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『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい
『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について
『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年09月28日

『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい


世界 2018年 10 月号 [雑誌]世界 2018年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-09-07

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 反原発、反辺野古の特集である。原発に関しては、2008年3月の段階で、地震調査研究推進本部が長期評価によって、15m級の津波が福島原発を襲う可能性があることを指摘していたにもかかわらず、当時の東京電力の経営陣が土木学会にさらなる検証を求めるとともに、2009年6月末に設定されていた保安院のバックチェック(このチェックを通らないと原発の稼働を継続できない)の締め切りを骨抜きにするために、保安院や原子力安全委員会に圧力をかけていたという記事があった(海渡雄一「原発事故の責任は明らかにされつつある」)。

 また、辺野古基地についても、まず活断層があるため、基地には適さないという主張がある。さらに、ケーソン護岸(防波堤のこと)を建設する地盤が極めて脆弱で、仮に基礎地盤改良工事やケーソン護岸の構造変更が必要になると、これは埋立承認願書の「設計の概要」の変更に該当するから、公有水面埋立法に基づく知事の承認が条件となり、知事がNOと言えばその時点で工事は頓挫するという(北上田毅「マヨネーズなみの地盤の上に軍事基地?」)

 本ブログでこれまでも書いてきたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチするならば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」となる。下の階層は上の階層に唯々諾々と従うのではなく、しばしば上の階層に対して諫言することが許される。決して、上の階層を打倒するのが目的ではなく、上の階層の仕事を充実させ、もって下の階層の自由や裁量を拡大することが目的である。これを私は、カギ括弧つきの「下剋上」と呼んでいる。「下剋上」がある場合、最上位の階層の権力が最下層の隅々にまで、何の疑いもなく行き渡るということはない。「下剋上」によって、階層社会の各所で絶妙な調整がなされる。個別に見れば部分最適にすぎないのだが、それらが集合すると社会全体が漸次的に進歩する。これが日本社会の特徴であり、私は権力主義と区別して、「穏健な権威主義」と命名する。

 これが日本国内で完結していれば問題ないのだが、アメリカが絡んでくると話が違ってくる。アメリカは神よりも上位に位置づけられる。そして、アメリカが最上位で絶対的な権力を握っている場合は、「下剋上」は機能しなくなる。「辺野古基地移転は唯一の解である」、「原発再稼働は唯一の解である」(これは自民党ではなく、旧民主党の野田元首相の言葉である)という言説の裏には、アメリカから強い圧力を受けて思考停止に陥っている日本人の姿がある。

 米軍基地に関してはアメリカの意向が強く働いていることは容易に想像がつく。原発については色々と言われていて、

 ①公的には核兵器を持たないことを表明している日本は、非核国家の中で最大量の分離プルトニウムを抱え込んでいるが、仮に原発停止にもかかわらず六ケ所処理工場で使用済み核燃料の再処理を続ければ、世界中の核開発能力のある国々に誤ったメッセージ(「日本は秘密裏に核兵器を開発しているのではないか?」という疑念)を送ることになる。

 ②日本がもし原電を放棄すれば、日立製作所―GE、東芝―ウエスティングハウス連合によって支えられているアメリカの原子力産業が原発を世界中に輸出するという計画に狂いが生じ、近年原発の開発に注力し、アジアやアフリカに原発を輸出しまくろうとしている中国やロシアの原子力技術すなわち核技術が、いずれ日本やフランスを抜くことを危惧している。

 ③とはいえ、世界的に軍縮と核兵器廃絶が進行している現在では、核の平和的利用である原発を積極的に推進する理由がなく、IAEA(「アメリカの犬」と言われている)は原発を普及させながら核不拡散のための監視体制を強化するという難事業を抱え込んでおり、そのために多大な資金を必要としている。一方で、当のアメリカでは、シェールガス革命と再生可能エネルギーの普及、廃棄物処理計画の見直しと規制基準の刷新という節目を迎え、稼働中の原発以外は凍結状態で今後は尻すぼみが予想され、GEは既に主力を火力と再生可能エネルギーに切り替えた(東芝と組んだウエスティングハウスは経営が崩壊していたのは周知の通り)。そこで、IAEAの資金源として期待されているのが、日本の原発による電気料金である。まず、日本の原発ムラが電気料金を吸い上げ、それを世界の原発マフィアが吸い上げる。

などといった形でアメリカからの圧力を受けている。

 辺野古基地は、中国が虎視眈々と狙っている尖閣諸島を含む第一列島線を防衛するための基地である。中国は、尖閣諸島の奪取時期について、2020年まで、または2020年から10年の間、あるいは2035年から2040年代にかけて、といくつかの目標を立てている。一方、米海兵隊が「航空計画2016」の中で示した辺野古基地の主要施設の工程によると、滑走路着工が2024年度とされる一方で、2026年度以降の計画は明らかではない。住民による反対運動、先ほど一例として挙げたケーソン護岸の設計上の問題などによって、計画から少なくとも3年は遅れていると言われる。だが、米海兵隊の計画の中で、普天間基地の返還が2025年度以降となっている点を見ると、2020年代後半には辺野古基地を完成させたいところだろう。

 仮に中国が2020年までに尖閣諸島を奪取するのであれば、アメリカは日本の尻を叩いて、尖閣諸島の防衛には使えない基地を一生懸命建設しているという非常にバカバカしい話になる。では、中国が2020年から10年の間に奪取する計画であるとすると、アメリカ側も辺野古基地の完成時期を2020年代後半と見ているわけで、攻撃と防御の時期がほぼ一致する(※1)。これではまるで八百長試合である。なお、最後の2035年から2040年代にかけて奪取するというプランであるが、中国の最終目標は、建国100年にあたる2049年までに世界の覇権を取り、アメリカを第二列島線より東側に閉じ込め、太平洋をアメリカと中国で二分することである。尖閣諸島は中国が太平洋に進出するための第一歩であるが、その第一歩が2035年から2040年代では、絶対に最終目標に間に合わない。よって、3番目の計画は現実味がないと考える。

 (※1)中国が尖閣諸島を奪取するのは2020年からの10年間と予測するのは、この後にも出てくるアメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」である。同シンクタンクが発表した報告書には、「共産党政権取得100周年の2049年は1つの節目。2030年からは約20年の時間がある。20年間も経てば、国際社会からの非難が弱まるだろう」と中国の声を代弁しており、中国は最も遅くても2030年には尖閣諸島を奪取したいと考えているようである。ということは、尖閣諸島奪取の現実的な目標時期は2020年代後半に設定されている可能性が高い。

 要するに、中国には本気で尖閣諸島を奪取する気がないのではないかというのが最近の私の考えである。そもそも、もしも中国が真剣にアメリカから覇権を奪い取る気であれば、「100年戦略」の中身をマイケル・ピルズベリーに『China 2049』ですっぱ抜かれたり、アメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」によって、中国が台湾に侵攻する時期(2020年まで)や尖閣諸島を奪取する時期(2020年からの10年間)を特定されたりはしないだろう。普通は、そういう情報は何が何でも絶対に秘密にし、裏で軍事力を拡充して、ある日突然アメリカに攻撃を仕掛ける。秘密情報をリークしそうな人物や組織があれば、中国が国家の威信にかけて全力で潰すものである。ところが、今の中国がやっているのはそれとは逆であり、当然のことながらアメリカは対抗策を講じてくる。言い換えれば、中国がやっているのはアメリカとのプロレスである。

 もう少し具体的に言えば、本ブログでも何度か書いたように、二項対立的な関係にある2つの大国は、本当に武力衝突をすると壊滅的な被害を被るため、それを避けるためのメカニズムを持っている。すなわち、2つの大国が二項対立の関係にあると同時に、それぞれの大国の内部にも二項対立が存在する。アメリカは反中派と親中派、中国は反米派と親米派を抱えている。表向きは反中派と反米派が激しく争っているものの、実は裏では親中派と親米派が手を握っている。これにより、両大国が正面衝突するリスクを下げている。

 辺野古基地について言えば、表向きはアメリカの反中派がその建設を進め、中国の反米派が沖縄の市民を動かして建設に反対しているという構図である。しかし、ここからは大胆な推測だが、実は既に親中派と親米派の間で何らかの約束が結ばれているのではないかと考える。それは、アメリカが中国に対して、「東シナ海は中国にやる。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれないし、中国がアメリカに対して、「尖閣諸島は取らない。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれない(「何かよこせ」の「何か」が具体的に何であるかは、私の想像力不足ゆえに書くことができない)。重要なのは、いずれの約束が成立した場合であっても、辺野古基地はもはや中国を刺激することはできないということである。したがって、辺野古基地は、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための一中継地点という位置づけに変質する(※2)。

 (※2)普天間基地から辺野古基地に移設されるのは海兵隊のみであり、私が本記事で予測したのとは違って、やはり中国が本当に尖閣諸島を狙ってくる場合、辺野古基地の海兵隊は動かず、尖閣諸島を防衛するのは海上自衛隊の役割であるという指摘がある。一方で、辺野古基地は普天間基地の代替滑走路に加えて、弾薬庫や大型港湾施設、弾薬搭載エリアを有しており、普天間基地からの機能縮小どころか機能拡大になっているとも言われる。それゆえ、翁長前沖縄県知事は、辺野古基地のことを辺野古”新”基地と呼んだ。

 「原発再稼働は唯一の解である」という言説に対しては、再生可能エネルギーや水素エネルギーといった新たなエネルギーが提示されている。前述の通り、日本に対して原発を維持するよう圧力をかけているアメリカ国内ですら、再生可能エネルギーが推進されている。再生可能エネルギー、すなわち太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマスなどを資源をとするエネルギー、さらに水素エネルギーのうち、どれが次世代の主役になるのかは、現時点では全く見えていない。これも私の大胆な予測なのだが、実は次世代エネルギーの柱となるのは、これらのうちいずれでもない可能性があるということである。

 歴史を振り返ってみると、人類は何度かエネルギー革命を経験している。最も古いのは今から約50万年前の火の発見である。約5,000年前には、火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった。紀元前後から1800年頃までは薪炭や風力がエネルギーとして用いられた。その後19世紀頃には石炭がこれに取って代わり、20世紀に入ると石油エネルギーが中心となった。ポイントは、新しいエネルギーが広まる時には、必ずそのエネルギーを大量に使用する新しい技術の発明が伴っている、ということである。これはとりわけ19世紀以降に顕著である。石炭エネルギーが広まったのは蒸気機関の発明のおかげである。石油エネルギーが広まったのはエンジンの発明のおかげである(四国電力「エネルギー年表―エネルギー利用の歴史―エネルギーを考えよう―キッズ・ミュージアム―」を参考にした)。

 再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを消費する新技術としては、電気自動車(EV)や燃料電池自動車(FCV)が候補として挙げられる。しかし、ガソリン自動車がEVやFCVに代わったところで、消費されるエネルギー量は新興国における自動車の普及スピードに依存しており、爆発的な増加は見込めない。アメリカは、再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを大量に消費する新技術の開発を進めている最中なのかもしれない。もしくは、再生可能エネルギー、水素エネルギーとは全く異なる新しいエネルギーを模索しているのかもしれない。いずれにせよ、アメリカは前述の①~③とは別の理由で、こうした取り組みの成果が出るまでは、日本人の目を原発に釘づけにしておこうとしているとも考えられる。

 これを日本側から見れば、自国の防衛にとって何の利益にもならず、下手をすれば安保法制によって基地から世界各地へと出向く米軍の後方支援をしなければならないかもしれない辺野古基地と、ランニングコストや事故リスクが非常に高いにもかかわらず、将来何らかのエネルギーによって一気に取って代わられる可能性が高い原発を抱え込むことになる。こうした動きに反対するには、2つの方法を想定することができる。

 1つは、原発推進派、辺野古基地移設容認派の国会議員を輩出している地域で反対デモや集会を展開することである。現在、反原発派、反辺野古派の人々は、その原発がある地域や辺野古基地周辺で反対運動を行っている。しかし、こうした局部的な動きは、アメリカを絶対視するその地域の行政によって簡単に封じ込められる。それに、反対運動を取り上げるのは地方のマスコミのみであり、他地域の国民がその動きを知る機会はない。

 多くの国会議員はHP上で自身の政策を説明しているが、実は原発や辺野古基地に関しては明言を避けている。軍事オタクと呼ばれる石破茂氏ですら、HPでは辺野古基地には一切言及していない。となると、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを知る手がかりは、国会議事録に求められる。それぞれの国会議員の発言を分析し、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを特定する。そして、彼らの選挙区に乗り込み、そこで反対運動を行う。反対運動は、できるだけ全国各地に散らばるようにする。すると、各地のメディアが注目し、やがて全国メディアが取り扱ってくれる可能性が出てくる(ただし、原発に関しては、メディアの収益源が電力会社の広告料であるから、反原発運動には触れないかもしれない)。

 原発が立地する地域や沖縄からやってきた反対派に、全国各地の国民は戸惑い、反対派と軋轢を起こすに違いない。全国各地で混乱が起き、自治体が動揺すると、政府も黙ってはいられない。政府が混乱を収拾することができなければ、内閣支持率が低下し、内閣は総辞職に追い込まれる。新しく選ばれた首相はこの時点で国民の審判を受けていないため、野党から早期の衆議院解散総選挙を求められる。しかし、与党に対して不信感を募らせている国民は与党に投票せず、政権交代が実現する。新しい内閣は、反原発、反辺野古を掲げる。

 ただ、悲しいかな、政権が代わったところで、アメリカを最上位に頂いた瞬間に思考停止するのは、どの政治家であっても同じである。旧民主党の野田元首相も、原発ゼロを閣議決定したのに、アメリカの圧力に屈してあっさりと撤回した。だから、「原発再稼働は唯一の解である」と言ってしまった。したがって、このアプローチは労力の割に得られるものがほとんどない。

 アメリカを動かすにはもう1つのアプローチを使うしかない。それは、国連を使うことである。国連人権委員会で人権の救済を訴えることである。翁長前沖縄県知事は国連人権委員会で何度か演説を行っており、2015年9月に行われた演説が、「基地建設反対運動の正義」(星野英一)の中で紹介されていた。国連人権委員会は世界中の様々な人権問題を扱っているため、演説者に許される時間は1分程度と非常に短い。この1分の間に、具体的にどのような人権が侵害されているのかを訴求しなければならない。記事を読む限り、2015年9月の翁長前知事の演説はこの点が弱い気がした。裁判所に対して、「この人は法律違反だから裁いてください」とお願いするようなものであり、これでは裁判所も相手にしてくれない。相手の何がどういう法律のどの条文に違反するのかを明確にすることで初めて、裁判所は動くことができる。

 先に述べたように、仮に辺野古基地が対中戦略から外れて、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための拠点としての機能を持つものだとすれば、沖縄の人々は自然とアメリカの戦争・紛争に関与していることになる。そこで、「他国の紛争に加担しない権利」があると主張し、2016年11月に採択された「平和への権利」と紐づけるというアプローチが考えられるだろう。原発に関しては、「平穏に生活する権利」、「自然を享受する権利」などが侵害されていると訴求する。前者は憲法13条の幸福追求権から導かれる人格権の一部に該当するとされ、また後者は北欧に古くからある慣習法である。そして、次のエネルギー革命を待たずとも、”つなぎ”のエネルギーでもよいから、原子力から別のエネルギーへと移行する世界的な流れを作っていく。

 ここで重要なのは、実は1分間の演説そのものではなく、事前・事後の根回しである。慰安婦問題が国連人権委員会でこれほどまでに盛んに取り上げられるようになったのは、NGOなどが国連関係者に対し、長期にわたって相当粘り強く根回しをしたからである。慰安婦問題を扱うNGOが国連関係者を何度も訪れるだけの資金をどうやって集めたのかは不思議である。ただ、反原発や反辺野古の方が賛同者は多いはずであり、それだけ資金集めもしやすいであろう。反辺野古に関しては、「辺野古基金」なるものが存在しており、これまでに7億円近い資金を集めたようだから、その一部を国連関係者向けの活動費に回せばよい。

2018年08月31日

『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について


世界 2018年 09 月号 [雑誌]世界 2018年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-08-08

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 (1)以前の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、私の軟な政治観を披露してしまったが、今回も再び、まだ考えが十分に煮詰まっていないことを承知の上で記事を書きたいと思う。古代より、国際政治は同盟関係を中心に組み立てられてきた。同盟は、同盟関係を結ぶ同士が同じ仮想敵国を想定していることが前提である。だが、現在の国際政治は多元的であり、大国も小国もくっついたり離れたりを繰り返している。仮想敵国は固定的ではない。よって、古典的な同盟の意味は再考を迫られていると感じる。

 日米同盟も例外ではない。確かに、戦後の日本は日米同盟のおかげで平和と繁栄を享受することができた。しかし、その反面、失ったものも多い。私は本ブログでしばしば日本の多重階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」とラフスケッチし、下の階層が上の階層に対して「下剋上」できることが日本人の美徳であると書いてきた(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などを参照)。ところが、戦後の日本では神の上にアメリカがどっぷりと座り込み、日本はアメリカに対して「下剋上」をすることができなかった。

 まず、日本国憲法を制定する段階で、日本の封じ込め策の1つとして、戦力を放棄させられた(その後、自衛権だけは認められたが)。平和憲法については、幣原喜重郎が草案を作成していたとか、明治時代から続く中江兆民、植木枝盛、三浦銕太郎、石橋湛山、高野岩三郎、鈴木安蔵の平和主義や小国主義の思想が発露したものであるとか言われるが、一般的にはマッカーサーが示した第2原則に従ったものと理解されている。その後、アメリカの自由主義的な教育が流入し、日本の道徳や倫理観が崩壊した。日本人は、周囲の人々とのかかわり、公共性の中で自己を形成するという価値観を持っていたのに、アメリカから入ってきたのは、まずは自分自身を確立するという個人主義であった。その結果、日本の伝統であった共同体や相互扶助の精神は失われ、自分さえよければよいという歪んだ自己崇拝が趨勢を占めるようになった。

 経済に関しても、アメリカの介入は露骨であった。もちろん、戦後の日本が製造業を中心に急成長を遂げたのは、アメリカが1ドル=360円という超円安で長年据え置いてくれたからという一面もある。だが、その円安を背景とした日本のアメリカに対する輸出増が問題になると、アメリカは日本企業に対し、アメリカでの現地生産・アメリカ人雇用を強制し始めた。その内容は「前川レポート」としてまとめられている。さらに、これに飽き足らないアメリカは、日米構造問題会議という名の日本の経済構造を矯正することを目的とした会議で、郊外の公共工事にアメリカ企業を参加させることを要求した。これによって郊外まで道路が伸びた結果、郊外に大型のショッピングセンターが乱立し、中心地の商店街は衰退した。21世紀の話で言えば、アメリカは郵政民営化を裏で操り、日本郵政の株式を大量に売買して、多額のキャピタルゲインを獲得した。

 アメリカは経営にも大きな影響力を及ぼしている。アメリカのSOX法が日本に流入しJ-SOX法が制定され、企業の内部統制が強化されたが、これによって、日本企業の経営は社員同士の信頼をベースとするものから、社員間の不信を前提とするものに変質してしまった。さらに近年では、コーポレートガバナンス改革の一環としてスチュワードシップ・コードが導入されている。これは、顧客をはじめ、社員、取引先など多様なステークホルダーの利害のバランスを重視する日本の伝統的な経営慣行を蹴散らし、株主至上主義へと塗り替えるものである。

 対中戦略という意味では、中国が太平洋に進出するルート上に存在する沖縄県に米軍基地を集中させるのが論理的にはベストだろう。しかし、日本という国は、「論理的に考えるとその通りだが、現実を踏まえるとこういう風に変えないといけないよね」といった具合に、論理と情理の両方を重んじる国である。だから、情理に基づいて沖縄県以外の選択肢も検討するべきであった。しかし、果たして日本はアメリカに対して「下剋上」をしただろうか?政府は、普天間基地の辺野古移設をめぐって、「辺野古は唯一の解である」と繰り返している。国防は国家機密であるから、国民がその検討過程をつぶさに知ることは不可能である。この辺野古という解が、論理と情理のバランスを通じ、アメリカとの主体的な協議の結果導き出されたものであれば解る。しかし、実際には、単にアメリカにそう言わされているだけのような気がしてならない。

 2015年に成立した安保法制も、表向きは集団的自衛権を認めたものとされているが、法律の文言を厳密に読めば個別的自衛権に毛の生えた程度であり、日本の防衛力がちょっと上がったぐらいにしか私はとらえていない。それよりも問題なのは、どさくさに紛れて、条文が拡大解釈され、アメリカが戦争をしている国に自衛隊が後方支援で出向くことができるようになった点である。アメリカが中東で戦争をしていても、アメリカに対する脅威がやがては日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使する対象となるという理屈である。そんなことを言えば、これだけグローバル化が進んだ世界では世界のどこかの脅威は何らかの形で日本の脅威になるのだから、自衛隊の出動範囲は無限に広がってしまう。アメリカが世界のどこで戦争をしようと勝手だが、それにいちいちつき合わされる自衛隊はたまったものではない。日本には日本なりの国際貢献の考え方と方法があるのであり、それをアメリカに蹂躙される筋合いはない。

 現在、アメリカと中国は東シナ海、南シナ海をめぐって対立を深めている。日本とアメリカが日米同盟に基づいて合同軍事演習を行うほど、中国は態度を硬化させている。日本がアメリカに近づくとかえって中国の怒りを買うというのは、かつての民主党政権末期にも見られた現象である。日米同盟があるから第一列島線が守られているという見方が成立すると同時に、日米同盟があるがゆえに中国が意地になって第一列島線を破ろうと躍起になっていると言えなくもない。以前、「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」という記事を書いた。米中の軍事力は未だ非対称であり、今後もしばらくは軍拡競争が続くだろう。だが、どこかのタイミングで対話のフェーズへと移行する必要がある。

 サミュエル・ハンチントンは、文明が衝突する時戦争が起きると書いた。しかし、現在の大国は大きすぎて簡単には戦争ができないと思う。あのアメリカとロシアでさえ、最後まで戦火を交えることはなかった。冒頭で紹介した記事でも書いたように、大国同士はお互いが対立して壊滅的な被害を受けないよう、近隣の小国を巻き込んで代理戦争をさせようとする。南シナ海に関しては、中国はASEAN諸国をアメリカ側と中国側に分断してアメリカ側の日本と対立させ、小国同士の小競り合いへと持ち込んで、その隙に南シナ海を奪おうとするだろう。現に、中国はメコン川に有害物質を流すと脅して、メコン川が流れるタイ、カンボジア、ラオスを中国側に引き込んでいる(東シナ海については、おそらく将来的に朝鮮半島に誕生する反日統一国家を使って日本と対立させ、その隙に第一列島線まで進出しようとするに違いない)。

 だから、冒頭に掲載した記事が示唆するように、日本は大国の思惑を回避し、神経分裂症的な外交でASEANと混じり合い、連携し、ちゃんぽん戦略を展開して、中国に対し小国なりの独自の価値を訴求しなければならない。このように書くと、「中国に南シナ海を取られた上に、さらに中国を利するのか」という批判が起こりそうである。しかし、今解っているのは、中国と対立するとかえって中国の敵愾心を煽るだけだということである。それならば、いっそ発想を180度転換してみるしかない。ちゃんぽん戦略で中国に資すれば、中国は思いがけない価値の獲得によって軍事的野心を多少なりとも緩めるかもしれないという可能性に私は賭けてみたい。

 それに、中国に資することと利することは、その意味するところが全く異なる。中国に利するとは、例えば中国との国境付近に経済特区を作って中国企業を誘致したが、社員は皆中国人で自国民が雇用されず、優遇措置だけをいいように使われた挙句、企業の利益もほとんど中国に持って行かれた、といった事例のことである。端的に言えば、経済的資源だけを中国にむしり取られることが中国を利することである。そうではなく、あくまでもちゃんぽん戦略に基づく小国独自の価値を提供しなければならない。だから、当然のことながら、中国と対立するアメリカに対しても、同時にちゃんぽん戦略を実行する必要がある。

 これはあまりにも日和見的でナイーブな外交に見えるかもしれない。伝統的な同盟は、味方となる大国から庇護を受けられる代わりに、敵国から猛烈な反発を食らうリスクがあった。とはいえ、これは非常に単純な構図であった。これに対して、これからの国際関係は、小国を大国同士の代理戦争の図式から救い出し、協調関係を活かして対立する双方の大国にアプローチし、両国から「あの国は攻撃してはダメだ」と思ってもらえるような、「文化の安全保障」を確立することが肝要である。ここにおいて、特定の国を仮想敵国として固定する古代以来の前提は崩壊する。この新しい外交の具体的な方策については、私も考えが十分でない。しかし、同盟がその意義を失いつつある現代においては、その代わりを探す努力をしなければならない。

 米中関係も、いつまでも対立が続くとは限らない。ある日突然、米中が手を結ぶ可能性もある。過去には、キッシンジャーの極秘訪問からニクソン大統領による国交樹立へと至る動きもあった。トランプ大統領がディールを重視して、中国の一帯一路構想に乗っかり、さらにシーレーンを米中で共同管理しようと言い出すかもしれない。その際、日本をはじめとする小国があらかじめ米中双方と関係を構築することができていれば、「日本はアメリカと仲がよいが、中国とは仲が悪いからシーレーンを使わせない」といった妨害を受ける恐れが低くなる。

 ここからは完全に私の妄想だが、米中の間では日本に関する密約が既にでき上がっている可能性も考えられる。それはつまり、アメリカは日米同盟によって日本を経済的には豊かにする一方、政治的には前述のような様々な足枷を加えることで二流国家にとどめておき、機が熟したら日本を中国に売り飛ばしてアメリカが儲けるという密約である。こうした思惑に翻弄されるのを防ぐためにも、日本は双方の大国に対して自律的な外交を展開する必要がある。

 (2)オウム真理教の元代表である麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら7人の死刑が7月6日に執行され、残り6人の死刑も7月26日に執行された。地下鉄サリン事件から23年が経って、13人の死刑囚全員に刑が執行された。死刑制度に反対するEUは早速、日本に対して懸念を表明した。これもまた浅い内容の記事だが、以前「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」という記事を書いたことがある。キリスト教圏のEUが死刑制度に反対している理由は私にはよく解らない。だが、この記事からは、日本においては必然的に死刑制度は廃止すべきだという結論が得られる。

 日本は(森喜朗元首相がどんな批判を浴びようとも)神々の国である。神々の世界には集合意識という見えない存在がある。ここには、今まで生きてきた大勢の日本人の記憶が刻まれている。言い換えれば、日本人という民族の歴史の集合体である。集合意識というと、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」(我々が普段目にする「顕前秩序」の背後にあって、人々の意識を統一する無意識の秩序)が想起される(以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。ただ、一神教文化圏に生きるボームの内蔵秩序が全体性(ホールネス)を帯びているのに対し、多神教文化である日本の集合意識は、多様な人間の生きざまが詰まっている。

 神々は人間に寿命を設定し、肉体という器を貸し出してこの世に送り出す。もちろん、肉体には精神も宿っている。ただし、肉体は初めから一定の機能を果たすのに対し、精神はほとんど白紙である。集合意識から精神を切り出して新しく生まれる人間に日本人の伝統を受け継がせればよいところだが、神々は敢えてそうはせず、人間が一生をかけて精神を鍛錬することを期待する。そして、神々が設定した寿命を迎えると、神々は貸していた肉体を回収し、鍛え上げられた精神を集合意識へと統合する。ここで、日本の神々は欧米の唯一絶対親とは異なり、完全な存在ではないから、寿命の設定にはバラツキがある。日本人は、自分に設定された寿命を知る術がない。それでも、神々が設定した寿命を全うすることが日本人の使命である。

 寿命を全うすることは神々との約束であるから、絶対に破ってはならない。ここに、自殺が否定される理由があるというのが先ほどの記事の内容であった。自殺をした人間は、まだ神々が設定した寿命を迎えていないから、神々がその精神を回収しに来てくれない。すると、その精神は集合意識に統合されない。ということは、日本民族の精神の発展に寄与しないことになる。せっかく神々によって与えられた生を、その人は無益にしてしまったのである。よく、自殺をすると周りの人が悲しむから、あるいは周りに多大な迷惑がかかるから止めておくべきだと言われるが、私は自殺が許されない一番の理由はここにあると考える。

 では、死刑についてはどうであろうか?本号では、憲法の条文から死刑が違憲であることを導いている記事があった。木村草太「死刑違憲論を考える―『存在してはならない生』の概念」によると、死刑制度は憲法18条( 奴隷的拘束及び苦役からの自由)、36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、19条(思想及び良心の自由)、13条(個人の尊重)に反する可能性が高いという。私自身は、別の理由から、死刑を認めるべきではないと考える。(1)で示した日本の多重階層構造に従うと、神々は国家権力よりも上に位置する。その神々が設定した寿命を、いくら国家権力であっても奪うことは、社会構造上許されない。自殺した人間と同様、死刑を執行された人間も、死亡時期が寿命とずれるため、神々がその精神を回収しに来ることができない。

 何人もの尊い生命を奪った人間は許しがたい、生命をもって償うべきだという立場を私が理解していないわけではない。しかし一方で、自分が犯した罪の重大さや意味について、寿命が尽きるまで、本人が嫌だと言っても考え続けるようにするというのも、罪の償い方だと思う。人間、特に日本人は社会的・公共的動物であるから、独房で黙々と思考を重ねるだけで精神が変化するのかという意見もあるだろう。だが、受刑者とて完全に孤立しているわけではなく、他の受刑者との交流もあれば、弁護士との接見もある。また、遺族が許せば、遺族と接点を持つこともある。限定的ではあるものの、社会的つながりを通じて、精神を見つめ直す機会は存在する。

 はっきり言って、極悪な犯罪を犯した人間には社会的更生など期待していない。実際、出所できたとしても、生きていく場所はほとんどないだろう。仮に一生を刑務所で過ごすとしても、その人なりに自分の精神と苦闘したという事実が重要であって、彼が寿命を迎えた時、神々がその精神を回収して集合意識に統合する。彼は社会的には大きな損失を与えたが、日本人の精神的発展という点ではプラスなのである。これは、相模原障害者施設殺傷事件を起こした犯人のように、おそらく一生かかってもその精神が変わらないであろう人間でも同じである。集合意識は美しい、正の歴史ばかりとは限らない。歴史とは闇を抱えるからこそその深みを増すのである。だから、この事件の犯人も、何があっても寿命を全うしなければならない。

 ここでもう1つ、全く別の問題提起をしてみたい。認知症で記憶を失い、事理弁識能力を欠く人はどうであろうか?もはや神々から課された精神の鍛錬ができないのではないだろうか?という問題である。これは自分で立てておきながら回答するのが非常に難しい問題である。認知症になっても、その人を支える家族などには新しい役割と人生の意味が与えられることになるから、認知症の人にも生きる価値があるのだなどとは私は決して言わない。それはちょうど、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じである。

 私は決して認知症に詳しくないため、誤解している部分があるかもしれないが、認知症の場合、短期記憶に問題があることが多く、長期記憶は保たれているケースがあるらしい。さっき食べた昼ご飯のことは忘れてしまうのに、若い頃のことはよく覚えているといった具合だ。前述のように、日本人の寿命は神々が設定する。ということは、現代の高齢社会を招いたのも神々の仕業である。ただし、これもまた前述の通り、日本の神々は不完全であるから、高齢社会がこのようなものになるとは完全には予期していなかったのだろう。

 少なからぬ高齢者が認知症になるのは、神々がその限定合理性ゆえに寿命を長く設定しすぎた日本人に対して、「もうこれ以上物事を覚えて精神を酷使しなくてもいいよ」と神々がサインを送っているためなのかもしれない。覚えられただけの記憶と、鍛えることができただけの精神を持って死を迎えればよい。今の私にはそう回答することしかできない。ただ、日本人や医師には死に対する潜在的な恐怖というものがあり、事理弁識能力を欠く認知症の本人の意思とは無関係に、胃ろうなどを使って延命措置をしようとすることがある。延命も、神々が設定した寿命を狂わせる行為であるから、私は止めるべきだと考える。人間が寿命を迎えたら自然に死ぬ、そういう当たり前の尊厳死が迎らえる世の中であってほしい。

 (3)アメリカは未だに、核兵器を保有する北朝鮮に対する制裁の手を緩めていない。こういう言い方をすると若干語弊があるが、核開発に対しては制裁をかけやすい。アメリカは北朝鮮の核兵器によって自国の安全が脅かされているから、それを防止するために制裁をかけて、北朝鮮の核開発能力を削ぐというのは自然な発想である。だが、北朝鮮は、アメリカがいくら制裁を課しても、中国とロシアという2つの抜け道があり、核開発を継続できることを知っている。そして、核開発が相当程度進んだ段階で、突然「やっぱり核開発を止めた」と宣言し、アメリカから見返りを求めるのである。この段階では、開発された核兵器が大規模なものになっているため、アメリカから相当なお土産を期待できる。北朝鮮はここまでを計算ずくでやっている。

 一方で、日本が直面している拉致問題はどうだろうか?核開発の問題と拉致問題を同列に扱うと怒られるかもしれないが、拉致問題は核開発の問題ほど大きな問題ではない。政府が拉致被害者として認定しているのは17人、警察が「拉致の可能性を排除できない」としている人は約900人である。ただ悪いことに、北朝鮮は拉致問題は解決済みと言い張っているため、日本としても安易に制裁をかけにくい。だから、日本は核開発に対する制裁とセットで拉致問題に関する制裁を課すという、アメリカへの便乗外交しかできない。

 さらに言えば、核開発と違って、拉致問題はこれ以上大きくなる可能性がまずない。北朝鮮は、いちいち日本人を拉致して北朝鮮国内で教育(洗脳)し、日本に送り返して工作活動をさせるのはあまりにも手がかかると気づいている。そして、そういう拉致活動を、中国やロシアが今後も支援するとは考えられない。だから、拉致被害はこれ以上拡大せず、制裁を強化し続けて北朝鮮を追い詰める正当性がない。安倍政権は最大限の圧力をかけて拉致問題を解決すると言うものの、単にジリ貧の制裁が長々と続くだけで、問題の解決には至らないだろう(制裁をかけるなら、現在日本国内に数千人~2万人いるとも言われる工作員の身元を洗い出し、元締めの組織を特定して、その組織に制裁をかけた方がよっぽど効果的である)。

 ただ、拉致被害者の人数が少ないからと言って、日本政府は何もしなくてよいということにはならない。国家の重要な役割の1つは、国民の生命を守ることである。その生命が1人でも外国によって脅かされている以上、国家はその救済に乗り出す責務がある。現在、政府は「拉致問題が解決したら国交を樹立する」という立場を取っている。だが、これは、「北朝鮮とは永遠に国交を樹立するつもりがない」と言っているようなものである。私は、リスクを承知の上で、国交を先に回復し、平壌に日本大使館を置くという案を提案したい。今までは非公式のルートを通じて拉致被害者の情報を断片的に収集してきたが、大使館を置けばもっと情報収集が容易になる。もっとも、北朝鮮は、大使館関係者を拉致被害者が死亡したとされる現場に連れて行ってお茶を濁すだろう。しかし、大使館が適切に情報を入手していれば、「そんなことはない」と突っぱねることができる。私は、制裁よりもこちらの方が問題解決の近道になると感じる。

 右派からは、北朝鮮と国交を樹立すれば、東京のど真ん中に、未だに社会主義革命を目指す危険な北朝鮮の大使館ができ、北朝鮮による工作活動を刺激してしまうと心配する声が上がっている。だが、それを言うならば、社会主義革命どころか、日本の領土・領空・領海の略奪を画策している、北朝鮮よりももっと恐ろしい中国の大使館が既に東京のど真ん中に存在しているのだから、批判としては不十分である。そして、(2)で述べたように、いつまでも日米同盟を盾に中国と対立するのではなく、中国とも上手くやっていく道を模索しなければならない。北朝鮮に関しては、繰り返しになるが、おそらく反日の南北統一国家が将来的に朝鮮半島に誕生するだろう。だが、反日だからと言ってこの新国家を恐れるのではなく、むしろその懐に入り込み、日本と南北統一国家が米中の代理戦争を演じないようにしなければならない。

2018年07月31日

『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他


世界 2018年 08 月号 [雑誌]世界 2018年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-07-06

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 官僚によるセクハラ問題や世界的なMeToo運動の広がりを受けての特集である。
 性的な問題という意味では、例えば不倫に対して日本社会は非常に厳しい。芸能人の不倫に対しても、マスコミ報道も大きくバッシングする。道徳に対しては針が振れるのですが、人権については針は振れない。人権問題として捉えず道徳の範囲で捉えるから、バッシングされる。しかし、不倫はともかくもお互い合意してのことですが、セクハラは相手が合意もしていないのに性的な関係を強要しているわけです。最悪の人権侵害であるにもかかわらず、「男とはそういうものだから」となだめられたり、女性の方にもスキがあった、落ち度があった、という話にすらなる。この決定的な人権感覚の欠如はいったいどこから来ているのか。それを理解することから始めなければ、セクハラ問題に関して日本は先に進めない。
(金子雅臣「セクハラという『男性問題』」)
 上記の文章をはじめ、本号の特集ではセクハラを「女性問題」ではなく「男性問題」としてとらえ、加害者である男性を徹底的に糾弾する文章が続く(実際には、女性から男性に対するセクハラや同性間のセクハラもあるが、セクハラの9割は男性から女性に対して行われているという本号の記述に従って、以降は男性から女性に対するセクハラに焦点を絞って話を進める)。

 本号の特集は「セクハラ・性暴力を許さない社会へ」となっており、セクハラと性暴力が一緒に論じられている。性暴力に関しては法務省が発表している『犯罪白書』に統計があり、Wezzy「性犯罪加害者は異常者ではなく『普通の働く人』であることが多い」によると、「昭和60年~平成26年(1985-2014)の30年間ずっと、強姦、強制わいせつの検挙人員は、20代と30代の者が全体の5~6割を占めてい」るという。強姦、強制わいせつは、女性をもはや恋愛対象としてではなく、支配の対象として見なしている犯罪である。言い換えれば、被害者を人間ではなく快楽のための道具として扱っている。一方、セクハラについては、セクハラ自体が未だ明確に定義されていないこともあって被害者・加害者に関する詳細なデータが存在しない。

 厚生労働省によると、セクハラには「対価型」と「環境型」の2種類がある。対価型とは、女性労働者の意に反する性的な言動を行い、当該労働者の対応によって、当人が解雇、降格、減給など、不利益を受けることである。環境型とは、女性労働者の意に反する性的な言動により、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で見過ごせない程度の支障が生じることを指す。セクハラの加害者の年齢に関する統計を私は発見できなかったのだが、性暴力とは異なり、40~50代の男性が最も多いのではないかと推測する。そして、一般には、こうした加害男性は、組織内で一定の地位に就いており、権力を駆使してセクハラを働くと言われる(対価型セクハラにつながりやすい)。

 しかし、これもまた推測の域を出ないものの、実はセクハラというのは、福田元財務事務次官のように権力のある者が見返りを求めるケースというのは案外少なくて、一定のポストに就いていない一般の中高年男性が、あるいは一定のポストに就いている中高年男性であっても、女性に対して性的な言動を取ることで、女性に対する支配欲を手っ取り早く満たそうとしているケースが多いのではないかと思う。「キスをさせて」、「抱かせて」、「胸を触らせて」などと言う男性には、本当にそれを実現させる意思はない(実際にキスをしたり胸を触ったりしたら性犯罪である)。「君の服装はセクシーだね」、「旦那さんとは上手くいっているのか?」、「どんな体位が好きなのか?」と尋ねる男性も、女性を抱きたいとか旦那から女性を略奪したいと考えているわけではない。こうした発言によって女性が困惑する姿を見ることが男性の快楽なのである。

 仮に、男性が相手女性に好意を抱いており、真剣に交際を検討しているのならば、女性を困惑させるようなことを意図するはずがない。男性が敢えて女性を困惑させるのは、女性が困惑したという事実が、男性側の影響力が及んだことを示す証左であるからだ。ここに、性犯罪とセクハラの共通点を見出すことができる。いずれも、女性を恋愛対象としてではなく、支配の対象として、快楽のための道具としてとらえているということである。つまり、女性に対する認知が歪んでいる。ということは、性犯罪やセクハラは、脳の病気である可能性がある。

 実際、性犯罪に関しては、「前頭側頭型認知症」という病気に注目が集まっている。『世界』2018年4月号には次のように書かれている。
 この病気は、よく知られているアルツハイマー型認知症の特徴である記憶障害が初期には起こらず、社会的逸脱行為が主たる症状として表れるものです。たとえば40~50代の万引きなどの背景にも、この病気があり得ます。(中略)あるいは男性の場合、比較的社会的地位のある人が、盗撮をしたり性器を露出したり、地位に見合わない事件を起こしてニュースになることが度々ありますが、これも同様です。このように衝動のコントロールができなくなることが、性犯罪の原因になることが多々あるのです。
(福井裕輝「”性犯罪は繰り返す”を変えるため」)
世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 福井氏によると、性犯罪者は海外では「パラフィリア(性嗜好障害)」という病気として認識されているという。だから、認知行動療法や薬物療法を受けることができる。一方、日本ではそもそも性犯罪が病気であるという認識が薄く、仮に病気と診断されても保険適用外となっており、厚生労働省の体質に問題があると福井氏は批判している。日本においては、まずは性犯罪の方が病気であるという認識が確立されることが先決であろうが、セクハラについても、その発生メカニズムを解明し、病気であるか否かを判断する研究が待たれるところである。

 ここからが私の主張の核心になる。仮にセクハラが性犯罪と同じく前頭側頭型認知症などの脳の病気であるならば、加害者の救済策を検討しなければならない。左派は普段、加害者にも人権があると主張する。日本では加害者の人権が尊重されすぎており、逆に被害者の人権がないがしろにされていると批判されるぐらいだ(例えば、国際派日本人養成講座「Common Sense: 加害者天国、被害者地獄」〔2008年6月15日〕を参照)。左派が自らの主張を貫き通すならば、また冒頭の引用分にあるように、セクハラを人権問題と位置づけるならば、加害者の人権も保護する必要があると言わなければおかしい。一般の事件に関しては、客観的な立場から被害者と加害者の人権のバランスを取ろうとするのに、自らがセクハラの当事者となった途端に、被害者としての一面しか強調しないのは、単なる狂気である(誤解していただきたくないが、私は決してセクハラを正当化しようとしているわけではない)。

 セクハラ・性犯罪の問題からは離れるものの、本号にはもう1か所、左派の矛盾を見て取ることができた。カンボジアでは現在、フン・セン首相による権威主義化が進んでいる。カンボジアには政府与党の人民党と、野党の救国党がある。この救国党の党首であるケム・ソカー氏が2017年8月3日、「国家転覆罪」で逮捕された。同氏が数年前にオーストラリアで受けたインタビューの中で、「アメリカとともに現政権を転覆する」と発言したことが容疑とされている。そして、
 「党首が重罪で逮捕された政党は解散させられる」という(※政党法・選挙法の)条項を適用し、11月16日、最高裁は救国党解党の決定を下し、野党幹部政治家118人の政治活動を5年間にわたって禁じた。その結果、300万人もの有権者からの信託を受けた救国党の議席はすべて消え、その55席は他の政党に振り分けられた。
(熊岡路矢「カンボジアで何が起きているか」)
 カンボジアでは7月29日に総選挙が行われたが、救国党解党によって人民党に対抗する勢力が事実上消えたため、人民党が議会の議席をほとんど総取りするという異常現象が起きた。欧米諸国は公正な選挙ではないとして、カンボジアを非難している。

 フン・セン氏による権威主義化はこれだけにとどまらない。
 現在、カンボジア政府・与党は、保健や教育などの地域開発、福祉型の活動は監視しながらも許容する一方、人権、環境、土地問題、選挙監視など、政府と緊張関係になる分野のNGOには徹底的に圧力を加えている。(同上)
 カンボジアは、太平洋戦争が終結した後、真っ先に対日賠償請求権を放棄してくれた国である。それ以降長年にわたり、日本はカンボジアに対して様々な支援を行ってきた。あの悪名高いポル・ポトが政権を握っていた共産主義時代にも、関係を断つことはなかった。しかし、最近のカンボジアの情勢を受けて、熊岡氏は次のように述べている。
 日本政府・外務省の開発協力大綱は、重点政策の中に、普遍的価値の共有、平和で安全な社会の共有という項目を設け、「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値の共有や平和で安定し、安全な社会の実現のための支援を行う」と謳っている。ここ数年のカンボジアの現状は、この規範から明らかに逸脱している。カンボジアへの支援は停止、あるいは検証・再考すべきである。(同上)
 日本がカンボジアから手を引けば、中国の影響力が強くなることが懸念される。中国は日本や欧米諸国と違って、内政にはほとんど干渉しない。熊岡氏は、カンボジアが中国寄りになったとしても、カンボジアへの支援の停止を検討するべきだと主張する。

 だが、これは左派の主張としてはおかしい。というのも、カンボジアよりもはるかに権威主義的(もはや全体主義的と言ってよい)であり、普遍的価値観を蹂躙する中国に対する日本の支援は批判の対象となっていないからである。同じく権威主義的(全体主義的)な北朝鮮に関しても、統一に向けて日本が積極的に支援を行うべきだとしている(北朝鮮に対する支援には、実は私も賛成している。以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」を参照)。それなのに、現在のカンボジアへの支援はダメだと言う。明らかに左派の中にはダブルスタンダードが存在する。中国や北朝鮮の支援はOKでカンボジアの支援はNGというのは、まるで社会主義国であれば支援が認められると言っているに等しい。左派は、日本ではもはや夢となった社会主義の亡霊を、未だに中国や北朝鮮の中に追いかけていると言われても仕方がないであろう。

 大国にはパワーがあるから、少々の小国との関係を断ち切ったとしても大してダメージは受けない。だから、アメリカは簡単にイランとの核合意を反故にできる。ところが、小国である日本が、この国は好きだからつき合う、あの国は嫌いだからつき合わないと選り好みをしていては、相手国の間に不信の種を植えつけることになる。やがてその種は激しい憎悪へと育ち、日本に対して必ず負のエネルギーとして向かってくる。小国日本にはその負のエネルギーに耐えられるパワーがない(今までの北朝鮮を見よ)。だから、嫌いな国であってもつき合わなければならない。最初から不信を決め込むのではなく、信頼できる部分を探す。そして、その分野において、日本は支援を行う。その支援を通じて培われたパワーを行使して、嫌いな国の嫌いな部分を少しずつ改善するように働きかける。これが、小国日本に求められる外交であると考える。




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