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『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(2)
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『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2018年09月25日

『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(2)


月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-09-01

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 (前回の続き)

 (4)医療・介護費の抑制につながる働き方改革
 財務省は、高齢者数の増大により、現在の年金・医療・介護のサービス水準を維持するだけでも、税金投入を毎年1兆円以上増加させる必要があると指摘している。2017年の社会保障給付費(年金、医療、介護、福祉などの合計)は120.4兆円であり、そのうち約38%にあたる46.3兆円が税金で賄われている。私は社会保障制度については全くの素人なので、どのような制度設計が望ましいのかについて述べることはできない。年金に関しては、国が(金額はどうであれ)一定の年齢になったら国民に支払うことを約束しているものであるから、給付額を減らすには制度自体を変えるしかない。だが、医療費と介護費に関しては、制度の変更に頼らなくても、税負担を減らすことは可能なのではないかと考える。

 現在、65歳以上でも働いている人は増加しているし、元気なうちは働きたいと考える高齢者も多い。安倍首相は本号の中で、「半世紀前、65歳以上の高齢者の就業率は33%を超えていました。しかし、今、足元で上昇しているものの、23%になっています」と述べている(安倍晋三「憲法改正案 提出宣言 新聞が報じきれなかったその”全て”」)。厚生労働省「2040年を展望した社会保障改革についての国民的な議論の必要性」によると、都道府県ごとの65歳以上就業率と年齢調整後1人あたり医療・介護費との間には負の相関があるとされている。つまり、65歳以上の就業率が上がると、医療・介護費が下がることを意味する。

 2016年のデータを見ると、65~69歳の高齢者の就業率は、男性が53.0%、女性が33.3%となっている。ただし、これ以上の年齢になると、就業率がガクッと下がる。70歳以上の男性の就業率は19.9%、女性の就業率は9.2%にとどまる(総務省統計局「統計トピックスNo.103 統計からみた我が国の高齢者(65歳以上)―「敬老の日」にちなんで―」より)。また、男性の場合、非正規雇用の比率は55~59歳で12.8%であるが、60~64歳で53.6%、65~69歳で72.1%と、60歳を境に大幅に上昇する。女性の場合、同比率は55~59歳で60.2%、60~64歳で76.0%、65~69歳で81.5%となっており、男性と比較して上昇幅は小さいものの、やはり60歳を境に非正規雇用比率は上昇している(内閣府「平成29年版高齢社会白書(全体版)」より)。

 就業率が上がれば医療・介護費が下がるからと言って、高齢者をコンビニや飲食店、警備などのアルバイトに就ければよいというわけではない(もちろん、そういう高齢者の存在を否定する意図はない)。高齢者であっても正社員として働き、年齢が上がっても、加齢に伴い増加が予想される医療・介護費を十分にカバーできるだけの給与の上昇が期待でき、仮に年金制度が破綻しても給与だけで食べていけるような企業を作るべきだと考える。そうすれば、就業率上昇という言葉が質的に意味を持ち、医療・介護費が抑制されて、税負担も軽減されるに違いない。また、医療・介護費が抑制されれば、企業も賃金カーブをもっと緩やかにすることができる。

 以前の記事「平井謙一『これからの人事評価と基準―絶対評価・業績成果の重視』―「7割は課長になれない」ことを示す残酷な1枚の絵」でも書いたが、私は年功制は支持するものの、終身雇用は支持していない。終身雇用は高度経済成長時代においても実は維持不能だったのに、この低成長時代では絶対に実現することはできない。だから、大部分の企業においては、40代ぐらいのミドルは1回目の転職・起業を経験する。60代ぐらいまでは次の企業で働くことができても、やがて成長の限界が来て、2回目の転職・起業を経験する。そして、働けるうちは働き続け、70代、80代になっても働く。これが私の考える超高齢社会の未来形である。記事の中でも示したように、将来の日本には3タイプのピラミッドが併存すると予想する。ニュータイプのピラミッド組織が、(3)で示したイノベーションの担い手になることができれば最高である。

 働き方改革も、女性ばかりに焦点を当てるのではなく、ミドル・シニアも視野に入れ、社会保障と関連づけて議論されることを望んでいる。どうすればミドル・シニア人材の起業・転職を促進することができるか?親の介護や自身の疾病のために仕事を一時的に離れる可能性があるミドル・シニア人材が正社員として働き続けられるようにするには、どのような保障制度を用意すればよいか?ミドル・シニアといった高人件費社員を中心とする企業がビジネスとして成り立つために、国としてその企業の戦略構想をどのように後押しすればよいのか?高齢者の正社員としての就業率を高めると、医療・介護費の増加はどの程度に収まるのか?その結果、国民の税負担増はどの程度抑えられるのか?こういった点について議論してもらいたい。

 (5)愛国心・道徳教育の見直し
 安倍政権の大きな実績の1つとして、教育制度改革がある。学習指導要領で愛国心が教えられていることが多方面(特に左派)から批判されている。私も、「学校で愛国心を教える」ことには違和感を覚える。第三者が「好きになってほしいもの」を特定して、「これを好きになれ」と強要したところで、強要された側は本当にそれを心の底から好きになるだろうか?

 国民に愛国心を植えつける方法は、実は非常に簡単である。以前の記事「『魂を伝承する(『致知』2014年11月号)』―愛国心とは愛憎ないまぜの感情」でも書いたが、①神話、②選民意識、③トラウマ、この3つを教えればよい。中国や韓国で行われている愛国心教育はまさにこれである。ただし、この愛国心教育が成り立つためには、1つの条件がある。それは「神話、選民意識、トラウマを形成するストーリーに反する事実が発表されても、それを完全に抹殺するだけの完璧な情報統制が取れていること」である。日本は情報統制が非常に緩い。安倍首相はメディアを通じて政権批判をしないようにと新聞・テレビ局各社に要請したと言われるが、マスコミは相も変わらず政権批判を繰り広げている。日本はその程度の情報統制しかできない国である。だから、日本でこの手の愛国心教育を行うことはまず不可能である。

 それを解っていたのか、安倍首相は別のアプローチを取った。「自然の美しさ、歴史上の偉業、道徳的な価値観などを教えれば愛国心が育つはずだ」と考えたわけである。これはつまり、愛国心を構成する要素を分解し、それを1つずつ教えれば愛国心が育つという発想である。しかし、デカルトの要素還元主義を想起させるやり方で、なんとも古臭いと感じる。それに、愛というのは多様な要素に対する肯定的な評価と否定的な評価が織り交ざった結果としての総合評価として導かれるものである。日本には様々な自然、環境、伝統、文化、慣習、歴史、宗教、社会、共同体、製品・サービス、技術、企業、組織、人材、社会制度などがある(これ以外にもたくさんある)。そのうち、教育の現場で取り上げられるのはほんのわずかにすぎない。

 教育の現場以外の圧倒的な生活空間の中で、国民がこれらの諸要素に触れ、それらをその人なりに評価した結果、「日本にはこういうよくないところもあるが、総じてここが素晴らしい」と感じるのが愛国心である。100人いれば100通りの愛国心があってよい。国家が愛国心を形成できるなどというのは幻想である。私は、日本には多くの課題があるとはいえ、有形・無形の豊富な資源があり、何かしらの視点で見れば、大部分の人はそれを自ずと好きになると信じている。愛国心教育については、安倍首相に見直してもらいたいところである。

 道徳教育についても、私は否定的である。以前の記事「『世界』2018年6月号『メディア―忖度か対峙か』―日本には西洋の社会契約説も自由・平等の考え方もあてはまらない」で、中村学園大学の占部賢志教授は、道徳は単独では教えられず、理科や国語など既存の科目の中で教えることが可能であると主張していることを紹介した。道徳とは、人と人とがお互いに依存し合いながら生きる社会において、社会の存在意義と個人の欲求を調和させるために、どのようなルール・価値観に従うべきかを教えてくれるものである。その点で、道徳とは、以前の記事「フレデリック・ラルー『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』―ティール組織をめぐる5つの論点(2)」で述べた「人間学」のことである。

 上記の記事でも書いたが、「他人を殺してはならない」というごく一部の価値観を除いて、絶対的な価値観というものは存在しない。絶対的な価値観は破壊的な全体主義を招く恐れがある。ある価値観が成り立つ時、それとは別の価値観が成り立つことが多い。かつて、道徳の教科書にパン屋が描かれていた点について、「日本の食文化を教えていない」というつまらない批判が向けられたことがあった。批判した人は、「日本の食文化とはこういうものだ」という何かしらの価値観を持っていたのだろう。しかし、別の見方をすると、「日本人には海外のよいものを摂取して既存文化に接合させる柔軟さがある」という価値観があるとも言える。このように、価値観は多様性を持っている。だから、現在行われているように、生徒が特定の価値観について理解したか否かを1つずつ個別に評価する方法は不適切であると言わざるを得ない。

 また、前掲の記事でも書いたように、価値観は単独で機能するものではない。当事者が長い時間をかけて様々な出来事を経験する中で習得された複数の価値観が複雑に絡み合って一種の「価値観システム」が形成される。その価値観システムには矛盾がないことが望ましく、価値観システムと合致した生活を送ること、また価値観システムと合致した組織を構成することが、人間学に従った生き方となる。この点でも、現在の道徳の成績評価方法は底が浅い。もちろん、教育現場で道徳を学習する意義は十分にあると私も考えている。だが、教育現場で触れることのできる道徳はごく一部であり、また道徳を習得する方法のさわりの部分を学習するにすぎないのであって、学校で扱う道徳が道徳の全てであるかのような扱いには疑問を感じる。

 (6)災害対策
 実は、自民党政権は大規模な自然災害を直接的に経験していない。1995年に阪神・淡路大震災が起きた時の首相は、日本社会党の村山富市であった(自社さの連立政権)。村山政権は、自衛隊出動問題も含め、初動のもたつきで多くの人命が失われたという批判にさらされた。2011年の東日本大震災が起きた時の首相は、民主党の菅直人であった。菅直人は村山富市とは反対に、周囲の反対を押し切って福島第一原発事故現場に乗り込むと言い出したり、災害対応の組織をいくつも併存させて指揮命令系統を混乱させたりした。

 私は、自民党以外の政党では自然災害に対応できず、自民党ならば対応できるとは考えていない。仮に、阪神・淡路大震災や東日本大震災の時、自民党が政権を握っていたら、批判の中身はどうであれ、災害対応の稚拙さを批判されたに違いない。これまでの自民党は、単に運がよかっただけである。今年7月に広島県を中心に記録的な豪雨が発生した際には、安倍首相は呑気に宴会を開いていた。自民党とて、その程度のレベルなのである。

 安倍政権は政策の1つとして、国土強靭化計画を掲げている。災害の規模が大きくなるならば、それを上回る防衛力を持ったインフラを作ればよいという発想である。建設業界と密接なパイプを持つ自民党らしい政策である。だが、ここ数年で我々が学んだのは、「必ず、想定外の事態が起きる」ということである。いくら頑丈なインフラを作っても、建設時には想定していなかった規模の災害が襲ってくる。では、もっと頑丈なインフラを作ればよいと考え出すと、これはもう終わりのないいたちごっこになってしまう。災害をどうやって防ぐかではなく、災害が起きた時に国民の生活不安をいかにして最小限にするかを検討する方が有益である。

 自然災害が起きた時に必ず問題になるが、各地の避難所に避難している住民に必要な物資をいかにして届けるかという点である。災害が起きると、全国各地から続々と支援物資が届く。送る側は善意でやっていても、残念ながら避難所の住民のニーズに合致していないことが多い。過剰な物資は、限りある避難所のスペースを無駄に占有するだけでなく、食品など期限のある物資であれば、最悪の場合破棄しなければならない。ただでさえ災害で甚大な被害を受けているのに、物資の破棄費用を自治体が負担することとなれば、泣きっ面に蜂である。

 だから、被災地を支援するには金銭が一番よいと言われる。ただし、支援金と義援金の違いには注意が必要である。義援金は被災者に直接届く金銭であるが、事務手続きに膨大な時間がかかるのが難点である。東日本大震災では、被災者に義援金が届くまでに1年ほどかかったと言われる。これでは被災者の生活支援という意味合いは薄らいでしまう。一方、支援金は被災者を支援するNPOやボランティアに渡る金銭であり、即効性があると言われる。しかし、NPOなどには、受け取った支援金の使途を報告する義務がない。情報公開の程度はNPOによってかなりの差がある。だから、あまり考えたなくはないが、支援金だけ受け取って、その大半を職員の給与にあてていたとしても、外部からは解らないのである。したがって、NPOなどに支援金を渡したからと言って、被災者の生活が十分に支援されているという保証はない。

 私は、国が主導して、避難所の物資ニーズと、他の自治体や企業、あるいは個人が提供可能な物資をマッチングさせる全国的なシステムを構築すればよいと思う。自治体や企業、個人は、災害が起きた時に提供することが可能な物資に関する情報をあらかじめ登録しておく。災害が発生した場合には、それぞれの避難所に避難している住民の人数を把握し、その数に基づいて必要な物資の種類と数量を算出し、システム上で物資を発注する。その際、近隣の道路や鉄道などの物流インフラの被害状況を考慮して、どの地域の自治体、企業、個人から物資を調達するのが最適なのかを自動的に計算する。ゆくゆくはこの需給マッチングシステムを拡張して、ボランティアの人員調整のシステムを構築できればさらに望ましいだろう。

 (7)ポスト安倍の育成
 安倍首相の在任期間は、このまま順調に行けば、2019年11月19日には歴代1位の桂太郎(2886日)に並ぶ。どんな組織でもそうだが、トップの任期が長くなると、必ず後継者問題が出てくる。しかも、今回は期限が決まっている政権であるから、必ず後継者を指名しなければならない。今回の総裁選で安倍首相と戦った石破茂氏は軍事面に明るく、議論をさせれば強いのだが、首相は議論に強いだけでは務まらない。やはり防衛相止まりの政治家であると思う。安倍政権の外交に大きく貢献した岸田文雄氏が後継者の筆頭になってくれればよかったものの、総裁選をめぐるごたごたで後継者リストからは名前が消えた。

 第4次改造内閣の顔ぶれを見ると、普通はこの人が次の首相だろうというのが何となく見えてくるものである。しかし、実際には、各派閥でずっと入閣待ち状態になっていた人物を登用しただけの、何のサプライズもない人事であった。小泉純一郎は安倍晋三を後継者にすると考えて要職を経験させたのに、安倍首相にはそういう考えはないようである。だから、最近の永田町界隈では、安倍首相と政治路線を同じくする菅官房長官が3年間首相を務め、その後再び安倍首相が登板すればよいなどというアイデアがささやかれているらしい(阿比留瑠比「安倍総理 戦後最大の戦い」)。冒頭でも述べたが、2020年の東京オリンピック・パラリンピック以降は苦難の時代が待ち受けていると予想される。後藤新平は常々、「金を残すは下、名を残すは中、人を残すは上」と言っていた。安倍首相には是非、人を残して首相の座を降りてほしい。

2018年09月24日

『正論』2018年10月号『三選の意義/日本の領土』―3選した安倍総裁があと2年で取り組むべき7つの課題(1)


月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]月刊正論 2018年 10月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-09-01

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 9月20日、自民党総裁選は実施され、安倍晋三首相が石破茂・元幹事長を破って連続3選を決めた。任期は2021年9月までの3年間である。今回の総裁選が過去の総裁選と異なるのは、安倍首相の4選は絶対にないということである。つまり、安倍政権はどうあがいても2021年9月までしか続かず、期限つきの内閣となる。しかも、アメリカ大統領が2期目の最後の方になるとレームダック状態になるように、安倍政権も最後はレームダック化が避けられないと思う。とりわけ、2020年夏の東京オリンピック・パラリンピック後は反動で景気が落ち込むことが目に見ているだけに、2021年9月までの残り1年ほどで有効な手を打とうというインセンティブは働かないだろう。だとすると、安倍政権にとって勝負となるのは2019年、2020年の2年となる。安倍政権がこの2年間で解決するべき優先課題を7つ示したいと思う。

 (1)憲法改正
 憲法改正は自民党の党是であり、安倍首相の悲願である。私は以前の記事「『世界』2018年1月号『民主政治の混迷と「安倍改憲」/性暴力と日本社会』―「安保法制は海外での武力行使を可能にする」はミスリード、他」や「『致知』2018年2月号『活機応変』―小国は国内を長期にわたって分裂させてはならない。特に日本の場合は。」で9条の試案を示してきた。

 だが、国民投票にかける新憲法案は解りやすいものでなければならない。100ページの冊子を国民に配らなければ説明ができないような案では、到底国民には受け入れられない。だから、安倍首相は9条3項加憲案を思いついたのだろう。安倍首相は、内心ではもっと優れた案を持っていたはずである。それに、はっきり言って、加憲案は日本の憲法学界の悪しき伝統である神学的論争を加速させる恐れがある。それでも加憲案に着地したのは、改正憲法案をシンプルにし、かつ国家を命がけで守っているのに憲法学者の8割から違憲だと言われて人権侵害を受けている自衛隊の尊厳を一刻も早く守るための現実策であろう。理想を追いかけすぎずに、時にリアリストになることができるのが、第2次安倍政権の大きな特徴である。

 問題は、改憲のスケジュールである。来年は5月に新天皇の即位を控えており、これだけで日程がかなり詰まっている。さらに、4月には統一選挙、6~7月にかけては参議院議員選挙が行われる。加えて、ネックとなるのが、10月に消費税10%への増税が控えていることである。過去に消費増税を実施した政権は、皆悲惨な末路をたどっている。盤石な政権基盤を持っていた竹下登は長期政権になると期待されていたのに、消費税を導入すると内閣支持率が下落し、そこにリクルート事件が重なって、わずか1年半で退陣した。橋本龍太郎は1997年4月に消費税を3%から5%に引き上げたが、翌1998年7月の参議院選挙で大敗を喫し、退陣を余儀なくされた。菅直人は2010年6月、参議院議員選挙の直前になって消費税を10%に引き上げると宣言し、案の定選挙で敗北した(菅直人の場合は、消費税だけが敗北の要因ではないと思うが)。

 いくら現在の野党が弱体化していると言っても、来年の参議院選挙で自民党が苦杯をなめるのは間違いない。改憲勢力3分の2を失うのは確実だろう。だとすると、それまでに改憲の国民投票を実施したいところである。問題は、国民はある政治家のことを個別の政策ごとに評価しないということである。本号で橋下徹氏が述べていたが、国民は政治家の性格を総合的に評価する(橋下徹「安倍さん、さあ憲法改正でしょ」)。国民は、「この人のこの政策は評価できるが、あの政策は評価できない」とは考えない。「あの人が言うことなら全て信用しよう。あの人が言うことなら全て信用しない」と考えるのである。よって、近い将来に消費増税という負債を国民に突きつけようとしている安倍晋三という政治家を、国民は信頼しない可能性がある。その時点で、安倍首相の改憲構想は頓挫する。だから、本当ならば、改憲は今年中にやっておくべきであった。それなのに、低レベルのモリカケ問題で1年間を空費してしまった。このツケは大きい。

 (2)皇位継承問題
 来年の新天皇即位と合わせて検討したいのが、皇位継承問題である。秋篠宮家に若宮がお生まれになったことで、皇位継承問題は棚上げ状態になっているが、1世代分時間稼ぎをしただけで問題の本質的な解決にはなっていない。民主党政権は一時期、女性天皇や女系天皇の議論をするべきだと言っていた。しかし、女性天皇と女系天皇は全くの別物である。

 今、天皇Aと皇后の間に、男の子と女の子がいらっしゃったとする。次の天皇の第一候補は男の子であるが、女の子が天皇になったとしよう。この天皇は天皇Aの血統に属する女性天皇であり、過去8方10代の例がある。次に、この女性天皇が一般の男性と結婚して男の子を授かり、この男の子が天皇になったとしよう。この場合、この男の子は天皇Aの血統には属さず、女性天皇の血統に属する天皇となる。よって、女系天皇と呼ばれる。皇室にあまり関心のない人だと、天皇家が途絶えないならば女系天皇でもいいではないかと言うかもしれない。だが、日本とは何かという議論を突き詰めていくと、究極的には「万世一系の男系の天皇が継承してきた国家」であり、これ以外にないのである。アメリカが建国の理念である自由と平等、中国が共産党を失えば国家を失うのと同様に、日本がこれを失えば国家を失うに等しい。

 では、なぜ男系にこだわるのか?これについては、竹田恒泰氏が別の号でこんな解説をしていた。男系天皇を維持するには外部から女性を、女系天皇を維持するためには外部から男性を招き入れる必要がある。ところが、男性の場合は、どんな危険な思想を持った人物が入ってくるか解らない。もちろん、皇室側でも慎重に身体検査はするものの、本人がそれを隠し通すことに成功してしまったら皇室としてはアウトである。その点、女性はそのような危険な思想に染まる危険性が低いので、男系天皇を選択しているというわけである。ここで一部のフェミニストは、男系天皇の考え方は、女性が自分で物事を判断する力がないという前提に立っているとヒステリックになるだろう。しかし、実際には逆である。女性の方が事理弁識においては男性よりもはるかに理性的であるととらえられているのである。

 本号で竹田氏は、一定数の男性後続を確保するために、旧宮家を活用する方法を提案している(竹田恒泰「旧宮家復活なくして日本の存続なし」)。旧宮家とは、終戦後に占領軍の圧力によって廃止された11の宮家を指す。旧宮家の男子は、終戦までは皇位継承資格を保持する皇族であった。現在でも、旧宮家には歴代天皇の男系の血筋を受け継ぐ者が多数いる。彼らを活用しない手はない。旧宮家を活用する方法とは、具体的に2つある。1つは、旧皇族一族から若干名を皇族に復帰させる方法である。もう1つは、現存の宮家が旧皇族一族から養子を取って宮家を存続させる方法である。現行の皇室典範では、皇族は養子を取ることができないため、皇室典範を改正する。同時に、旧皇族一族を復帰させる案については特別立法で進める。新天皇が即位するというタイミングだからこそ、前向きに検討したい課題である。

 (3)経済
 安倍首相は8月12日、山口県下関市で行われた長州「正論」懇話会5周年記念会で講演を行った(安倍晋三「憲法改正案 提出宣言 新聞が報じきれなかったその”全て”」)。その中で、「人口が減少するなかで、名目GDPは11.8%成長し、58兆円増加し、過去最高を記録しました」と述べている。具体的な期間が述べられていないが、2012年の名目GDPが495兆円、2018年の名目GDPが556兆円(予測、プラス61兆円)であるから、この期間、つまり自身の在任期間中のことを指していると思われる。だが、果たして安倍首相の在任期間中に、日本国内で何か新たな産業が生まれ、新たな消費が刺激されたであろうか?

 周知の通り、日本のGDPの6割を占める個人消費は、アベノミクスによって賃金が上昇しているにもかかわらず、一向に日本銀行のインフレ目標を達成することができていない。ついに、日銀は目標を引っ込めてしまった。これは消費増税の影響が大きい。

 だとすると、GDPを押し上げているのは個人消費以外ということになる。まず考えられるのが、企業による設備投資の増加である。2012年第4四半期には約72兆円であったが、2018年第2四半期には約91兆円と、約19兆円増加している。これは、国内の需要が拡大したからというよりも、異次元金融緩和によって円安になったため、海外生産が国内に回帰したと見るのが自然である。次に考えられるのは、その異次元金融緩和によって作り出された円安・株高、さらに近年の外国人観光客増による経常収支の増加である。2012年の経常収支は約6兆円であったのに対し、2018年の経常収支は約19兆円(予測)と、約13兆円増である。そして、GDPの増分を分析する上で見過ごせないのが、2016年から研究開発費がGDPに算入されるようになった点だ。これにより、約15兆円の研究開発費がGDPに加わった。単純にこの3つを足すだけで約47兆円の増加となり、名目GDPの増加分の大部分を説明することができてしまう。

 内需を拡大するには、イノベーションを起こさなければならない。だが、行政がイノベーションを主導すると、たいていロクなことにならない。行政は決められた事柄を決められた手順で実行し、絶対に成功させるのが仕事である。しかし、イノベーションは無秩序、実験、試行錯誤、失敗こそが本質であり、行政とは対極に位置する。よって、行政にイノベーションを任せることはできない。さらに日本の場合、行政が既存の大企業を集めてコンソーシアムを結成することが多いが、行政特有の「公正さ」を確保するという名目のために企業間の利害調整に時間が取られ、肝心の顧客や市場の方を見ていないという事態が往々にして起こる。

 私は、行政は口は出さずに金だけ出している方が無害だと考える。ただし、お金を出す先をもっとよく考えなければならない。安倍政権になってから空前の補助金バブルが到来し、中小企業向けの補助金が大幅に拡充された。その中でも最大規模なのが、安倍首相が演説の中でも言及しているものづくり補助金であり、平成24年度補正予算から平成29年度補正予算まで、6年間で約6,000億円、延べ8万6千社の中小企業に対して補助金が交付された。だが、ものづくり補助金の交付要領や公募要領を読めば解るのだが、この補助金は中小企業の新製品・サービス開発を支援するものであり、したがって波及効果が小さく、短期的なカンフル剤にすぎない。

 凡庸な結論になってしまうけれども、行政がお金を出すのであれば、大きな波及効果が見込まれる分野にお金を出すべきである。特定の製品・サービスに特化した企業よりも、様々な製品・サービスに転用可能な技術を研究する応用研究、さらには産業横断的に拡張可能な技術を研究する基礎研究に投資をしてほしい。経済産業省「日本の研究開発費総額の推移」によると、研究者1人あたりの研究費は、日本はアメリカやドイツに大きく差をつけられている上に、OECD平均を下回っている。また、主要国の研究開発費の政府負担割合を見ると、多くの国が2~3割台であるのに対し、日本は1割台にとどまる。

 もちろん、どの研究が将来的に大きな波及効果を実現できるかを事前に見極めることなど、ほとんど誰にもできない。日本の行政は無謬性へのこだわりが人一倍強いので、よく解らない分野への投資を控えるに違いない。しかし、どれがものになるか解らないからこそ、幅広く投資する姿勢が重要であると考える。ある研究によると、1,000億円の予算があった場合、10のプロジェクトに100億円ずつ投資するよりも、1,000のプロジェクトに1億円ずつ投資した方が、ノーベル賞を輩出する確率が上がるという。安倍首相の任期中に基礎・応用研究への投資が実を結ぶことは考えにくいが、投資の仕方を変えることは可能なはずである。

 せっかくイノベーションによって新しい産業が生まれても、それを購入する顧客がいなければ意味がない。つまり、国民の所得が上がらなければ意味がない。安倍首相は経済界に対して毎年賃上げを要求している。演説の中では、中小企業にも賃上げが波及していると述べている部分もあった。しかし、国民の消費は、消費増税の影響もあって伸び悩んでいる。国民は、賃上げは安倍首相が政権に就いている間の暫定策であり、政権が変わればまた賃金が減少するのではないかとおびえている。だから、思い切った消費に踏み切ることができない。

 私は、アメリカ経営を無条件に礼賛して、成果主義や雇用の柔軟化などを政権に提言してきた経団連の意見など蹴り飛ばして、日本経営のよさであった年功制を復活させるように企業に強く迫るべきだと考える。以前の記事「【戦略的思考】企業の目的、戦略立案プロセス、遵守すべきルールについての一考察」でも書いたように、企業の第一目的は顧客の創造であるが、その目的を達成するためにいくつかのルールを守らなければならない。社員が加齢とともに増加する生活費を賄えるだけの給与を支払うこともルールの1つである。ルールを無視して、顧客の創造という目的だけ達成するのは、スポーツでルール違反を犯して1位を狙うようなものである。それらのルールを守りながら、顧客を創造し、かつ将来の投資に回すための利益を残すようなビジネスの仕組みを構想することが経営陣の仕事である。利益が減るからという理由で、生活費の高い中高年社員の給与をカットするなどというのは、経営IQの低さを露呈している。

 (続く)

2018年08月24日

『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)


月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]
正論編集部

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 本号の後半に「私が選ぶ戦後リベラル砦の『三悪人』」という特集があり、武田邦彦氏、西尾幹二氏、屋山太郎氏ら10人が3人ずつ戦後のリベラルを挙げて、その主張を批判していた。

 ただ、この「リベラル」という言葉は曲者である。八木秀次氏が解説しているように、欧州においては、伝統的にはリベラルと言えば自由主義のことであり、実は保守主義と親和性が高い。無制限な自由ではなく、秩序や伝統に裏づけられた自由を意味する。一方、アメリカのリベラルは、大きな政府を求め、自由よりも平等や多様性を重視する。いわゆる左派の主張である。日本のリベラルはアメリカの考えに近いが、元々の社会主義・共産主義を引きずった変種である。

 稚拙ながら、私なりにリベラルの概念を、私の大好きな(苦笑)マトリクス図で整理してみた。「大きな政府を重視するか、小さな政府を重視するか?」と「自由を重視するか、平等を重視するか?」という2軸でマトリクスを作成すると、4つのタイプに分けられる。

リベラリズム

 まず、右上は「小さな政府と平等を重視する」社会主義・全体主義である(私は両者を同一視している)。正確に言えば、社会主義は究極的には世界共同体の実現を目指すから、政府すら不要とする。本ブログで何度も書いてきたが、その起源は啓蒙主義に求められる。啓蒙主義時代には理神論という考え方が登場した。唯一絶対の神は世界の創造には携わる反面、その後のことは人間の理性に任せるというものである。中世までは、普遍的なものというと神の世界、つまりあちら側の世界にあったのに対し、近代の理神論によって、普遍的なものはこちら側の世界に移行した。これは、人間が神と同じく完全無欠な理性を持つことを意味する。

 誰もが神と同じ理性を持つのだから、人々は皆同じ、平等である。1人が全体に等しい。よって、私有財産は否定され、財産は全人類の共有となる。また、政治的な意思決定に関しても、全世界中の人が完全な理性に従って同じ考えを持っているわけであり、民主主義であっても独裁であっても同じ結果になる。人間の理性は生まれながらにして完成していると考えられるため、その理性に立脚する社会も既に完成しているものとされる。したがって、人間が自由を発揮して社会を改変するという余地はほとんどない。この点で、自由よりも平等の方が重視されていると言える。これが、私の考える社会主義・全体主義である。

 生まれた時点で理性が完成しているという立場は、教育による知性の進展を否定する。だから、社会主義国家ではしばしば知識人・教育層が迫害・虐殺される。生まれた時点での理性を完成形と見る場合、一番劣っている理性であっても完成していると認めなければならない。そして、そういう理性を持つ人間にできる仕事と言えば、原始的で素朴な農業である。だから、武者小路実篤は「新しき村」という農業共産社会を作ったし、ソ連ではソフホーズ(国営農場)とコルホーズ(集団農場)が設置され、戦後の中国では毛沢東が大躍進政策を展開した。しかし、新しき村の構想は結局ユートピアに終わり、ソ連の政策は多数の農民を生活苦に陥れ、中国の大躍進政策では3,000万~4,000万人もの餓死者を出した。

 ソ連や中国の共産主義者を焦らせたのは、自国が人間の理性の絶対性を信じ、社会主義の理想を実現しているはずなのに、アメリカなどならず者の資本主義国が技術で自国を追い抜いているという現実であった。だから、ソ連や中国は、多くの国民を農業に張りつけておいて、彼らを搾取し、得られた利益を科学技術に投資するという矛盾した行動を取るようになった。こうした矛盾は、社会主義の発展段階説でより正当化されたように思える。発展段階説によれば、社会は原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒封建制社会⇒絶対主義⇒ブルジョア革命⇒近代資本主義社会⇒プロレタリア革命⇒共産主義社会⇒社会主義社会へと順番に発展する。社会主義と言えば、既に見たように本質的には原始共産社会であるものの、途中から科学技術の発展を含めて真の社会主義国家を樹立しようという方針に転換されたと考えられる。

 もう1つ、社会主義者を悩ませた矛盾が、寿命という問題である。創造主の神には寿命はないが、実際の人間には寿命がある。だが、元々、人間が生まれた時点で理性も社会も完成しているという立場に立てば、時間の流れというものはあり得ないことになる。過去も未来も存在しない。あるのは現在だけである。そして、現在というのは一瞬にすぎないから、人間は早く死ぬべきという歪な結論が導かれる。ただし、生と死は連環していて、死んだ後直ちに再び生を受けてこの世に誕生する。そして、発展段階説に沿った理想的な社会主義社会を実現するために、永遠に革命を繰り返す。これが、ニーチェの言う永遠回帰である。

 右下は「大きな政府と平等を重視する」福祉国家であり、北欧に多く見られる。社会主義・全体主義においては、最も能力が劣る者に他の人間を合わせるという形で平等が実現されるのに対し、福祉国家では、持てる者から持たざる者へと富の再配分が行われることで平等が実現されるという違いがある。富の再配分は非常に複雑なプロセスであるため、その営みを担う政府は必然的に大きくなる。また、せっかく自由に働いて多くの富を得ても、再配分によってその富の大半を政府に取られてしまうことを考えると、自由は平等よりも劣位に置かれていると言える。

 本号の特集で興味深かったのは、山口真由氏と屋山太郎氏がともに田中角栄をリベラルの悪人として挙げていることである(山口氏はさらに、田中角栄をモデルとして公共事業を展開した竹下登をリベラルの悪人としている。また、八幡和郎氏は、田中角栄の弟子である小沢一郎氏をリベラルの悪人に挙げている)。つまり、自民党と言えども、リベラルとは無縁ではないのだ。田中角栄は、自身がまとめた「日本列島改造計画」に従って、日本全土に金をばらまき、各地で大規模な公共工事を行った。これも一種の再配分政策であると言える。だが、金の集まる権力は必ず腐敗するというのが古代からの政治の鉄則である。田中角栄も例外ではなかった。

 この点、巨額の資金の再配分を行っている北欧諸国が、いずれも「腐敗認識指数ランキング」で上位に入っているのは不思議である。2015年のランキングを見ると、デンマークが1位、フィンランドが2位、スウェーデンが3位、ノルウェーが5位である(ちなみに、日本は18位である)。なぜ、田中角栄は腐敗したのに、北欧諸国は腐敗しないのだろうか?人間の理性は不完全であり、失敗もするし私欲にも溺れると考える日本人と、啓蒙主義を経験したヨーロッパ人との違いで説明するのはあまりに粗雑であろう。なぜなら、同じように啓蒙主義にルーツを持つ社会主義国家では、中国やベトナムを見れば解るように、権力がひどく腐敗しているからである。

 左上は「小さな政府と自由を重視する」という象限であり、アメリカでは1990年代から、日本では2000年代に入ってから有力となったネオリベラリズムを指す。企業はグローバル化を進め、世界中で利益を上げる。それが可能な大企業と、それができないドメスティックな中小企業の間では、業績に大きな格差が生じる。その結果、国民の間の貧富の差が拡大する。グローバル企業は、国家に対して企業活動を邪魔しないでくれと言う。工場は人件費が安い国に移す。税金も、税率が安い国で納める。ここにおいて、グローバリズムとナショナリズムは対立する。

 ただ、私は最近この流れに変化を感じている。グローバリゼーションと言っても、カントが描いたような世界平和の実現を目指しているわけではない。ある国に本社を置く企業が、自社の事業や製品・サービスを全世界で受け入れてもらえるようにすることがグローバリゼーションである。よって、グローバル企業は、本社を置く国家による支援を必要とするようになっている。政府に対しては過度な機能を期待していないものの、自社の世界展開を後押しする政治力は要求している。つまり、グローバリズムとナショナリズムは手を結ぶようになった。

 最後に、左下の「大きな政府と自由を重視する」のが伝統的な(欧州的な)リベラリズムである。日本が理想とするべきも、右下ではなくこの象限である。この象限では、人々の自由な発想による多様性が尊重される。これは、自然の生態系に最もよくかなった形態である。自然の生態系は多様であるから、環境変化が起きても、生物が全滅することはない。一部の生物が生き残り、そこから新たな進化によって枝分かれが生じ、再び多様性が確保される。こうして、地球全体として見れば、生物の種が保存される。右上の社会主義・全体主義のように、誰もが皆同じ理性に従って同じ考え方をしていると、外圧によって全滅するリスクがある。社会主義・全体主義は理論としては美しいのかもしれないが、生存可能性という点では落第である。

 多様な価値観は時に衝突する。その時は、まずは話し合う。「話し合い」と言うと、左派の人はすぐに「対話」という言葉を持ち出す。対話という言葉は、自分の怒りを抑えて冷静になり、相手の立場を慮って相手の考えを汲み取り、自分の考えと相手の考えを十分に擦り合わせてお互いの利益ができるだけ最大になるような道を探るべきだというソフトな印象を与える。もちろん、それができるに越したことはない。だが、現実の世界はそんなに甘くない。時には権謀術数を駆使しなければならない。誘惑、媚び諂い、あるいは威嚇、恫喝、脅迫、取引など、人間の醜い面も出る。それも含めて話し合いなのである。多様な利害が衝突する政治の世界では、こうしたことが常態化している。だから、一般人も伝統的なリベラリズムに生きるならば、こうした精神的ストレスのかかる方法に対する耐性を身につける必要がある。

 それでも考え方が合わなければ、その相手とはすっぱり縁を切ればよい。自分は認めることができないけれども、そういう考えもあるのだなという程度で収めておけばよい。右上の社会主義・全体主義では、1人が全体に等しいから、他者との関係を切ることは絶対にできない。しかし、左下の伝統的なリベラリズムでは縁切りが認められる(実際、日本には縁切り神社や縁切り寺がある)。相容れない主張も全部ひっくるめて、社会全体としては多様性を許容するのが伝統的なリベラリズムである。こうしたリベラリズムは共和制でも実現可能である。日本の場合は、「和」を象徴とする天皇を国家の戴に置くことで、伝統的なリベラリズムを表現している。

 もちろん、相手と縁を切ろうとしているのに、相手が物理的に自分を攻撃しようとしてくることもあるだろう。これは社会の安定を保つために何としてでも防がなければならない。そこで、法が必要となる。左下の象限で政府が大きくなるのは、こうした種々の法律を制定・運用する機構(立法府や行政府)を持たなければならないからである。

 一般的に左派と言えば、人々の格差を敬遠し平等を重視するか、国家権力を嫌い小さな政府を重視するかのどちらか、あるいはその両方である。よって、上記のマトリクス図のうち、左下を除く3つの象限が左派にあたる。昔、小泉純一郎政権は左派だと指摘した知り合いの中小企業診断士がいたが、彼の主張は今になって理解することができる。最近、小泉氏が突然脱原発派に転じたのは、小泉氏が本来的には左派であり、環境問題という外部不経済を再配分によって解決しようとする福祉国家とも親和性が高いと考えれば納得がいく。右派はわずかに左下に残るだけであり、政治思想的に見るとかなり分が悪い。

 ただし、右派は左派と完全に対立するべきでもない。右上の社会主義・全体主義は破壊的な思想なので除外するとしても、福祉国家とネオリベラリズムからは学ぶことができることもある。福祉国家は、強者から弱者へと富を再配分するために、膨大な法を策定している。伝統的なリベラリズムも法を策定するものの、元々人間の理性は不完全であるという前提に立っているため、法律も不完全である可能性がある。つまり、弱者を強者から守る法が不十分であるかもしれない。その時には、福祉国家が望ましい法律のあり方を教えてくれる。

 とはいえ、福祉国家に倣って法律を無制限に増やしていくと、政府の役割があまりにも大きくなりすぎる恐れがある。また、福祉国家の法律は平等を原則としているため、杓子定規に平等原則を貫けば、伝統的なリベラリズムにおける自由が制約されてしまう。そこで、ネオリベラリズムの出番である。ネオリベラリズムは小さな政府を志向しており、不要な法律は規制改革の名の下に葬り去る。伝統的なリベラリズムが抱えている法律について、自由に干渉しすぎる法律はどれなのか、ネオリベラリズムに指摘してもらうとよい。このようにして、右派=伝統的なリベラリズムは、左派(ただし、社会主義・全体主義を除く)と協調関係を築くことができるだろう。




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