プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年10月12日

『致知』2018年11月号『自己を丹誠する』―苦しみは死んでも消えないが、「絶対他力」によって緩和することはできる


致知2018年11月号自己を丹誠する 致知2018年11月号

致知出版社 2018-10


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 双極性障害とは、簡単に言えば躁状態(睡眠時間が極端に短い日が続いても平気、派手に散財をする、周囲の人を大声で罵倒する、「私は王様だ」といった誇大な妄想をするなど、極端にハイテンションな状態)とうつ状態が交互に訪れる精神疾患であり(※)、うつ状態では「死にたい」、「自殺したい」という気持ちが強くなることがある。これを希死念慮と呼ぶ。

 (※)もう少し詳しく言うと、躁状態とうつ状態が明確に交互に現れるⅠ型と、軽躁状態が現れるのみで大半の期間はうつ状態が続くⅡ型という2種類がある。私の場合は一応Ⅱ型に該当すると診断されているのだが、はっきりとした軽躁状態がなく、常に抑うつ状態でかつ強いイライラを感じていながらも仕事はこなせる反面、疲れやすく仕事が終わると死んだように寝ているという状態で、医師は混合状態と呼んでいる。しかし、インターネットで調べてみると、混合状態が見られる場合はⅠ型と診断すると書かれているページが多く、私にはどう判断すればよいかよく解らない。また、私以外にも、双極性障害の定義に当てはまらない症状の患者が増えているそうで、最近では「双極スペクトラム」という言葉が使われ始めている。

 私も闘病生活10年間の間に、何度も希死念慮に悩まされてきた。朝起きて「今日は遺書を書こうかな」と思うことはしょっちゅうあった。だが、私が弾劾したい人物の名前を1人ずつ遺書に列記したところで、私が死んだ後に彼らの反応を確かめることはできない。また、私が弾劾したい人物というのはたいてい神経が図太い人間たちであって、図太いがゆえに平気で他人を傷つけることができるのだと思うと、遺書を書いたところで大した効き目もないに違いないという結論に至り、遺書を書くのを断念するのであった。遺書を書かずにさっさと死のうと、地下鉄のホームで列車が最初に突入してくる箇所に長時間立って自殺のタイミングを計っていたこともあるし、近所をうろついては飛び降り自殺に適したマンションがないか物色したこともあった。

 ネットで自殺の方法を調べたこともある。だが、100%完璧に自殺できる方法を紹介しているページなどない。なぜなら、当たり前のことだが、自殺に成功した人はネットに情報を上げることができないからだ。自殺について調べれば調べるほど、目につくのは自殺に失敗して、以前にも増して惨めな人生を送ることになってしまった人たちであった。オーバードーズしたが、病院で無理やり胃洗浄をさせられた上、薬の副作用で長期間苦しんだ人、マンションから飛び降りたが死ぬことができず、半身不随になって働けなくなったのに、運悪く不随になった箇所が障害年金の対象外であり、生活が破綻してしまった人、賃貸住宅で自殺未遂をした結果、事故物件扱いされて家主から多額の損害賠償請求をされ、自己破産に追い込まれた人などである。結局、誰にも迷惑をかけることなく、100%の確率で死ぬことができる自殺というのはない。

 だから私は、「寿命は神々が設定したものであり、人によってバラバラであるが、寿命を全うすることが神々との約束を守ることである。神々の世界には日本民族の集合意識があって、人間が生まれる時は神々が肉体を貸し与えると同時に、集合意識の一部を魂として肉体に授ける。逆に、人間が死ぬ時とは、神々があらかじめ設定した寿命が訪れた時であり、その時に神々はお迎えにやって来て肉体と精神を回収し、その人が一生涯をかけて磨き上げてきた精神を集合意識に統合する。こうして、日本民族の精神は全体として徐々に発展していく。

 ところが、人間が勝手に自殺してしまうと、神々はその人の精神を回収する機会を失う。ということは、その人は日本民族の集合意識の向上に何ら寄与しないことになる。だから、自殺は悪である」などといったことを以前の記事「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」や「『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について」で書いた。これらの記事の内容はまだまだ稚拙でお恥ずかしい限りなのだが、私自身が自殺しないように一生懸命に予防線を張っているという側面もあるとご理解いただければありがたい。

 自殺する人は、もうこれ以上の苦しみを味わいたくないと思っていることが多いだろう。では、死ねば苦しみは本当に消えるのだろうか。本号には、14歳の時から20年以上原因不明の体調不良に悩まされるも、発酵食品に出会ったことで病を完治したという発酵生活研究家・栗生隆子氏の体験が紹介されていた。やや長いが引用する。
 生きるのにもエネルギーが必要ですが、死もまた生と同じくらいのエネルギーであると感じました。生と死は現れが違うだけで同じエネルギーだと思った時、どちらの選択もできないと感じ、今までの価値観、思考が崩れました。そして、いまでも理由は分かりませんが、生と死という両極端の方向から途轍もない力で引っ張られ、その瞬間、意識だけがポンッと時空間に飛んでしまった感覚になりました。

 それは臨死体験とは少し異なり、意識だけが鮮明にある奇妙な空間でした。自分の姿も景色も光も闇も何も見えません。しかし、思考は鮮明にあるので、「これが死んだ後の世界だ」と感じたのを覚えています。そこで私は”苦しみ”の塊のようなものを持っていました。それまで「死んだら楽になれる」と考えていたのに、意識だけの状態になっても、苦しみはしっかりとあったのです。

 その空間ではなぜか時間軸を変更でき、意識だけが飛んでいける設定になっていました。私は苦しみを軽減したい一心で、試しに1年後に飛んでみました。しかし、苦しみはそのまま。3年、5年、10年と未来に行ってもその苦しみは変わらず、100年後に飛んでもなくなりませんでした。「100年も経てば人の一生は終わるのに、それでも苦しみが取れないというのはどういうこと?」と衝撃を受け、私はやけになって、痛みが取れるまで未来に進んでみることにしたのです。

 200年後、1000年後、1万年後へ行き、最後に2万5千年後まで行ったところでようやく気づきました。「時間という概念はなく、よって苦しみはなくならない。この病気の肉体で喜怒哀楽を体験することに意味があるのだ。五感は肉体がある時にしか知ることはできない」と。そして「帰ろう」と鮮明に思ったのです。
(栗生隆子「発酵食品に生かされたこの命」)
 死んでも苦しみは消えない。これは寿命を迎えて死んだ場合でも同様である。多くの人は、ガンなどの大病を患って死んでいく。「人生の最後になぜこんな苦しみを味わわなければならないのか?」と憤る人もいるだろう。だが、人々は大病に直面して人生の残りが少ないことを思い知らされた時に、自分の人生とは一体何だったのか?力の限り生きてきたか?周りの人たちにどのような貢献をしてきたか?彼らをないがしろにしてはこなかったか?と振り返り、力の限り生きてきたとは言えないならば、あるいは彼らをないがしろにしたことがあったかもしれないならば、せめて残りの人生は後悔のないものにしようと決意することだろう。そして、その人が人生の最後を精神の鍛錬の総決算にあてることを神々は期待しているのである。

 その人が寿命を迎えた時、神々はその人の精神と苦しみを一緒に持ち帰り、集合意識に統合する。だから、苦しみは死んでも消えないのである。さらに言えば、その集合意識から新たな生命が誕生する時、苦しみも一緒に分け与えられるから、人間というのは初めから、一生のうちで大なり小なり、何らかの苦しみに直面する運命を背負わされていることになる。新たに生まれてくる人間にとっては、自分の意思とは無関係に苦しみを運命づけられているわけだから、迷惑な話かもしれない。だが、ここで次のように見方を変えてはどうだろうか?

 京セラの創業者である稲盛和夫氏は、人工関節が事業化した頃、ある病院から特殊形状の人工関節を作ってほしいと懇願された。その形の人工関節を製造するには厚生省(当時)の許認可が必要だったのだが、病院側は一刻も早くその人工関節がほしいと言う。病院の熱意にほだされた稲盛氏は、顧客のニーズを優先するという経営方針もあり、厚生省の許認可なしに人工関節を製造して病院に納品した。患者からも非常に喜ばれた。しかし、これに黙っていなかったのがマスコミである。週刊誌は、「京セラは、厚生省の許認可も取らずに人工関節を作ってぼろ儲けしている劣悪な企業だ」とこぞって書き立てた。これに心を痛めた稲盛氏は指導を受けていた京都・円福寺の西片擔雪老大師を訪れた。すると、老大師は次のように話した。
 前世か現世か知らないけれども、それは過去にあなたが積んできた業が、今結果となって出てきたものです。たしかに今は災難に遭われ、たいへんかもしれません。しかし、あなたがつくった業が結果となって出てきたということは、その業が消えたことになります。業が消えたのだから、考えようによっては嬉しいことではありませんか。命がなくなるようなことであれば困りますが、新聞雑誌に悪く書かれた程度で済むなら、嬉しいことではありませんか。むしろお祝いすべきです。
考え方~人生・仕事の結果が変わる考え方―人生・仕事の結果が変わる
稲盛 和夫

大和書房 2017-03-23

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 苦しみに直面するとは、前世の業が発露したということであり、その時点でその業は消えるというわけである。ブログ別館の記事「稲盛和夫『考え方―人生・仕事の結果が変わる』―現世でひどい目に遭うのは過去の業が消えている証拠」ではここで話が終わっているのだが、よくよく考えてみると、過去の人が生涯をかけて格闘した結果残った業が、新しい人に引き継がれた途端に、それが発露すれば自然と消えるというのはちょっと都合がよすぎる気がしてきた。過去の業が消えるのではなく、「過去の業を消すチャンスがめぐってきた」ととらえるのが適切であるように思える。そして、過去の業を消す=苦しみを緩和するには、「絶対他力」が必要になる。

 絶対他力とは、阿弥陀如来の本願に拠るという方法以外には極楽往生を果たすことはできないという仏教思想のことである。本号には以下のような記述があった。
 奥野:確かに、自分が愚かだと自覚すれば、もう阿弥陀様にお任せするしかないでしょうね。
 伊藤:浄土教では往生する時に「参る」という言葉を使います。弥陀の本願に支えられて弥陀の国土へと参らせてもらうのだと。自分の力で往くという自力の心を捨て、他力、すなわち弥陀の本願に乗って往生する。
(伊藤唯眞、奥野滋子「この生をいかに全うするか」)
 通常、絶対他力と言えば、念仏を一心に唱えさえすれば、阿弥陀如来が極楽浄土へと導いてくれることを意味する。だが、私は次のように解釈している。仏教は死後の世界を扱う仏教であり、本来は人間が死んだら仏になるとされる。しかし、実際には、生身の人間1人1人の心の中にも仏はいらっしゃる。そして、全ての仏の頂点に立つのが阿弥陀如来である。仏教を開き、自ら仏になった釈迦にとっても、阿弥陀如来は師匠にあたる。通常の仏教の解釈では、阿弥陀如来はこの世とは異なる極楽浄土にいらっしゃるとされるが、私は、1人1人の心に宿る仏の背後に阿弥陀如来がおわしますのではないかと考える。阿弥陀如来は時間的にも空間的にも無限な存在であるから、多くの人々の心の中に、時間の枠を超えて存在することが可能である。

 だから、過去の業が発露した人、苦しみに直面している人は、他者、とりわけ自分に近い他者のためになお一層奉仕する。南無阿弥陀仏は自分のためではなく、他者のために唱える。すると、その他者の心の深層に鎮座されている阿弥陀如来から救いを受けられるかもしれない。阿弥陀如来に導かれる時、過去の業、苦しみは1つ消える。他者の心の根底に存在する阿弥陀如来を頼む。これが絶対他力だと私は考える。絶対他力は、他力本願と誤解されることがある。しかし、実際には他者と深く強く交わるという厳しい実践が要求される(なお、苦しみを受けている当の本人の心にも仏がいらっしゃり、その背後に阿弥陀如来がおわしますわけだから、自分に尽くすことで阿弥陀如来の救いを引き出すことも可能ではないかという意見もあるだろう。しかし、それは自分の苦しみを自己愛で償うことになるから、救いにはならない)。

 仏教は因果の宗教とも言われる。「私が今苦しんでいるのは、前世が悪人であったからだ」などが典型的な因果の発想である。しかし、絶対他力に従えば、因果を変えることも可能である。作家の五木寛之氏もそのようなことを述べている。
 立松(和平)さんは言っていた。仏教は因果を説く宗教ではない。明日は良くなる、と信じて今日を生きる道だ、と。(中略)今日の行動や生き方は、明日を変える。諦めるのではなく、より良い明日のために今日を精一杯生きよう、というのが正しい因果の思想ではあるまいか。
(五木寛之「【第11回】忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉 ”仏教は因果を変える宗教である。”―立松和平」)
 因果と言うと思い出すのが、随分前の記事「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―『陰隲録』の「袁了凡の教え」」、「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―私は、社会が私を発見してくれるのを待っている」で取り上げた「袁了凡の教え」である。詳細はリンク先に譲るが、簡単に言うと次の通りである。袁了凡が孔某という老人から、自分の人生を予言された。老人の予言は恐ろしいほどにぴたりと的中した。ある時、南京付近の寺に滞在していたところ、雲谷という禅師から、「あなたは年齢以上に落ち着いて見えるがどういうわけか?」と尋ねられた。そこで、昔、老人から人生を予言された後、あまりにもその後の人生が予言通りになるので、波風を立てないように生きていると答えた。すると、禅師は「自分の人生を他人の予言に委ねるとは何と薄弱な人間だ」と激怒した。それ以来、自分の意思をはっきりと持つようになったら、子どもは産まれないと言われたのに子どもに恵まれたり、何歳までしか生きられないと言われたのにそれ以上に生き延びたりと、予言とは異なることが次々と起こるようになった、という話である。

 この「袁了凡の教え」の解釈は難しくて、4年前に前掲の記事を書いた時は、人間とは他者のために生きるのだから、他者の意見に素直に従えばよいのではないかと袁了凡を擁護した。とりわけ、日本は多重階層社会であり(この多重階層社会の内部がどんな構造になっており、どのようにして形成されたのかを明らかにすることは私の人生における大仕事の1つである)、出自に応じて社会の中での役割がある程度決まる。いくら現代は自由・平等が普遍的価値観とされる時代であると言っても、生まれた環境、具体的には出身地、両親の学歴、年収、職業、離婚歴の有無、兄弟関係などの要因がその人の地位を決定する割合は他国よりも高いと思われる(多分、この手のデータは格差社会などの研究から容易に見つけ出せると思う)。そして、一旦多重階層社会に埋め込まれると、上の階層、つまり他者のために尽くすことが求められる。

 これは一言で言えば「滅私」の心である。だが、あれから5年経って、滅私の心だけでは不十分だと思い知らされた。今年7月の記事「加藤諦三『どうしても「許せない」人』―自己蔑視する人は他人にいいように利用される(実体験より)」で書いた通り、「滅私」だけでは他者に搾取されるばかりである。極悪人は見た目で解るから避けることができる。本当に恐ろしいのは、善人面した普通の人によって、何の悪意もなく搾取されることである。滅私は利他心とはイコールではない。滅私には文字通り私が存在しないが、利他心は利己心とセットでなければならない。ここで言う利己心とは、「あなたをこれだけ助けてあげたのだから、私にはこれだけの儲けをくれ」といった世俗的なものではない。利己心とは意思である。自分が真に助けたいのはどのような人なのか、自分が真にこの社会に生きてほしいと思うのはどのような人なのかに関する信念である。袁了凡が人生を変えたのは、こうした利己心を手に入れたからだと考える。

 この信念は、マーケティングにおけるターゲティングとは異なる。ターゲティングとは、市場をセグメンテーションし、どのセグメントの顧客を狙うかを決めることである。ターゲティングが有効であるための第一条件は、そのターゲットによって自社が十分な利益を得られることである。つまり、典型的な利己心に基づいている。しかし、私がここで言う信念や意思に基づく利己心を貫くには、逆説的だが倫理、道徳、社会、公共に通じていなければならない。「人間とはかくあれかし」、「その人間が集まる社会とはかくあれかし」という希望である。だから、適当な名前が思いつかないが、ひとまず”利他的”利己心とでも呼ぶのが適切かもしれない。

 前述の通り、人間は神々によって過去の業を負ったまま生まれてくる。さらに言えば、唯一絶対、完全無欠の神ではない不完全な神々が創造した日本人は何かしらの欠陥を持っている。それが原因で、人は生きている間に新たな問題を生み出してしまう。だから、誰しも必ず人生の中で何らかの苦難に直面する。そうした業や問題と対峙しない人は、不幸な人生を送るだけだろう。他方、信念と意思に支えられた利己心と、それとセットになった利他心によって他者貢献をする人は、その苦しみを1つずつ乗り越えることができる。

 今年の3月に閉鎖病棟に入院していた時、月間PHPに萩本欽一氏が「喜びと苦しみは半分ずつ」といった内容の文章を寄稿していた。だが、私は、苦しみを乗り越えた人は苦しみ以上の喜びを手にすることができると思う。喜びと苦しみが常に等しければ、誰も人生において大きな仕事をしようとはしなくなるだろう。苦しみ以上の喜びが得られるからこそ、人は困難に挑戦しようと思うものである。そういう人であっても、前世からの業や、自分が現世で新たに生み出した問題の全てを一生のうちに解決することはできない。その人が死亡すれば、精神は集合意識に回収されて、残された業や問題は次世代に先送りされる。だが、その人が成し遂げた偉業が集合意識の質的充実に大きく貢献し、総合的に見て集合意識を大きく前進させる。

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