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【日本史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2018年01月16日

【日本史B】センター試験(2018年)オリジナル解説


日本史

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 問題、解答は「センター試験2018|解答速報2018|予備校の東進」を参照。解説にあたっては、全国歴史教育研究協議会 『日本史用語集』(山川出版社、2014年)を参照した。

日本史用語集―A・B共用日本史用語集―A・B共用
全国歴史教育研究協議会

山川出版社 2014-12-09

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 【1=①】
 X.現代語訳は「その子の名前はオワケの臣である。先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として今に至るまでお仕えしてぎた。ワカタケル大王の朝廷(住まい)が、シキの宮に置かれている時に、私は大王が天下を治めるのを助けた。何回も叩いて鍛え上げたよく切れる刀を作らせて、私と一族のこれまでの大王にお仕えした由緒を書き残しておくものである」となる。
 Y.熊本県出土の江田船山古墳出土鉄刀には「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」という75字がある。銘文にある「獲□□□鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇=多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが解った。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【2=③】
 ①条坊制は、日本古代の都城で、碁盤目状に土地を区画する制度。京内は東西南北とも4町(約530メートル)ごとの大路で区画された。4町四方の1区画は坊と呼ばれ、左京(右京)何条何坊の形で表示された。さらに、坊は東西南北3本ずつの小路によって16区分され、その1区分を坪(町)と呼んだ。平城京、平安京などに見られる。
 ②下地中分とは、地頭の荘園侵略に対し、下地(収益権のある田畑、山林などの土地)を領家分と地頭分に分けて、相互の支配を確認し、以後侵略しないことを約束する解決法である。
 ③検地は、大名が領国内の土地、農民に対する支配権を確立するために実施した土地の調査法。戦国大名の検地は、領主側から土地台帳を提出させる指出検地であった。正しい。
 ④地券は1872年に発行された土地所有者の確認証。土地の所在、所有者、地目、段別、地価を記載。1872年発行の地券は壬申地券と呼ばれる。1886年、登記法の実施で廃止。

 【3=③】
 a.平安時代の男子の正装は束帯やそれを簡略にした衣冠、女子の正装は唐衣や裳をつけた十二単と呼ばれる女房装束であった。
 b.小袖は、袖のつまった小形の袖の衣装。貴族は下着としたが、本来は庶民の衣服。女性はこの上に短い腰布を巻く。男性は上衣、小袴を着用した。正しい。
 c.友禅染は、宮崎友禅の創始とされる染物。京友禅の他、加賀友禅も起こる。華やかな花鳥山水を描いた友禅模様を絵画のように染め出し、一世を風靡。元禄期に起きた。正しい。
 d.モボはモダンボーイの略で、昭和期初期に流行。洋服を着て繁華街を歩く男性のこと。
 ⇒b、cが正しく、③が正解。

 【4=①】
 富国強兵=明治初期の国家目標。欧米列強に肩を並べるため、経済発展と軍事力の強化による近代国家の形成を目標とし、スローガン化した。
 民力休養=第1次山県内閣が主張したもので、冗官冗費の削減と行政整理が目的である。予算案圧縮によって浮く財源を、民力を養うための地租軽減、地価修正などの減税に回そうとした。民力休養は、議会の多数を占める地主層の要望を反映させるものでもあった。
 熊野詣=紀伊熊野三山への参詣。院政期に院・貴族が盛んに行い、100回近くを数えた。
 伊勢詣=室町後期から庶民の間で流行し、御師が集団参詣の便宜を図った。
 ⇒ア=富国強兵、イ=熊野詣となり、①が正解。

 【5=③】
 ①平安時代には遣唐使が中止されたが、平家が台頭してくると日宋貿易が盛んになり、中国からの輸入品が唐物(唐時代の物という意味ではない)として重宝された。
 ②問丸とは、港湾や都市を拠点に荘園年貢や商品の保管・輸送にあたった総合的運送業者。鎌倉末期には年貢の輸送だけでなく、徴収や委託販売を請け負う者も現れた。
 ③見世棚(店棚)は、軒端に棚を設け商品を並べて販売する方式。「見世棚」の語は鎌倉末期より見られ、室町時代には「店」の字があてられるようになった。室町中期から、商品の拡大、流通経済の発達に伴い、市の開催頻度は増加した(三斎市⇒六斎市)。誤り。
 ④江戸時代、肥前では唐津藩、佐賀藩をはじめ、大村藩、平戸藩で磁器が生産され、海外へ輸出された。唐津藩のものは「唐津焼」、佐賀藩のものは「伊万里焼」と呼ばれる。

 【6=②】
 X.日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約では、ロシアは日本の韓国指導権を認め、旅順・大連の租借権とロシアの経営する東清鉄道の長春以南と附属権利を譲渡、樺太南半分分割、沿海州・カムチャッカ半島の漁業権などを認めた。賠償金は放棄した。写真の石碑は樺太の日露境界線上に建っているものである。
 Y.関東州の管轄と南満州鉄道株式会社の保護・監督にあたる機関とは、関東都督府である。1906年遼陽に設置した関東総督府を旅順に移し、関東都督府とした。
 ⇒X=a、Y=bとなり、②が正解。

 【7=③】
 ア=銅矛・銅戈は九州地方、平形銅剣は瀬戸内海中部、銅鐸は近畿地方を中心に分布。
 イ=古事記は、稗田阿礼の誦習した神代から推古天皇までの天皇系譜や天皇家の伝承を太安万侶が筆録して、712年に元明天皇へ献上したものである。
 なお、淡海三船は大友皇子の曽孫で、漢詩文に優れ、大学頭、文章博士を務めた。現存する最古の日本漢詩集である『懐風藻』の撰者であるとの説もあるが疑問視されている。
 ⇒ア=近畿地方、イ=稗田阿礼となり、③が正解。

 【8=③】
 ①古墳は豪族の墳墓であり、政治連合に参加しても前方後円墳の築造が禁止されたわけではない。ヤマト政権は3世紀頃に成立したが、古墳時代は3世紀中頃~7世紀まで続いた。
 ②屯倉は、収穫物を納める倉庫(御宅)から転じ、広く朝廷の直轄地を言う。田部と呼ばれる農民にその地を耕作させた。なお、豪族の私有地は田荘、私有民は部曲である。
 ③豪族は、氏と呼ばれる血縁的結びつきを基にした組織で、それぞれ固有の氏の名を持ち、首長(氏上)に率いられてヤマト政権内部で特定の職務を分担した。正しい。
 ④公奴婢は官有の奴隷である。私有の奴隷は私奴婢と言う。

 【9=⑥】
 Ⅰ.磐井の乱(527)は、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫国造磐井が新羅と結んで阻み、528年に物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。
 Ⅱ.421~502年に5人の倭王(讃、珍、斉、興、武)が宋などの南朝に13回朝貢した記事が『宋書』などにある。讃は仁徳か応神または履中、珍は反正か仁徳、斉は允恭、興は安康、武は雄略の諸天皇に比定されている。
 Ⅲ.高句麗好太王(在391~412)の功業を記念する碑には、朝鮮半島に渡った倭の兵が好太王に率いられた高句麗の軍隊と戦った旨が記載されている。ただし、解釈には諸説ある。
 ⇒古い順にⅢ⇒Ⅱ⇒Ⅰとなり、⑥が正解。

 【10=②】
 ①律令制においては、神祇官、太政官、弾正台などが置かれた。太政官の下には太政大臣、左大臣、右大臣が置かれ、さらにその下には大納言が置かれた。
 ②大学は、律令では式部省に置かれ、貴族や東西史部(ふひとべ)の子弟を学生とした。儒教中心の学業を修了し、大学の試験を通ると太政官に推薦される。誤り。
 ③官位相当の制のことである。官は官職、位は品位を含めた位階を意味する。律令制下で、官吏がその位階に相当する官職に任命される(例:正三位⇒大納言)。
 ④合わせて四等官と呼ぶ。業務を統括する長官、補佐役の次官、官司内の非違の検察と文書の審査を行う判官、文書の作成を行う主典で、四等官の文字は各役所で異なっていた。

 【11=①】
 X.「天皇、親から文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ」の部分が該当する。
 Y.「既にして雅楽寮と諸寺との種々の音楽、並に咸く来り集る。復、王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏(※日本古来の歌舞)、踏歌、袍袴(※外来の歌舞)等の歌舞有り」が該当する。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【12=④】
 a.検田使=輸租田に対し、国司が土地を検査し、徴税の負担量の成否を調査するために派遣した役人のこと。検田使の立ち入りを拒否する権利を不入の権と言う。
 b.負名=従来、庸・調など人頭税が中心だった律令国家の租税は、10世紀に入ると、各国内に新設された名(名田)という課税単位に改められた。名の耕作者を負名(田堵)と呼ぶ。
 c.預所とは荘園の管理者である荘官の中で上級に相当する者。現地に赴き、預所代、田所や下司、公文、荘司などの下級荘官を指揮して経営にあたる。
 d.院政期になると、知行国の制度が広まった。これは、上級貴族を知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度である。知行国主は子弟や近親者を国守に任じ、現地に目代を派遣して行政・支配を行った。当時、受領の地位が利権化する一方で、貴族の俸禄支給が有名無実化していたため、貴族の経済的収益を確保させる目的もあった。
 ⇒X=負名、Y=知行国主となり、④が正解。

 【13=④】
 平頼綱=北条得宗家の内管領。北条貞時の乳母の夫。霜月騒動で安達氏を滅ぼしたが、1293年、息子を将軍に就けようとしていると密告され、執権貞時に滅ぼされた。
 足利直義=足利尊氏の弟。建武政府では成良親王を奉じて鎌倉将軍府を担っていたが、中先代の乱を機に兄とともに幕府創設に尽力。初期の室町幕府は尊氏と直義による二頭政治で運営された。兄弟の対立から始まった観応の擾乱では高師直と対立し、始め優勢であったものの、最終的に鎌倉で毒殺された。
 三浦泰村=評定衆を務めた鎌倉幕府の有力御家人。前将軍藤原頼経、北条氏支族の名越光時らの謀反に弟が加担していたのを機に北条時頼と対立し、宝治合戦で敗死した。
 ⇒ア=平頼綱、イ=足利直義となり、④が正解。

 【14=①】
 ①六勝寺とは、院政期に京都白河の地に造立された法勝寺(白河天皇)、尊勝寺(堀川天皇)、最勝寺(鳥羽天皇)、円勝寺(待賢門院)、成勝寺(崇徳天皇)、延勝寺(近衛天皇)という勝の字がつく6つの御願寺の総称である。正しい。
 ②特権的な座商人であった「町人」は、やがてその社会的な信用から、地区の「町」にあっては世話人的な役割を期待され、幕府や朝廷からは「町」における公的な権限を委託されるようになった。こうして個々の「町」地区では、「町人」を中心に自治的な町の運営と秩序が維持された。ところが室町時代末期になると、個々の町の組織化が進み、より上級の自治的な共同体を作るようになる。すなわち、複数の町が集まっていくつかの組町を作り、さらにその組町が惣町を構成した。これを「町組」と言う。
 ③『十六夜日記』は阿仏尼の著。1279年、実子冷泉為相と継子二条為氏の播磨国細川荘をめぐる所領論争の解決のため鎌倉に赴いた時の紀行文である。
 ④酒屋に対する幕府の課税は室町時代から始まった。京都で高利貸しを営む土倉や酒屋に倉役・酒屋役を課し、交通の要所に関所を設けて関銭・津料を徴収した。

 【15=②】
 Ⅰ.六波羅探題は、1221年の承久の乱の後、従来の京都守護に代わり、京都六波羅に置かれた幕府の出先機関。朝廷の監視と尾張国(のち三河国)以西の御家人の統括が任務。
 Ⅱ.両統迭立とは、鎌倉末期に持明院統・大覚寺統の両統が交代で皇位に就いたこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇統が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。1317年、幕府が文保の和談を提議し、翌年に後醍醐天皇が即位したが、両統の対立は解消しなかった。
 Ⅲ.1252年、北条時頼が摂家将軍の5代頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を迎えて6代将軍とした。これを皇族将軍と呼び、以後幕府滅亡まで続いた。

 【16=②】
 a、b=竜骨車が使用されるようになったのは江戸時代に入ってからである。竜骨車は中国伝来の揚水機。蛇腹のように小さな水槽を重ね、上部へ水を送る仕組みであった。
 c=踊念仏とは、念仏を唱えながら鉦や太鼓に合わせて踊ることで、極楽浄土の恍惚感に浸るもの。市屋道場(踊屋)を作って興行する様子が『一遍上人絵伝』に描かれている。
 d=田楽とは、平安中期以降に流行した祭礼神事芸能である。公家にも流した。田植えの時に田の神を祀り、豊作を祈願する。
 ⇒a、dが正しく、②が正解。

 【17=③】
 X.和泉国の堺、筑前国の博多などは15世紀以降も勘合貿易で栄えた。
 Y.富田林は河内国にある。1560年頃、興正寺を中心に、一向宗門徒による寺内町が発達。
 ⇒X=誤、Y=正となり、③が正解。

 【18=④】
 ①人形浄瑠璃とは、浄瑠璃に合わせて人形遣いが人形を操る芸能。慶長(1596~1615)期以降に盛行した。現在の文楽に継承されている。
 ②濃絵とは、桃山時代に隆盛を見た障壁画。地や画面内の雲形に金銀箔を用い、花鳥などを極彩色で描いた装飾性の強いものである。狩野派に代表される。
 ③隆達節とは、近世初期の歌謡である。文禄・慶長(1592~1615)頃、堺の高三隆達が創始。扇拍子や一節切(ひとよぎり)などの伴奏で流行した。近世小歌の祖とされる。
 ④千利休によって完成された侘茶は、豪華さよりも簡素さをたっとぶのが特徴。誤り。

 【19=③】
 藤原惺窩=播磨出身の儒学者。相国寺の僧となり朱子学を学び、京学派を形成。近世朱子学の祖。家康に請われて進講したが、林羅山を推薦して仕官しなかった。姜沆は朝鮮の官人・儒学者。慶長の役の時に連行される。藤原惺窩らの日本の儒学者に大きな影響を与えた。
 対馬藩=徳川家康は朝鮮との講和を希望し、1609年己酉条約を結んだ。これは近世の日本と朝鮮との関係の基本となった条約で、釜山に倭館が設置されることや、対馬藩宗氏の朝鮮外交上の特権的な地位が両国によって認められた。
 熊沢蕃山=17世紀の陽明学者。中江藤樹に学ぶ。岡山藩池田光政に仕え、治績を挙げた。『大学或問』で社会を批判し、幕府に咎められ、下総古河に幽閉された。
 ⇒ア=藤原惺窩、イ=対馬藩となり、③が正解。

 【20=①】
 Ⅰ.天草版(キリシタン版)とは、1590年、ヴァリニャーニが活字印刷術を伝え、宗教書や辞典、文典、通俗文字、日本古典などを主にポルトガル系のローマ字体で刊行した。
 Ⅱ.亜欧堂田善(1748~1822)は、本名を永田善吉と言う。白河藩主松平定信に仕え、谷文晁に学ぶが、西洋画や銅版画に転向した。
 Ⅲ.高島秋帆は、長崎町年寄兼鉄砲方の家に生まれる。オランダ人に砲術を学び、高島流砲術を確立。江川太郎左衛門に砲術を伝える。1841年、幕府に招かれ、江戸郊外徳丸が原で練兵を行う。1857年、講武所砲術師範となる。
 ⇒古い順にⅠ⇒Ⅱ⇒Ⅲとなり、①が正解。

 【21=③】
 ①1609年の己酉条約で日朝貿易を独占したのは、対馬藩の宗氏である。
 ②朝鮮から日本へ送られた使節は通信使と呼ばれた。なお、琉球王国は、将軍代替りの時には慶賀使を、新国王即位の時には謝恩使を派遣した。
 ③19の解説の通り、釜山に倭館が置かれた。正しい。
 ④「日本国王」は、江戸幕府が外交文書において将軍を表す語として用いた「日本国大君」の略称。3代将軍徳川家光の時、朝鮮との国交修復に際し、対馬藩主の宗氏が将軍の号を「日本国王」と改作した事件が起きた。これを機に幕府は、朝鮮に対して、1636年来日の朝鮮通信使から「日本国大君」の称号を使用させた。以後6代将軍家宣の時、新井白石の建議で一時「日本国王」に変更されたが、8代将軍吉宗は大君を復活させた。幕末の日米和親条約以降欧米諸国との往復文書にも用いられ、1868年天皇が外交権を接収するまで続いた。

 【22=①】
 寺請制度=寺院に一般民衆を檀家として所属させ、キリシタンでないことを証明させる制度である。寺請証文を発行した。
 諸社禰宜神主法度=神社神職の統制法令で、1665年に寺院法度とともに発令された。位階、神事、神領、修理などの規定で、従来の白川・吉田家のうち、吉田家の支配が強まった。
 本末制度=本山という宗派の中心寺院と、その統制下の一般寺院からなる制度。幕府は寺院間に本末関係を作らせて統制した。なお、各地で一揆を起こして抵抗した一向宗(浄土真宗)の本山である本願寺は、東西の2つに分け、その勢力を弱めた。
 禁中並公家諸法度=1615年に幕府が出した朝廷・公家の統制法。金地院崇伝が起草。天皇の学問専念や公家の席次、官位、紫衣、上人号の授与などを規定した。
 ⇒ウ=寺請、エ=諸社禰宜神主法度となり、①が正解。

 【23=①】
 現代語訳は「1700年9月19日の晩、念仏寺へ庄屋・年寄(※村役人)が集まり、山の窃盗の取り調べがありました。盗んだと申す者たちを呼び出し、(中略)合計7人は立木を切ったと申したため、2里(※約8km)四方外へ追放にすると申し上げました」
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【24=②】
 ①関東取締出役とは、1805年、幕府が設置した関東の治安維持強化を担う役職である。関八州を月1回ぐらい巡察するため、俗に八州廻りとも言う。所領の入り組んだ関東で無宿人や博打が横行していたため、警察機能を強化するのが狙いであった。
 ②村方騒動とは、村役人や富裕層の不正を追及する運動である。貧農が村政への参加、村入用(村費)の公開や村役人の交代を要求。田沼時代頃から増大した。誤り。
 ③マニュファクチュアとは、労働者が1か所に集まって分業に基づく協業組織で、手工業生産を行う形態であり、資本主義生産の初期的段階である。17世紀に既に摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業で見られた。19世紀には大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利の絹織物業、川口の鋳物業などに見られた。
 ④二宮尊徳は、没落した実家を勤勉に働いて再興し、後に幕府・諸藩に迎えられて農村復興に努めた。勤労・倹約を中心とする事業法が報徳仕法である。

 【25=②】
 政治総裁職=大老に相当する役職。文久の改革により設置され、松平慶永が任じられた。
 廃藩置県=1871年、幕藩体制の旧態を解体し、全国を政府の直轄地とする改革。木戸孝允、大久保利通らが提唱。薩長土3藩から御親兵を集めて武力を強化し、廃藩を断行した。旧藩の債務は新政府が引き継いだ。
 議定=王政復古の大号令により、総裁、参与とともに創設された。皇族、公卿、諸侯約10名が任命された。1869年の太政官制の再興により廃官となる。
 版籍奉還=1869年、諸藩主が土地(版図)と人民(戸籍)を返上した改革。大久保、木戸
らが建議。薩長土肥4藩主が奉還を出願し、他藩主も倣った。旧藩領には知藩事を置いた。
 ⇒ア=政治総裁職、イ=廃藩置県となり、②が正解。

 【26=④】
 ①阿部正弘は、1853年のペリー来航後、従来の方針を変えて朝廷に報告し、諸大名や幕府にも意見を述べさせて、挙国的に対策を立てようとした。しかし、この措置は朝廷の権威を高めるとともに、諸大名に幕府に対する発言の機会を与え、幕政を転換させる契機となった。
 ②老中・安藤信正は公武合体運動を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂の夫人に迎えた。この政略結婚は尊皇攘夷論者から非難され、安藤は1862年坂下門外で水戸脱藩士らに傷つけられて失脚した(坂下門外の変)。
 ③②で述べた通り、坂下門外で襲撃されたのは安藤信正である。井伊直弼は勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印したが、開港を好まない孝明天皇の怒りを買い、朝廷と幕府が対立。井伊は強硬な態度をとって朝廷や反対派の公家・大名を抑え、その家臣たち多数を処罰した(安政の大獄)。この厳しい弾圧に憤激した水戸脱藩の志士たちは、1860年、井伊を桜田門外で暗殺した(桜田門外の変)。
 ④長州藩は政局の主導権を握って、公武合体策をとる薩摩藩を抑えて朝廷を動かし、攘夷の決行を幕府に迫った。幕府はやむなく、1863年5月10日を期して攘夷を決行するよう諸藩に命じた。長州藩はその日、下関海峡を通過する諸外国船を攻撃し、攘夷を実行した。正しい。

 【27=④】
 Ⅰ.志賀潔(1870~1957)は、伝染病研究所に入り、1897年に赤痢菌を発見した。
 Ⅱ.緒方洪庵(1810~1863)は、大坂、江戸、長崎で学び、大坂で開業した蘭医。適塾を開き、多くの俊才を出す。1862年、幕命で江戸に出て、奥医師・医学所頭取となる。
 Ⅲ.お雇い外国人は、明治初期、西洋の学問・技術の導入のため、政府機関や学校に雇われた外国人である。ピークの1874年には英・米・仏・独・伊人など858人。
 ⇒古い順にⅡ⇒Ⅲ⇒Ⅰとなり、④が正解。

 【28=①】
 X.徴兵令とは、1873年1月に発布されたもので、徴兵告諭と全国徴兵の詔に基づき、国民皆兵の方針により、満20歳以上の男性を兵籍に編入し、兵役につかせる法令である。大村益次郎が発案し、山形有朋が継承して実現した。
 Y.血税一揆とは、1873~1874年、徴兵令に反抗して起きた農民の一揆。徴兵告諭文中の血税の語を取り上げて、いわゆる血税反対を叫んだことでこの名がある。
 ⇒X=正、Y=正となり、①が正解。

 【29=①】
 吉野作造=1916年、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、民本主義を主張した。黎明会・新人会で啓蒙・学生運動を指導、友愛会などの労働運動も支援した。また、朝鮮や中国の民族運動にも理解を示した。
 中央公論=1887年に京都で刊行した『反省会雑誌』(浄土真宗系)が東京に移り、1899年『中央公論』と改題。宗門から独立した総合雑誌として、社会評論、学術、思想、文芸などを充実させる。大正初期、編集長滝田樗陰が基礎を確立し、大正デモクラシーの論壇の中心となる。
 河上肇=初め古典派経済学を研究。渡欧の後、京大教授時代に『貧乏物語』を『朝日新聞』に連載し、奢侈の根絶による貧乏廃絶を説く。次いで『社会問題研究』を創刊してマルクス主義経済学へ進み、その最高権威となる。1928年京大を追われ、無産運動にも参加した。
 明六雑誌=1874~1875年。啓蒙的思想集団である明六社の機関誌。啓蒙思想の紹介と宣伝に貢献。新聞紙条例・讒謗律発布により、43号で廃刊となった。
 ⇒ア=吉野作造、イ=中央公論となり、①が正解。

 【30=③】
 a.赤瀾会=1921年に結成された女性社会主義者の団体。山川菊栄、伊藤野枝らが中心となった少数の女性の集まり。同年末に解散。「赤瀾」とは赤い波の意。
 b.新婦人協会=1920年、平塚らいてう、市川房枝らが設立。1890年に交付された集会及政社法を引き継いだ、治安警察法第5条の「女子の政治結社・政治集会禁止」条項の撤廃運動を行ったが、1922年、女性の集会参加のみが議会で認められ、同年解散した。
 c.工場法=1911年公布。工場労働者保護のため、事業主に義務を課す法律。最低年齢12歳、労働時間12時間、女性・年少者の深夜業禁止など。だが、15人未満の工場には適用されず、期限付きで14時間労働を認めるなど不備が多い。1947年、労働基準法公布で廃止。
 d.商法=1890年公布、ロエスレルの起草。外国法を模倣した傾向が強く、法典調査会で修正し、1899年に新商法を施行した。
 ⇒X=b、Y=cとなり、③が正解。

 【31=①】
 ①1919年に三・一独立運動が起きた。正しい。
 ②伊藤博文が韓国の義兵運動・独立運動家である安重根に暗殺されたのは1909年10月。
 ③北伐(1926年7月~1928年12月)は、蒋介石の率いる国民革命軍(北伐軍)によるもの。北方の諸軍閥を打倒して1928年6月北京に入城、12月に国民政府と合体して統一が完成。
 ④西安事件とは、1936年12月、中国共産党討伐の督励に西安に赴いた蒋介石を張学良が監禁し、内戦停止と抗日を要求した事件である。周恩来の仲介と蒋の屈服で国共停戦が成立し、抗日民族統一戦線が結成された。

 【32=④】
 Ⅰ.河合栄治郎は自由主義経済学者。1938年、『社会政策原理』、『ファシズム批判』、『時局と自由主義』などの4著書が発禁処分となった。
 Ⅱ.日本初の社会民主党は1901年に結成された。資本公有、軍備全廃、普選実施、貴族院廃止などの宣言・綱領を掲げたが、2日後に結社を禁止された。
 Ⅲ.1928年に行われた第1回男子普通選挙では無産政党勢力が8名の当選者を出した。この時、日本共産党が公然と活動を開始したので、衝撃を受けた田中義一内閣は選挙直後の3月15日に共産党員の大検挙を行い、日本労働組合評議会など関係団体を解散させた(三・一五事件)。また、治安維持法を改正して死刑を加え、さらに道府県に特別高等警察を置くこととし、翌年には再び大規模な検挙を行い(四・一六事件)、その結果、日本共産党は大打撃を受けた。
 ⇒古い順にⅡ⇒Ⅲ⇒Ⅰとなり、④が正解。

 【33=③】
 ①日本文学報国会とは、1942年に設置され、徳富蘇峰を会長とする政府の外郭団体。戦争協力に動員する官製機関。軍部の報道班員として、多くの小説家が従軍文士やペン部隊の名で戦地へ赴き、戦争を美化するために動員された。
 ②石川達三は『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞した(1935)。『生きてゐる兵隊』(1938)は、日本軍の残虐行為の描写で発禁となった。社会性と市民的倫理観に立つ作風が特徴。
 ③文化財保護法は1950年5月に公布。1949年の法隆寺金堂壁画焼損を機に、従来の国宝保存法などの保護関係法律をまとめ、内容を充実させた。誤り。
 ④黒澤明は1943年「姿三四郎」でデビューし、戦後の1951年「羅生門」でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞。1980年には「影武者」がカンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 【34=②】
 第2次山県内閣の1900年に公布された軍部大臣現役武官制では、陸軍・海軍大臣は現役の大将・中将に限るとしたが、第1次山本権兵衛内閣(※第3次桂太郎内閣を打倒した大正政変後の内閣)は現役規定を削除し、予備役、後備役まで就任を拡大した。しかし、実際に就任した例はない。二・二六事件後、1936年の広田弘毅内閣で現役規定が復活した。
 ⇒X=正、Y=誤となり、②が正解。

 【35=③】
 ①自由民主党は、1955年に自由党と日本民主党の保守合同によって成立した政党で、初代総裁は鳩山一郎である。
 ②日本社会党を中心とする連立内閣の首相となったのは片山哲である。片山内閣(1947年5月~1948年3月)は日本社会党、民主党、国民協同党の3党連立で、中道内閣として歓迎された。1947年、国家公務員法を定め、内務省を廃止。だが、3党連立のためもあって積極的な社会主義政策を実行できず、炭鉱国家管理法案などの問題で左派に攻撃されて退陣した。
 ③講和条約をめぐっては、平和条約をソ連・中国を含む全連合軍と締結せよという全面講和論(日本共産党、日本社会党などが主張)と、米ソの妥協ができない情勢では一部の国と平和条約を締結するのもやむなしとする単独講和論(政府、保守党が主張)があったが、吉田茂は単独講和論に従ってサンフランシスコ講和条約を締結した。
 ④降伏文書=ポツダム宣言に署名したのは、鈴木貫太郎である。

 【36=①】
 石橋湛山=経済評論家・政治家で、『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮下で、「代議政治の論理」で国民主権を主張。朝鮮・満州などの植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策は小日本主義と呼ばれた。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の大蔵大臣を務めた。1956年に首相となる。日中、日ソ国交回復に尽力した。

 「全人類の四分の一にも達する隣の大国が、今ちょうど日本の明治維新のような勢いで建設の途上にある。それをやがて破綻するだろうと期待したり、また向こうから頭を下げてくるまで待とうとするような態度が、はたして健康な外交であろうか」と、政府の外交姿勢に疑問を呈している。当時、日本と中国の間には国交がなく(国交を回復したのは1972年の日中共同宣言による)、日本は中華民国(現在の台湾)と国交を結んでいた。
 ⇒以上より、正しいのはaとcであり、①が正解。

2018年01月14日

【世界史B】センター試験(2018年)オリジナル解説


世界史

 【2018年センター試験シリーズ】
 【世界史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【日本史B】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【化学】センター試験(2018年)オリジナル解説
 【数学ⅠA】センター試験(2018年)を解いてみた(7年連続)
 【数学ⅡB】センター試験(2018年)を解いてみた(7年連続)
 問題、解答は「センター試験2018|解答速報2018|予備校の東進」を参照。解説にあたっては、全国歴史教育研究協議会 『世界史用語集』(山川出版社、2014年)を参照した。

世界史用語集世界史用語集
全国歴史教育研究協議会

山川出版社 2014-12-01

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 【1=②】
 ①領邦教会制とは、ドイツの領邦君主が、自領内の教会を支配・統制下に置く制度である。ルター派諸侯は自領内の修道院財産の没収などにより、教会に対する支配権を確立した。
 ②猛安・謀克は、金の行政・軍事組織およびその長官名である。二元制度の1つで、女真人や契丹人に適用された。300戸を1謀克、10謀克を1猛安とする行政組織で、1謀克から約100人の兵を徴集する軍事組織を兼ねた。正しい。
 ③マンサブダール制は、ムガール帝国の第3代皇帝アクバルが定めた官僚制度である。マンサブは「位階」、ダールは「持つ者」を意味する。全ての官僚に序列をつけ、その位階に応じて給与と保持すべき騎馬の数が定められた。
 ④骨品制は、新羅の王族と一般貴族だけを対象とした特権的身分制度。王族である骨階層と一般貴族の頭品階級からなり、階層間の婚姻や就任できる官位・官職に厳しい制約があった。

 【2=②】
 「ローマの平和」とは、アウグストゥスから五賢帝時代までの約200年におよぶローマ帝国の最盛期。紀元前1世紀前半から紀元2世紀後半までを指す。
 ①ペテロ、パウロがキリスト教を布教したのは紀元1世紀のことである。
 ②『ローマ法大全』は、ユスティニアヌス1世(在位527~565)の発布した『法学入門』、『学説集』、『勅法集』に、私撰集の『新勅法』を合わせて総称した呼び名である。誤り。
 ③インドとの季節風貿易ではアジアの香辛料、絹などがもたらされた。帝国内には多数のローマ風都市が建設され、ロンドン、パリ、ウィーンなど今日まで栄えているものが少なくない。
 ④トラヤヌスは五賢帝の2人目(在位98~117)。初の属州(スペイン)出身の皇帝。ダキア(現ルーマニア)を属州とし、一時はメソポタミアの征服に成功、ローマの領土は最大となった。

 【3=③】
 ①フィレンツェは13世紀以降、遠隔地貿易に加え毛織物業と金融業で繁栄した。15世紀以降メディチ家の下でルネサンスの中心地となった。
 ②アドリアノーブルはオスマン帝国の首都。名称はローマ皇帝ハドリアヌスに由来する。ムラト1世がビザンツ帝国から奪い、1453年まで都となった。
 ③リスボンは、インド航海開拓後、16世紀はに香辛料取引で繁栄した。一時、世界貿易の中心となったが、17世紀にはアムステルダムに中心が移った。正しい。
 ④イェルサレム王国は、第1回十字軍によってパレスチナ地域に建設されたキリスト教国。1187年、アイユーブ朝のサラディン軍にイェルサレムを征服され、1291年に最後の拠点アッコンを奪われて滅亡した。なお、第4回十字軍が占領したのはコンスタンティノープルである。

 【4=③】
 ①『ラーマーヤナ』は、4世紀頃現在の形にまとめられた、インドの大叙事詩。『マハーバーラタ』とともに東南アジアに伝わり、各地の文化に多大な影響を与えた。
 ②『イリアス』は、トロイヤ戦争での英雄の活躍を描いた叙事詩で、ギリシア文学の作品。
 ③『ローランの歌』は、フランスを代表する武勲詩。12世紀初頭に完成。カール大帝のスペインにおけるイスラーム討伐を題材として、騎士ローランの活躍と死が描かれている。正しい。
 ④『ギルガメシュ叙事詩』は、ウルク王ギルガメシュの冒険を描いた叙事詩。現存する最古の文学作品と言われ、『旧約聖書』やギリシア神話に影響を与えている。メソポタミアで成立。

 【5=②】
 ①アングロ=サクソン七王国を統一したのはウェセックス王のエグバードである。
 ②正しい。アンジュー伯アンリが国王ヘンリ2世として即位したことに始まり、当初はフランスに政治の拠点を置いていた。
 ③大憲章(マグナ=カルタ)を承認したのはジョン王である。
 ④シモン=ド=モンフォールによる反乱を引き起こしたのはヘンリ3世である。シモン=ド=モンフォールが1265年に招集した議会が、イギリス議会の起源とされる。

 【6=①】
 ①キープ(結縄)は、インカ帝国で用いられた、縄の色や結び方で、統計や数字を記録する伝達手段である。正しい。
 ②緑営は、漢人による清の正規軍である。清の北京入城後、衛所制に基づく明軍を再編して八旗を保管する役割を担わせた。名称は投降した明の軍旗の色に由来し、緑旗とも言う。兵力は約60万で、主に治安維持など警察の機能を果たした。
 ③ギュルハネ勅令は、オスマン帝国第31代スルタン・アブデュルメジト1世が発した勅令である。名称は勅令を読み上げたトプカプ宮殿のバラ園の名称にちなんだ。この勅令は、宗教を問わず、オスマン臣民に法の下での平等、身体・名誉・財産の保障、平等な税制と徴兵を約束した。
 ④十月宣言は、1905年10月、第1次ロシア革命を鎮静化するためにニコライ2世が出した宣言である。ドゥーマ(国会)開設、憲法制定、内閣制採用などを公約した。

 【7=④】
 ①ホスロー1世はササン朝最盛期の王。対外的には東ローマのユスティニアヌス大帝との戦いを有利に展開し、突厥と同盟してエフタルを滅ぼした。
 ②冒頓単于は、匈奴の全盛期を築いた単于。東胡や月氏を破って、前3世紀末にモンゴル高原を統一し、前200年には漢の高祖(劉邦)を破った。
 ③ヴァルダナ王朝は、7世紀前半にハルシャ王が建てた古代北インド最後の統一王朝。一方、南インドを長期にわたって統一していたのはチョーラ朝(前3~後13世紀)である。
 ④ヒヴァ=ハン国(1512~1920)は、ウズベク人がホラズム地方に築いた国である。17世紀初めからヒヴァを首都とした。1873年にロシアの保護国とされ、1920年にホラズム人民ソヴィエト共和国が成立して滅亡した。正しい。

 【8=③】
 ①澶淵の盟は、宋と遼が澶淵(河南省)で結んだ和議である。主な内容は、ⅰ)宋が遼に毎年絹20万匹、銀10万両を贈る、ⅱ)宋が兄、遼が弟の関係とする、ⅲ)国境を保全する、であった。以後、両国間は平和な関係が続いた。
 ②両税法は8世紀後半~16世紀後半の税法。780年、唐の宰相楊炎が、農民の土地所有を公認し(土地を支給したわけではない)、租庸調での諸課税を一括した。名称は、年2回(6月と11月)徴税することに由来する。原則は、土地所有者が税役負担者で、各戸の資産に応じた銭納、耕作面積に基づく穀物納入だったが、銭納の代わりに絹布による納入が広く行われた。
 ③覇者とは、尊皇攘夷を掲げ、諸侯の同盟会議(会盟)を通して他の諸侯を支配した、春秋時代の有力諸侯のこと。正しい。
 ④「湖広熟すれば天下足る」とは、明代中頃に、長江中流域が穀倉地帯となったことを示す諺である。湖広(湖南・湖北省)の河川沿い平野の開発が進み、宋代の江浙(長江下流域)から穀物移出地域が移動した。ちなみに、宋代には「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と言われた。

 【9=③】
 a.『漢書』は、班固が著した前漢一代の歴史書であり、紀伝体で記されている。
 b.ラシード=アッディーンは、イル=ハン国の政治家・歴史家。ガザン=ハンの宰相として、現地社会の実情に沿った行財政改革を実施。また、ガザン=ハンの命令で『集史』を編纂した。
 ⇒a=誤、b=正となり、③が正解。

 【10=①】
 ①シク教は、16世紀初頭にナーナクが創始した新宗教。ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教を融合し、偶像崇拝や苦行、カースト制を否定した。パンジャーブ地方に勢力を保持し、19世紀にはシク王国を建てたが、2度にわたるシク戦争でイギリスに征服された。名称はナーナクら師(グル)に忠実な弟子(シク)に由来する。正しい。
 ②シヴァ神を主神とするのはヒンドゥー教である。
 ③ヒジュラ(聖遷)の年を紀元とする暦を用いるのはイスラーム教である。
 ④中国で景教と呼ばれたのはキリスト教ネストリウス派である。

 【11=④】
 マウリヤ朝の首都はパータリプトラであり、地図中のbに該当する。aはプルシャプラであり、クシャーナ朝の首都である。クシャーナ朝の後のグプタ朝はパータリプトラを、グプタ朝の後のヴァルダナ朝はカナウジを首都とした。

 【12=③】
 ①ハンニバルは、第2回ポエニ戦争で活躍したカルタゴの将軍である。イタリアに侵入して半島を蹂躙し、前216年のカンナエの戦いでローマ軍に大打撃を与えた。なお、イッソスの戦いとは、アレクサンドロス軍がダレイオス3世軍に大勝した戦いである。
 ②司馬炎が建国したのは晋(西晋)である。三国魏の禅譲を受けて建国した。
 ③常勝軍とは、太平天国鎮圧のために上海で組織された、欧米人を指揮官とする義勇軍である。1860年、アメリカ人ウォードが上海の商人の要請で外国人兵士による洋槍隊を組織した。やがて中国人を兵士として徴募し、常勝軍と改名した。ウォード戦死後の1863年3月、イギリスの軍人ゴードンが指揮官となり、淮軍とともに太平天国軍と戦い、1864年に解散した。正しい。
 ④劉永福は、清末・中華民国初期の軍人。太平天国滅亡後、ベトナムに亡命して阮朝に帰順、黒旗軍を組織して対フランス抵抗戦争に参加した。

 【13=④】
 ①バルフォア宣言は、第一次世界大戦遂行にユダヤ人の財政援助を期待し、イギリス政府がユダヤ人国家建設への好意的対応を約した約束である。戦後のオスマン帝国の扱いを定めたサイクス・ピコ協定、アラブ国家の独立を認めたフサイン・マクマホン協定と、3つの相矛盾する協定が、現在の中東の混乱の原因ともなっている。
 ②ユダヤ教の戒律主義(律法主義、形式主義)を批判したのはイエスである。
 ③ユダヤ教徒は、唯一神ヤーヴェを信仰している。アフラ=マズダはゾロアスター教の神。
 ④ドレフュス事件とは、ユダヤ系軍人ドレフュス大尉に対する冤罪事件。1894年、ドレフュスがドイツのスパイ容疑で終身刑を宣告されたが、1896年に真犯人が判明。その後、作家ゾラらの救援活動でドレフュスは再審を勝ち取り、1899年に恩赦され、1906年に無罪となった。正しい。

 【14=①】
 ①乾隆帝は清の最大版図を築き上げた皇帝であるが、ヨーロッパ船の来航を泉州に限定した事実はない。誤り。なお、泉州は宋代には広州、明州とともに、元代には杭州、広州とともに交易により栄えた都市である。
 ②ムスリム商人は、海上交易ではダウ船を使ってインド洋、南シナ海、地中海などに進出した。内陸では、ラクダなどを使った隊商交易で中央アジア、シベリア、東欧、北欧方面まで往来した。隊商宿(キャラヴァンサライ)とは、街道や都市の内部に建てられた宿泊・交易施設であり、隊商による商業活動の拠点となった。
 ③定期市は、中世ヨーロッパの各地で開かれた商品取引の場である。遠隔地貿易の発達とともにシャンパーニュのような商業圏を結ぶ通商路に大規模な定期市が開かれるようになった。
 ④琉球は、明との間で朝貢貿易を行った。清代になると、琉球は清に朝貢すると同時に江戸幕府にも朝貢するという二重朝貢関係を結んだ。

 【15=②】
 ①ラダイト運動が起きたのは1811~1817年。
 ②ステュアート朝が成立したのは1603年。正しい。
 ③ウォルボールがイギリス初代首相となったのは1721年。
 ④グラッドストン(1809~1898)はイギリス自由党の政治家。1868~1894年までに4回首相となり、内政改革を重視して教育法や労働組合法の制定、第3回選挙法改正を行った上、アイルランド問題の解決を目指した。

 【16=②】
 ワッハーブ派は、18世紀にイブン=アルドゥル=ワッハーブが始めた、イスラーム教の原点回帰を目指す改革派運動である。豪族サウード家と協力してシャリーア(イスラーム法)を厳格に適用する王国の建設を目指した。神秘主義やシーア派を激しく攻撃し、各地のイスラーム復興運動に影響を与えた。なお、ハーシム家とは、クライシュ族の一族でムハンマドの生家のことである。また、十二イマーム派とは、シーア派の最大宗派であり、第4代カリフであるアリー以下12人の男系子孫をイマーム(宗教指導者)とし、第12代ムハンマドは「隠れ」に入り、将来マフディー(救世主)として再臨すると考えられている。イスマーイールが建国の際に、国家宗教とすることを宣言した。今日まで、イランにおける支配的宗派となっている。

 【17=④】
 ①エフェソス公会議(431)では、ネストリウス派が異端とされた。ウィクリフ(1320頃~84)はイギリスの神学者でありオクスフォード大学教授。宗教改革の先駆者とされる。聖書を信仰の根本として英訳を主張、聖職者階層制と教皇の権威を否定した。
 ②イスラーム同盟(サレカット=イスラーム)とは、1911年末に前身が設立され、翌年改称されたインドネシア最初の大衆的民族組織である。はじめジャワの商人が相互扶助を目的に設立したが、イスラーム教徒の団結と物心両面の発展を掲げ、労働運動にも進出し、1910年代の民族運動を主導した。社会主義運動に影響を受けたインドネシア人が同盟に加わると、運動は反植民地主義を正面に掲げるようになった。
 ③白蓮教徒の乱とは清の末期に起きた、白蓮教信徒を中心とする大規模な民衆反乱のことである。八旗・緑営の無力化が露呈し、郷勇が台頭するきっかけとなった。鎮定に莫大な費用を要し、国庫は窮乏した。
 ④バーブ教は、1840年代にイランで広まった新宗教である。開祖サイイド=アリー=ムハンマドは自らをイマームの再臨としてシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言、イスラーム教から分離した。社会の混乱を背景に、ロシア、イギリスの圧力とそれに対するカージャール朝の無策により多くの信者を集めたが、1850年代に政府の厳しい弾圧を受けた。正しい。

 【18=②】
 a.ルール占領とは、第一次世界大戦後のドイツの賠償支払いの不履行を口実に、フランスとベルギーが鉱工業地帯ルールを武力占領した事件である。ドイツはストライキなど受動的抵抗で応じたが、通貨インフレなど経済の大混乱に陥った。大連合内閣を組織したシュトレーゼマンは抵抗を中止し、賠償履行政策に転じた。対するフランスも莫大な駐兵費用に悩まされ、1924年に賠償金支払いに関するドーズ案が示され、翌年に撤退した。
 b.朝鮮戦争の結果、アメリカは北緯38度線を境として、朝鮮半島の南半分を占領した。
 ⇒a=正、b=誤となり、②が正解。

 【19=①】
 ①仏国寺は、慶州郊外にある仏教寺院。新羅の時代、751年に創建されたが、16世紀末の豊臣秀吉の出兵で焼失し、石造物だけが残った。東区の釈迦塔と多宝塔は新羅時代の石塔として有名である。正しい。
 ②ポタラ宮殿は、歴代ダライ=ラマの宮殿・寺院である。17世紀にダライ=ラマ5世により、ラサの北西、ソンツェン=ガンポの宮殿跡とされるポタラ山に建てられた。
 ③クトゥブ=ミナールは、デリー南方にあるインド最古のモスク(クトゥプ=モスク)の塔である。奴隷王朝の建国者アイバクが12世紀末からモスクの建設を開始し、名称の由来となったミナール(塔)は1200年に着工された。
 ④ピサ大聖堂の斜塔で、物体落下の実験(重力実験)を行ったのはニュートンである。

 【20=①】
 12~14世紀、エルベ川以東へのドイツ人の植民・開墾運動が起きた(東方植民)。農民の大規模な移住は軍事的な側面も強く、ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領が建てられた。なお、キエフ公国とは、リューリクの後継者オレーグが率いるノルマン人がドニエプル水系を南下し、キエフを中心に立てた国である。早くからスラヴ化が進んだ。
 ⇒ア=エルベ川以東、イ=ブランデンブルク辺境伯領となり、①が正解。

 【21=④】
 ①カペー朝の創始者はユーグ=カペーである。フィリップ2世は第3回十字軍に参加。封建諸侯を制圧し、イギリス王ジョンからフランス国内の領土を奪って王権の拡大・集権化に努めた。
 ②審査法は、文武の公職就任者を国教徒に限るとしたイギリスの法。チャールズ2世のカトリック政策に対抗して議会が制定したが、非国教徒のプロテスタントも差別待遇を受けた。
 ③クローヴィスは、フランク王国建国の王である。軍事的統一とアタナシウス派改宗により、王国が西ヨーロッパ世界の中核勢力となる礎を築いた。なお、ヴァンダル人とは、4世紀前半にドナウ川中流域に定住していた東ゲルマン人の一派。5世紀初めにローマ帝国領内に侵入後、略奪を行いながらイベリア半島に入り、その後ガイセリック王の下で北アフリカに王国を建てた。
 ④カルロス1世は、ハプスブルク家出身のスペイン王。フッガー家の援助でフランス王フランソワ1世を選挙で破り、神聖ローマ皇帝カール5世として即位し、オーストリア・スペイン両ハプスブルク家の支配者としてヨーロッパの広大な領土とアメリカ大陸の植民地を支配した。正しい。

 【22=④】
 ①チェック人は、西スラヴ人の代表的民族。9世紀にカトリックを受容し、モラヴィア王国から離れて10世紀にベーメン王国を建てた。ハンガリー王国を建国したのはマジャール人である。
 ②カルマル同盟とは、1397年にスウェーデンのカルマルで結成された、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーによる同君連合である。黒死病への対応やハンザ同盟の進出に対抗するために結ばれた。1523年のスウェーデン離脱まで続いた。
 ③ポーランドでは、1572年、ヤゲヴォ朝断絶後に選挙王制が導入された。選挙王制とは、国会による国王選挙制度である。国内貴族と結んだ外国勢力の選挙干渉なども起こり、ポーランドの国力衰退につながった。なお、ハノーヴァー朝はイギリスの王朝である。
 ④1864年、プロイセンとオーストリアはデンマーク戦争を起こした。1863年末にデンマークが新憲法でシュレスヴィヒ併合を宣言したのを機に、翌年にプロイセンがオーストリアを誘って開戦し、シュレスヴィヒ、ホルシュタイン両公国を占領した。戦後、住民の意思は無視されて、シュレスヴィヒはプロイセンに、ホルシュタインはオーストリアに分轄管理された。正しい。

 【23=③】
 ①クテシフォンはパルティア(安息)の首都である。アケメネス朝の首都はスサである。
 ②サーマーン朝の首都はブハラである。コルドバを首都にしたのは後ウマイヤ朝。
 ③アステカ王国の首都はテノチティトランである。正しい。
 ④アッシリアの首都はニネヴェである。テーベを首都にしたのは新王国時代のエジプト。

 【24=②】
 ①ヴィシー政府の国家出席となったのはペタンである。第一次世界大戦で活躍した「ヴェルダンの英雄」。ブルムは社会党の党首で、1936~1938年に人民戦線内閣で首相を務めた。
 ②武器貸与法は、ローズヴェルトの提案で成立した連合国への軍事援助法である。中立法を改め、大統領に外国政府に対する武器・軍事物資を提供する権限を与えた。以後、アメリカは事実上連合国の一員となり、総額約500億ドルの武器・食糧を貸与し、勝利に貢献した。正しい。
 ③スターリングラードの戦いでは、ドイツは市の大半を占領したが、ソ連軍が反攻に出てドイツ軍を包囲した。ヒトラーは軍の撤退を許さず、結局9万人のドイツ軍がソ連に降伏した。この戦いは独ソ戦の転換点となり、ソ連が反攻に転じ、ドイツは守勢に回った。
 ④バドリオ政府とは、1943年7月、ムッソリーニ逮捕後に成立したイタリアの新政権である。直ちにイギリス、アメリカと交渉を開始し、同年9月に無条件降伏した。

 【25=②】
 ①景徳鎮は江西省北東部に位置する、中国第一の陶磁器生産地である。宋代の景徳年間に名づけられ、以後、高品質の白磁の産地として、その名は世界にも知られた。
 ②リューベックはハンザ同盟の盟主である。誤り。ハンザ同盟は、北ドイツ諸都市の連合体である。一方のロンバルディア同盟は、イタリアに介入する神聖ローマ皇帝に対抗し、ロンバルディア地方の諸都市が自治権保持を目的として結成した同盟である。
 ③モンバサはアフリカ東岸、現ケニア最大の港市である。アフリカ東岸の海港都市としては、他にモガディシュ、マリンディ、ザンジバル、キルワがある。
 ④ポンディシェリはインド東岸部の都市。1674年にフランスが占領、フランス領となり、東インド会社の拠点が置かれた。1954年にインドに返還された。

 【26=②】
 ①宋代の新法を推進したのは王安石であり、司馬光はこれに反対する立場であった。
 ②青苗法、均輸法、市易法により、地主や大商人の利益を抑えようとした。正しい。
 ③軍事に関するものとして募役法、保甲法、保馬法があるが、これらは軍の再編を目的とするものであり、西遼に対する防備の強化を目的としたものではない。
 ④新法党と旧法党の対立を招いた。東林派と非東林派の対立は明末の出来事である。

 【27=②】
 a.第一次世界大戦(1914~1918)のグラフを見ると、1916年以降はアメリカとの年間貿易総額がイギリスとの年間貿易総額を上回っている。正しい。
 b.五・四運動(1919)の年の日本との年間貿易総額は約3.7億海関両、義和団事件(1900)の年の日本との年間貿易総額は5千万海関両弱であり、5倍以上に増加している。誤り。
 ⇒a=正、b=誤となり、②が正解。

 【28=①】
 a.エンコミエンダ制とは、1503年にスペインが王令で定めた、ラテンアメリカにおける土地制度である。スペイン国王が植民者に先住民の統治を委託し、キリスト教に改宗させることを条件に労働力として使用することを認めたものである。しかし、植民者が先住民を鉱山やプランテーションで酷使したため人口が激減し、聖職者の批判や国王の抑制策もあり、エンコミエンダ制は16世紀に衰退し、18世紀にほぼ廃止された。正しい。
 b.大航海時代、ヨーロッパからアメリカ大陸に、それまで存在しなかった天然痘やインフルエンザなどが持ち込まれ、抵抗力のない先住民が大量に死亡した。一方で、梅毒がアメリカ大陸からヨーロッパに持ち込まれ、一気に広まった。正しい。
 ⇒a=正、b=正となり、①が正解。

 【29=①】
 ①西山(タイソン)の乱とは、18世紀後半に起きたベトナムの農民反乱である。中部にある西山村の阮氏3兄弟をリーダーとして蜂起し、南部の広南王国、北部の鄭氏を滅ぼして、短期間ながらベトナム統一を果たした。正しい。
 ②陳勝・呉広の乱は、秦の始皇帝の死後起きた農民反乱である。
 ③イギリスで起きたのはワット・タイラーの乱である。ジャックリーの乱はフランスで起きた。いずれも、百年戦争中の農民に対する重税が原因である。
 ④ハイドゥの乱とは、フビライの即位とオゴタイ家弾圧に反対した元の内紛である。フビライに反対するハイドゥは、フビライに対抗して即位した末弟アリクブケを支援し、さらにチャガタイ家などの不満勢力を結集した。ハイドゥ率いる大軍は、1300~1301年にモンゴル高原西部で元軍に敗れ、その後ハイドゥが死去したことで内紛は終わった。

 【30=③】
 ①リシュリューは、ブルボン朝のルイ13世の宰相を務めた政治家である。内政面ではユグノーと貴族の力を削いで王権強化を目指し、外政面では新教側に立って三十年戦争に介入してハプスブルク家に打撃を与えた。
 ②十四か条の平和原則は、アメリカ大統領ウィルソンが発表した第一次世界大戦の講和のための原則である。ヴェルサイユ条約に大きな影響を与えた。主な内容は、秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍備縮小、民族自決、植民地問題の公正な解決、国際平和機構の設立(後の国際連盟の設立につながる)などである。
 ③18世紀後半、エカチェリーナ2世はピョートルの事業を受け継ぎ、南方ではクリミア半島をトルコから奪い、東方ではオホーツク海まで進出し、日本にも使節ラクスマンを送った。正しい。
 ④1858年にイギリスがインドにイギリス領インド帝国を成立させると、1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られた。

 【31=③】
 ルワンダ内戦は1990~1994年であるから、③が正解。

 【32=③】
 ①ブレジネフが共産党第一書記に就任したのは1964年である。
 ②フェビアン協会とは、イギリスの知識人を中心とした改良主義的な社会主義団体である。1884年ウェッブ夫妻やバーナード=ショーらによって結成され、はじめ自由党への接近を試みたが、後に労働代表委員会結成に参加した。
 ③モンゴル人民共和国の建国は1924年である。正しい。
 ④極東国際軍事裁判所(1946~1948)は、第二次世界大戦における日本の戦争の罪を裁くために設けられた戦後の機関である。

 【33=②】
 ①東ゴート王国は、ラヴェンナを都としてイタリアに建てられたゲルマン人国家。他のゲルマン諸国家に対して指導的な地位を保ったが、ビザンツ帝国のユスティニアヌスに滅ぼされた。
 ②レコンキスタ(国土回復運動)とは、イスラーム教徒からイベリア半島の領土を奪回しようとしたキリスト教徒の戦いである。8世紀初めから1492年まで、ほぼ800年続いた。11世紀からレオン、カスティリャ、アラゴンといった諸国による本格的な攻勢が強まり、グラナダ陥落で完了した。レコンキスタとは、「再征服」という意味のスペイン語である。正しい。
 ③ユトレヒト条約とは、スペイン継承戦争の講和条約である。諸国ごとに個別に結ばれたものを総称してこう呼ぶ。フランスとスペインが将来合併しないことを条件に、フェリペ5世のスペイン王位継承が認められ、一方イギリスはフランス、スペインからジブラルタルなど多数の海外領土を獲得して国力を大きく伸ばした。
 ④1936年、選挙で人民戦線派が勝利し、内閣を組織したが、旧王党派や地主層などの保守派はフランコを中心に反乱を起こした。ドイツ、イタリアはベルリン=ローマ枢軸を結成して反乱軍を公然と支援した。欧米の社会主義者や知識人らは国際義勇軍を編成して政府軍を助けたものの、1939年にマドリードが陥落して、フランコ側の勝利に終わった。

 【34=③】
 ①ダライ=ラマ14世はインドに亡命した。
 ②ジェームズ2世は名誉革命の結果、フランスに亡命した。
 ③アインシュタインはナチ党の支配から逃れて亡命している。正しい。
 ④渤海の建国者は大祚栄である。衛満は、紀元前2世紀に衛氏朝鮮を建国した人物。

 【35=①】
 ①袁世凱は北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より、洪憲皇帝と呼ばれることもある。正しい。
 ②浙江財閥を構成したのは、宋子文、孔祥煕、陳立夫、蔣介石のいわゆる四大家族とわれる人々で、彼らは高級官僚の地位を利用して投資に成功し巨富を蓄えた者であり、官僚資本などとも言われた。共産党の進出に恐怖を感じ、国民党の右派を支援して反共に転じさせた。1927年、北伐の途中にあった蔣介石が、国共合作を放棄して上海クーデターにより共産党に大弾圧を加えたのも、このような財閥の意向が背景にあった。
 ③1911年5月、清朝政府は鉄道国有化令を出し、英米独仏4か国の借款団から600万ポンドを借り、民営の湖広鉄道を国有化の美名のもとで外国に売り渡そうとした。政府のこの買弁政策に対し、四川、湖北、広東各省を中心に、反清・反帝国主義を内容とする、鉄道を守る「保路」運動が起こった。初めは陳情、請願の形を取ったが、四川省の陳情団40余名が官憲の手によって射殺されると、9月には数百万の大衆が参加する一大武装闘争に発展した。清朝政府は湖北軍を率いて鎮圧に乗り出し、鎮圧がほぼ成功したかに見えた頃、手薄となった湖北省の武昌で革命ののろしが上がり、10月10日に新軍、同盟軍が蜂起し、辛亥革命が始まった。
 ④中華民国の建国が宣言されたのは南京である。

 【36=④】
 ①ドブチェクは、チェコスロヴァキアの第一書記。東欧革命後の連邦議会議長。1968年に「人間の顔をした社会主義」を掲げて、非スターリン化、民主化を進めた。
 ②アデナウアーは初代西ドイツ首相である。OEECやNATO、EECへの参加などを通じて、西ドイツの西側諸国の一員としての立場を築いた。
 ③バグダード条約機構(中東条約機構、1955)は、トルコ、イラク、イラン、パキスタン、イギリスが結成した安全保障機構。1958年のイラク革命の結果、イラクは脱退した。
 ④太平洋安全保障条約(ANZUS、1951)は、アメリカを中心に、オーストラリア、ニュージーランドの3国が締結した安全保障条約。日本を警戒する2国に配慮して、サンフランシスコ平和条約調印の前に締結された。正しい。

2016年09月07日

小林秀雄『考えるヒント(2)』―デカルトは「コモンセンス」の祖か、「全体主義」の祖か?


考えるヒント〈2〉 (文春文庫)考えるヒント〈2〉 (文春文庫)
小林 秀雄

文藝春秋 2007-09-04

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 私ごときが小林秀雄の著書についてあれこれ論じる力などからっきしないのだが、敢えて挑戦してみる(『考えるヒント(1)』については、ブログ別館で触れた)。

 中国や韓国からの執拗な歴史問題攻撃に辟易している我々日本人は、歴史というものは客観的に論じられるべきだと考える。客観的という言葉が意味するのは、あらゆる歴史的事実を拾い上げ、誰の目から見ても正しいと言える事実を幅広くつぶさに記録するということである。その事実を目にすれば、どんな人であっても当時の状況や時代背景について正しい認識を持ち、当時を生きた人々の生活や考え方に思いをめぐらせることができる。

 だが、歴史を客観的に把握するのはどうしても無理がある。歴史を研究する際には、当時の歴史的資料にアプローチするか、当事者が存命であれば当事者にインタビューすることとなる。ところで、ある人が歴史的資料を残す際には、必ず動機が存在する。その動機とは、この事件を自分の今後の人生、あるいは自分の後を生きる人々のために記録したいという実益的な動機である。実益的というプラグマティックな言葉が嫌ならば、この事件から意味を導き出したいと言い換えてもよい。つまり、歴史的資料は、それが作成された時点で主観的たらざるを得ない。

 その主観的な歴史的資料を研究する者もまた、主観的であることを逃れられない。歴史を研究するのは、現在直面している、あるいは将来的に直面するかもしれない課題を解決するヒントを求めるためである。したがって、歴史家は、現在という時代の社会風土、価値観や文化という枠組みの中で、歴史的資料を実用的に取捨選択する。歴史は決して不変ではなく、歴史家によって都度再構築されるのである。E・H・カーは、「歴史とは歴史家と彼が見だした事実との相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」という名言を残している(E・H・カーについては、以前の記事「E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった」を参照)。

 存命者に聞き取りをする場合にも注意が必要である。人は、過去の記憶を何度も聞かれると、記憶を都合よく変更することがある(旧ブログの記事「「よかれと思ってやったのに・・・」というマネジメントのパラドクス集(その6~7)」を参照)。ただ、これはさほど重要な問題ではない。もっと深刻なのは、存命者が体験した事件が悲劇的であるほど、歴史家は存命者と事実を共有できず、分有にとどまるという点である(以前の記事「岡真理『記憶/物語』―本当に悲惨な記憶は物語として<共有>できず<分有>するのみ」を参照)。だから、本当の事実は永遠に明らかにならない。歴史家は、断片的な情報、断片的に存命者と共有した感情で満足するしかない。

 2015年12月28日、日本と韓国は日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させるということで合意した。慰安婦問題は、客観的事実をいくら探ろうとしても無理である。これは双方が政治的意図を持って歴史を操作するためでもあるが、歴史に伴う上記のような制約があるからだ。したがって、この問題を前進させるためには、過去に対する詮索を一旦止めて、双方が未来志向になるしかなかった。左派は、未来に進むためには過去を知らなければならないと言うが(以前の記事「『テレビに未来はあるか(『世界』2016年5月号)』―北朝鮮に関して報道されない不都合な真実(推測)、他」を参照)、順番が丸っきり逆である。まずは未来の構想が先である。その後でようやく、構想された未来の側から歴史を照射することができるに過ぎない。

 ここからようやく本書の内容に入る。本書の中で小林は、江戸時代の歴史学者を何人か紹介している。まず、「私学の祖」として、中江藤樹の名前を挙げている。中江藤樹の弟子である熊沢蕃山は、「天地の間に己一人で生きてあると思ふべし」という心境で原典と向き合ったという。山鹿素行は、本当に歴史学を知りたければ、訓詁注釈のような補助概念に頼るなと言って、原典を徹底的に読み込むことを推奨した。こういう姿勢を、小林は「心法」、「心学」と呼ぶ。

 とはいえ、彼らは決して、自分勝手に、個性的に古典を読んだわけではない。むしろ、私心や邪心を離れ、無私の心境で読書を行った。一方で、彼らは自分の考えが全ての人にあてはまるなどとは微塵も考えていない。そんなことを目論見れば、容易に全体主義に陥る。彼らが読書を通じて目指したのは、「自分が生身の肉体で他者と関わる範囲でのよき生き方を知ること」であった。リアルで熱量のある人間関係をいかによいものにするか、ということが彼らの主眼であったわけだ。これは、前述の歴史家の態度と共通するところがある。

 そういう意味では、彼らの合理性は限定されている。だから、ある人にとって合理的なことが、別の人にとっては非合理であることも十分にあり得る。だからと言って、その非合理性を排除することは許されない。それは全体主義のやることである。お互いに相手が非合理だと見える状況に直面した時、両者は決して逃げてはならない。両者の非合理の間で落としどころを見つける努力をしなければならない。これが人間社会の伝統である。だから、右派の理論は理論としては決して美しくない。こういう泥臭さに耐えられない人は、理論的に完璧で美しい左派に流れていくこととなる(以前の記事「『共産主義者は眠らせない/先制攻撃を可能にする(『正論』2016年5月号)』―保守のオヤジ臭さに耐えられない若者が心配だ、他」を参照)。

 江戸時代の歴史学者は古典をよく読んだが、決して書斎にただ独り閉じこもって物思いにふけっていたわけではない。彼らは皆自分の塾を持ち、多くの弟子を抱え、弟子との対話からも学んだ。荻生徂徠は、天と人、人と人との出会いが実であると述べている。彼らは独りになることもできるし、弟子をはじめとする様々な人とも対話ができる空間を持っていたと考えられる。これを「半オープンスペース」と名づけることができるだろう。

 話はやや逸れるが、この伝統は現代の日本にも生きている。日本企業では、部長クラスぐらいまでは部下と同じフロアで机を並べて仕事をする。部長は一人で物事を考えることもあれば、部下からの相談に乗ることもある。つまり、半オープンスペースである。一方、欧米企業では、マネジャークラスになると個室が与えられる。欧米企業が社内のコミュニケーションを円滑にするために、個室を廃止し、オープンスペース(大部屋方式)を取り入れると、日本人は「さすが欧米企業は進んでいる」と感嘆する。しかし、オープンスペースで進んでいるのは日本企業の方である。

 本書の最後には「常識について」という章があり、常識=コモンセンスの祖としてデカルトの名前が挙げられている。私自身は、以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」で書いた通り、デカルトを全体主義の祖だと思っている。

 以前の記事の中で、デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれ在り」にある「われ」とは、特定の個人を指していないと書いた。そもそも、デカルトがこの言葉を残したのは、あらゆる物事、事象を疑った結果、私が疑っているという事実だけは確かであると思い至ったからであった。しかし、私があなたと同じように疑っているかどうかは、実は疑わしい。本当に確かなのは、私もあなたも「思っている」ということ、その1点のみである。この時点で、私とかあなたといった個体の区別は意味を失う。「思っているということ」という意識のみが全体を覆い尽くす。

 さらに言えば、時間の流れも止まる。「現在、思っているということ」が重要になるわけだから、過去や未来という区分は無価値となる。デカルトが『方法序説』を発表した時、「日常生活の中で、自分に何も足さず、自分から何も引かない」と書いた。つまり、「現在」における自分こそが全てとされる。さらに、「ある人には有益であり、誰にも無害であること、そして全ての人々が私の率直さは認めてくれることを願う」とある。小林はデカルトが謙遜している箇所だと指摘しているものの、私には、デカルトは自分の考えが万人にも通用すると自信を持っているように見える。現在という1点のみが絶対であり、個体差が意味を失い、共通の意識が人間全体を支配する。これはまさに、後の全体主義の礎となった考え方ではないかと思う。

 ただし、小林はデカルトを「コモンセンス(常識)」の祖と見なし、デカルトを擁護する。常識とは、言い換えれば、日常生活をよりよくするための知恵である。そこには、人間関係とは本来的に煩わしくて非合理なものだという前提があり、さらに過去から現在、未来へと流れる時間を想定している。小林は、デカルトが「原理」と「格率」という2つの言葉を用いている点に注目する。

 「原理」とは、普遍数学に基づいて探究される真理のことである。これに対して、「格率」の考えに従うと、一度選んだ以上、それを選んだ理由を最上とせよ、ということになる。これは、以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(下)』―「正統性」を論じる時に「名」と「実」を分けるのが日本人」で触れた蘇軾の『正統論』に通じるところがある。人間は、他に合理的な選択肢があったかもしれないのに、敢えて別の選択肢を選ぶことがある。そして、一度それを選んだ以上は、それが最も正統であると事後的に意味づけせよというわけだ。

 ここにおいて、「現在、思っているということ」という全体主義は矛盾を抱えることになる。「格率」は明らかに、人間の合理性が限定されていることを認めている。また、事後的に意味づけを行うということは、時間の流れを念頭に置いている。デカルトは『方法序説』の中で、「制限された人間にふさわしい完全性」を目指すべきだと書いている。また、最後には「私たちは、私たちの本性の弱さを承認しなければならない」とも述べている。このようにはっきり書かれてしまうと、「デカルト=全体主義の祖」派である私も、ちょっと考えを見直さなければならなくなる。

 「原理」は完全な合理性に基づき、「格率」は不完全な合理性に基づくと考えれば、「原理」と「格率」は二項対立の関係にある。以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」などで下図を用いてきたが、全体主義は右上の象限に位置する。しかし、全体主義はあまりに破壊的で傲慢であるため、人間は自らの非合理性を許容するようになった。その際に導入したのが二項対立である。これによって、右上の象限から右下の象限に移動することができた(詳細は「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)」を参照)。

神・人間の完全性・不完全性

 現在、いわゆる大国と呼ばれる国、具体的にはアメリカ、ロシア、ドイツ、中国は皆、右下の象限に属すると私は考えている(実のところ、ロシアと中国、特に中国に関しては、右下ではなく依然として右上の象限にとどまっているのではという疑念がないわけではないが)。デカルトは全体主義の祖であるものの、全体主義から逃れることのできる道も用意していたと考えるのが穏当なのかもしれない。もっとも、全体主義から逃れたからと言っても、二項対立は大国間の深刻な対立をもたらし、世界に強い緊張を強いている点、そして少なからぬ小国が大国の対立に巻き込まれて大きな被害を受けている点は見逃すことができない。




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