、私自身が自殺しないように一生懸命に予防線を張っているという側面もあるとご理解いただければありがたい。

 自殺する人は、もうこれ以上の苦しみを味わいたくないと思っていることが多いだろう。では、死ねば苦しみは本当に消えるのだろうか。本号には、14歳の時から20年以上原因不明の体調不良に悩まされるも、発酵食品に出会ったことで病を完治したという発酵生活研究家・栗生隆子氏の体験が紹介されていた。やや長いが引用する。
 生きるのにもエネルギーが必要ですが、死もまた生と同じくらいのエネルギーであると感じました。生と死は現れが違うだけで同じエネルギーだと思った時、どちらの選択もできないと感じ、今までの価値観、思考が崩れました。そして、いまでも理由は分かりませんが、生と死という両極端の方向から途轍もない力で引っ張られ、その瞬間、意識だけがポンッと時空間に飛んでしまった感覚になりました。

 それは臨死体験とは少し異なり、意識だけが鮮明にある奇妙な空間でした。自分の姿も景色も光も闇も何も見えません。しかし、思考は鮮明にあるので、「これが死んだ後の世界だ」と感じたのを覚えています。そこで私は”苦しみ”の塊のようなものを持っていました。それまで「死んだら楽になれる」と考えていたのに、意識だけの状態になっても、苦しみはしっかりとあったのです。

 その空間ではなぜか時間軸を変更でき、意識だけが飛んでいける設定になっていました。私は苦しみを軽減したい一心で、試しに1年後に飛んでみました。しかし、苦しみはそのまま。3年、5年、10年と未来に行ってもその苦しみは変わらず、100年後に飛んでもなくなりませんでした。「100年も経てば人の一生は終わるのに、それでも苦しみが取れないというのはどういうこと?」と衝撃を受け、私はやけになって、痛みが取れるまで未来に進んでみることにしたのです。

 200年後、1000年後、1万年後へ行き、最後に2万5千年後まで行ったところでようやく気づきました。「時間という概念はなく、よって苦しみはなくならない。この病気の肉体で喜怒哀楽を体験することに意味があるのだ。五感は肉体がある時にしか知ることはできない」と。そして「帰ろう」と鮮明に思ったのです。
(栗生隆子「発酵食品に生かされたこの命」)
 死んでも苦しみは消えない。これは寿命を迎えて死んだ場合でも同様である。多くの人は、ガンなどの大病を患って死んでいく。「人生の最後になぜこんな苦しみを味わわなければならないのか?」と憤る人もいるだろう。だが、人々は大病に直面して人生の残りが少ないことを思い知らされた時に、自分の人生とは一体何だったのか?力の限り生きてきたか?周りの人たちにどのような貢献をしてきたか?彼らをないがしろにしてはこなかったか?と振り返り、力の限り生きてきたとは言えないならば、あるいは彼らをないがしろにしたことがあったかもしれないならば、せめて残りの人生は後悔のないものにしようと決意することだろう。そして、その人が人生の最後を精神の鍛錬の総決算にあてることを神々は期待しているのである。

 その人が寿命を迎えた時、神々はその人の精神と苦しみを一緒に持ち帰り、集合意識に統合する。だから、苦しみは死んでも消えないのである。さらに言えば、その集合意識から新たな生命が誕生する時、苦しみも一緒に分け与えられるから、人間というのは初めから、一生のうちで大なり小なり、何らかの苦しみに直面する運命を背負わされていることになる。新たに生まれてくる人間にとっては、自分の意思とは無関係に苦しみを運命づけられているわけだから、迷惑な話かもしれない。だが、ここで次のように見方を変えてはどうだろうか?

 京セラの創業者である稲盛和夫氏は、人工関節が事業化した頃、ある病院から特殊形状の人工関節を作ってほしいと懇願された。その形の人工関節を製造するには厚生省(当時)の許認可が必要だったのだが、病院側は一刻も早くその人工関節がほしいと言う。病院の熱意にほだされた稲盛氏は、顧客のニーズを優先するという経営方針もあり、厚生省の許認可なしに人工関節を製造して病院に納品した。患者からも非常に喜ばれた。しかし、これに黙っていなかったのがマスコミである。週刊誌は、「京セラは、厚生省の許認可も取らずに人工関節を作ってぼろ儲けしている劣悪な企業だ」とこぞって書き立てた。これに心を痛めた稲盛氏は指導を受けていた京都・円福寺の西片擔雪老大師を訪れた。すると、老大師は次のように話した。
 前世か現世か知らないけれども、それは過去にあなたが積んできた業が、今結果となって出てきたものです。たしかに今は災難に遭われ、たいへんかもしれません。しかし、あなたがつくった業が結果となって出てきたということは、その業が消えたことになります。業が消えたのだから、考えようによっては嬉しいことではありませんか。命がなくなるようなことであれば困りますが、新聞雑誌に悪く書かれた程度で済むなら、嬉しいことではありませんか。むしろお祝いすべきです。
考え方~人生・仕事の結果が変わる考え方―人生・仕事の結果が変わる
稲盛 和夫

大和書房 2017-03-23

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 苦しみに直面するとは、前世の業が発露したということであり、その時点でその業は消えるというわけである。ブログ別館の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」ではここで話が終わっているのだが、よくよく考えてみると、過去の人が生涯をかけて格闘した結果残った業が、新しい人に引き継がれた途端に、それが発露すれば自然と消えるというのはちょっと都合がよすぎる気がしてきた。過去の業が消えるのではなく、「過去の業を消すチャンスがめぐってきた」ととらえるのが適切であるように思える。そして、過去の業を消す=苦しみを緩和するには、「絶対他力」が必要になる。

 絶対他力とは、阿弥陀如来の本願に拠るという方法以外には極楽往生を果たすことはできないという仏教思想のことである。本号には以下のような記述があった。
 奥野:確かに、自分が愚かだと自覚すれば、もう阿弥陀様にお任せするしかないでしょうね。
 伊藤:浄土教では往生する時に「参る」という言葉を使います。弥陀の本願に支えられて弥陀の国土へと参らせてもらうのだと。自分の力で往くという自力の心を捨て、他力、すなわち弥陀の本願に乗って往生する。
(伊藤唯眞、奥野滋子「この生をいかに全うするか」)
 通常、絶対他力と言えば、念仏を一心に唱えさえすれば、阿弥陀如来が極楽浄土へと導いてくれることを意味する。だが、私は次のように解釈している。仏教は死後の世界を扱う仏教であり、本来は人間が死んだら仏になるとされる。しかし、実際には、生身の人間1人1人の心の中にも仏はいらっしゃる。そして、全ての仏の頂点に立つのが阿弥陀如来である。仏教を開き、自ら仏になった釈迦にとっても、阿弥陀如来は師匠にあたる。通常の仏教の解釈では、阿弥陀如来はこの世とは異なる極楽浄土にいらっしゃるとされるが、私は、1人1人の心に宿る仏の背後に阿弥陀如来がおわしますのではないかと考える。阿弥陀如来は時間的にも空間的にも無限な存在であるから、多くの人々の心の中に、時間の枠を超えて存在することが可能である。

 だから、過去の業が発露した人、苦しみに直面している人は、他者、とりわけ自分に近い他者のためになお一層奉仕する。南無阿弥陀仏は自分のためではなく、他者のために唱える。すると、その他者の心の深層に鎮座されている阿弥陀如来から救いを受けられるかもしれない。阿弥陀如来に導かれる時、過去の業、苦しみは1つ消える。他者の心の根底に存在する阿弥陀如来を頼む。これが絶対他力だと私は考える。絶対他力は、他力本願と誤解されることがある。しかし、実際には他者と深く強く交わるという厳しい実践が要求される(なお、苦しみを受けている当の本人の心にも仏がいらっしゃり、その背後に阿弥陀如来がおわしますわけだから、自分に尽くすことで阿弥陀如来の救いを引き出すことも可能ではないかという意見もあるだろう。しかし、それは自分の苦しみを自己愛で償うことになるから、救いにはならない)。

 仏教は因果の宗教とも言われる。「私が今苦しんでいるのは、前世が悪人であったからだ」などが典型的な因果の発想である。しかし、絶対他力に従えば、因果を変えることも可能である。作家の五木寛之氏もそのようなことを述べている。
 立松(和平)さんは言っていた。仏教は因果を説く宗教ではない。明日は良くなる、と信じて今日を生きる道だ、と。(中略)今日の行動や生き方は、明日を変える。諦めるのではなく、より良い明日のために今日を精一杯生きよう、というのが正しい因果の思想ではあるまいか。
(五木寛之「【第11回】忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉 ”仏教は因果を変える宗教である。”―立松和平」)
 因果と言うと思い出すのが、随分前の記事「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―『陰隲録』の「袁了凡の教え」」、「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―私は、社会が私を発見してくれるのを待っている」で取り上げた「袁了凡の教え」である。詳細はリンク先に譲るが、簡単に言うと次の通りである。袁了凡が孔某という老人から、自分の人生を予言された。老人の予言は恐ろしいほどにぴたりと的中した。ある時、南京付近の寺に滞在していたところ、雲谷という禅師から、「あなたは年齢以上に落ち着いて見えるがどういうわけか?」と尋ねられた。そこで、昔、老人から人生を予言された後、あまりにもその後の人生が予言通りになるので、波風を立てないように生きていると答えた。すると、禅師は「自分の人生を他人の予言に委ねるとは何と薄弱な人間だ」と激怒した。それ以来、自分の意思をはっきりと持つようになったら、子どもは産まれないと言われたのに子どもに恵まれたり、何歳までしか生きられないと言われたのにそれ以上に生き延びたりと、予言とは異なることが次々と起こるようになった、という話である。

 この「袁了凡の教え」の解釈は難しくて、4年前に前掲の記事を書いた時は、人間とは他者のために生きるのだから、他者の意見に素直に従えばよいのではないかと袁了凡を擁護した。とりわけ、日本は多重階層社会であり(この多重階層社会の内部がどんな構造になっており、どのようにして形成されたのかを明らかにすることは私の人生における大仕事の1つである)、出自に応じて社会の中での役割がある程度決まる。いくら現代は自由・平等が普遍的価値観とされる時代であると言っても、生まれた環境、具体的には出身地、両親の学歴、年収、職業、離婚歴の有無、兄弟関係などの要因がその人の地位を決定する割合は他国よりも高いと思われる(多分、この手のデータは格差社会などの研究から容易に見つけ出せると思う)。そして、一旦多重階層社会に埋め込まれると、上の階層、つまり他者のために尽くすことが求められる。

 これは一言で言えば「滅私」の心である。だが、あれから5年経って、滅私の心だけでは不十分だと思い知らされた。今年7月の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」で書いた通り、「滅私」だけでは他者に搾取されるばかりである。極悪人は見た目で解るから避けることができる。本当に恐ろしいのは、善人面した普通の人によって、何の悪意もなく搾取されることである。滅私は利他心とはイコールではない。滅私には文字通り私が存在しないが、利他心は利己心とセットでなければならない。ここで言う利己心とは、「あなたをこれだけ助けてあげたのだから、私にはこれだけの儲けをくれ」といった世俗的なものではない。利己心とは意思である。自分が真に助けたいのはどのような人なのか、自分が真にこの社会に生きてほしいと思うのはどのような人なのかに関する信念である。袁了凡が人生を変えたのは、こうした利己心を手に入れたからだと考える。

 この信念は、マーケティングにおけるターゲティングとは異なる。ターゲティングとは、市場をセグメンテーションし、どのセグメントの顧客を狙うかを決めることである。ターゲティングが有効であるための第一条件は、そのターゲットによって自社が十分な利益を得られることである。つまり、典型的な利己心に基づいている。しかし、私がここで言う信念や意思に基づく利己心を貫くには、逆説的だが倫理、道徳、社会、公共に通じていなければならない。「人間とはかくあれかし」、「その人間が集まる社会とはかくあれかし」という希望である。だから、適当な名前が思いつかないが、ひとまず”利他的”利己心とでも呼ぶのが適切かもしれない。

 前述の通り、人間は神々によって過去の業を負ったまま生まれてくる。さらに言えば、唯一絶対、完全無欠の神ではない不完全な神々が創造した日本人は何かしらの欠陥を持っている。それが原因で、人は生きている間に新たな問題を生み出してしまう。だから、誰しも必ず人生の中で何らかの苦難に直面する。そうした業や問題と対峙しない人は、不幸な人生を送るだけだろう。他方、信念と意思に支えられた利己心と、それとセットになった利他心によって他者貢献をする人は、その苦しみを1つずつ乗り越えることができる。

 今年の3月に閉鎖病棟に入院していた時、月間PHPに萩本欽一氏が「喜びと苦しみは半分ずつ」といった内容の文章を寄稿していた。だが、私は、苦しみを乗り越えた人は苦しみ以上の喜びを手にすることができると思う。喜びと苦しみが常に等しければ、誰も人生において大きな仕事をしようとはしなくなるだろう。苦しみ以上の喜びが得られるからこそ、人は困難に挑戦しようと思うものである。そういう人であっても、前世からの業や、自分が現世で新たに生み出した問題の全てを一生のうちに解決することはできない。その人が死亡すれば、精神は集合意識に回収されて、残された業や問題は次世代に先送りされる。だが、その人が成し遂げた偉業が集合意識の質的充実に大きく貢献し、総合的に見て集合意識を大きく前進させる。

2018年09月10日

『致知』2018年10月号『人生の法則』―「夢や希望」がある人と「志がある人」では「八観六験」の結果がこんなに違う


致知2018年10月号人生の法則 致知2018年10月号

致知出版社 2018-09


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 私が前職の組織・人事コンサルティング&教育研修サービスを提供するベンチャー企業に勤めていた頃、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第1回)】経営ビジョンのない思い入れなき経営」で書いたように、当時の経営陣(皆、大手コンサルティングファームでパートナー〔共同経営者〕にまで上り詰めた人である)は、あろうことか自社のビジョンの策定を外部のコンサル会社に丸投げしていた。でき上がった成果物はコンサル会社らしく、何十ページにも及ぶ細かいレポートであったものの、ビジョンがそんな長ったらしいものでは社員に浸透するはずもなく、外部のコンサル会社に支払った大金は無駄金になってしまった。

 さすがにこのままでは社員が皆バラバラになってしまうと感じた一部の社員は、自力でビジョンの策定に乗り出し、私もメンバーの一員に入らせてもらった。だが、マネジャーからは、「ビジョンがあったところで何になるのか?」、「今のところ仕事がそれなりに回っているのだから(実際には回っていなかったのだが)、ビジョンなど必要ない」などと猛反発を食らってしまった。

 確かに、私は以前、「果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)」という記事を書いたことがある。ただ、これは、内発的に創造されたイノベーションを全世界に普及させて莫大な富を生み出そうとする自己実現的な考え方に染まった一部のアメリカ人イノベーターには明確なビジョンが必要だと言ったまでのことであって、日本企業はビジョンを掲げなくても全く問題ないなどとは一言も言っていない。

 ビジョンとは、事業の将来イメージである。顧客は自社の製品・サービスをどのような気持ちで使用し、どんな幸福を手に入れるのか、顧客に奉仕する社員はどのような働きぶりをしているのか、自社と協業するパートナーや取引先とはどんな関係を構築しているのか、こうした点について、おぼろげながらも言葉にしておくことが重要である。考え方も価値観もバラバラな社員が同じ方向性に向かって大きな仕事をやり遂げる際に、ビジョンはそのよりどころとなる。現に、ビジョンがある企業は、ビジョンがない企業よりも平均で4倍業績が高いというデータもある。

 仮にも組織・人事コンサルティングのサービスを手がけている企業でありながら、こういった点に対して上層部が全くの無理解であることには驚きを隠せなかった。それでも何とかマネジャーたちを説得して、オフィスの一角に大きなホワイトボードを設置し、そこに経営陣や社員が思い描くそれぞれのビジョンを書き出してみようということで話がまとまった。我々の活動に賛同してくれた社員がポツポツとビジョンを書いてくれたのだが、ある時、グループ会社の社長が「1,000億円の寄付をする」というビジョン(?)を書き込んだ瞬間、その内容に他の社員が引いてしまったのか、書き込みがパタリと止まってしまった。

 この社長は、前職の大手コンサルティングファームに所属していた時にストックオプションを付与されており、同社の上場に伴ってそれなりの資産を手にしたらしい。噂によると10億円単位の収入があったという。それを元手にして自社のビジネスを大きくし、1,000億円の寄付をするというアイデアを思いついたのかもしれない。だが、これはその社長の個人的な夢であって、先ほど述べたビジョンとは性質が全く異なる。結局、この一件があってから、自社のビジョンをまとめるという我々の作業は頓挫してしまった。この会社はどこまで行っても皆がまとまらず、個人事業主の集まりのようなものなのだとひどく落胆したものである。

 そういえば、前職の企業の経営企画部長は、実は社員ではなく、個人事業主であった。彼だけ他の社員と違って出勤時間も休日の取り方も異なるので、私は不可解に思っていた。ある時、彼の名前をネットで調べたところ、実は既に個人事業主として独立しており、前職の企業とは業務委託契約ベースで仕事をしていたことが判明した。経営企画という、戦略の中枢ですら外部に丸投げしてしまうのだから、会社が1つにまとまるなどというのは夢のまた夢であった。

 以前の記事「【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因」でも書いたように、本号には「夢や目標はあるけれど、志はあるのか」(河村京子「言い続け、思い続け、やり続ければ、夢は必ず実現する」)という言葉があった。夢や目標というのは、例えば「高級な家に住みたい」、「ベンツに乗りたい」などといった利己的なものである。他方、志とは、人々を幸せにしたい、この世界をもっと住みよい場所にしたいといった利他的なものである。

 先ほどのグループ会社の社長の「1,000億円の寄付をする」という宣言は、どのような利他的な事業を行って1,000億円以上の利益を獲得し、社会に還元するのかという観点がすっぽりと抜けており、単に自分が1,000億円寄付したいという願望を表したものにすぎないから、利己的な夢や目標である。ただし、そう批判する私も、前掲の記事で書いたように、前職の企業にいた頃は「30歳でマネジャーになって年収1,000万円を稼ぎたい」と思い、それが叶わずに独立した時には「35歳には年収1,000万円を達成する」と思っていたのだから、利己的な夢や目標を掲げていたという点では同じである。むしろ、グループ会社の社長に比べると夢や目標がしょぼすぎて、スケールが小さい人間だと逆に非難されてもおかしくない。だから、今度私が独立診断士に再挑戦する時は、利他的な志を真剣に、慎重に設定しなければならないと思っている。

 本号では、陽明学者の安岡正篤が好んで引用していた「八観六験」が紹介されていた(安岡正泰、荒井桂「後世に語り継ぎたい」)。元々は中国の戦国時代に編集された『呂氏春秋』に記されているものであり、人間を八つの面から観察し、六種の方法で試し、その品格を見極める方法である。私は、「夢や目標がある人」と「志がある人」では、「八観六験」のそれぞれの方法に対する答えが次のように異なるのではないかと考える。

 【八観】
 ①通ずれば其の礼する所を観る。
 (順調に物事が進んでいる時、何を礼するかを観察する)

 【夢や目標がある人】結果ばかりに気を取られているため、プロセスを気にしない。多少プロセスから外れていても、結果が出ているのだからいいではないかと開き直る。
 【志がある人】その成果が適切なプロセスにのっとったものであるかどうかを厳しく検証する。組織として守るべき手順が守られていない場合には成果を評価しない。まして、組織の価値観から外れたやり方で成果を上げた場合には、絶対にそれを認めない。

 ②貴(たか)ければ其の進むる所を観る。
 (出世して、どういう人間を尊ぶかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分と同じように、自分の努力で、腕一本で成功したことを自慢する人たちを尊敬する。派手好きで、高い社交性を持った人と交わる。
 【志がある人】自分の成功は、自分よりも優秀な人材を活用することでもたらされたことに感謝する人たちを尊敬する。素朴で、謙虚な人と交わる。

 ③富めば其の養ふ所を観る。
 (金ができ、何を養うかを観察する)

 【夢や目標がある人】まずは自分自身を養う。余りが出れば、慈善活動にお金を回す。
 【志がある人】まずは顧客に還元し、顧客に感謝する。次に社員に還元し、社員の豊かな生活を支援する。次に取引先に還元し、取引先の努力に報いる。次に株主に還元し、株主の元手のおかげで事業を大きくできたことに謝意を示す。自分に還元するのは最後である。

 ④聴けば其の行ふ所を観る。
 (よいことを聞いて、それを実行するかを観察する)

 【夢や目標がある人】自分にとって都合のいいことを取捨選択する(選択バイアス)。
 【志がある人】自分にとって耳が痛いことであっても、その意味するところを深く考え、自分の今までの考えが誤っていなかったかどうかを反省し、改めるべきところは改める。

 ⑤止(いた)むれば其の好む所を観る。
 (仕事が板についた時、何を好むかを観察する)

 【夢や目標がある人】業務を効率化し、どうすればもっと楽に儲けられるかを考える。
 【志がある人】顧客価値を見直し、どうすればもっと顧客に満足してもらえるかを考える。

 ⑥習へば其の言ふ所を観る。
 (習熟すれば、その人物の言うところを観察する)

 【夢や目標がある人】他人から学んだことを、さも自分の考えであるかのように語る。
 【志がある人】他人から学んだことを自分なりに咀嚼し、自分自身の言葉で語る。

 ⑦窮すれば其の受けざる所を観る。
 (困った時、何を受けないかを観察する)

 【夢や目標がある人】困っている以上、手段を選ばずに何でも仕事を引き受ける。
 【志がある人】価値観や倫理に反すること、人間として正しくないことには手を出さない。

 ⑧賎なれば其の為さざる所を観る。
 (落ちぶれた時、何を為さないかを観察する)

 【夢や目標がある人】落ちぶれた原因を周りの環境のせいにし、自分では反省しない。
 【志がある人】落ちぶれた原因を自分自身に求め、周りの環境のせいにしない。

 【六験】
 ①之を喜ばしめて以て其の守(外してはならない大事なことを守れるか)を験す。
 【夢や目標がある人】お金になるなら何でもよいと言ってどんな仕事にも飛びつく。
 【志がある人】たとえお金になるとしても、価値観や倫理に反する仕事は断る。

 ②之を楽しましめて以て其の僻(人間的かたより)を験す。
 【夢や目標がある人】すぐに浪費、享楽に走る。酒による失敗をしでかしやすい。
 【志がある人】趣味、娯楽はほどほどにする。人づき合いやお酒も節度を守る。

 ③之を怒らしめて以て其の節(節度)を験す。
 【夢や目標がある人】過度に感情的になり、相手の人格を否定するほど激しく攻撃する。
 【志がある人】相手の怒りの根を分析し、対立の原因を探って、対話のテーブルにつく。

 ④之を懼れしめて以て其の持(独立性、自主性)を験す。
 【夢や目標がある人】恐怖にうろたえて、普段は社員などのことを大してあてにしていないくせに、困った時だけは社員に問題の解決を丸投げする。
 【志がある人】普段は社員の能力を活用するよう努力しているが、大きな問題が起きた時は社員任せにせず、自分自身の軸をしっかりと持って、問題解決を先導する。

 ⑤之を哀しましめて以て其の人(人柄)を験す。
 【夢や目標がある人】自分の能力に対する自信が強いが、所詮空元気であり、失敗や悲しみに対しては脆く、自分の利己的な目標が達成できないと解ると自暴自棄になる。
 【志がある人】たとえ失敗や悲しいことがあっても、自分には奉仕すべき他者がいるという強い使命感があり、レジリエンス(再起力)を発揮する。

 ⑥之を苦しましめて以て其の志を験す。
 【夢や目標がある人】(⑤と似ているが、)利己的な目標を持つ人には周囲からのサポートがないため、苦境に陥ると目標が遠のいてしまい、挫折する。
 【志がある人】(⑤と似ているが、)利他的な目標を持つ人のことをちゃんと見てくれている人がおり、彼らが支援を差し伸べてくれる。彼らの力を借り、彼らに感謝しながら苦境を脱する。

2018年08月10日

『致知』2018年9月号『内発力』―日本人が「外発性」を活用するための「内発力」が弱っている


致知2018年9月号内発力 致知2018年9月号

致知出版社 2018-08


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 「内発力」―この言葉は辞書にはない。本誌の造語である。「内発的」なら辞書にある。外からの刺激によらず、内からの欲求によって起きるさま、と説明されている。内からの欲求によって湧き出す力。これを称して内発力という。
 だが、私は内発力のみによって自分を駆り立てることができる人間は、特に日本人の場合は少ないのではないかと考えている。内発力だけで動くことが可能なのは、アメリカの一部のイノベーターである。以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」で示したマトリクス図で言うと、左上の<象限③>は「必需品でない&製品・サービスの欠陥が顧客の生命(BtoCの場合)・事業(BtoBの場合)に与えるリスクが小さい」という領域が該当する。必需品ではないから、新たに需要を創造するイノベーションである。また、まだ市場も顧客も存在していないので、伝統的なマーケティングリサーチは役に立たない。

 そこで、イノベーターは次のように考える。「自分ならこういう製品・サービスがほしい。自分がこれだけほしがっているということは、世界中の人々も同じようにほしがっているはずだ」。そして、自分のアイデアをベンチャーキャピタルに売り込み、多額の資金を調達して、全世界に向けて自分が考案したイノベーションを大々的にプロモーションする。イノベーターの読み通り、実際にそのイノベーションが世界中で受け入れられたとしよう。もっとも、必需品ではないから、全世界の人口70億人がそれを購入するわけではない。しかし、その人口のわずか数%でも購入してくれれば、イノベーションとしては大成功である。そして、イノベーターは巨万の富を手にし、後は自分の企業をGoogleなどに売却して、悠々自適のセカンドキャリアを過ごす。

 彼らの動機は内発的である。だが問題は、内発的であると同時に利己的であることだ。もちろん、世界に貢献したいという利他心も一部にはあるだろう。しかし、それよりも、イノベーションで一山当てたいという利己心の方が勝っているように私には思える。こういうイノベーションは、<象限③>の領域を出ることはない。そして、<象限③>のイノベーションは寿命が短く、顧客に飽きられればすぐに売上高や利益が減少する(イノベーターはそれを見越しているので、早々に自分の企業を売却してキャピタルゲインを獲得する)。

 ただし、中には<象限③>から出発して、<象限①>や<象限②>に移動する、つまり、人々の必需品となるイノベーションもある(<象限②>に移動するのは、イノベーションが多くの顧客に売れるに従って顧客の要求水準が上がり、高い品質が求められるようになる場合である)。これは私の仮説だが、こういう移動をするイノベーションに限っては、イノベーターが利己心中心ではなく、利他心中心で動いているのではないかと考える。ただ、いずれにせよ、アメリカのイノベーターの大多数は、内発的である。アメリカ人が、キリスト教はよいものだと信じて全世界中に布教させようとしたり、自由・平等・基本的人権・民主主義・資本主義などが普遍的価値だと言って世界中の国を改変しようとしたりしているのを見るにつけ、余計にそう感じる。

 だが、アメリカ人の中にも、外発性を重視する人はいる。例えば、キャリア開発の研究で有名なエドガー・シャインは、キャリア・アンカーという個人の価値観のタイプを明らかにし、それを軸に生きることを提案したが、同時に、自分を取り巻く組織や事業の環境の現状や、将来予測される変化をとらえて、自分に期待される役割を想定し、価値観とバランスを取りながらキャリアビジョンを描くべきだと主張している。つまり、内発的であると同時に外発的でもあるわけだ。

 日本の一部のキャリアコンサルタントは、シャインの後半の主張を無視して、ひたすら自分の内なる声に従って生きればよいなどと主張する。私の前職のベンチャー企業ではキャリア開発研修も取り扱っていたが、キャリア開発研修の講師も同じことを言っていて、マインドマップで自由に夢を描きましょうなどと呑気なことを教えていた。こうした考えに深刻な欠陥があることは、以前の記事「横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ」で書いた。

 日本人の場合、内発性よりも外発性の方が先行するというのが私の考えである。前掲の記事で書いたマトリクス図において、日本企業は右下の<象限②>に強い。<象限②>は、「必需品である&製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」という領域である。まず、必需品であるから、顧客の声に真摯に耳を傾けなければならない。さらに、品質に対する要求水準が高いため、それに応えるべく相当な企業努力が求められる。この点で、<象限②>で事業を行う企業は外発的に活動している。外発的というと、外部からの変化に対して、受動的に、またややもすると嫌々ながら対応している印象を与えるかもしれない。だが、日本企業は外部からの変化を受ければ、それに対して非常に真摯に向き合い、他者に貢献しようという強い利他心を持っている。これがアメリカのイノベーターとの決定的な違いである。

 日本人が外発的に動くことが多いことを一番よく理解していたのは、実はオーストリア生まれのピーター・ドラッカーなのではないかと思う。ドラッカーは、「変化を予測することは難しい。だが、変化を利用することはできる」とよく述べていた。ドラッカーの著書『イノベーションと起業家精神』には、イノベーションの機会として7つが挙げられているが、実はどれも環境変化が起こってからの対応である。「マネジメントはなぜ変化が起こったのか、その理由を分析する必要はない。分析は研究家の仕事である。マネジメントに必要なのは既に起きた変化の波に乗ることである」とまで述べている。こういうスタンスなので、ドラッカーの著書は、人口あたりの売上で見ると、アメリカよりも日本の方が上回っていたのだろう(ただ、後年の著書には「チェンジ・リーダーは自ら変化を起こすべし」という主張も見られ、私は若干混乱しているのだが)。

 《参考記事》
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(上)』―ドラッカーの「7つの機会」メモ書き
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(上)』―変化を活かすのか?変化を創るのか?
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(下)』―イノベーションの保守思想

イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集)イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集)
P.F.ドラッカー 上田 淳生

ダイヤモンド社 2007-03-09

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 歴史を振り返ってみると、日本は外圧によって変化の必要性に目覚め、そこから一気に国家を作り直すということを何度も繰り返している。今年は明治維新から150年の節目にあたるが、明治維新はその典型だろう。また、戦後の日本も、アメリカからの外圧によって奇跡的な復活を遂げた。古代に目を向ければ、日本は常に中国からの影響を受けていた。私は、中国人が朝鮮人を通じて日本に漢字を伝えた理由が未だによく解らないのだが、1つの仮説を立てている。当時の日本には文字がなかった。一方、中国は自国が世界の中心だと思っている国である。そこで、日本に漢字を持ち込めば、日本を中国中心の世界に組み込めると考えたのではないか、という仮説である。漢字を学んだ日本人は、中国が親切心で漢字を教えてくれたわけではないことを感じ取ったのかもしれない。逆に中国の脅威を感じた当時の朝廷は、急いで中国の政治制度を学び、日本を中国並みの国家にすることで我が身を防衛したのではないだろうか?

 もちろん、日本はいつでも外発性を自分にとって有利に活用できたわけではない。日本人は、外圧によって右往左往することも多い。本号の「【第11回】時流を読む 多極化が進む世界で、日本がまず守るべきは国益である。国益を忘れて世界に翻弄されてきた近現代日本の悪しき教訓に学べ」(中西輝政)という記事では、いくつか例が紹介されている。

 ①20世紀初頭、日本はイギリスと日英同盟を結んでいた。清で革命が起きると、立憲君主国であるイギリスは当然王朝側を支持すると日本は考えていた。ところが、イギリスは革命家の孫文を支持したので、日本は慌ててしまった。②1936年、日本はソ連に対抗するため、ドイツと日独防共協定を締結した。だが、ドイツは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、ソ連と手を結んで日本人を驚かせた。当時の首相・平沼騏一郎は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して総辞職した。③独ソ不可侵条約を結んだドイツであったが、1941年にドイツがソ連に侵攻し、条約は破棄された。日本はこの情勢の変化にもついて行くことができなかった。④戦後で言うと、キッシンジャー外交が挙げられる。ソ連と冷戦状態にあったアメリカは、中ソの分断を図るため、突然キッシンジャーを北京に派遣した。そして、1972年、ニクソン大統領が中国を電撃訪問した。これに慌てた田中角栄は、中国との国交を正常化し、台湾との国交を断絶した。

 こうした重大な事案はいくつかあるものの、総じて日本は外発性をきっかけに自己を刷新してきた。そうでなければ、2000年以上も万世一系の天皇を戴とする国家が存続するはずがない。元々中長期的なビジョンを持たず、仏教の教えに従って「今、ここ」という瞬間を大切にする日本人は、外発性によって少なからず動揺する。それでも、日本人にはそれを乗り越えるだけの底力が備わっていると思う。底力という言葉は極めて曖昧だが、私はそのヒントを複雑系の理論に求めることができるのではないかと考えている。以下の記述は、マーガレット・J・ウィートリー『リーダーシップとニューサイエンス』(英治出版、2009年)を参考にしている。同書を読むと、組織を変化させるトリガーは外発的であるものの、変化を加速させるのは内発性であることが解る。この二面性こそが、アメリカのイノベーターには見られない日本人の特徴である。

リーダーシップとニューサイエンスリーダーシップとニューサイエンス
マーガレット・J・ウィートリー 東出顕子

英治出版 2009-02-24

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 ニュートンの機械論的組織観に従うと、組織は要素還元可能な複数の部品から成り立っている。これは、それぞれの部品間には有機的な連携がないことを意味する。組織の中身も、部品が単線的につながっているだけで、部品以外の空間は空っぽである。こういう組織を動かすには、トップが強力なリーダーシップを発揮して、それぞれの部品に働きかける必要がある。

 これに対して、複雑系の理論では、構成要素間に有機的なつながりがあると考える。つまり、要素間の「関係」を重視する。だから、ニュートンのように要素還元することはできない。そして、この有機的につながり合った要素を覆っているのが「場」である。ニュートンが考える組織とは違って、組織は空ではない。組織の場を構成する具体的なものとしては、例えば組織の価値観などがある。そして、このような組織が環境からの変化を受け取ると、その情報は場を媒介として、有機的につながり合った要素に一斉に伝わる。ニュートン的組織では、トップが部品を1個ずつしか動かせないのに対し、複雑系の理論における組織では、場が組織全体を動かす力となって、各要素の有機的連関の間を一瞬にして情報が駆けめぐる。

 物理学では光より早く移動するものは存在するのかが議論になっている。物理学者ジョン・ベルは、「即時的遠隔操作」が起こり得ることを数学的に証明した。詳細はここでは省略せざるを得ないが(『リーダーシップとニューサイエンス』には書かれている)、要するに物質は、光の速度よりも早く移動する影響によって変化しうる。こうした影響が複雑系の理論における組織で作用すると、ある要素の変化は瞬時に他の要素を変化させることになる。どんなに他の要素が遠く離れていても、光よりも早い速度で影響するから、組織全体の変化は一発で起きる。

 しかも面白いことに、それぞれの要素は他の要素から受け取った情報や変化をそのまま反映しない。少しずつ異なる解釈でその情報や変化を受け止める。これは、場を構成する価値観を解釈する方法が要素によって少しずつ違うことが影響しているのだろう。よって、各要素の振る舞いはバラバラになる。すると、組織全体は混乱に陥るのではないかと思われるかもしれない。実際、環境からの変化を受けた諸要素はバラバラに動く。だが、全体としては秩序が取れているという不思議な現象が起きる。これが「決定論カオス」である。これによって、組織は崩壊せずに、新しい秩序へと移行することができる。一般的に、秩序と変化は両立しないと考えられる。ところが、複雑系の理論においては、組織は秩序を保ちながら変化するのである。

 とりわけ、明治維新で起きたのは、こういう現象だったのではないかと私は思う。明治時代は、中央集権的な国家ができ上がった時代だと言われる。しかし、私はそれは一面的な見方にすぎないと考える。むしろ、各地の豪傑が多様性を発揮しながら、新しい国創りを必死に模索した時代である。大隈重信は、政府から渡された大蔵省租税正の辞令を執拗に拒んだ渋沢に対して、「君は八百万の神達、神計り(陰暦10月の神様会議)に計りたまえと言う文句を知っているか。新政府がやろうとしていることは、誰も解らない。我々が八百万の神なのだ。君もその神々の一柱に迎えるのだ」と言って説得した。これこそがこの時代の精神ではないかと感じる。

 近年、日本人が外発性を活かす力が弱くなっている気がする。国際政治では諸外国の動向に振り回されているし、企業はグローバル競争ですっかり消耗している。その疲れが国内に向くと、ちょっとした愚か者をネット上で必要以上に叩く風習ができ上がり、叩かれた人はなす術を失ってしまう。その原因を複雑系の理論に従って考えると、場を形成する価値観が弱っているせいではないかと思う。先ほどの記述を裏返せば、場の力が弱くなるにつれて、環境の変化情報を諸要素に即座に伝播させることが難しくなり、決定論カオスが実現しない。

 ここで言う価値観とは、日本が伝統的に大切にしてきた道徳、倫理、文化、伝統のことである。こういう価値観があったからこそ、言い換えれば内発性があったからこそ、外発性を上手に活用することができた。しかし、戦後の外来的な自由主義の影響でそれらが破壊されたことが、問題を深刻にしている。にもかかわらず、政府がちょっと道徳の復活を唱えると、復古主義だの封建主義だの、果ては軍国主義への逆戻りだのと的外れな批判が巻き起こってしまう。




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